才事記

寒山拾得

久須本文雄

講談社 1985・1995

装幀:熊谷博人

一たび寒山に住みて万事休す
更に雑念の心頭に掛かるなし
閑(しず)かに石壁に於いて詩句を題し
任運なること還(ま)た
繋がざる舟に同じ

凡(およ)そ我が詩を読む者は
心中 須(すべか)らく護浄すべし  
慳貪(けんどん)は日に継いで廉(きよ)く 
諂曲(てんごく)は時を登(お)うて正しからん

寒山(かんざん)と拾得(じっとく)。
この二人はいったい何者なのか。
秋風が少し身に沁むようになった今宵は、
この飄逸無辺で清浄無垢なる奇人について
しばし案内してみたい。

 森鴎外(758夜)に小篇『寒山拾得』がある。
 唐の貞観期に閭丘胤(りょきゅういん)という役人がいて、台州の主簿に任命された。赴任間近になってたいそうな頭痛に悩まされ、さあどうしたものかと女房と相談していたところへ、雇いの小女(こおんな)が「只今、玄関に乞食坊主がまいりまして、お目にかかりたいと申しております」と言ってきた。
 さて誰かと訝ったが、閭は科挙のための経書は読んでいたものの仏典など知らないので、日頃から仏僧や道士にはなんとなく畏敬をもっていた。そこで会ってみることにした。背の高い僧で、手に鉄鉢をもっている。なぜわしに会いに来たのかと問うと、あなたは台州へ行くのに頭痛に悩んでおられる、私が治してしんぜようと思ったと言う。
 それならいい薬でもあるのかと問うと、いや浄水だけで結構だと言う。小女に汲み水をもってこさせると、坊主は水にしばらく心を傾注したかと思うとこれを口に含み、突然にプーッと閭の頭に一気に吹きかけた。突然のことに閭はびっくりして背中に冷や汗が出た。気がつくと頭痛が治っている。
 坊主は残った水を静かに床に流すと、ではこれでお暇しますとくるりと背を向けて戸口に歩きだす。
 慌てて「いや、お待ちなさい、お礼がしたい」と言っても、「私は群生(ぐんしょう)を福利し、驕慢を折伏するために乞食(こつじき)はいたしますが、治療代はいただきません」とにべもない。ではせめて名前を聞かせてほしいと尋ねると、これまでは天台の国清寺にいて、名は豊干(ぶかん)だという。
 それならそこは私がこれから赴任する台州である。ゆっくりお訪ねしたいと言うと、いやいや私はもうそこから出たというので、国清寺にはほかにどなたかおられるかと重ねて聞くと、拾得(じっとく)という者がいて、これは実は普賢(ふげん)である。また、寺の西の石窟には寒山(かんざん)という者がいて、これは実は文殊(もんじゅ)なんですなと言って、そのまま帰ってしまった。

 台州に赴任した閭(りょ)が従者数十人を連れて、さっそく冬の初めの国清寺を訪ねたのは当然だ。道翹(どうぎょう)という僧が出迎えた。
 豊干のことを聞いてみると、僧たちの食べる米を搗いていた者で、いまは行脚(あんぎゃ)に出ているという。それなら拾得に会いたいのだが、どういう方かと聞くと「豊干さんが松林の中で拾ってきた捨て子です」という。いまは厨(くりや)で僧どもの食器を洗っているらしい。次に寒山のことを尋ねると、拾得さんが食器を洗うときに残りものの飯や菜を竹の筒に入れておくのですが、それを寒山は貰っていくのですという説明だ。
 ともかく会うことにした。道翹は厨に案内してくれた。湯気がいっぱいこもっている中に、灰色の竈(かまど)が三つあって、薪が真っ赤に燃えていた。そのそばでは、たくさんの僧たちが飯や菜や汁を鍋釜に移している。道翹が「おい、拾得」と呼ぶと、遠い竈の前に髪ののびた頭を半ば剥き出しにした男と、木の皮で編んだ帽をかぶった男がいる。二人とも小男である。
 閭は二人のそばに進んで、「朝儀大夫、使持節、台州の主簿、上柱国、賜緋魚袋、閭丘胤と申す者である」と名のったところ、一拍あって、二人は顔を見合わせて腹の底からこみあげてくるような笑い声を出したかと思うと、一緒に立ち上がって駆け出していった。駆け出す際に「豊干がしゃべったな」と寒山が言ったのが聞こえた。
 驚いた閭のまわりに、僧たちがぞろそろと近寄ってきた。道翹は真っ青な顔をして立ちすくんでいた‥‥。

 こういう話だ。なんとも奇妙な味がある。
 鴎外が考えた話ではない。元の話がある。『寒山詩集』の序に閭自身が寄せた一文だ。これを鴎外が翻案した。さすがに文章のキレがついてはいるが、たいして粉飾していない。
 閭が序文で何を書いたかというと、寒山が拾得に竹筒の残飯をもらって、それを背負って愉快そうに独り言を言ったり笑ったりする正体不明の僧で、樺の木の皮を冠とし、破れた木綿の衣をまとい、村ではよく牛飼いの童子と遊んだり喧嘩をしたりしている。
 そうした寒山を寺僧たちが叱ったり叩いたりすると、苦しまぎれにパッと言い放つことが妙に道理に適っている。また、一人で廊下を走っているときに「やあやあ、三界輪廻だ」などと唸っている。あまりに変なそぶりをするので気になって兄弟子がもう一度様子をうかがいにいくと、大声で「賊が来た、賊が来た」なんて言う。というようなことを綴っているのだ。拾得も似たようなものである。

 国清寺は天台山にある名刹で、そこを含めて天台寺といわれた時期もあった。そんな麗々しいところに奇妙な乞食坊主が二人いて、仲良く傍若無人にふるまっていたというのだから、これはいったい何の話だか、もともと説明がつかない内容だ。
 しかし、これだけで深山に籠もる寒山拾得の奇行というべきものを伝聞させるには十分だった。鴎外がそうしたように、寒山と拾得の噂は各地の禅林を中心に少しずつ広まっていったようで、結局は鴎外がまとめた話のようなものとして後世に伝聞されていったとおぼしい。宋代にはある程度知られる話になっていたらしい。それが日本にも伝わった。

 実際に豊干や寒山や拾得が国清寺にいたのかどうかというと、いまだに詳らかになってはいない。
 ただ道士の杜光庭の『仙伝拾遺』には寒山が天台山に隠棲して詩を詠んでは樹間石上にそれらを書き散らしていたというふうにあるし、ほかにも『宋高僧伝』には禅師の為(サンズイ)山(いさん)が天台山で寒山に会ったとか、『古尊宿語録』などでは趙州(じょうしゅう)が天台山で問答をしたとの記述もあるので、天台山あたりにそのような風変わりな僧がいたらしいことは、どうやら事実なのである。
 けれども稗史が大好きな鴎外も、そのへんのことは時代考証などしていない。したくともできなかったのだ。かれらの事蹟については漢詩のほかにろくな文献がないからだ。その後、井伏鱒二(238夜)がやはり『寒山拾得』を書いたときも、二人の出自や背景などどうでもよくて、ただ禅院に放埒で偏屈な二人の雲水がいたというくらいの趣向をもって、少し時代と登場人物を変えて書いている。

 豊干・寒山・拾得には300余首の漢詩がのこっている。多くはないが、少なくもない。だからこの漢詩のどこかに寒山拾得の人生を推し量る「故」があるはずなのだが、詩文はほとんど具体的なことを書いていない。
 なんとか結像しそうなことは、寒山が自分のことを「生まれて従(よ)り是れ農夫なり」と書いているので、畑を耕す家に生まれた貧農の子であったろうこと、「少小(わか)くして経(けい)と鋤(じょ)とを帯ぶ」と書いているので、農事のかたわらそうとう読書に耽ったのだろうこと、豊干が「寒山は特に相い訪ね 拾得は常に往来す」と詠んでいるので、豊干を通して寒山と拾得とは親しく交わることになったのだろうといったことだ。
 また、寒山が「時の人 寒山を見て各(みな)謂う 是れ風顛(ふうてん)なりと」と述べている箇所があって、寒山が何かの理由でフーテン呼ばわりされていただろうこともわかる。が、それ以上のことは書いていない。
 だいたい寒山は「凡(およ)そ我が詩を読む者は 心中須(すべか)らく護浄すべし 慳貪(けんどん)は日に継いで廉(きよ)く 諂曲(てんごく)は時を登(お)うて正しからん」と綴って、自分の詩を読む者に「お前ら、心を浄めて俺を読め」と先制打を放っている始末なのだ。
 これではとりつくシマがない。きっと自分たちをフーテン扱いしたのは周囲の目が曇っているからで、こちとらは大いにまともなのだと言いたかったようなのだ。
 ところが、その後の世には「寒山拾得図」という愉快で不気味な絵が描き続けられたのである。二人の得体が知れないから描かれたのか、あまりに奇妙な印象や風貌が伝えられていたから描かれたのかは、わからない。ともかくも寒山と拾得の二人の姿はその後の禅林水墨画のなかで、前代未聞の異様なコンビとして君臨することになった。

(左)「寒山図」伝蘿窓
(中)「寒山図」大千恵照賛
(右)「拾得図」 虎厳浄伏賛

 世界に美術の画題はいろいろあるが、寒山拾得図ほどに破顔大笑を屈託なく描いている絵は他にない。そこには不気味なほどの笑いが描かれてきた。
 ヒエロニムス・ボッシュなら皮肉な笑いを描けたが、それはあまねく愚者にあてはめた哄笑図というもので、寒山拾得はそういう画題ではない。レオナルド・ダ・ヴィンチは奇形を描き、ピーテル・ブリューゲルは民衆の笑いを描いたけれど、それらは特定の誰かに当たっているわけではなかった。
 けれども寒山拾得にあっては、いつもこの二人が特定されていて、ひたすら不気味に、かつ腹の底から愉快に笑うのだ。奈良美智の比ではない。

 寒山拾得図は一度見たら忘れられるものじゃない。
 二僧とも蓬頭垢面(ほうとうこうめん)、断衫破衣(だんさんはい)。髪は蓬(よもぎ)のようにのばしっぱなし、顔は垢まみれで、衣はところどころ切れたり破れたりしている。
 季節に関係なく一枚きりの法衣を着ているので「一襦」(いちじゅ)というのだが、ところが貧相なのではない。襤褸(ぼろ)を着ているのになんだか誇りや自信に満ちている。寒山が自分の着衣と寝間着と褥(しとね)について、こんな詩を書いている。一襦に自負をもっている。

   我れ今一襦(いちじゅ)有り
   羅(ら)に非(あら)ず復(ま)た綺(き)に非ず
   借問す何の色をか作(な)すと
   紅(くれない)に不(あら)ず亦た紫に不ず
   夏天には将(も)って衫(さん)と作(な)し
   冬天には将って被(ひ)と作す
   冬夏 逓互(たがい)に用い 
   長年 只だ 者(こ)れ是(こ)れのみ

 自分は一枚こっきりの肌着をもっている。薄絹でもないし綾絹でもない。どんな色かと言われたって、いまや赤とも紫ともつかない。それでも夏になると短い単衣(ひとえ)に縫いなおし、冬にはこれを掛け布団にする。自分にはこれで冬と夏とが交互にやってくる。長年、こうしている。
 白隠(731夜)が絶賛した詩だ。この詩は「空劫(くうごう)以前も空劫以後も、唯だ此の一襦にして足ることを示している」と褒める。空劫以前とは、禅学では「父母未生以前」あるいは「本来面目」を言う。おやじやおふくろから生まれる以前からの自分じゃ、それこそ本来の面目(めんぼく)じゃという思想だ。

 よほど白隠は気にいったのである。「父母未生以前」の根性の持ち主で、その漢詩には「本来面目」があるというのだから、これは禅の高僧に向けての賞賛に近い。
 絵のほうはどうかといえば、貧しい恰好をしていて、おまけにただ笑っているだけである。なるほどそこをもって寒山も拾得も自信に満ちているように描かれてきたと言ってもいいが、とはいえ高僧のようには描かれない。不遜にすら見えるように描かれることもある。ところがそれが、ときに崇高にさえ見える。
 図柄では寒山は巻軸を持ち、拾得は竹箒を持っていることが多い。それしか持っていない。禅の境地は「空手」(くうしゅ)や「本来無一物」をモットーとするのだから、これは一種の悟境の表象である。だったら貧しい身なりの風顛(ふうてん)でかまわない。白隠が褒めたように、心が高潔であれば、それでいい。しかし二人の特徴はなんといっても世界を小馬鹿にしたように笑っているということなのだ。

 これはやはり尋常ではない。いったいなぜ二人はこんなに哄笑できるのか。鎌倉期に来朝した禅僧の一山一寧(いっさんいちねい)が、MOA美術館蔵の寒山図に賛を寄せているのだが、そこでは「一種の風顛 世に比(たぐい)なし」という感想を述べていた。
 まさに、そうなのだ。たんなる風顛(ふうてん)ではなく、「比類のない風顛」を描くという画趣が好まれ、東洋の片隅の水と墨と筆と紙の世界で継承され続けた。そこに天下を哄笑する破顔一笑が加わったのだ。まことにめずらしい画趣である。まことにグロテスク・ヒューマンな試みである。

 ぼくはけっこうな数の寒山拾得図を見てきた。むろんこの絵柄が好きなのでついつい見てきたのだが、そのうち水墨画家たちの腕と趣向と魂胆の深浅がすぐに見抜けるようになった。
 寒山拾得図を見ていると、こんなことを言ってはなんだけれど、とくに下手さかげんがよく見える。たとえば最近は誰もが褒めちぎる若冲(じゃくちゅう)も、こと寒山拾得に関してはつまらない絵しか描けていなかった。
 因陀羅(いんだら)は元代の画僧だが、その絵は中国には作品がほとんど発見されずに、なぜか日本にばかりけっこう遺った。その因陀羅の寒山拾得図には3種類がある。一枚は東博所蔵の国宝で、互いに向き合った寒山と拾得が「豊干はどこに行ったのか」と尋ねられたのに、なぜか答えぬまま大笑いしているという図だ。けっこう好きな絵だ。楚石梵琦の賛がついていて、のちに松平不昧が箱書を認(したた)めた。いまは法外な値がついている。
 2種目は寒山が筆をもって芭蕉の葉に何かを書こうとし、拾得は白紙の一張の紙を両手で垂らしている。こちらには慈覚の賛が入っている。二人の所作の瞬間をとらえてちょっとおもしろいが、それ以上ではない。3種目は清遠文林の賛が入っていて、寒山はやはり筆を掲げ、拾得が白い紙を広げてこれを受けようとしている。定番の絵柄を流して描いたという程度のものだ。
 水墨画を語る者には欠かせない因陀羅にして、この程度なのである。寒山拾得は絵描きを選ぶのだ。

因陀羅「寒山拾得図」(二幅)
清遠文林による賛。

因陀羅「寒山拾得図」(二幅)
慈覚による賛。 東京国立博物館所蔵。

 ついでに話を続けると、因陀羅と並んで顔輝(がんき)のものもコレクターには好まれてはきたが、寒山と拾得が別々の絵で軸装されていて、表情は不気味な飄逸を醸し出しているものの、全容としては抜け切っていない。
 一方、周文や可翁の寒山拾得図は悪くない。ぼくが周文のものを眺めたのはもう40年以上前になるが、童形のような寒山と拾得が仲睦まじくくっついている男色めいた図柄がめずらしく、何度も眺めてきた。春屋宗園の讃が入っている。この描き方はのちの文人画の風味のなかでも生かされた。周文や可翁については、『山水思想』(ちくま学芸文庫)を読んでいただきたい。

可翁「寒山拾得図」(二幅)

 一言でまとめると中国画家よりも日本の水墨画人のほうが、いい。おおむね奔放であり、飄逸であり、愉快なのである。
 とくに際立つのは江戸に入ってからの禅画・文人画の拡散である。達磨図、羅漢図、布袋(ほてい)図、寒山拾得図がそうとうにふえた。これは俳諧・川柳・狂歌・浮世絵・黄表紙などの流行とみごとに軌を一にする。江戸文化はユーモア享受文化でもあったのである。
 なかでやはりのこと、大雅・蕪村がおもしろく、あえて「生真面目」に描いて脱俗に導いている。とくに蕪村(850夜)は大上段に立像画のように描いた。まるで哲人だ。そこを逆に一気に放埒に向かったのが白隠や蘆雪や蕭白だろう。白隠は絵だけでなく『寒山詩闡提(せんだい)記聞』という詳細な寒山の漢詩の解注もしていて、寒山拾得に対する心底並々ならぬ傾注を感じる。

 和歌山田辺の高山寺にある長澤蘆雪の寒山拾得図も凄まじい。大画面に無一物の寒山と拾得を重なるように接近させて描き、この絵の主題にひそむグロテスク・ヒューマンな内奥に趣向と筆意が存分に及んでいて、天下の傑作になっている。最近は蘆雪の展覧会も多いので、よく知られる絵になっていよう。
 曾我蕭白の二曲一双の図は2種類あって、二つとも一度見たら忘れられない。想像力が破裂しているかと思えるような、呆れるほどの奔放怪異だ。怪異というより魁偉と言ったほうがいいだろう。このようなB級巨篇に達することができるのも、日本の寒山拾得図の愉悦なのである。

曽我簫白「寒山拾得図」(双幅)

 それにしても寒山拾得図は二人を一対とする画像なのである。その二人ともがこみあげるものを抑えずに笑っている。
 この、二人でひとつというところが、なんとも破格だ。東洋においてすら、これに匹敵するのはわずかに「三酸図」(さんさんず)と「虎渓(こけい)三笑図」と「四睡図」(しすいず)くらいのものではあるまいか。
 三酸図は二人ではなく、蘇東坡、黄山谷、仏印禅師の三人が桃花酸という酢をなめて眉を顰めるような、思わず互いにニヤリと笑うような、ちょっと困ったような笑い方をする三者を描く画題になっている。この三人で、儒教と道教と仏教の三教の味を比較したとも、揶揄したともいえる。だから三教の創始者たる孔子と老子と釈迦がお酢をなめていたっていい。
 実際にも、諸橋轍次の『孔子・老子・釈迦 三聖会談』では、釈迦は酢に慣れていないので顔を顰めてこれを「苦い」と言い、孔子はその出来におもわず口をすぼめて「酸っぱい」と言い、老子は表情を変えずに「甘い」と言ったというふうに、三酸図を三聖吸酸図として解釈していた。時代をこえる三人の聖人が調味料に挑んでいるのに、この「酢」はその聖人たちを誑(たぶらか)すほどなのだ。

 虎渓三笑図のほうは、浄土教をおこした晋の慧遠(えおん)が廬山の東林寺で修行をしていたころ、修行中は決して虎渓を渡るまいとわが身に誓っていたのだが、そこに訪ねてきた陸修静と陶淵明(872夜)と語らい、二人の帰途を送っているうちに虎渓を渡ってしまって、思わず三人で顔を見合わせて大笑いしたという故事を描いた。『廬山記』にのっている話だ。
 虎渓は廬山にある渓谷で名勝として知られているところで(現在は江西省九江市)、そこに有名な石橋(しゃっきょう)があった。修行者の身にある者がそんなところでうつつを抜かしてはならぬと戒められていたのに、うっかり石橋を渡ってしまった。こりゃまずい、しかし、まあ、しゃあないではないか、ワッハッハという絵だ。千葉の市美が所蔵している蕭白の虎渓図は、そういう故事を全山に塗りこめていた。
 ちなみに虎渓山という地名は日本にもある。岐阜の多治見だ。むろん中国の名勝からの借景だが、ぼくが大好きな禅道場の永保寺(えいほうじ)があるところでもあって、『アート・ジャパネスク』の「禅と水墨」の巻のための写真を森永純と撮りに行ったときが最初だったのだが、妙に気にいってそれから何度も訪れてきた。
 いまはそのそばで、陶芸家の安藤雅信と服づくりの名人の安藤明子が「百草」(ももぐさ)というギャラリーを開いているのも香(かぐわ)しい。

ギャルリ「百草(ももぐさ)」

 四睡図は、これまたたいそうファンタジックである。豊干と寒山と拾得が、虎とともにすやすやと眠りこけているという絵だ。ファンタジックというより人を食った超俗図というに近い。
 寒山拾得図も三酸図も三笑図も四睡図むろん禅機画や道釈画である。禅機画とか道釈画というのは、禅林にこれをわざとらしく飾っておいて雲水たちがその意図を左見右見(とみこうみ)して思案するために描かれた絵で、いわば「見る禅語録」あるいは「描く公案」というものだ。
 だから、そういう絵は修行者たちを迷わすへんてこだっていいわけで、そういうへんてこな絵こそが、布袋図であれ五百羅漢図であれ、不意の禅機や頓悟をもたらすのだが、とはいえ二人揃っての破顔一笑の絵はやはりめずらしい。

黙庵「四睡図」
豊干、寒山および拾得が虎とともに睡る姿が描かれる禅画

 ともかくも、こういう二人のフーテン坊主が深山奥深くの国清寺あたりに赤貧の日々をおくっていて、その風姿が長らく寒山拾得図として描き継がれてきたわけである。
 それなら寒山と拾得がのこした肝心の詩から、以上のような風顛風狂の個性的な日々が覗けるかというと、それがどっこい、そうではない。かれらの漢詩はまことに静謐で、人生の無常をつねに訴えているばかりなのだ。たとえば一休(927夜)の『狂雲集』のような苛烈・揶揄・露悪の趣味がない。
 ぼくはいまもって寒山拾得詩に水墨画にあらわれたような飄逸や風狂や呵々大笑を感じたことがない。だから、そういう詩を読んでいると、しばしばこちらの気概が試されるような気分になる。文芸作品でなく、精神の挑戦状のようになっているからだ。

 ふつう、秀れた漢詩を読めば、その絶句や律詩の表現に酔い、その趣向に唸り、その作者の境涯にさまざまな想いを致すことができる。寒山拾得詩と接しているとそんな余裕は生まれない。
 寒山と拾得は読む者にあえて名利を捨てさせ、無常をかこって禅定に達することを強いるのである。いわば説教をされているようなものなのだが、その強要が一貫して清冽なので、よほどこちらにその気分が去来していないと読めない。
 ぼくは最初のうちは入矢義高や松村昻の注によって、ついでは白隠の『寒山詩闡提記聞』で、その禅味溢れる解義を追ってきた。そういう補助がないと、あまりに純度が高すぎるので、ときにつるつるしすぎた読みになってしまうのだ。

 今夜のテキストと読み下しも、『宋代儒学の禅思想研究』や『日本中世禅林の儒学』の久須本文雄さんによる座右版に従ってはみたが、ときおり入矢義高読みや松村昻読みなどを加えた。ただ、これらの解説ももとはといえば白隠の解釈に依っているように思われる。
 ちなみに寒山には287首の五言詩、21首の七言詩、6首の三言詩の、合計314首が遺っている。拾得は55首である。

 さて、寒山の漢詩はどれもこれも、みごとなまでに胸中覚悟の清浄(しょうじょう)を謳おうとして、実は寂莫の只中にある。それが一種の「寂び」のような味になっている。

   一たび寒山に住みて 万事休す
   更に雑念の心頭に掛かることなし
   閑(しず)かに石壁に於いて詩句を題し
   任運なること還(ま)た 繋がざる舟に同じ

 「万事休す」とは、ひとたび寒山に住むようになると万事に決着がついたということだ。これで雑念が心のどこかにひっかかることもない。これまで面倒だった万事がすうっと遠のいたのである。だから巌(いわお)の壁に詩をあれこれ書きつけてきた。
 こういう生き方は綱を解かれた舟に我が身を委ねたようなものである。自信があるわけではない。
 別の詩では「誰か知らん塵俗を出でて 馭して寒山の南に上(のぼ)らんとは」とも書いている。いったい自分がこんなふうに寒山に来て列子のように馭風に乗って空に遊ぶようになるなんて、誰も予想しなかったろうというのだ。きっとそんな気分に駆られたにちがいない。ここでは寒山は地名である。

   ここに寒山に居(す)みてより
   曾(かつ)て幾万載を経(へ)たる
   任運に林泉に遯(のが)れ 棲遅(せいち)して観自在
   巌中 人到らず 白雲 常に靉靆(あいたい)たり
   細草を臥褥(がじょく)と作(な)し
   青天を被蓋(ひがい)と為す
   快活に石頭に枕し 天地を変改に任(まか)す

 なんらの予定も打算もないけれど、よほど寒山の地が気にいったのである。ここに居れば物我一如の心境になれる。自在な感想がもてる。粗末な細草を敷いて、青天を掛け布団にし、岩頭を枕にしていると、熟睡もできる。
 別の詩では「ここに半日でもいれば、百年の愁いを忘却してしまう」とも詠んでいる。寒山という地形や風景が体に溢れて、うんうん、よしよし、どうでもいいぞという気分になったのだ。これはまさに良寛(1000夜)が憧れつづけた「任運謄々」というものでもあった。そのこと、次のようにも詠んだ。

   独り重巌(ちょうがん)の下(もと)に臥す
   蒸雲 昼も消えず 室中澳靉(おうあい)なりと
   雖(いえど)も
   心裏(しんり) 喧囂(けんごう)を絶つ
   夢は去って金闕(きんけつ)に遊び
   魂は帰って石橋(しゃっきょう)を度る
   拋除(ほうじょ)す我を鬧(さわが)す者
   歴々(れきれき)たる樹間の瓢(ひさご)

 拋除とは、寒山にふさわしい言葉だ。騒々しいもの、すなわち「喧囂」(けんごう)や「鬧」(けつ)を放り捨てる意味をあらわして、ぴったりだ。白隠はこの詩にはまさに「清閑独脱」の境地が突き抜けていると、またまた褒めた。
 とはいえ、寒山は自信があってこんな孤絶の日々をおくっているのではない。むしろ寂しくて寂しくてしょうがないことを、あえて受け入れたのである。とくに喋る相手がいないことには、さすがにグチを洩している。
 実際にも寒山に分け入って30年もたつと(一向寒山坐 淹留三十年)、自分の孤影しか見ることができない日々に、ときに二筋の涙が零れて頬を濡らすとも白状している(今朝対孤影 不覚涙雙懸)。

 ぼくは、寒山の詩はそもそも「本末転倒」とは何かを考えている漢詩だと読んでいる。寒山は隠居や隠棲を自慢しているのではない。むしろこの隠遁は独善的なのではないかとも、たえず自問自答した。
 このことは、たとえば次の詩の言い分にあらわれている。隠遁ばかりしているのでは、とても「道」を体感できないのではないかという危惧だ。この危惧、たいへんよくわかる。仕事を休んで悠々自適然となってみても、現場から引退をして勝手な日々を愉しんでいるふうになってみても、さあ、こんなことでよかったのかと思うときがあるものだが、寒山もそこを一身に刺して振り返ったのである。
 しかし、こういうことをあえて踏ん張って言えるところが、寒山の寒山たるゆえんだった。

   黙々として永く言うことなくんば
   後生 何の述ぶるところあらん
   隠居して林藪(りんそう)に在(あ)らば
   智日 何に由ってか出でん
   枯槁(ここう)は堅衛に非ず 風霜は夭疾(ようしつ)を
   成す
   土牛石田を耕す 未だ稲を得るの日あらず

 いつも黙ってばかりいて言葉を発しなければ、いったい後世の者たちに何を伝えることができるのか。山林に棲んでばかりいては、いったい智慧の光はどこから出てくるか。
 隠れて痩せることは、堅固な思想とはいえないかもしれない。ただ風霜に身を託しているだけかもしれない。土で作った牛で畑を耕そうとしたって、稲の収穫は得られないし、道を体得することもないかもしれない。
 こういう「顧みる詩」だ。いじましい詩ではない。「しまった」でもない。たんなる自己反省でもない。むしろこれは本末転倒の根本を自問自答している詩だ。そこがなかなかの壮烈なのである。
 だが実は、ここには仏教の底辺に自身を追いこんでいくような、自己と仏教との本末を問うものがある。そう、ぼくには感じられる。それは「向上」よりも「向下」に転進する時を、いったいどこにもつかということにほかならない。

 われわれはついつい「向上」をモチベーションにして生きてきた。その思いで歯をくいしばって、仕事をしたり精を出してきた。むろんこのような向上心がなくては何にも始まらない。
 しかしながら、いったい向上とは何なのか。自分というもののどこが向上するかといえば、その全身全体が平均的に向上するわけはない。植物の成長点と同様に、自分のどこかはめきめきと向上するのだろうが、そうでないところや腐っていくところや、混乱するところも自分には含まれる。
 そうだとしたら、のべつまくなしに漠然とした存在全貌の向上をめざしていてもうまくはいかない。それよりも弱点や負もかかえていたほうがいい。だとすれば、ときに体をぐるりと捩って「向下」(こうげ)をするべきなのである。あるいは「放下」(ほうげ)するべきだ。仏教は、とくに禅は、そこをしばしば強調し、そこに言語道断を挟んできた。

 かくて寒山の心境はゆっくりと皎潔(こうけつ)を得たようだ。先日の中秋の名月やスーパームーンではないけれど、寒山はそんな自分の心境を秋月に準(なぞら)えた。

   吾が心 秋月に似たり
   碧潭(へきたん)清くして皎潔(こうけつ)たり
   物の比倫に堪うるなし 
   我をして如何ぞ説かしめん

 さらにこんなふうにも詠んでいる。

   巌前に独り静坐すれば 
   円月 天に当って輝き
   万象 影中に現わる
   一輪 本(もと)照らすなし
   廓然として 神(しん)自から清く
   虚を含みて洞として玄妙なり
   指に因って其の月を見れば
   月は是れ 心の枢要なり

 羨ましいかぎりだが、なかなかこうはなるまい。
 ぼくも若くして太陽力よりも月球感覚を選んで、さかんにルナティック・スピリットをもって自身の境涯の譬えにしてきたのだけれど(中公文庫『ルナティックス』参照)、だからある意味では「指に因ってその月を見れば、月はこれ心の枢要なり」という気持ちをあえてもってはいたのだけれど、それはぼくの描くルナティック・ヴィジョンであって、その境地に達したなどということではなかった。いまなおそんな境地にはほど遠い。
 しかし、寒山はそうなったようだ。ただただ感服するしかない。だからみんなの前では大いに笑えたのである。

 それでは今夜の最後に拾得と豊干の詩も紹介しておく。二つとも凄い詩だ。拾得は「無去無来不生滅」を謳い、豊干は「本来無一物」を放っている。

   君見ずや三界の中(うち) 紛として擾擾(じょうじょ
   う)
   只だ無明(むみょう)の了絶せざるが為なり
   一念不生にして 心 澄然(ちょうぜん)なれば
   去(きょ)無く 来(らい)無く 生滅(しょうめつ)せ
   ず

 拾得は妄想にとらわれなかった。「去なく、来なく、生滅せず」がすばらしい。どんなことも、それいっぱい。そこに去来するものに煩わされなかった。そう言い放ったのだ。そこを豊干はこう詠んだ。

   本来無一物 亦た塵の払う可(べ)き無し
   若(も)し能く 此れに了達すれば
   坐して兀兀(ごつごつ)たるを用いず

 「本来無一物」という言葉は、五祖の弘忍(ぐにん)が禅の正法を相承させようとして、大衆に偈(げ)を作らせたとき、神秀(じんしゅう)が「身はこれ菩提樹、心はこれ明鏡台のごとし」の一偈を示したのに対して、のちに六祖となる慧能(えのう)が「菩提はもと樹なく、明鏡もまた台にあらず、本来無一物!」と答えたことに始まっている。
 このあと、神秀は北宗禅をおこし、慧能が南宗禅を継いだ。禅はここに南頓北漸(なんとんほくぜん)に分かれたのである。今日の禅宗は多く南宗禅に属する。その「本来無一物」が豊干に伝わっていた。

 ざっと、以上が寒山と拾得と豊干の詩境というものだ。これはやっぱり「禅の寂び」というものだろう。次の詩を示して今夜を締めたい。
 拾得がこんな詩を書いていた。
 「われわれはねえ、みんなからどうやら寒山と拾得と呼ばれているんだけれどね、そんなことは豊干さんは最初からわかっていることで、そのわかっていることが諸君にわからないかぎり、残念ながら、諸君は寒山についても拾得についてもその姿を確定できるはずがないんだよ。悪かったね。じゃあ、なぜわれわれはこんなふうになっているのかって? それが無為の法力というもんだ、わっはっは」。

   寒山は自ずから寒山 拾得は自ずから拾得
   凡愚 豈に見知せんや 豊干は却って相い識る
   見る時は見る可(べ)からず 
   覓(もと)むる時は何処(いずく)に覓めん
   借問(しゃくもん)す 何の縁(えにし)かある
   向(さき)に道(い)う 無為の力なりと

⊕ 座右版 寒山拾得 ⊕

∃ 著者:久須本文雄
∃ 発行者:野間佐和子
∃ 発行所:株式会社講談社
∃ 印刷所:豊国印刷株式会社 千代田オフセット株式会社
∃ 製本所:牧製本印刷株式会社
⊂ 1995年2月15日 第1刷発行

⊗ 目次情報 ⊗

∈ 序言
∈∈ 解題
∈∈ 閭丘胤序
∈∈ 寒山詩
∈∈ 豊干詩
∈∈ 拾得詩
∈∈ 拾遺
∈ 索引

⊗ 著者略歴 ⊗

久須本 文雄(くすもと・ぶんゆう)
明治41年、三重県に生まれる。昭和11年、九州大学中国哲学科卒。新潟第一師範学校、日本福祉大学等の教授を歴任。著書に『王陽明の禅的思想研究』『宋代儒学の禅思想研究』『禅語入門』『貝原益軒処世訓』『日本中世禅林の儒学』『江戸学のすすめ』などがある。