才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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表象は感染する

文化への自然主義的アプローチ

ダン・スペルベル

新曜社 2001

Dan Sperber
Explaining Culture ―― A Naturalistic Approach 1996
[訳]菅野盾樹
編集:田中久紀子
装幀:難波園子 絵:ホガース

「有事」がそもそもどのように「平時」の中に散らばってきたかを、総点検したほうがいい。その最大の感染事態こそが社会文化を冒してきた社会的炎症の正体なのである。そうだとしたら、文化がとっくに「特定の文化感染症」(たとえば資本主義感染症やコンプライアンス感染症)にかかりっきりになって、いつのまにかひどい“同質化症状”をきたしていることに突っ込めなくなっている状況を、いまこそ総点検するべきなのである。

 いま多くの統治者と都会住民たちが、地球上をかなりの速度で席巻して人から人へと感染力を及ぼしているウイルスに、あたふたしたままにいる。緊急事態宣言を出したものかどうか、ぐすぐず数カ月を逡巡している国もある。
 見えないものがひどい「悪さ」をしていると思っている諸君も少なくないが、これはおかしい。細菌やウイルスは、寄生者として生きのびたくてふるまっているだけのこと、そのプロセスが宿主にとって都合が悪ければ「悪さ」であって、そうでなければかれらは全生物圏の共生者なのである。
 年末年始にポール・イーワルドの『病原体進化論』(新曜社)を読んでいて、寄生者が宿主に乗り移るときに蚊のような媒介動物を利用できるときは、たとえ宿主を殺すことになろうとも、寄生者はどんどん増殖して感染症を重くしていくことを厭わないが、媒介動物を利用できない寄生者は宿主にそこそこ活発に動いてもらわないと困るから、厳しい感染症状をおこさない程度に動きまわるのだということ、ここに「悪さのグラデーション」(ということは役立ちのグラデでもある)がもうけられていることについて、いろいろ興味深い知見をもらった。
 おそらく新型コロナウイルスは後者寄りなのである。少なくともいまのところは、後者寄りに発現したRNAウイルスが増殖中なのだろうと思う。ただし、変異が進めばどうなるかわからない。人類が強力な対策をこうじれば、かれらも戦略を変えてくるのかもしれない。そのときはSARS、MERS、COVIDに代わる第4代の跡目を選出してくるのかもしれない。

ポール・イーワルド『病原体進化論』(新曜社)
ルイビル大学(ケンタッキー州)の生物学者。ハチドリと花の共進化、感染症の進化について研究している。

 地球上で感染していくものは病原菌やウイルスとはかぎらない。人類は長らく社会文化的感染症にかかりっぱなしだった。
 このことを最初に明示してみせたのは、1920〜30年代のアーサー・ラブジョイ(637夜)である。ラブジョイはジョンズ・ホプキンス大学で知的探検団「観念の歴史クラブ」をつくって、観念(idea)こそが歴史に決定的な感染連鎖をもたらしてきたことを強調し、人々が「漠然たること」には影響力がないと思っていたことを打ち砕いてみせた。
 観念は伝染するし、増殖もするものなのである。同様に、観念がかたちになった表象もまた感染するし、変異する。何かを思いつくことが観念であるが、思いついた観念はなかなか消えないということが、こうして明らかになっていった。
 そうした観念が文学やヴィジュアルイメージや音楽などにあらわされることを、まとめて表象(representation)という。そういう表象は感染するだけでなく、変異して、社会の中にのこっていく。病原菌やウイルスだけが感染したり変異したりしているのではない。

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アーサー・ラブジョイ
アメリカの哲学者。既成の学問にとらわれず、ヨーロッパの精神史の基調をなす観念の歴史を研究。ラブジョイの分野横断的な方法的自覚が、今日の「学際」の先駆けとなった。アメリカの代表的思想史研究誌「Journal of the History of Ideas」の創刊に尽力。千夜千冊でもとりあげた『存在の大いなる連鎖』は学問分野としての「観念史」(history of ideas)の確立を宣言した記念碑的著作。

 われわれの脳には、われわれの意思や行動を選択したり決定づけるための膨大な量の観念が出入りし、宿されている。何かを行動したり考えたりするたびに、脳から選び出された観念はさまざまな形を装って外に出てくる。
 その形は文字であることも音楽であることも、大工仕事であることもファッションであることもある。いずれも表象になる。その表象に接すると、それに類似するものが他人の脳に移る。移るは、写るといっても映るといってもいいし、「伝染(うつ)る」と綴ってもいい。類が友を呼び、ルイジ君とソージ君が活躍して、観念は表象を伴って伝染し、増殖していく。こうして文化そのものが地球上に感染していくのである。
 そのようなことを考えていくことを、ダン・スペルベルは「表象の疫学」(epidemiology of representation)と名付けた。きわどい命名だが、たいへん意味深長な命名だ。

『表象は感染する』と原著
どちらの表紙も、あらゆる人びとの顔が連綿と並び、蔓延するウイルスのようにもみえる。日本版の絵はロココ時代のイギリスの画家ウィリアム・ホガースが描いたもの。

 疫学(エピデミオロジー)という言葉は、「何かがある場所に逗留あるいは到来する」ということをあらわすギリシア語の「エピデミア」(epidemia)を語源としている。それとともに雨や病気や習慣などが蟠(わだかま)っていくことを示す。放っておけばエピデミアがふえる。広がる。
 ここから「エピデミック」という言葉が派生して、今日ではウイルス・エピデミックといえば、もっぱら地域的に感染症が広まることをさすようになった。集団的に発生すると疫学用語ではアウトブレイク(outbreak)という。
 エピデミックやアウトブレイクをおこすのは、しかし病原菌やウイルスだけではない。文化や表象も伝染し、感染してきた。そのことを考えようというのが「表象の疫学」だ。
 ちなみにパンデミック(pandemic)はやはりギリシア語の「パンデモス」(pandemos)が語源で、pan は「すべて」のこと、demos はデモクラシーの語源と同様の「人々」のことをいう。その人々が混乱に巻き込まれ狂騒状態になれば、パニック(panic)がおこる。パンの大神が暴れだす。

 ダン・スペルベルは、「いまだかつて社会的なものに関する自然科学がないのはなぜなのだろうか」と考えてきた人類学者である。ソルボンヌで民族学を、オックスフォードで社会人類学を修めたのち、エチオピアでフィールドワークに入り、ドルゼ族の社会文化調査に従事した。
 従事してみて、特定の集団生活を観察することは、なるほど信仰・魔除け・タブー・憎悪・狂騒・婚姻・争い・逃避・祝祭・蓄積・放逐といった習性がその社会に構成されていくプロセスをあきらかにするものであることはわかったが、つまり人類学的な見地がそれなりに生まれてはいくことはよくわかったが、そうした習性や価値観が集団をまたぎ、地域をこえ、やがては相互に感染していくことの理由の説明にはなっていないことに気が付いた。
 そこで『象徴表現とはなにか』(紀伊国屋書店)などを著してみたのだが、これでは社会文化がもたらす感染病理を疫学のようにアプローチする見方が、あまりにも確立できていないことを感じた。とくにラブジョイが言う「漠然たるもの」が感染していく様子が掴めない。

 あるとき、スペルベルは1890年に書かれたガブリエル・タルド(1318夜)の『模倣の法則』(河出書房新社)を読んで、その試みに感心した。
 タルドは疫学用語をつかっていないものの、文化の感染を「模倣」(imitation)を通して解明しようと試みて、社会文化は個人間の無数の模倣の連鎖の累積によって説明されるべきだと説いていた(タルドがいかに巧みに模倣的感染のしくみを説明したかは、1318夜を読んでいただきたい)。
 スペルベルはあらためてタルドの影響を追ってみた。タルドの先駆性を継ぐ者はあまり多くはなかったが(タルドを再評価したドゥルーズにも継承的成果が少なかった)、その後、社会心理学のドナルド・キャンベル、利己的遺伝子やミーム論のリチャード・ドーキンス(1069夜)らが文化的遺伝に言及していた。また、集団遺伝学のカヴァッリ=スフォルツァとフゥルドマン、ラムスデンとウィルソンらが文化の感染にとりくみ、ウィリアム・ダーラムがついにダーウィン流の淘汰モデルを社会文化現象にあてはめたことを知った。
 ドーキンスやダーラムらは主に集団遺伝学の成果を借用していたが、スペルベルはできればそこに人類学と認知心理学の成果を加えたものを提案したかった。本書はその試みをまとめたものである。

タルドから影響を受けた思想家たち
左の写真はガブリエル・タルド。右の写真は左上:ドナルド・キャンベル、右上:リチャード・ドーキンス、左下:カヴァッリ=スフォルツァ、右下:ウィリアム・ダーラム

 「人間の個体群にそれよりはるかに多数のウイルスの個体群が宿っていると言いうるように、人間の個体群にははるかに多数の心的表象の個体群が宿っている」というのが、スペルベルの「表象の疫学」仮説の前提だ。
 もうひとつ、前提がある。表象は個人や集団に伝染するとほとんどそのたびに変異していくということだ。これは人間の体が風土や人種をこえてほぼ同じ構造や機能をもっているのに対して(だから病原菌やウイルスはところかまわず動けるのだが)、人間の文化は言語や習慣や制度によってかなり異なっていて、流行や文化感染には障壁があると思われてきた。
 しかしそれが、そうでもなかった。表象化されたもの、たとえばエンブレム、染も模様、帽子やリボンの形、星座の形象、楽器の形状、室内の飾り付けなどは、いくらでも地域をまたいだ変異をおこしていた。
 ここで表象は、①ある対象や現象が、②何かについての、③ある情報処理装置にとっての表象になる、というふうにかたちづくられる。この情報処理は個人内過程(intra-individual processes)と個人間過程(inter-individual processes)をもつ。表象の変異はこのプロセスのどこかで、おそらくは情報がかたちの制約をうけるインターフェースの前後でおこる。情報がかたちの制約をうけるのは、イン・フォーム(inform)という情報の性質のそもそもの動向にもとづく。

 観念が刺激をうけて感染症状をもたらすには、そこにやってくるコミュニケーション力(=情報の伝達力)が一定の強度である必要はない。このことも人類学の調査はあきらかにした。大声でも小声でもいいし、長文でも短文でも、哲学でもお笑いでもいい。つまりは直示(ostension)でも暗示(suggestion)でもかまわない。
 脳が敏感だから、感染するのではない。人間の社会文化の歴史が長らく培ってきた「意味」があまりにも多様になって、過敏に育ってきたから、刺戦の大小をこえて感染する。感染が地域的に集中すると、人類の記憶のそこかしこにしばしば集合表象(collective representation)が刻印された。アウトブレイクがおこるのだ。人類には、そういう「意味の多様性」を受信する(情報処理する)能力や装置性ができてしまっていたからだ。
 エピデミアやパンデモスの発生は人類の情報処理能力の古くからのヴァージョンのひとつだったのである。
 神経生理学のジェリー・フォーダーはこのように表象が感染するのは、「思考の言語」がつくったモジュールがつくられているからだとみなした。『精神のモジュール形式』(産業図書)に詳しい。フォーダーに共感したスペルベルは、われわれにはきっと「メタ表象能力」が用意されているのだろうとみた。思考言語モジュールと言ってもメタ表象能力と言っても同じことだが、つまりはわれわれには「意味の多様性」に応じた情報編集装置が備わっているということなのである。

ジェリー・フォーダー『精神のモジュール形式』(産業図書)
アメリカの認知科学者。人の心の中には「言語」「音楽」「数学」など機能別の「モジュール」が存在するという説を唱え、認知科学の先駆者とされる。

 思考言語モジュール、すなわちメタ表象能力、すなわち情報編集装置は、たいへんおもしろくできている。
 第1に、入力と出力が等価になっていない。ここにはシャノンのコミュニケーション・モデル(情報通信モデル)はあてはまらない。INにあたる「喚起」(evocation)に対して、OUTにあたる「感応」(sensation)が微妙に揺れながら膨らんでいくからだ。これによって意味の多様性が次々に殖えていく。
 第2になぜそうなるかといえば、入力と出力の両者の関係が決してロジカルにはできていないからだ。この装置はとても柔らかく、かつアナロジカルにできている。アナロジカルであるとは、喚起と感応の関係が連想的で、多層的で、相互関連的であるということを示している。情報が1対1で縛られていることがないわけだ。このしくみのコアコンピタンスは情報アナロジーだったのである。
 情報アナロジーは領域特定性を低減させる。それを有意性の幅が広い解釈系が自在に動くようになっているというふうに見てもいいし、人間にはかなり前から冗長度が高い情報コミュニケーションの系ができあがってきたと言ってもいい。
 第3に、この思考言語モジュール=メタ表象能力=情報編集装置は、入力情報のおさまりぐあいをたえず補完したり修復しようとする。その補完や修復はけっこう自律的である。自律的なだけでなく、アナロジカル・レスポンスは一回かぎりでおわらない。何度もおこる。三段論法のようになってはいないのだ。そのためどんな表象でも次々に変異させていく。またアナロジーの担い手をさまざまな表現者に駆り立てていく。この一連の動きは観念や表象が自己編集的に変異していくと言ったほうがぴったりくるだろう。
 こうして「表象の疫学」は、まさに「アナロジーの疫学」でもあったということになる。

 文化の感染がどんなしくみになっているかを見るには、「アナロジーの疫学」がコアコンピタンスになっていることがわかっただけでは、足りない。もっと分け入る必要がある。
 模倣を促すことを担っている因子はどんなものなのか、ドーキンスの言うミームのようなものを想定したほうがいいのか。影響を運ぶエージェントは風評力なのか、あるいはメディアなのか。こういうことにも議論を進めなければならない。
 また、競合によって強化される意味の突起性や、ポピュリズムに転化しやすい感染性についても議論しなければならないだろうし、そもそも感染主体にはプロトタイプやステレオタイプの差があるのかどうか、それとも感染や影響の原器にあたるアーキタイプがあるのかどうかも、検討したほうがいいだろう。
 こうしたことはアンディ・クラークが「クラッジ」(kludge)として総合的に説明できるだろうと言ったことにも当たっていて、ぼくはぼくで編集工学が補えることだろうとも思っている。クラークは『現れる存在―脳と身体と世界の再統合』(NTT出版)がたいへんおもしろかった。池上高志君が翻訳した。
 スペルベルは、このような構想を“推論のセオリー”として「有意性理論」とも名付け、さらにディァドレ・ウィルソンと組んで構築した「関連性理論」のなかで活用したりもした。

 関連性理論は発話による情報がどのように理解されるのかをめぐった研究だ。いっときぼくもちょいちょい参照して、一部の仮説は編集工学の組み立てに援用した。
 どういうものかというと、コミュニケーション・プロセスを記号や言語で解明するのではなく、象徴や認知環境や表象やイメージのやりとりで考えたいとするスペルベルが、「意図直示行為」(ostensive behaviors)こそが相互コミュニケーションにひそむ多くの関連性(relevance)を保持しているということを敷衍させた理論だ。
 スペルベルとウィルソンは、人間は論証したくてコミュニケーションしているのでなく、むしろロジックに狭められない柔らかい推論を愉しむ方向に解釈を広げる傾向をもつもので、それゆえわれわれは「見込み」の幅を維持しながらコミュニケーションしているのだと捉えたのだった。
 そこではロジカル・コミュニケーションではなくてアナロジカル・コミュニケーションが、二人の用語でいえば、ここがなかなか穿っているのだが、「表意」(explicature)と「推意」(implicature)が二つながら交じり合って進捗していくのだろうと想定した。なかなかユニークな仮説理論だった。仮説の全貌は志半ばでおわっているようではあるが、アウトラインは『関連性理論――伝達と認知』(研究社出版)に著わされている。

 さて、本書はずいぶん前に読んだもので、主旨3割がすばらしくよく、論証は構造主義っぽくてイマイチだったものではあるが、人類学者が「文化の感染性」に果敢に挑んでいて、こういう視点を欠かしてはいけないと思っていたので、あえて緊急事態宣言第2弾の前に紹介しておきたかった。
 今日の政府や自治体や大衆社会は、ウイルスの感染拡大ばかりに気を取られた社会の一員をそれぞれ演じているようでいて、ほんとうは何に戦々恐々とし、何を制御しているかわからないままにある。政府も国民も何を演じているか、わからなくなっているのだ。問題は新型コロナウイルスによって、むしろわれわれが何を考えづらくなっているか、あるいは何を考えなくなってしまったかにあって、そこをどうしたら見つめられるようになれるかなのである。ここは経済の活性化と天秤にかけてしまうと、見えなくなっていく。
 だからせめて、こういう時期には「有事」がそもそもどのように「平時」の中に散らばってきたかを、総点検したほうがいい。その最大の感染事態こそが社会文化を冒してきた社会的炎症の正体なのである。
 そうだとしたら、文化がとっくに「特定の文化感染症」(たとえば資本主義感染症やコンプライアンス感染症)にかかりっきりになって、いつのまにかひどい“同質化症状”をきたしていることに突っ込めなくなっている状況を、いまこそ総点検するべきなのである。
 コロナ禍を耐えて、という。しかし、この200年で最も禍々しいものだったのは「近代化」と「標準化」だったではないか。ニューノーマルになろう、という。しかしこれまで38億年にわたってニューノーマルをめざしてきたのは、生命の歴史そのものだったのではないか。諸君、いったいいつまでとんちんかんを続けるつもりなのか。あけまして、おめでとうございます。

2021年1月6日、東京都のコロナ感染者数は過去最多となる1591人を記録した
(図版構成:寺平賢司・西村俊克)


⊕『表象は感染する』⊕

∈ 著者:ダン・スペルベル
∈ 訳者:菅野盾樹
∈ 発行者:堀江 洪
∈ 発行所:新曜社
∈ 装丁:難波園子
∈ 絵:ウィリアム・ホガース
∈ 印刷:星野精版印刷
∈ 製本:イマイ製本
∈ 発行:2001年10月1日

⊕ 目次情報 ⊕

∈ 第1章 人類学者として真の唯物論者になる方法
∈ 第2章 文化的表象を解釈することと説明すること
∈ 第3章 人類学と心理学―表象の疫学のために
∈ 第4章 信念の疫学
∈ 第5章 文化の進化における淘汰と誘引
∈ 第6章 心のモジュール性と文化的多様性
∈ 結論―リスクと賭け

⊕ 著者略歴 ⊕
ダン・スペルベル
1942年にフランスの地中海沿いの都市カーニュ生まれ。ソルボンヌ大学で民族学を修め、後にオックスフォード大学に留学し、社会人類学を学ぶ。モーリタニアとエチオピアでフィールドワークに従事し、とくにドルゼの人びとについて調査を行った。1965年より現在にいたるまで、パリのCNRS(国立学術研究センター)に在職。

⊕ 訳者略歴 ⊕
菅野盾樹(スゲノ・タテキ)
1967年東京大学文学部(哲学)卒業。1972年東京大学大学院博士課程(哲学)修了。東京大学文学部助手、山形大学教養部助教授を経て、現在、大阪大学大学院人間科学研究科教授。博士(人間科学)。