才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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占星術

天と地のドラマ

ウォレン・ケントン

平凡社(イメージの博物誌1) 1977

Warren Kenton
ASTOROLOGY―The Celestial Mirror 1971
[訳]矢島文夫
装幀:谷村彰彦・郡幸彦 協力:板倉勝正

なぜ占星術は強いのか。このこと、ときにはちゃんと考えてみたほうがいい。本格宗教に今日的な指針力がなくなってきたからか。それともサブカルのせいなのか。SFやアニメのせいなのか。個人主義が蔓延してエゴセントリックなエニアグラム(enneagram)が流行しているからか。なににせよ、いまやメディアのコメントもSNSのコメントも占星術まがいになっている。

 テームズ&ハドソン社(ロンドン)の“Art and Imagination”シリーズが刊行開始されたのは1971年だった。汎宗教的で秘教的な歴史的図版集であるが、粒よりのテーマを選んでいて、1冊ずつの構成もいい。
 これまで敬遠されがちだったオカルティズムに属するものをふんだんに入れた。『神聖舞踏』『タントラ』『地霊』『霊・魂・体』『天使』『ユダヤの秘儀』『錬金術』『天地創造』『ミステリアス・ケルト』『時間』『シャーマン』『眼の世界劇場』『龍とドラゴン』『エジプトの神秘』『占星術』『夢』『スーフィー』『生命の樹』『神聖幾何学』『魔術』『タオ』『螺旋の神秘』『聖なるチベット』『マーシャル・アーツ』『死者の書』といったすばらしいラインアップで、“変な図像”を軽快に編集した知のエスプリの配分も申し分なかった。
 当時のぼくには『タオ』『神聖舞踏』『スーフィ』は待ってましただったし、ジル・パースの『螺旋の神秘』、フィリップ・ローソンの『タントラ』、ピーター・ペインの『マーシャル・アーツ』、ジュン・ミシェルの『地霊』などは、その着眼点と構成と編集の手際で唸らせた。螺旋学(spirology)を提唱する果敢なジル・パースには、のちにロンドンで出会うことになる。縄文土器から迷宮まで、各地の民族舞踊からミナレットまで追いかける彼女は、スパイラル(捩れ)こそが「世界イメージの臍」だと言っていた。

Art and Imagination(テームズ・ハドソン社)と「イメージの博物誌」(平凡社)

 ぼくはこの年27歳。1971年は借金100万円を元手にオブジェマガジン「遊」を創刊した年で、表紙デザインと総合的なヴィジュアル指南をお願いした杉浦康平(981夜)に導かれて、このシリーズに目を通すことになった。
 杉浦さんからは「あのね、どんな図像も輪郭とコンフィギュレーション(布置)と細部が重要だから、よくよく見るといい」という指導があった。ぼくのヴィジュアル・エディティングに基礎体力と動態視力があるとしたら、大辻清司さんの示唆でとりくんだ桑沢デザイン研究所にあった世界の写真集を片っ端から見たことと、30冊ほどの“Art and Imagination”といちいち格闘することで身についたようなものだと思う。
 やがて平凡社がシリーズ翻訳を始め、70年代後半に日本語版「イメージの博物誌」全34冊が次々にお目見えした(続刊もあった)。高橋厳・澁澤龍彦・種村季弘・中野美代子・荒俣宏らが翻訳に駆り出された。
 そのちょっと前のこと、杉浦さんから突然、世界グラフィックデザイン全集の1冊目で『ヴィジュアル・コミュニケーション』(講談社)っていう本をつくることになったから、松岡君、全面的に手伝ってよと言われ、膨大な図版が見開き単位にレイアウトされるたびにそのテキストとキャプションを書きまくることになった。可視化されたイメージ群を次々に言葉(チャプター解説と図版キャプション)に置換するにはどうしたらいいのかが、ほぼ半年にわたって毎日毎夜試される修行だった。何十回となく“Art and Imagination”のお世話になった。

『ヴィジュアルコミュニケーション』
結界樹、曼荼羅、観相宇宙、原始タイポグラフィー。有史以降の視覚化されたありとあらゆる言語や現象を「イメージ図像史」として、杉浦康平が体系化した。そこに、松岡の本文解説が渾然一体となり、森羅万象がまるでこの一冊に集められたかのような世界観を織り成している。「錬金術的解読法」についても豊富なビジュアルイラストが盛り込まれた。函のデザインは細谷巖。p1-2、p58-59、p108-109より。

 今夜はその“Art and Imagination”刊行第1冊目の記念すべき『占星術』を千夜千冊する。あまり工夫のないオーソドクスな構成で、西洋占星術しか扱っていないものではあるが、天界にひそんでいるだろうルル3条(ルール・ロール・ツール)を、古代以来の占星術師たちや歴史の中のヴィジュアライザーがどのようなコンポジションにしていったのかという工夫には、いろいろ刺激があった。
 人間文化の歴史には、気になることを「見えるもの」「読めるもの」にしていくリプリゼンテーションの歴史と、容易には観測できない「隠れた動向」を予測的かつ暗号的に浮上させるという二つの流れがあるのだが、占星術にはその両方の歴史が刻まれてきた。いちがいにエセ科学だとか、オカルト科学だとは言いきれない。半分は真理探究の予測にもとづきながらも、もう半分はアレゴリカル(寓意的)な「暗合のしくみ」に向かっていったのである。

オブジェ化された天球儀を背景に、原著と並ぶ「占星術」

「占星術」のビジュアルイメージがほぼ全ページで展開されている

 いま世の中ではやっている星占いは十二星座占いのことで、古代に発生した西洋占星術にもとづいている。ホロスコープをつかうやつだ。
 ぼくの周辺にはなぜか占い師の類いの知人が多く、易・タロット・占星術・手相・陰陽五行・心法・風水・スクライング(水晶占い)・ジオマンシー(土占い)・奇門遁甲などのプロやアマチュアが、ふいに「松岡さんのことが気になるので見てあげる」と言って、ときどき詳しい占断結果を知らせてくれていた。いっときは年があけると1年ぶんの分厚い予想書が送られてきて、それが数年続いたこともあった。マドモアゼル朱鷺、鏡リュウジとも親しくなった。1974年に田中泯とハイパーダンスを展開したときは、しばしば庚間左門という水戸の易者が帯同した。

「運命は編集できるのか」
「FRaU」2000年2月号に掲載された鏡リュウジ氏との対談記事。鏡氏が「占いはあくまで自分の中にある他の編集の軸に気づくためだ」と松岡の編集思想に呼応していた。

 ぼく自身は自分の運勢を知りたいと思ったことはない。記念イベントに吉日を選ばないし、ツキに阿(おもね)ることもなく、ゲンも担(かつ)がない。
 ツキは「憑き」のことで、もともとはトランスに入ることをいう。ゲンは「験」のことで、何かの効き目をあらわす兆しに注目することをいう。修「験」道(しゅげんどう)はその効き目に挑む。だから「験担ぎ」は仏教縁起にもとづいたものではあるのだが、ぼくは縁起をそのような短期の因果論や効き目に落としこむのは好まない。
 運命や宿命に関心がないわけではない。兼好(367夜)やブレイク(742夜)やメーテルリンク(68夜)、小川未明(73夜)やシオラン(23夜)やタルコフスキー(527夜)に惹かれたのはそういうものをどう綴るか、どう描くかということに関心があるからなのだが、それを自分や自分の周辺にあてはめるのは気が進まない。だいたい未来学すら嫌いなのである。
 しかし占術というもの、そのしくみはそれぞれおもしろい。何かの現象を予兆とみなして幾つも並べ、それらの差異目録をつくりだすわけである。その基本には観相学や現象学がある。問題があるとしたら、そこからの勝手な恣意的・世俗的解釈だ。

 ゾディアック(黄道十二帯=獣帯)をシンボルにした占星術は、紀元前2000年紀のバビロニアで胚胎した。シュメール文明→アッカド人→アッシリア帝国の次に、サマリア人やアムル人がバビロンの民としてつくりあげた農耕型の王朝だ。
 ハンムラビ王が栄華を極め、ネブカドネザルをへて、第11王朝のカルデア王国(新バビロニア)に及んだバビロニアは、早くから『ギルガメシュ』(1703夜)に代表されるような叙事詩が得意だったのである。つまり「物語」をもっていた。
 占星術は神々と王と王家の吉凶を占うためである。天界と星界がもたらす現象や徴候を地上の行動や人事や収穫にできるだけつなげようとするもので、惑星を中心とする天体のおおまかな動向も「食」や「合」によるわずかな星の変化も、それぞれ占断に反映させていった。
 バビロニアに占星術が発達したのは、アヌやエンキやエンリルやティアマトなどたくさんの神々がいて、土地柄が「多神教の風土」であったこと、湿度が低くて満天の星がキラキラと地上にいつも降り注いでいたこと、叙事詩能力があったことにもとづく。そのためバビロンの民にとって天体と神々は分けられず、そのぶん地上の力を分けもつ王たちは半ば天体化していたにちがいない。けれどもその天体が秘める力の何がどのように王事や世事に結びつくのかがわからない。そこで天体動向を前兆とする「占い」のしくみがプリミティブにつくられたのである。
 その技法と暗合術は、前4世紀のアレキサンダー大王期にヘレニズムの(融合文化術)の薫陶を受け、しだいに知的な装いをもつようになった。ヘレニズムはホロスコープ(horoscope)を生んだ。この言葉はHORA(時間)とSKOPOS(見るもの)の合成語だ。
 ついでヘレニックな占星術が紀元前3世紀にギリシアに伝わって、アストロ(星)を扱う学問アストロロギア(astrologia)として確立した。吉凶占いにすぎなかったバビロニア占星術は、ヘレニズムの知恵と古代ギリシアの知性によって新たな「判断のシステム」に向かったのである。

畏怖すべき天界
古代文明の民族は、宇宙を象徴的に捉え、すべての力とカタチを明確な実体として人格化した。図はバビロンの王メリク・パクが太陽と月と金星の力をもつ神のごとき存在に娘を捧げている。天界への好意は、平和と戦争のバランスにとっても決定的な意味をもっていた。

星をみる人びと
左は天を観測し、星の運行を調べる人びと。右は天を仰ぐアウグストゥスと巫女。上流の知的な人びとにとっては、ホロスコープをつくって占う宿命占星術は新たな科学的な知識となった。

多神教にもとづくバビロニア占星術
左:古代バビロニアの星図を文献から再現したもの。獣や日用品、武器などが多く星座に見立てられ描かれている。
中央:バビロン王ネブカドネザル時代の境界石に描かれた黄道十二宮と多神教の神々が習合した図。神々の位置関係、力関係が天体からの示唆を交えて表されている。
右:イスラエルのベイトアルファのシナゴーグで見つかったギリシァ・ビザンティン帝国の要素が融合させた黄道十二体の図。

 ホロスコープは個人の出生時と星位図をつなげたもので、特定時点の天体チャートにあたる。天体チャートはプラネット(惑星)、サイン(星座)、ハウス、アスペクトの4つの要素をつかった。このばあいの個人とは王や王家や軍人のことである。ホロスコープの登場によって古代のリーダーたちは一人一人が天体の宿命を背負うことになった。
 具体的には、10個の惑星の位置、黄道を12分割したハウス(黄道12宮)、星の上昇や下降(アセンダント・デセンダント)、それらの相互関係などから個人の未来を一人ひとり予測するもので、何を占うかはハウスごとに決める。ハウス1は自分の性格、ハウス2は所有関係、ハウス5は恋愛、ハウス10は社会性、ハウス12は潜在意識を読む。
 古代ギリシアが黄道12宮を設定し、それらが獣を象(かたど)った星座が多いので「獣帯」(zodiac)ともみなしたことは、その後の占星術に大きなアレゴリカル・エフェクトをもたらした。黄道帯には13の星座が位置しているのだが、そのうちのへびつかい座を除いて12星座が動きだした。

黄道十二宮と地上の十二位
太陽の位置を観測し、一年間に太陽が星のあいだをぬって動く道筋をを黄道といい、それを12に分けて星座を割り振ったものが黄道十二宮。黄道十二宮の円を30度ずつ分けて設定するエリアを十二位といい、それぞれをハウスという。

東洋のホロスコープ
左は中国の宿曜術に伝わったホロスコープ「鄭氏星案」。右は日本最古のホロスコープで、陰陽道の一族が作成した。1112年の12月25日生まれの男の子の運勢を占なったもの。

古代中国人の目に映った天界の「官僚機構」
古代中国は国際天文学連合が定める今日の星座とかなり異なる恒星の分類システムを持っていた。夜空を三垣と二十八宿の合計31の領域に区分し、裸眼で見える恒星を位置によって体系的に分類した。
図は大坂の医師である寺島良安が江戸時代中期に編纂した類書(百科事典)『和漢三才図会』に記載の「北極紫微垣之図」部分。紫微垣とは三垣の一つで、天の北極を中心とした広い天区のこと。

アルフォンス・ミュシャを有名にした「黄道十二宮」
当初美術出版社のシャンプノワ社のカレンダーとして使われたが、のちにノベルティとして使われ有名になったミュシャの代表作の一つ。黄道十二宮のカレンダーに、1年をあらわす「星座」、不滅のシンボルで1年の始まりの冬を表す月桂樹、昼を表す「日」と「ヒマワリ」、夜の象徴の「月」と「ケシ」などをあしらった女性の周りに描かれた十二宮、ティアラが女性の横顔に見る人の注目を集め、渦巻ながら伸びる髪が視線をカレンダーへ導くという実用的な作品で、“生活の芸術化”を理想とするアールヌーヴォーらしい。

 そもそも夜空に光る星をつないで「星座」(constellation)という史上最大の図形を描いたのは古代エジプト人だった。それらは「デカン」と総称された星座たちをもって、1年360日を10日ごとに区切る指標につかった。バビロニアはこれをふやし、のちの88星座のフォーマットにあたる66の星座を想定した。
 いったい古代人のどんな想像力が星座を思いつかせたのか、すこぶる興味深いものの、まだ定説はない。おそらく遊牧民や羊飼いや漁師たちによって「移動のためのアトラス」として思いつかれたのではないかと思う。いったん思いつけば、それらは地中海共通の「天体ゲシュタルト」として機能した。そのうち天文学が発展して、星座はヒッパルコスやプトレマイオスによって天体図の中に組み込まれた。
 現在の88星座はアメリカの天文学者エドワード・ピッカリングの光速天体カタログにもとづいている。12星座は御存知、おひつじ座、おうし座、ふたご座、かに座、しし座、おとめ座、てんびん座、さそり座、いて座、やぎ座、みずがめ座、うお座。動物が多く、そこにノーマッドな生活用品がまじっている。
 その後、占星術はローマ帝国の拡大にともなって、ラテン世界のなかでいくつもの実用性を発揮した。世の中の周期と循環を占うもの(アポカタスタセイス)、惑星の動きから意味を導くもの(クレーロイ)、創世時の天体から現在や未来を占うもの(テマ・ムンディ)、新年を期してその年の予兆を見るもの(アポテレスマタ)、医術と結びついたもの(イアトロマティマティカ)などだ。
 中世、こうした占星術的な知識は教会・修道院でも教えるようになり、人生や農耕や商業のヒントになった。モン・サン・ミシェルやシャルトル大聖堂では惑星の運行を学ぶ学校が併設され、ボローニャなどの初期の大学でも占星術は一般知(ゲニカ)の基礎のひとつとして機能した。

古代エジプト天文学における36星座、デカン
上:エジプト・アシュートで見つかったエジプト第11王朝時代の棺の蓋にヒエログリフで描かれた星表。古代エジプト天文学では36の星座が用いられ、ルネサンス期に至るまで広く占星術や魔術の分野で参照された。下:エジプト第18王朝の建築家及び政府高官であったセンエンムウトの墓に描かれた星図。神の世界と俗世を結びつけるチャートとしての意義が大きく、当時の有力神官に象徴的に投影された惑星や星座の擬人化された図柄を見ることができる。墓の蓋にとどまらず、建物の壁や容れ物の蓋、底面に星図は描かれた。

北天・南天の既製の星表がコラージュされ88星座に
左:ハーバード大学天文台の名物台長だったエドワード・ピッカリング。分光装置のついた望遠鏡を用い、複数の構成のスペクトルを同時に撮影する技術を開発した。恒星のスペクトル分類法や最初の分光連星の発見などで功績を残した。右:ピッカリングが1908年に刊行した『ハーバード改訂光度カタログ(Harvard Revised Photometry Catalogue)』が現在の88星座の原型となった。19世紀中頃に出版された『アルゲランダー星図』などいくつかの輝星星表で表れた星座を引用し、組み合わせて88星座を定めた。

ピッカリングのアストロ・ハーレム
若い男性計算手の稚拙な仕事ぶりに業を煮やしたピッカリングは、計算手や写真データの解析要員として多くの女性を雇用した。それらの女性の中には、色温度を使った恒星の分類法を確立し、生涯を通して350000もの恒星を分類したアニー・ジャンプ・キャノン(左上)、変光星の研究や北極標準星の測定に取り組んだヘンリエッタ・リービット、ピッカリング(右上)と一時恒星の分類法で対立し、食変光星であること座β星のスペクトルの研究で知られるアントニア・モーリ(左下)、そして元々スコットランド人のメイドとしてピッカリングの邸宅で雇われていたヘンリードレイバーカタログの編纂にも関わったウィリアミーナ・フレミング(右下)らがいた。

国際天文学連合のメンバーは星座の夢に遊んだ
ローマで1922年に開催された国際天文学連合(IAU)の第1回総会。以来3年おきに世界各地で開催されている。全天88星座の名前が承認され、アルファベット3文字で表記する略号も定められた。1925年ケンブリッジで開かれた第2回総会では「星座の科学的表記」の分科会が設立され、星座の厳密な境界線の策定が話し合われた。

リベラルアーツとしての占星術
左:シャルトル大聖堂の王の扉口の右側のアーキボルト(飾り迫縁)に掘られた文芸人の彫刻は、シャルトル大聖堂にあった聖堂学校を見立てている。左下は算術を学ぶピタゴラスとされる。カール大帝が9世紀にフランス市民のための教育システムの導入を進めようとした際、学校の新設に多額の費用がかかることから、中世では大聖堂や修道院が既存の施設として教育機関の役割を果たした。シャルトル大聖堂はとくに論理学の四科、すなわち算術(arithmetica)、幾何学(geometrica)、音楽(musica)、天文学(astronomia)の研究で有名になった。右:中世のパリ大学における講義の様子。中世ヨーロッパの大学においては「人が持つ必要がある技芸の基本」とみなされた自由七科(リベラルアーツ)の教育が施されていた。このリベラルアーツ7科の一角として、円運動に関する研究である天文学が非常に重視された。

 原始古代では占術や占卜術はどんな共同体でもおこなわれた。鹿の骨での占いであれ、湯水に手をつける太占(ふとまに)のような占いであれ、また星占いであれ、「お題」を立て、何かの対象の変化を読みとり、その徴候(シンプトン)に意味を読み取るという行為がなされた。
 占い(fortune-telling)の結果は、吉兆いずれの結果にかかわらず「神託」(oracle)が下りたとみなされた。神々の神意がオラクルとして顕れたのである。神託は吉と凶、イエスとノー、善意と悪意を孕んだ。
 しかし、ここがひとつの重要な分かれ目になるのだが、占いには占術者(占い師)が関与する。初期はシャーマンが占いを代行した。そうすると占術者のパフォーマンスの様子や解釈力がたちまち神託の結果にバイアスをもたらすことになる。占術者がトランス状態をおこすことは少なくないからだ。
 ぼくは以前、ミカエル・ローウェとカーメン・ブラッカーが編集した『占いと神託』(海鳴社)を愛読したことがあるが、そのアジアとヨーロッパをまたいで数々の占術的神託の事例を分析した本では、必ずや「オーメン」(omen)、すなわちオミーナ・オブラティの役割がクリティカルに、またシンボリックにはたらいていることが強調されていた。
 オーメンはやはり前兆のことであるが、「よくないことがおこる前兆」なのである。それがオーメンだ。だからみんなが怖がった。とくにオーメンの徴候が占術者のパフォーマンスにあらわれると、その前兆の奥に「悪さをする者」や「邪悪なもの」がいるというふうに想定され、悪魔や悪霊が想定される。これが見るからに怖い。ポゼッション(possesion)がおこる。「占有」や「憑依」だ。
 こうしたオーメンの介在は、しだいに占いを呪術的に加飾していった(占術者のキャラクターをおおげさにしていった)。その結果、シャーマニックな占いが中央ではだんだん避けられた。その後の本格的な宗教組織では「占い」はほぼ禁止されている。そこに浮上してきたのが占星術のような、あたかも客観的に神託が見えるようなしくみ(判断のシステム)だったのである。
 これは占星術の歴史にとっては痛し痒しのことだった。客観性に向かうようになったぶん、合理的な科学に道を譲ることになったからだ。それでも、ルネサンス期やエリザベス朝では白昼のみならず夜空さえも支配する君臨者の知恵が称賛されたので、マルシリオ・フィチーノやジョン・ディーらの神秘学者が占星術的成果に過剰な意義を付与したけれど、またフランスには国家おかかえのジャン=バチスト・モランのような専属占星術師がいたけれど、やがてケプラーの法則やニュートンの法則によって、宇宙(世界)の「力」が天体運動そのものから生まれていることがうすうす実証されてくると、占星術は「天体」から「身体」に投影されるようになって、マクロコスモスとミクロコスモスとの連関が主張されたのである。
 占星術は医術や顔相術とまじっていったのだ。医師であって錬金術師であり、占星術師であって霊能力者であった占星術パラケルススの活躍が目立っている。16世紀にユリウス暦が教皇グレゴリウス13世によって変更されたこと、望遠鏡が波及したことも大きかった。以来、占星術は擬似科学とみなされた。

マクロコスモスとミクロコスモスの図解
マクロコスモス(大宇宙)とミクロコスモス(小宇宙)はバロック的な対概念であり、両者が互いに影響をおよぼす動的な関係にあることを意味する。小宇宙は、通常は人間を指す。無限に広がる大宇宙と、小さいが深くて複雑な人間を照合することで、万象の様相やしくみを解析・再構築しようとする考え方をいう。

密教占星術「宿曜道」の中にも取り入れられた医占星術(イアトロマティマティカ)
左:1702年の暦書に掲載された獣帯人間の図。前4世紀ごろに、ミクロコスモスとしての人間の身体部分が、マクロコスモスとしての宇宙を代表する獣帯十二宮に割り当てられた。このことはストア派哲学における宇宙的共感の概念の形成に重要な役割を果たした。身体の特定部分を支配する宮が凶星や悪いアスペクトによって影響を受けることで病気になるとみなされ、天界が好ましい状態に調和するように、宮と関わりのある植物や動物を使った治療や魔除けを行った。右:宿曜本「七曜攘災決」の中にあらわれた医占星術に関する記述の一部。宿曜道とは、平安時代に空海ら留学僧が日本へもたらした中国由来の占星術。バビロニア・ギリシァ由来の西洋占星術、インド古来の月占星術、道教由来の天体神信仰、陰陽五行説等が習合している。

 まとめれば、科学が占星術を退役させたのである。このことについては、ハンス・アイゼンクとデイヴィス・ナイアスの『占星術:科学か迷信か』(誠信書房)という有名な本がある。ホロスコープの機能や星位の影響をさまざまに検討した本で、占星術のいかがわしさをほぼ暴露した。
 しかし、しかしながらだ。占星術は廃れなかったのだ。みんなツキやゲンが気になっていたのだ。
 20世紀のヒトラーのような為政者からアメリカ大統領夫人まで、多くの女の子から有名芸能人まで、星占いはますます盛況になっていく。いまなお女性誌では星占いは必須アイテムであり、テレビのモーニングショーではわかりやすい画像と星キャラとともに必ず「今日の星占い」が流れる。
 なぜなのか。なぜ占星術は強いのか。このこと、ときにはちゃんと考えてみたほうがいい。本格宗教に今日的な指針力がなくなってきたからか。それともサブカルのせいなのか。SFやアニメのせいなのか。個人主義が蔓延してエゴセントリックなエニアグラム(enneagram)が流行しているからか。なににせよ、いまやメディアのコメントもSNSのコメントも占星術まがいになっている。

占星術と物理のあいだ
2つのことが占星術の衰退をもたらした。第一にコペルニクスの客観的太陽系の観念で、地球中心のプトレマイオスの図式を太陽中心の考えに置き換えたこと。第二にはガリレオの望遠鏡で、惑星を天体として示したこと。この2つの革新が人びとの関心を天空の物理学的展望へむけさせたため、占星術は必然的に衰えた。図はコペルニクスの宇宙をあらわした銅版画。

 占星術が20世紀に復活流行したことについては、本書では、ユング(830夜)が心理療法として占星術を重視したことが特筆されている。
 ユングは心にひそむアーキタイプ(元型)を探求していたのだが、そこに占星術が金星や火星や土星などに託した心理的意匠性を付与していたこと(地球も惑星なのだから、他の惑星の動向の影響を受けないはずがない)、そのことが古代の神話的世界観の広がりや深さを途絶えさせない力をもったこと、さらには男性と女性のアニマとアニムスの姿には、天体的な形象の関与があったほうが、ずっと心が落ち着きやすいことを強調した。
 最近ではリズ・グリーンの『占星術とユング心理学』(原書房)が強い説得力をもって、ユング心理学そのもののルーツに占星術がはたらいていたことを証してみせた。とくにユングの告白的書物「赤の書」がそのことを告げていると分析した。鏡リュウジ君もこの本を絶賛している。

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ユングと占星術の関係を紐解いた『占星術とユング心理学』
英国の心理占星術の第一人者であり、ユング派の心理分析家であるリズ・グリーンが、ユング心理学における占星術の影響について解明した書。グノーシス主義、新プラトン主義、ヘルメス思想にもとづく占星術がカール・グスタフ・ユング(下)へと流れ込んでいるという観点を示す。グリーンが遺族の協力を得て、ユングの私的アーカイブに分け入り発掘。ユングが同時代の占星術家たちと活発に交流した書簡や手描きのホロスコープといった未公開資料も公開している。鏡リュウジ氏が絶対に紹介したいと意気込み、出版社に企画を持ち込んで監修した。

門外不出だったユングの『赤の書』
第一次大戦を目前にした1914年ころ、ユングは、世界の争乱を予期する恐ろしいイメージに悩まされ精神的混乱に陥った。そのときに見た夢やイメージを私的な日記として書き留めていった。それを自身の手による注釈や描画をつけ加えた上で、赤い革で装丁された立派なノートに装飾的な字体を用いて書き写したのが『赤の書』。ユングの思想的な起源を理解するためには必読であるとみなされながらも、本人や遺族の意志により、スイスのとある銀行の金庫の中で半世紀近く隠され、門外不出でだった。大判のページいっぱいの絵が53点、カリグラフィーの文字の合間に精密に描き込まれた81点の大小の絵が含まれ、聖書の豪華装飾写本を思わせる。「荒れ野」(第一の書第4章)「神秘。出会い」(第一の書第10章)、「地獄」(第二の書第12章)、「魔法使い」(第二の書第21章)など、占いを思わせるメニューが並んでいる。

 本書は占星術を扱っていろいろおもしろい図版を配してはいるが、歴史には詳しくはない。海外には占星術史がいくつもあるが、中山茂の『占星術:その科学史上の位置』(紀伊国屋新書→朝日文庫)を除いて、詳しいものは日本語の本には少ない。ぼくは70年代に外国に行くたび、その手の洋書を集めざるをえなかった。
 日本語の本で参考になるのは山内雅夫の『占星術の世界』(中公文庫)と『世界の占星術師とオカルチストたち』(自由国民社)だろう。山内はNHKの経済番組のディレクターで活躍したのち、占星術の探検を究めためずらしい著述家である。世界のビジネスマンたちの意思決定に占星術が応用されていることに気がつき、それから占星術ワールドを渉猟したらしい。
 山内の見方は、星座やゾディアックがエジプトやシュメールの都市文化を背景にできあがっていったのは、トーテム思考が強かったからで、占星術というものはトーテム神秘主義が派生させたシンボル操作術のひとつだろうというものだった。「トーテムがするすると地上から上昇して、天界に張り付いた」という見方である。
 しかし、占星術はトーテム思考だけでは発展しない。その何組かのトーテム群に「意図の変向」を読みとれるようにしなければならなかった。では、どのように?
 ぼくはそこには「アルス・コンビナトリア」がはたらいたと思っている。それというのも、バロック時代にタロットカード(Tarot)に占星術が結び付いてタロット占いが生まれたのは、ライムンドゥス・ルルスかが考案したアルス・コンピナトリア(ローギッシュ・マシーネ=論理機械)が適用されたからだったのだ。
 占星術にもまさにそのような古代的アルス・コンビナトリアが寄与しただろうと想定できる。実はタロットは「机上の占星術」だったのだ。

最古のタロットカード
15世紀後半にミラノ公のフランチェスコ・スフォルツァなどが、画家に描かせたヴィスコンティ・スフォルツァ版タロット。現在はさまざまな博物館、図書館、世界中の個人コレクションに散らばり、完全なデッキは残されていない。

松岡正剛のホロスコープ
1944年1月25日午前5時20分、京都生まれ。ホロスコープ上に正三角形(グランドトライン)と小さな二等辺三角形が組み合わさり、カイト(ひし形の凧のような形)が浮き上がる、非常に強力な配置。正三角形は、太陽星座の水瓶座を頂点に、ふたご座、天秤座と、すべて「情報」を司る「風の星座」からなっており、このホロスコープを見るだけでも、情報の分野で多大な才能を生まれ持っていることがわかる。さらに、二等辺三角形の中心にあるしし座の自信に満ちた表現力がドライブになり、生まれ持った才能を発揮する。あまりにもみごとに松岡正剛らしさが浮き出たホロスコープだ。
占星術診断:仁禮洋子(編集工学研究所)
(図版構成:寺平賢司・西村俊克・八田英子・衣笠純子・牧野越叢 校正:八田英子・井田昌彦、キーエディット:吉村堅樹)


⊕『占星術』⊕

∈ 著者:ウォレン・ケントン
∈ 訳者:矢島文夫
∈ 発行所:平凡社
∈ 発行:1977年11月1日

⊕ 目次情報 ⊕
∈ 目次
∈ はじまり 星との出あい
∈ 神々 シンボルとしての星
∈ 宇宙論 星の殿堂
∈ 上昇点 アラビアの星
∈ 朝 西欧の星
∈ 天頂 星の支配
∈ 食 星のおとろえ
∈ 再出現 星のささやき

∈ 図版

∈ 資料図版とその解説
∈ 起源
∈ 古典世界
∈ 初期ユダヤ・キリスト教思想
∈ イスラム
∈ 中世
∈ ルネッサンス
∈ ルネッサンス美術
∈ オカルト〈秘法〉
∈ 非西欧占星術
∈ 週渡期
∈ 共存
∈ ニュートン以後
∈ 宇宙時計

⊕ 著者略歴 ⊕
ウォレン・ケントン(Warren Kenton)
1933年ロンドン生まれ。カバラのトレダノ伝統に関する本の著者であり教師。カバラ協会の創設メンバー。演劇やグラフィックデザインの仕事のほか、王立美術院で舞台美術を教え、建築協会でも教鞭をとっていた。

⊕ 訳者略歴 ⊕
矢島文夫 (ヤジマ フミオ)
1982年東京生まれ。東京外国語大学・学習院大学卒業。京都産業大学教授。西アジア文化史・セム言語学専攻。著書『ヴィーナスの神話』(美術出版社)。訳書『ピラミッドの秘密』(みすず書房)、『美浦メットとアラブの大征伐』、『未知の古代文明ディルムン』(平凡社)など。