ポール・ボウルズ
シェルタリング・スカイ
新潮文庫 1990(1955)
ISBN:4102338012
Paul Bowles
The Sheltering Sky 1949
[改訂・補填]永井淳 [解説]四方田犬彦 [翻訳]大久保康雄
822夜と1202夜に続いて、
タンジールに生きたセクシャル・ペシミスト、
ポール・ボウルズを絶賛したい。
あんなに奇矯な日々をおくったにもかかわらず、
ボウルズほど熱帯ダンディで、文明ニヒルなくせに、
あんなに遠くで静かに暮らした男はいなかった。
それがピアノを弾き作曲を続けたせいなのか、
カットアップによる編集力のせいなのか、
もはや詮索したくなくなるほどだ。

 ジェニファー・バイチウォルが構成した『ポール・ボウルズの告白』(1998)は、ボウルズが互いに歳をとったけど何も変わりゃしねえよなと暗黙の了解をしあっているかのようなウィリアム・バロウズ(822夜)とアレン・ギンズバーグ(340夜)とに、ニューヨークのレストランの片隅で何を語るともなく再会するという淡々とした場面をラストにもってきていた。
 日本版DVDには「シェルタリング・スカイを書いた男」のサブタイトルがついているが、「シェルタリング・スカイな男」としたくなるようなクールゲイな出来だった。佐野元春が「あんなに美しい啓示はなかった」と、サエキけんぞうが「ドキュメンタリーでここまでできるという衝撃の一作だった」と感想を洩したノンフィクション映像だ。

 小説はもともとそういうものだけれど、ポール・ボウルズの作品はとりわけセミノンフィクションめいていて、虚構だかリアルだか幻想だかわからないところがある。
 『シェルタリング・スカイ』にしてニューヨークの生活に厭きたポールとジェインの夫婦がモデルで、実際のボウルズ夫婦がそうであったようにアフリカ観光旅行に行くというふうになっているのだが、そこから少しずつ異様な感情が身にまとわりついてきて、とんでもない話になっていく。

映画『ポール・ボウルズの告白〜シェルタリング・スカイを書いた男』
ポール・ボウルズの素顔に迫ったドキュメンタリー。ウィリアム・バロウズやアレン・ギンズバーグなど、彼と関わった人の証言を元に構成されている。

 今夜は822夜の『裸のランチ』と1202夜の『地の果ての夢・タンジール』の続きである。だからまずはそれをあらかじめ読んでいただきたいのだが、両夜ともボウルズに深く交差していながら本人の作品にはほとんど言及できなかったので、やっと作品をとりあげることにしたというのが、今夜の執筆理由だ。
 その822夜1202夜ですでにお察しの通り、ぼくはともかくボウルズの思索とその周辺の人間の出入りが大好きなのである。ポール・ボウルズの生き方と考え方を知らない男どもとは付き合いたくないというほどだ。それを何と形容しておけばいいのか迷うけれど、とりあえずは「眩しいニヒリズム」とか「反文明的エロティシズム」とか「大人の秘めごとダンディズム」とかと言っておこう。「ブルージー・ゲイ」とか「セクシャル・ペシミスト」なんてのも当たっていよう。
 だから今夜も多少の作品案内はするけれど、ここから好きにボウルズ作品のあちこちを覗き見するだけだと思われたい。

ポール・ボウルズ
たばこをこよなく愛した。 

 ボウルズはよほどの本好きで、異郷好きで、音楽好きだった。3歳から読書に夢中になっていて、少年期はアーサー・ウェイリーの漢詩の英訳、アーサー・マッケンの怪奇小説、アンドレ・ジッド(865夜)などに入れこんでいた。漢詩に溺れるなんて、いい趣味だ。
 早くからピアノや声楽に惹かれてもいて、15歳のときにカーネギーホールで聴いたストラヴィンスキーの『火の鳥』に身も心も焦がされた。15歳でのこういう一気投入は羨ましい(ぼくの15歳は60年安保前夜で西田佐知子の『アカシアの雨が止むとき』だ)。
 1928年にヴァーニジア大学に入るのだが、授業はとてつもなくつまらない(そりゃ、そうだろう)。ひたすらT・S・エリオットやガートルード・スタインの詩に、プロコフィエフやデューク・エリントンやグレゴリオ聖歌の音に、つまりはやたらにブルースな表現力のすべてに没入したかった。
 大学の途中、両親に無断でさっさとパリに渡ると、自分の道が音楽の中のどこかにあると実感できたので、いったんアーロン・コープランドに作曲師事するべくニューヨークに戻って、いくつかのピアノ作品を書いた(コープランドとはモロッコのタンジールを旅した仲になった)。そのあとふたたびパリやベルリンに行き、ステファン・スペンダーやクリストファー・イシャーウッドから刺激をもらった。
 イシャーウッドはイギリスのアッパーミドルの日々に嫌気がさしてベルリンやシントラを転地したゲイ作家で、48歳のときに18歳の画家ドン・バチャーディに出会うと、彼を生涯のパートナーとした。いずれ『さらばベルリン』『シングルマン』や『キャバレー』を千夜千冊したい。『シングルマン』はトム・フォードによって映画化された。
 その後のボウルズは、戦争前夜の1937年にオーソン・ウェルズやテネシー・ウィリアムズ(278夜)の舞台の音楽を担当すると、翌年に作家でも劇作家でもあったジェイン・アウアーと結婚したのが運のツキだったのである。この奔放で想像力が豊かな妻との日々が、ボウルズを変えていく。

妻ジェイン・アウアーと
ボウルズは1945年よりジェインの影響で小説を書き始める。

イシャーウッドとバチャーディ
 2007年には二人の生涯を追ったドキュメンタリー映画『Chris & Don. A Love Story』がリリースされている。

 二人は結婚まもなく流行性感冒に罹ったようにアメリカ共産党に入っている。すぐに追放されるようなふしだらな党員だったようだ。たしかにふしだらだった。仮面夫婦というほどではないのだろうが、ボウルズは早くから男色に、ジェインはレズビアンと不倫を愉しんでいる。それが半ば公然たる秘密なのである。
 いよいよ連合軍がナチスと日本軍を根絶やしにしようとしていた頃の1943年、ボウルズはガルシア・ロルカの詩にもとづいたオペラを書いた。ロルカは38歳で銃殺されたジプシーに憧れ続けた反戦詩人だ。ボウルズはその詩を『風は帰る』に仕立てた。レナード・バーンスタインの指揮で初演されている。
 しかし、どこかで音楽的な才能には限界を感じていた。いや、正確には音楽では自分の感覚の裏側が表現できなかったのだ。「音楽には自己否定がないからね」と呟いている。この告白は重要だ。ボウルズはアメリカ文明に嫌気がさしている自分をも、否定したかったのだ。1947年、突如としてタンジールに永住することを決意した。

ポール・ボウルズと愛猫(タンジールにて、1956)

 ボウルズがタンジールでどんな日々をおくっていたかは、すでに千夜千冊したので省くけれど、その背後に何が動いていたかを綴ったのが『シェルタリング・スカイ』である。
 物語の中にはジェインとの説明しにくいアンビバレンツな関係も暗示されているが、必ずしもポールとジェインの物語ではない。ボウルズが文明人に感じていたヴァルネラビリティ(攻撃されやすさ、傷つきやすさ)を、プロット全体の下敷きにしている。アフリカの強烈な力の前ではニューヨークに育った知識人や表現者なんて、何の価値観も発揮しえないんだというボウルズの絶対諦念が作品を貫いたのである。

 作品の話に入る前に、このボウルズ最初の傑作をベルナルド・ベルトルッチがついに映画化した(1990)ことについて、一言書いておく。
 デブラ・ウィンガーとジョン・マルコヴィッチが主演したもので、音楽は坂本龍一とリチャード・ホロウィッツが担当し(あまりうまく使われていない)、巨匠ヴィットリオ・ストラーロがタンジールの町と砂漠に向けてカメラを回した。ストラーロは『地獄の黙示録』『レッズ』『ラストエンペラー』の撮影監督だ。
 よくできた映画だったというより、なるほどポール・ボウルズはこういうふうに映画になるんだということを告知した。さすがベルトルッチは「自分なんてどこにあるのかわからない」「われわれはいつだってふいに居住まいをただすことになるもんだ」「生と死は隣り合わせなんだ」ということを映画にしたくてしたんだろうと思えた。
 もっとも映画はそうした哲学を表には出さない。ベルトルッチも「ヒリヒリする感じ」をのみストラーロのカメラを得て、どのように映像にするかに徹していた。
 それより興味深いのは、ベルトルッチがどこかでインタヴューに答えていたのだが、最初に原作を読んだとき「苦しくてしかたなかった」と感じたことだ。だからこそこれを映画にしたかったらしい。その苦痛は映画製作の過程でもずっと続いたらしく、それゆえその苦痛のヒリヒリ度合によって映画が完成したと実感できたようだ。
 このこと、思想する本を書く連中や読書する連中にも言っておきたいことである。知識人というもの、内容に拘泥すればそれですむと思っている。これではいかんのである。もっと映画のようにヴィジュアル・アナロジーをもって感想を書くべきで、もっと虫に刺されたときの皮膚感覚をもって思想の生理感覚を告白すべきなのである。
 それがむりなら、せめて痺れる音楽に包まれたときのようにグルーヴな感覚をもって感想を述べなさい、と言いたい。

映画『シェルタリング・スカイ』
 監督/脚色:ベルナルド・ベルトルッチ
 製作総指揮:ウィリアム・アルドリッチ
 撮影:ヴィットリオ・ストラーロ
 編集:ガブリエラ・クリスティアーニ
 公開:1990年

監督ベルナルド・ベルトルッチ

キット役のデブラ・ウィンガーとポート役のジョン・マルコヴィッチ
 (映画『シェルタリング・スカイ』より)

美しいサハラ砂漠と空との対比を美しく描く
(映画『シェルタリング・スカイ』より) 

 さてでは、原作の『シェルタリング・スカイ』だが、この作品は日本では長らく『極地の空』と訳されてきた。空は何か巨きなものに護られているけれど、その下の人間たちは極限に生きながらえているというニュアンスだ。
 大久保康雄の翻訳で1955年に刊行されたのに、ほとんど捨てられた一冊のように忘れられてきた。やっと80年代に四方田犬彦(173夜)らの努力で復権するまで、評判にもなっていない。そのぶん人知れず偏愛されてきただけだった。しかし、いったん新たな注意のカーソルがボウルズに当てられたとたん、その奇妙な目映さに、みんな目が眩んだ。

原著”Sheltering Sky”

 話は世界大戦がやっと了って戦後社会が広がり始めた1947年、ニューヨークに住んでいた倦怠夫婦のポートとキットが、親友のタナーを伴ってアフリカ旅行を企てることから始まる。
 企ては夫婦関係の修復のためだった。そのため3人は北アフリカのアルジェからサハラの奥へと旅するのだが、うまくはいかない(そういうもんだ)。キットはタナーに身を許したり勝手な気分になっている。夫のポートはチフスに罹り、苦しんだあげくに死ぬ(ポートが病気で死ぬのは、ボウルズが腸チフスに罹った苦痛体験にもとづいている)。これを機にタナーも別行動をとる。
 一人のこされたキットは、宿舎にしていたフランス警備隊の屯営を抜け出すのだが、なんだか異様な心身の衝動に駆られている。アラブ人の隊商がこれを助けると、キットはそのハーレムのような後宮めく日々に身を任せるようになり、しだいに自分の中の異質に苛まれ、ついには半ば発狂寸前になってアルジェに戻っていく。

キットとアラブ人の隊商
(映画『シェルタリング・スカイ』より)

 物語はキットがアルジェに戻るところ、すなわち冒頭の町に戻るところでおわるのだが、そんなふうに作者に突き放されてみると、なんともいえない読後感が押し寄せる。そういう小説なのである。
 アメリカ育ちのいっさいの文明文化力が打ちのめされ、それがポートとキットにそれぞれのしかかっていくという展開は、文体の透明な運びとは裏腹に読者に重い課題を移譲されてくるからだ。これは何かに似ている。
 そうか、これって日本の詩人でいえば、富永太郎(922夜)の「空は美しい、ええ、血はみんなパンだ」や、岡崎清一郎(355夜)の「頭の中の組立てがこんなに気味がわるい」や、石牟礼道子(985夜)の「持ち重り」に近いのだ。

富永太郎・岡崎清一郎・石牟礼道子

 刊行まもなくこの処女長編はベストセラーの9位になった。テネシー・ウィリアムズは、これはカミュ(509夜)、ジュネ(346夜)、サルトル(860夜)の文学に匹敵する「精神的冒険の寓話」だと絶賛した。
 これで見当がつくように、ボウルズはアメリカにもたらされた最初の実存小説の旗手ともてはやされたのだ。不本意だったろう。一方、ノーマン・メイラーは「ボウルズは文明の終わりを小説にもちこんだ」ときわどく批評した。こちらはちょっとは本意だったのではあるまいか。
 1952年発表の『雨は降るがままにせよ』も、ニューヨークでの銀行暮らしをやめてタンジールを訪れたネルソン・ダイアーという青年が、異文化の受胎ができないために挫折するという痛みをともなう長編になっている。さらに3作目の長編『蜘蛛の家』ではモロッコの首都フェズを舞台に3人の駐在員とモロッコ人の15歳の少年のあやしい交流と空しい結実を描いてみせた。どれもこれも、痛い、苦しい。

 ボウルズの作品が評判になると、作者がエキゾチックきわまりないモロッコにいることが注目されるようになった。すぐにカポーティ(38夜)、セシル・ビートン、ウィリアム・バロウズ(822夜)、ギンズバーグ(340夜)、ゴア・ヴィダル、ブライアン・ガイシンらが次々にタンジールに訪れた。1202夜にも書いたように、スーザン・ソンタグも1965年に訪れた。「やっとあのタンジールに行くことになった」と書いている。
 しかし、ボウルズはいっこうに浮かなかったのである。まことに美しいほどの憂鬱なのだ。文明に対する香ばしい失望が続いているばかりだったのだ。その一方、北アフリカの民族音楽の収集、ベルベル人の伝承の記録、当時のモロッコの作家の紹介などには熱心で、そちらの面では燻し銀のような学究肌を見せた。

劇作家テネシー・ウィリアムズ

カポーティ(中央)とポール・ボウルズ(右端)(タンジールにて)

ポール・ボウルズ(タンジールにて、1993)

 奇妙で絶望的なくせに、けっこう人好きなボウルズのことを、これまでうまく書いてきたのはトバイアス・ウルフやロベール・ブリアットや四方田犬彦やジョイス・オーツたちである。
 ボウルズが音楽を極めようとして途中から小説に転向したのは、ボウルズ自身の言葉によれば「音楽ではぼくの否定的な面があらわせないからね」という考えによるものだった。だから、その後のボウルズはつねに文学者として評価されてきたのは、当然だ。それはそれでいい。それをちゃんとやってくれたのがウルフや四方田たちだった。
 しかしこのことは裏を返せば、ボウルズの音楽にはもう少しわかりやすいボウルズがいるということだったのかもしれない。なにしろストラヴィンスキーからコープランドまで、ボウルズは青少年期の大半を音楽に捧げ、その後も北アフリカ音楽の、とりわけジャジューカにぞっこんだったのだ。自伝によれば、9歳のときに『四角関係』という9章立てのミニオペラを作曲したともいう。
 きっとボウルズにはブルージー・ボウルズともいうべきがずっと発酵していたはずなのだ。そのことは、ローリングストーンズのギタリストで早逝したブライアン・ジョーンズが「ジャジューカにはまったのはボウルズのせいだった」と言っていることや、キング・クリムゾンやボリスが『シェルタリング・スカイ』にインスパイアされて楽曲を創ったことにも、あらわれている。ボウルズの音楽に文学のボウルズがいないはずはない。

ポール・ボウルズとパティ・スミス(1997)

 ここで一人の音楽家が闇の向こうから浮上する。ジョージ・アンタイルだ。1900年にニュージャージーで生まれた作曲家兼ピアニストで、自伝『音楽の悪童』(Bad Boy of Music)によるとドイツ系ユダヤ人だった。だから本名はゲオルグ・カール・ヨハン・アンタイルという。
 アンタイルはあまり知られていないけれど、今後は大いに語られるべき風変わりな人物だ。
 かのシルヴィア・ビーチ(212夜)の「シェイクスピア・アンド・カンパニー書店」の2階に住んでいて、ジェームズ・ジョイスやエズラ・パウンドと交流し、パウンドの愛人オルガ・ラッジとはしばしば演奏旅行もしていた。1926年にフェルナン・レジェの絵に音楽をつけた『バレエ・メカニック』を発表して悪名を馳せた。
 このアンタイルが実はボウルズをサハラ砂漠に誘い、チュニジア、アルジェの数カ月にわたる旅行の10歳年上のパートナーをつとめていたらしいのだ。このことはロベール・ブリアットの評伝やクリストファー・ソーヤー=ロサノの伝記には詳しくは出てこない。けれどもビーチの文章やボウルズの自伝『止まることなく』などをあれこれ突き合わせると、どうやら事実のようなのだ。たしか大里俊晴もそんなことを書いていたように憶う。
 で、アンタイルのその後だが、1940年代にはその実験性は美人女優としても有名だった発明家のヘディ・ラマーと組んで、なんと周波数ホッピングスペクトラム拡散の共同開発に達し、これがまわりまわって今日のケータイ電話や無線LANの技術につながったのである。

ヘディ・ラマーとジョージ・アンタイル
『バレエ・メカニック』において踊り子を演じるのは機械であり、電子ブザーや航空機のプロペラといった部品が含まれていた。この作品は、初演において、騒動と評論家の非難を巻き起こした。

 むろんアンタイルのことは、ボウルズの音楽性に直接は関係がないかもしれない。しかし、こういう出会いや、ボウルズがバルトークの『管弦楽のための協奏曲』には北アフリカ音楽の影響が入っていると指摘したことなどには、どうもこれまで語られてこなかった反文明ペシミストのダンディズムが出入りしているようにも思われる。
 柿沼敏江によると、ボウルズがコープランドに師事したのはヘンリー・カウエルの紹介状によるものだったという。この師匠のもとで、モーツァルトのピアノソナタやアナリーゼを練習させられ、エコール・ノルマルではナディア・ブーランジェの対位法を学んだという。ブーランジェはのちのバークリー音楽院の設立者だ。

ヘンリー・カウエル
弟子にはジョン・ケージ、ルー・ハリソン、ジョージ・ガーシュウィンらがいる。 

ナディア・ブーランジェ
 ブーランジェが指導した分野は多岐にわたっており、和声法、対位法、楽曲分析、ソルフェージュ、スコアリーディング、伴奏法などである。バークリー音楽院の母体をつくった。門下生は、アーロン・コープランド、ウォルター・ピストン、キース・ジャレット、バーンスタイン、ヴァージル・トムソンら600人以上に及ぶ。

 というわけで、数年前のこと、ぼくはボウルズを聴くことにした。聴かないと何かがわからないままになると思ったのだ。
 BMGビクターの『ポール・ボウルズの音楽』を仕入れた。イーアス・アンサンブルが『パストレーラ』『2台のピアノとオーケストラのための協奏曲』『エイプリル・フール・ベイビー』『シークレット・ワーズ』などを演奏していた。
 予想を裏切らなかった。やっぱり優しいのである。簡明でもあり、少しだけ思想をセットバックして、作っている。一言で言うのなら文明の前に出ようとしていない。あえて略図的原型をいうのなら、サティ、プーランク、プロコフィエフっぽい。
 すぐにわかったが、これはボウルズ文学における文体そっくりだ。少しは意地悪なところがあるのかと思っていたが、まったくそうではなかったのだ。

『ポール・ボウルズの音楽』
ボウルズの30、40年代の多彩な作品が納められている。 

 でも、何かを想わせた。たとえば『シェルタリング・スカイ』のラストは次のような文章で終わっている。
 「下を見ると港の灯が視野に入りはじめ、おだやかに揺れ動く水に映ってゆがんだ。それから、もっと貧弱な建物がおぼろげに姿をあらわしはじめた。通りは、いっそう暗くなった。アラブ人町の外れへきて、あいかわらず満員の電車は大きくU字形を描いて回り、そして停車した。そこが終点だった」。
 これはサティであろう。ボウルズの作品は心が痛くなるけれど、その演奏の言葉は優しく、平明なのだ。ただその平明の奥が複雑なのだ。そういう音が向こうのほうで鳴っているのだ。

 おまけの話。その後、ネット検索をしていたら、2010年に生誕100年記念「ポール・ボウルズの音楽」という催し物があったことを知った。ストラヴィンスキー・アンサンブルの川北祥子さんが主催したもので、テネシー・ウィリアムズの詩による『天国の草地』『孤独な男』、妻のジェインの詩の『心から遠く離れて』、ガートルード・スタインの『エイプリル・フール・ベイビー』、ウィリアム・ジレットの芝居のための曲などが演奏され、歌われたようだ。
 笹塚のBlue-Tでの僅か45分の音楽会で、12人の聴衆が堪能したようだが、この記事を見て、ボウルズが誰にも知られずにタンジールやフェズで始めたジャジューカまがいの演奏を、あの町の住人や旅人たちが聴いたのであろうという光景が浮かんできた。
 それにしてもポール・ボウルズは東京でもこのように聴かれ、語られるのである。いかにもボウルズらしい。

笹塚「Blue-T」
カフコンス2010にて「ポール・ボウルズの音楽 ~生誕100年記念」が開催された。

 では今夜の最後に、『シェルタリング・スカイ』の冒頭の文章をお目にかけておく。男が眠りからさめて、次のように思うのである。ここに出てくる「心強い悲しみ」こそ、ボウルズの核心であり、音楽である。

    どこかしら、ある場所に彼はいた。どこでもない場所か
   ら、広大な地域を通って戻ってきたのである。意識の革新
   には、無限の悲しみへのたしかな自覚があった。しかしそ
   の悲しみは心強かった。というのは、ただそれだけが馴染
   みのあるものだったからだ。

ポール・ボウルズ(1976)

⊕ シェルタリング・スカイ ⊕

∃ 著者:ポール・ボウルズ
∃ 訳者:大久保康雄
∃ 発行者:佐藤亮一
∃ 発行所:株式会社新潮社
∃ 印刷所:錦明印刷株式会社
∃ 製本所:錦明印刷株式会社
⊂ 1991年1月 第1刷発行

⊗ 目次情報 ⊗

∈∈ 第一部 サハラのお茶
∈∈ 第二部 大地の鋭利な稜線
∈∈ 第三分 空
∈ あとがき

⊗ 著者略歴 ⊗

ポール・ボウルズ(Paul Bowles)
ニューヨークに生まれ、ヴァージニア大学入学後渡仏、帰国後コープランドに作曲を学ぶ。歌劇、バレエ音楽、管弦楽、器楽、声楽など多くの作品を発表し、サロイヤンの『わが心高原に』やテネシー・ウィリアムスの『夏と煙』などの舞台音楽のほか、映画音楽なども手がけ、政府の嘱託により民謡の収集・編曲も行った。パリ時代にガートルード・スタインに師事して文学を志すも酷評にあって挫折していたのだが、音楽家として音楽批評に手を染め、第二次大戦後、モロッコ、スリランカなどでの放浪生活の経験を生かした文学作品の執筆を開始、アメリカの実存主義作家として脚光を浴びる(サルトルの翻訳などの仕事もある)。1945年よりタンジールに移住、以後アメリカに帰ることはなかったが、七十年代後半より再評価の声が高まり、1990年には第一長篇『シェルタリング・スカイ』が映画化された。

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