才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

> アーカイブ

閉じる

和食の知られざる世界

辻芳樹

新潮新書 2013

編集:神山典士・小山伸二・八木尚子

和食がユネスコの無形文化遺産になった。
フランス料理、地中海料理、メキシコ料理、
トルコ料理に次ぐ5件目だ。
何が評価され、何を自慢すればいいのか、
そこが実はとても重要なところだ。
本書は辻調のリーダーによるひとつの解答例。
和食の裾野の広さと多様性が綴られる。

 山手通りを代官山ヒルサイドを越えて少し大橋のほうに向かい、エジプト大使館を過ぎたあたりの左側に、ちょっと奥まって青葉台ホームズがあった。当時はNCR(ナショナル金銭登録機)の所有アパートメントで、大きな庭がある3階建だ。裏に美空ひばり邸や盛田昭夫邸があった。
 20年ほど前、わが住まい、松岡正剛事務所、編集工学研究所は一緒になってこの青葉台ホームズに引っ越した。ぼくは長らくここに住み、仕事をしていた。たいへん気にいっていた。
 1階の101号室が住まいと松岡正剛事務所と太田香保と犬2匹猫3匹のためのスペースで、2階の202号室が平均20人近くが仕事をしている編集工学研究所だった。渋谷恭子が仕切っていた。
 1階のお向かいの102号室にはそのころ多摩大学の学長をしていた野田一夫さんの一家がいて、2、3階はガイジンさんが多く、なかに調理研究家の辻静雄さん夫婦や、ヒルサイドテラスのイタリアン「アントニオ」の一家や、当時は科技庁長官になっていた山東昭子さんが暮らしていた。
 庭には桜の大木が2本あり、緩い管理ルールもすばらしく、何も不満のない青葉台ホームズだったのだが、所有者が交代してからめっぽう住みにくくなった。最初に野田さんが引っ越し、そこから次々に転出がおこり、編工研と松岡事務所も赤坂稲荷坂に行く先を見つけた。ぼくは出遅れていたのだが、結局引っ越した。

二十年前の青葉台ホームズと松岡正剛

青葉台ホームズの書棚
ここにあった本は、編集工学研究所で今なお引き継がれている

 佳き日の時期の青葉台ホームズ同居人たちのなかでも、辻静雄さんは異色の人だった。大阪読売の社会部の出身だが、日本割烹学校の辻徳光の娘さんと出会って、結婚してからは一転、日本の調理師を本格的に養成する仕事に立ち向かったという変わり種である。たいへんにダンディな人だった。
 まだフランス料理がそれほど日本に広まっていなかった時代から、その広範な普及にも率先してとりくんだ。大阪阿倍野の辻調理師専門学校は1960年にできている。新聞記者のキャリアもあるから、著書も少なくない。「吉兆」の湯木貞一との共著『吉兆 料理花伝』(新潮社)は名著となった。
 エピソードにも事欠かない。フランス人でもお手上げのフランス語の古典料理本をどっさり読みこんでいたとか、中村紘子が弾くラフマニノフをアタマの中の楽譜で追っていたとか、料理の腕を磨くため毎日鯛をサンマイにおろしていたとか、その趣味はつねに貴族性を保っていたとか、いろいろだ。
 亡くなったのちに別冊文藝が特集をしたほどだった。別冊とはいえ、料理人を文芸雑誌が1冊まるごと特集するのはめずらしい。丸谷才一(9夜)は、「明治初期の学問文化の紹介研究を、使命感をもって昭和に広げた男」と評した。実はぼくにとっては早稲田仏文科の10年先輩だった。

辻調グループは14の調理師養成学校を運営している

 本書の著者の辻芳樹さんは、その辻静雄先輩の息子さんである。8歳のときに父君に連れられて「高麗橋吉兆」のおいしさを教わっている。筋金入りの舌の持ち主だと思われる。
 ただし父君の方針で12歳のときにスコットランドのパブリックスクールに放りこまれ、ハリー・ポッター風のゴシック様式の寮で日々をおくりながらイギリス仕込みのリベラルアーツを学んだのち、その後もイギリスの学校やアメリカ留学などで27歳まで海外生活をおくった。だから幼少期の和の味と、青少年期の洋の味とが重なっている。
 帰国後、まだ60歳だった父君が倒れたので(あまりの早逝にびっくりした)、30代を迎えるときには若くして辻調理師専門学校の校長を引き受け、その後は父君を超えて和食の秘密の解明に傾注した。いまは圧しも押されぬ辻調グループの代表になって大活躍している。父君に似て(お母さんの血もひいて)かっこいい。

辻調グループとして、料理本も出版している

 ちなみに父君の辻静雄さんとは、青葉台ホームズでときどき顔を合わせた程度のお付き合いだった。年に2~3度くらいだろうか、プライベートパーティが催されるたびにたくさんの食材が運びこまれたり、料理人たちが車で駆けつけるのを見てきたが、そのたびに階上からおいしい匂いが降りてきていた。
 あるとき立ち話をしていたとき、「ぼくはときどき、むしょうにお好み焼きが食べたくなるんだよ」と笑っておられたことも、噂の貴族趣味とはうらはらの愉快があって、いまとなっては懐かしい。
 もっとも、ぼくのほうも1階で1年に一度のささやかなパーティをしていて、ときには「和久傳」の板長などに出張料理をしてもらっていたので、アパートメント内の匂いだけなら、まあまあお互いさまだったかもしれない。この板長はその後は麻布十番で「幸村」(ゆきむら)を開店させ、1年以上も予約がとれないほど繁盛させている。
 芳樹さんとは、一度だけだが話をした。ぼくが赤坂に仕事場を移してからのことで、ちょっとした相談のため来られた。亡くなったシスコシステムズの黒沢保樹さんの紹介だった。正月のおせち料理を革新したいという計画を熱っぽく語っていた。のちに試作のお重が届いた。

 本書はなかなかおもしろかった。
 冒頭、ニューヨークのトライベッカに登場した「ノブ」の“栄光”とはべつに、日本人をも驚かせる新たな和食が次々に試みられていった話が出てきて、そこにデイヴィッド・ブーレイと辻芳樹が組んだ「ブラッシュストローク」という店のことが語られていくのだが、この出来事が本書一冊の柔らかい導きの糸になっていて、そこに多くの味と人材が時代を追っていろいろ絡んでいく様子が興味深かった。
 念のため説明しておくが、トライベッカは家賃が高騰したソーホーに入りきれないアーティストたちが住み始めたキャナルストリートの下の三角地帯のことである。いまでは「ニンジャ」「シグレ」「麻布」「魯山人」「タカタカ」「嘉日」などの和食店が狭いところに目白押しになっている。
 そのトライベッカにロバート・デ・ニーロが松久信幸の腕とセンスを見込んで「ノブ」を開店させたのが20年前の1994年のことだった。
 松久さんというのは埼玉の材木商の三男坊で、高校を出ると新宿2丁目の「松栄鮨」で7年間修行して、その後は海外を料理人として苦労しながら渡り歩いたのちに、やっとロスアンゼルスにテーブル席数席の小さな「松久」を開いたという伝説の包丁人だ。ロスの連中に鮨を握る前に、酢味噌や黄身酢の山菜の和え物や塩茹の貝類などを“お通し”風に出していたらしい。
 この店にデ・ニーロがぞっこんになり、松久さんと共同経営してトライベッカに出店したのが「ノブ」である。いまでは世界中に30店舗を超えるレストランチェーンになっている。早くに東京青山にも出店して、ぼくも開店まもなく花田美奈子さんと連れ立って行ったものだが、いまひとつ乗れなかった。
 花田さんについては1155夜『おそめ』を覗いてもらいたい。盛田昭夫さんお気にいりのフードコーディネーターで、「銀座マキシム」などもプロデュースした。

 トライベッカの話に戻ると、この地区にフランスでロジェ・ヴェルジェ、ポール・ポキューズ、ジョエル・ロビュションらの巨匠のもとで修行した本格派シェフのデイヴィッド・ブーレイが、フレンチアメリカンな「ブーレイ」を出店したのである。「おいしいものを少し、でもいろいろ」というコンセプトがすぐにグルメたちの評判になり、やがてアメリカ有数の名シェフとして知られるようになった。
 そのブーレイが知り合いの辻芳樹に連絡をしてきて、ニューヨークで本気の和食レストランをやりたいと言ってきた。「えっ和食? アメリカ人が本気の和食?」と驚いたが、「いや、挑戦してみたいんだ」と言うばかり。いっときの気まぐれかと思ったらわざわざ大阪に来て、辻調理師専門学校(略して辻調)で特別指導を受ける熱心さだ。辻さんも毎晩のように京阪神の懐石料理の店に連れていった。
 ブーレイの舌は半端じゃなかった。初めて和食のダシに舌鼓が打てる外人に出会えたと言う。それまで辻さんは、外人たちが潮汁や澄まし汁の本当の味を賞味できていないということを、イヤというほど体験してきたらしい。ようするにかれらにはダシ(出汁)の味がわからない連中だったのだ。

 エマニュエル一家がいた。パブリックスクール時代の辻のガーディアン(保護者・身元引受人)でもあった。
 夫人の実家はイギリスで一番大きいシーフードレストランチェーンの「ウィーラーズ」を経営する一族である。だから「ラ・ピラミッド」のマダム・ポワンとも親しい。この店は若き日のポール・ボキューズやトロワグロ兄弟が修業していた店だ(1966年オープンの銀座マキシムの初代料理長がピエール・トロワグロ。盛田さんがいろいろ食べ歩きを率先した)。
 そのくらい味に通じているはずのエマニュエル一家が、初めて日本に来たときは日本料理に顔を顰めるばかりなのである。生魚もダメ、山葵(わさび)もダメ、食後のぜんざい(餡)もダメ。とくにお椀の汁にはまったく反応を示さない。
 その後もお吸い物のダシがわかる外人はほとんどいなかった。ブーレイだけがみごとにその味をつかまえたのだ。

 外人たちはカリフォルニアロールに代表されるように、アレンジされた和食テイストには大いに反応する。カリフォルニアロールはアボカドやレタスをマヨネーズで味付けして海苔を巻いた巻き寿司だ。
 しかしこれはもとはといえば、ポール・ボキューズらの工夫による「ヌーヴェル・キュイジーヌ・フランセーズ」を発案したシェフたちが、つなぎに使っていたルー(小麦粉をバターで炒めたもの)を追放して、軽い口当たりのフランス料理を次々に開発したことがアメリカに飛び火し、女性料理人アリス・ウォーターズの先駆けによるカリフォルニア料理が広まりはじめたとき、ここに寿司が加わって生まれたものだった。アメリカの寿司ブームといってもここからなのだ。
 かくて欧米でも和食っぽいものが次々に大当たりしていくのだが、辻さんはそこには3つほどの「変わり種」がベースになってきたと言う。

 Aは「ギミック和食」である。これはカリフォルニアロール型のものだ。異文化の視点で和食っぽさをさまざまな素材と調味料で仕上げる。
 2013年にイギリス人を虜にした「ヨー!スシ」はキムチ風味のサーモン、コリアンダー風味の豆腐が大人気だった。香港の経営者が「ヨー!スシ」に対抗して開いた「ワガママ」も受けているのはチリソース味である。しかしギミック和食はとうてい和食とはいえない。
 Bは「ハイブリッド和食」とでもいうもので、和食には見えないのだが、実は日本の料理技術を外国料理の文脈に入れていった逸品も少なくない。パスカル・バルボがやってみせたように魚介類のスープに昆布ダシを入れたり、フェラン・アドリアがスペイン料理屋の「エルブリ」で葛や寒天をスペイン風味に入れこんだような例だ。パリの「アストランス」、ロアンヌの「トロワグロ」ではすばらしいハイブリッド和食が食べられる。最近はこのハイブリッド和食がやっとふえてきた。
 そしてCが「プログレッシブ和食」というもので、和食の素材から風味技能までいかして新たな和食を本気で世界に問うというものだ。辻さんが熱心なブーレイにほだされて取り組み、満を持してトライベッカに出店した「ブラッシュストローク」が、まさにこのプログレ和食だった。本書はこのプログレ和食の可能性を追うという書き方にもなっている。

 辻さんは、和食はつねに「変換力」を求めてきたと確信している。たとえば河原成美が博多でおこした「一風堂」は、2008年についにニューヨークのイーストヴィレッジにラーメン店を出して、当てた。ただし日本国内の一風堂ラーメンそのままではなかった。
 食前酒で口を湿らせ、前菜で海老のガーリックソース味や鶏の唐揚げをたのしませ、そのうえで主食にラーメンを出すというふうにした。つまりコース料理に変換したわけだ。値段も50ドル。ラーメン屋の基本料金が5000円なのだが、それがウケたのである。
 この変換力、ぼくならまさに編集力と言いたいところだが、辻さんはそれをいま本気で追究している。2010年にはオールジャパン・チームの一員として、全米一の料理大学CIAにのりこんで「料理における日本文化の香り」を伝えるというミッションにとりくんだ。
 ジャパン・チームの顔ぶれが凄い。団長が「菊乃井」の村田吉弘、副団長が「オテル・ドゥ・ミクニ」の三國清三で、そこに「瓢亭」の高橋義弘、「京都吉兆」の徳岡邦夫、「たん熊北店」の栗栖正博、「木乃婦」(きのぶ)の高橋拓児、「銀座久兵衛」の今田洋輔、大阪の串揚げ「六覺燈」の水野幾郎、お好み焼き「やきやき三輪」の柏原克己をはじめ、総勢40人の錚々たるメンバーが日本料理の真髄を披露した。プログレ和食の本格的な世界戦略が始まっていると言える。

 もっともこのような動きは、だいぶ前から始動していた。20年ほど前にぼくが「美山荘」(みやまそう)の中東吉次さんたちと対談していたころから着々と準備されていた(淡交社『色っぽい人々』所収)。中東(なかひがし)さんは茶道を井口海仙に学んだあとは、父君から受け継いだ宿を引き継ぎ、独学でとんでもなくおいしい摘草料理をつくりあげた人で、白洲正子(893夜)さんがお目付役だった。
 その年長者の中東さんを中心に、当時は若かった「菊乃井」村田や「瓢亭」高橋がフレンチ・キュイジーヌと和食の“出会い編集”にとりくんでいたのだ。平安建都1200年のグランドフォーラム(京都国際会館)のときは、ぼくも「瓢亭」「なかむら」「菊乃井」に頼んで「1200年後の京料理」の高級弁当を工夫してもらったりした。

松岡正剛が20人のゲストと対談した
『色っぽい人々』(淡交社)

中東吉次の半生を辿りながら「摘み草料理」の真髄に迫る松岡正剛
(『色っぽい人々』より)

 和食の風味のルーツはなんといってもダシにある。ダシの語源は「煮出し」の「出し」から派生した。
 そのもとは、鰹ダシと昆布ダシをまぜて一番ダシを“発明”したことにある。これが「吸い地」になってその後のさまざまな風味(旨み)がつくられた。そのもとは、ずっとずっとひるがえっていえば日本列島に黒潮と親潮がまじって豊富な魚介類をもたらしたことにある。

 プランクトンが少なく透明度が高いので青黒く見えるところから「黒潮」と名付けられた海流は、フィリピン南方の海域から北上して東シナ海からトカラ海峡をへて太平洋に入って日本列島の南岸を進む黒潮本流(黒潮統流)と、東シナ海から流れを変えて日本海に流入し対馬海峡を抜けて北岸を進む対馬海流とに分かれる。100キロほどの幅をもつ大海流だ。
 一方、北からは東カムチャッカ海流の一部がオホーツク海に入り、その後は千島列島に沿って南下する「親潮」(千島海流)がある。その名が「魚を育てる親のような潮」から採られたように、親潮は栄養たっぷりの塩分に富み(黒潮の5~10倍)、プランクトンを大量に寄せ付ける。
 日本の近海では、この暖流の黒潮と寒流の親潮が列島東岸でぶつかって湧昇と混合をおこし、北太平洋海流(北太平洋ドリフト)となって流れ出すのだが、このとき親潮は黒潮より密度が高いため、混合域では親潮が黒潮の下に沈み込み、その潮目に多様なプランクトンが発生するので、魚類たちがこれををめざすのだ。これが世界有数の漁場を日本にもたらし、日本人に独自の魚介類調理の味を身につけさせた遠因なのである。
 鰹ダシと昆布ダシが一番ダシとして混ざったのは、まさに黒潮と親潮をもった日本ならではのことだったのだ。
 九州や四国や紀州で水揚げされた鰹(カツオ)が絶妙な乾燥技法によって鰹節に加工されたこと、北海道や東北を漁場とする昆布(コンブ)が乾燥加工されたこと、この二つの出会いが一番ダシの風味を生んだのである。おそらく南北朝期あたりから北海道昆布が畿内に届くようになったのではないかと思われる。

 むろんダシが旨いだけでは和食は発展しない。そこに、日本独特の四季と水利があまねく動き、たえずみずみずしい山菜や野菜をもたらしたこと、水田耕作の苗代技能がおいしい米をつくっていったこと、さらには二十四節気などにもとづいた祭事や行事が地域ごとの「旬」(しゅん)を求めていったことなどが加わって、今日にいたる日本料理の真髄を用意した。

 もうひとつ、考慮しておかなければならないことがある。それは、日本はつねに隣接する大陸文化の影響をうけてきたのだが、それが仏教や儒教や漢字だけではなく、料理様式にも及んでいたということだ。
 すでに奈良朝のころから中国の宮廷料理が日本の宮中や貴族社会に入り、平安朝にはそれが「大饗料理」(おおあえ・だいきょう)として確立していた。
 大饗料理は日本の饗応料理のプロトタイプとなったもので、台盤に魚介類や干物類や菓子類などがみごとに並べられた。それらは今日の調理基準からいえばまったく「料理されている」とは言い難く、たんに「切って整えた」にすぎないのだが、そのためかえって、ここに醤(ひしお)、塩、酢などの調味料を好みで味付けして、皿と箸と匙で食べるという方法が生まれていった。もっとも当時は、皿数は中国様式にならって偶数を重んじた。
 それがやがて匙を使わないようになり(匙は調理用にだけ使い)、少量のものをつまむ箸の生活文化が定着し、いつしか皿数も奇数になっていったとき、室町期以降のいわゆる「本膳料理」が生まれていたのである。台盤は「お膳」になったのだ。

朝顔棚前菜
『吉兆料理花伝』図版No.60

杜若筏流し
『吉兆料理花伝』図版No.42

「類聚雑要抄巻」第一上の一部平安末期につくられた、配膳のモデルを示した絵巻。

江戸時代に絵図に起こされた「類聚雑要抄指図巻」
大饗料理の配膳が記されている。(原田信夫『和食と日本文化』p68より)

 しかしその本膳料理もじっとしていない。禅林の普及とともに広がりつつあった南方中国的な「精進料理」が長崎・博多から入って畿内に向かって導入されていくと、それを折から天下人たちに好まれた草庵の茶の湯が、すばらしい引き算をいかした茶会料理として独自に変化させていった。これが「懐石料理」の誕生だった。このとき吸い物や葛切りや素麺(そうめん)も生まれた。
 茶会の料理は当初は「会食」とか「ふるまい」とか、あるいは「会席」と言われていたのだが、その後、禅林の温石(おんじゃく)の意義を借りて「懐石」が当てられた。江戸期に入り、こうした茶事の懐石料理はみごとな調理力を発揮して、原則として一汁三菜を求めるようになった(南方録)。
 懐石と和食は必ずしも同義語ではない。しかし今日、世界文化遺産(ユネスコ無形文化遺産)になった日本料理のカテゴリーは、懐石がなければ成立していない。このへんのことについては、熊倉功夫(1046夜)さんたちが詳しい変遷史を書いている。

 このような日本料理、すなわち広義の和食は、しかし明治以降になると文明開化の旗振りのもと、洋食の席巻に出会う。それならそこで和食と洋食が分離したかというと、そういう流れもあったけれど、他方ではすき焼き、トンカツ、カツ丼、海老フライ、カレーライスを生んでいった。
 辻さんはすき焼きは和食なんだと言う。ぼくもそう思う。西洋食文化の権化であるような肉食を、日本人はダシの効いた「割り下」をつかい、そこにセリや焼き豆腐や糸こんにゃくを加えてぐつぐつと煮立て、それを、といた卵につけて箸で食べるようにしたのだから、これはどう見ても和食文化なのである。欧米人ですき焼きを欧米食だと思う者もいない。
 天麩羅だってそうである。天麩羅をもたらしたポルトガルに行っても、あんなにこんがりした海老フライにはお目にかかれない。幕の内弁当、カツ丼、オムライス、しゃぶしゃぶ、吉野家の牛丼なども、誰も洋食とは思わない。

 こうした「変換力」は明治の洋風ブームに出会って発揮されたのではない。すでに江戸の食文化のなかでさまざまに発揮されていた。
 日本人がいまも大好きな寿司・天麩羅・ウナギ・蕎麦などは、いずれも参勤交代で江戸住まいになった地方武士の独り者のためのファストフードだった。これらはすべて屋台料理だったのである。
 たとえば寿司は、もともとは南中国や東南アジアで保存食として魚と米と塩をまぜた発酵食品で、それが日本に入ってきた。魚を塩だけで漬けこむとアミノ酸発酵になるところ、これに炊いたごはんを交ぜてしばらくすると乳酸発酵がおこる。これは「なれずし」(熟鮨)である。いまも近江の鮒鮨、吉野の釣瓶鮨、秋田のハタハタ鮨などにその原型がのこっている。伊勢街道はなれずし街道だ。
 これに対して、関西に箱鮨や押し鮨といった早寿司が登場して、発酵させるのではなく酢飯(すめし)に魚や野菜を組み合わせるようになった。京都の鯖寿司はサバに塩を当てて酢でしめたものである。この早寿司が江戸の出張武士たちの簡易外食としてファストフードに転換していった。これが、いまや世界中で模倣されるにいたった握り寿司の登場だった。

 ぼくはグルメではない。ミシュランの星を目印に食べ歩きをしたこともない。けれども自分の味が母のおダシにもとづいていたことは、長じるにつれてはっきりしてきた。母のお吸い物と出し巻き卵がぼくの味の原点なのだ。これに父が親しかった辻留さんのダシ味が加わっている。
 むろん有名店だからといって、感心しきるとはかぎらない。「田村」「と村」「包正」「吉兆」「みちば」「すゑとみ」「菊乃井」「金田中」「青柳」「青華こばやし」などでも、椀ものがいまひとつであったときは、次からはそこには行かない。いっとき帝国ホテルの「なだ万」やホテル西洋の「吉兆」から足が遠のいたのはそのせいだった。なぜだかわからないが、他の料理がとてもおいしくとも、椀ものは板長の交代や時期によって、冴えなくなることが少なくないのだ。
 一方、母の味をはるかに凌駕している店には、とくに有名な店でなくとも、一も二もなくぞっこんになる。そういうことを最初に感じたのは昭和21年から永田基男が開いている祇園の「千花」に行ってからだったが、ここではあまりに衝撃が大きいので、やがてもう少し楽な店に行くようになった。いまの店主は永田雄義さんで、弟さんが「千ひろ」をやっている。
 お椀は意外なものにも秀れた味がある。たとえば瓢亭がコースの最後にご飯とともに出すアイナメに葛をあてた鮪節のお椀など、意外なおいしさなのだ。

 本書にも格別な店が何店も紹介されている。銀座の会員制の「壬生」、芦屋のフレンチ「コシモ・プリュス」、中東さんの弟の中東久雄さんが始めた「草喰なかひがし」、石原仁司の「未在」などなど。
 とくに「草喰(そうじき)なかひがし」の先八寸、丹波のつくね芋のすりおろしを白味噌仕立てにしたお椀、友釣り鮎の塩焼き、煮えばなご飯などについて、また「壬生」の斬新きわまりない趣向については、やや詳しく紹介されている。
 辻さんはいろいろな意味で、新しいクールジャパン時代の日本料理のリーダーである。本書は軽く綴ったものだったが、いずれ原田信男や石毛直道や熊倉功夫の著書や、父君の著書を凌駕する本を著してくれるだろう。
 いまや和食はWASHOKUである。英語版ウィキペディアもそうなっている。定義はむつかしい。ポークジンジャーと豚の生姜焼き、ハッシュドビーフとハヤシライス、鉄板焼きに属する和風ステーキやお好み焼きなど、境界があいまいなものも少なくない。
 東アジアとの共通性を指摘する声もあるが、乳製品をあまり使わない、獣肉と油脂の利用が少ない、香辛料が控えられているという点は、韓国や東南アジアと異なっている。素材をいかした「旬」を愛し、「走り」や「名残」が食卓を飾るところも、日本独特だ。
 ぼくは「割主烹従」(かっしゅほうじゅう)に和食のインテリジェンスがあらわれていると思っている。日本料理の板場を見ればわかるように、和食の調理では食材を切ることを煮炊きから自立させるほどに重視する。「割く(切る)」ことが第一義で、「烹る(煮る・焼く)」はそのあとの手続きなのだ。これが巷に灯りをともす「割烹」(かっぽう)の語源とさえなっている。
 あらかじめ食べやすいように切っておくこと。それを箸でつまめば口にはこべるようにしておくこと。和食の和食たるゆえんが、ここにある。
 

重陽の佳節料理三台
『吉兆料理花伝』図版No.80

春興盃遊
『吉兆料理花伝』図版No.123

正月の膳
『吉兆料理花伝』図版No.108

吉兆 東京店 包丁
『吉兆料理花伝』図版N0.137

⊕ 和食の知られざる世界 ⊕

∃ 著者:辻芳樹
∃ 発行者:佐藤隆信
∃ 発行所:株式会社新潮社
∃ 印刷所:二光印刷株式会社
∃ 製本所:株式会社大進堂
⊂ 2013年12月20日 第一刷発行

⊗ 目次情報 ⊗

∈ 序章  和食の驚くべき広がり
∈∈ 第一章 「カリフォルニアロール」は和食か?
∈∈ 第二章 和食はそもそもハイブリッドである
∈∈ 第三章 「美食のコーチ」の必要性
∈∈ 第四章 和食の真髄が見える瞬間
∈∈ 第五章 ニューヨークで本格懐石を
∈ あとがき

⊗ 著者略歴 ⊗

辻 芳樹(つじ・よしき)
1964(昭和39)年大阪生まれ。12歳で渡英。米国でBA(文学士号)取得。1993年に、父・辻静雄の跡を継ぎ、辻調理師専門学校校長、辻調グループ代表に就任。海外への和食の発信も積極的に行っている。著書に『美食のテクノロジー』『美食進化論』(共著)等。