才事記

ゼビウスと横須賀功光

ぼくの半生はさまざまな才能に驚いてきたトピックで、髪の生え際から足の親指まで埋まっている。小学校の吉見先生との一緒の遊びや南海ホークスの飯田のファースト守備に驚き、藤沢秀行の碁の打ち方や同志社大学の平尾ラグビーに驚き、電子ゲーム「ゼビウス」のつくりや井上陽水のシンガーソングぶりに驚き、亀田製菓の数々の「サラダあられ」や美山荘の中東吉次の摘草料理に驚き、横須賀功光が撮った写真やコム・デ・ギャルソンの白い男物シャツに驚いた。

ファミコンゲーム《ゼビウス》

いずれも予告なし。ある日突然に出会ってたまげたのだ。これらの代わりにマイルス・デイヴィスを聴いたときとかヴィトゲンシュタインを最初に読んだときとか、そういうものを挙げてもいいのだが、できればナマっぽく体験したことと向き合ったほうがいいので、こんな例にした。

まずは何に驚いたかということが大事なのだが、それにとどまってはいけない。そのときこちらを襲ってきた唐突な感動が、その日その場のシチュエーションや当日の体調や別の記憶との共属関係とともに新たに残響してくることが、もっと大事だ。

われわれは当然のことながら、幼児期には何にでも驚いてきた。子供になってからもアサガオの開花やセミの羽化に出会ったこと、土中の化石やホタルの点滅を初めて見たのは、忘れられない体験だ。ただし、これら植物や動物を相手にした感動はのちにも体験可能になる率が高いけれど、それにくらべて誰かがもたらしてくれるものは、その時その場にかぎられることが多い。

この誰かによる感動とどう付き合えるかということから、世の「才能」というものへの陥入がおこっていく。

感動や共感について心すべきことは、出会って驚いた瞬間の感動というか逆上といったものを、その後どのように保持できる状態にしておけるのか、またその感動をここぞというときに脳裏から自在にリコール(リマインド)できるようにしておけるのかということにある。

感動も共感も誰にだっていろいろの機会におこるものだけれど、それをどこかに転移しても(時と場所とメディアを移しても)、その鮮やかさをそこそこ賞味できるかということが、キモなのである。

たとえば、誰かの講演を聞いて、おおいに痺れたとする。内容にも共感したとする。では、この感動をどのように保持するかなのである。またどのように再生するかなのである。これがけっこう難しい。

驚きをもたらしてくれたものには、当然にそれをあらわした当事者の才能が光っている。横須賀のモノクロ写真や陽水の歌においてはあきらかに格別の「個の才能とスキル」が発揮されたのだし、「ゼビウス」や「サラダおかき」には開発チームの「集団的で統合的な才能」が結実したのである。しかし、その秘密に分け入るには、たくさんの分析や推理が必要だ。

たとえば第1に、その才能が開花するにあたっては、少年少女期や青春期に何をめざしていたのかということがある。栴檀は双葉より芳しと言うけれど、小さいころの能力の芽生えがそのまま開花することは少ない。なんらかの深堀りやエクササイズが生きたはずなのだ。横須賀や陽水はそこをどうしたのか、これは覗きにいく必要がある。

第2に、その才能開花に預かったメンターや技の協力者やチームはどういうものだったのかということがある。ゼビウスはどのようにチームを組んだのか。一人で独創をはたしたかに見える棟方志功だって、実はたくさんのメンターがいた。志功はそのメンターに強く影響されたいと思った。指導者や師や影響者の存在は、メンターの資質に選択肢があるというより、むしろその師に掛けたほうの強度がモノを言う。

のちのちそんな話もしたいと思うけれど、ぼくの場合はいったん選んだ影響者のことを、その後もまったく疑うことがなかった。

また第3に、その才能によってどのように同時代の競争を抜きん出たのか、そこにはどんな時代の水準がわだかまっていたのかということも才能分析の対象になる。セザンヌが人気があったときとカンディンスキーが「青騎士」として登場したときとウォーホルがシルクスクリーンで登場したときとでは、時代のアイコンも驚きの関数も違っていた。そのため、その時々の勝負手がちがってくる。こういうときは、自分で才能を懸崖に立たせる必要がある。イチかバチかに向かう必要がある。

横須賀功光《射》

横須賀功光が颯爽と出現したときは、日本の写真界はキラ星がひしめいていた。ファッション写真や広告写真で腕を磨いた横須賀は、ここで全裸の若者をモデルに『射』というモノクローム作品に挑んだ。若者が壁に向かって跳び移ろうとする肉体を、撮ってみせたのだ。ライティングも絶妙だった。誰も見たことがない写真だった。

第4に、才能開花のためのエクササイズやレッスンや機材はどういうものであったかということがある。棟方志功のように「板と刀」だけが武器だということもあるけれど、多くの場合、才能開花にはいくつもの道具や機材が関与する。レンブラントの版画には日本から取り寄せた和紙が、プレスリーのギターにはマイクやアンプの性能が、アンセル・アダムスのf/64のカメラにはレンズやプリントペーパーの質がかかわっていた。

顔料やコンピュータをどう使うか、録音機やプロジェクターをどうするか、釉薬や鉄材は何を入手するか。テクノロジーは才能の信頼すべき友人なのである。このことも才能にまつわっている。

ぼくは執筆には、いまだにシャープの「書院」を使っている。発売されていないだけでなく、いまや修理ができる工房もない。

第5に、なぜその当事者たちは「ゾーン」に入れたのかということだ。才能に自信がもてるには、どこかでゾーン体験がいる。ゾーンに入るとは、予想を超えるノリに入ったことをいう。俗にエンドルフィンやアドレナリンが溢れることだ。

しかしながら、為末大が言っていたけれど、あるときゾーンに入っていけたとしても、その継続は必ずしもおこらないし、その手前でそうなるとはほぼ気が付かないものなので、そこをどうするか。そのため、アスリートの多くはゾーンを思い描いたイメージ・トレーニングをしたり、ルーチンを確実なものにしていくということをする。

けれども意外なことだろうが、スポーツ以外ならいくらだってゾーン体験は引き寄せることが可能なのである。一番有効なのは誰かとコラボすることだ。スポーツは必ずチームや相手がいてスコアを争っているのだが、他の才能開花は一人で自分の才能の発揮に悩む。そういうときは、誰かとともにその才能を試すのがいい。編集能力の発揮なら、学習仲間とともにさまざまなことを試みたり、メディアを変えたりするといい。

たんに感動したといっても、そこにはざっと以上のようなことが準備されていたり、参集していたのである。これらを無視しては才能は発揮できないし、才能を云々することも叶わない。

しかし、ここまでの話は、ぼくがこのコラムであきらかにしたいことの範疇のうちのまだまだ一端にすぎないのである。どちらかというと、ここまでは才能議論の準備やアプローチに必要なことで、実は序の口の話なのだ。クロート向きとは言えない。
 才能に痺れたのちに重視してみたいのは、驚かされた相手の才能は当方(受容者)にどのように伝播されたのか。その後はどうなっていったのか、ここを抉るということだ。

ラグビーの平尾やシンガソングライターの陽水の才能は、ほおっておけばすぐに「スポーツの才能」とか「音楽の才能」というふうに一般化されてしまう。また他のプレイヤーとの比較分布にマッピングされていく。ジャンクフードや料理の個別の感動は、たちまち無数の「おいしさランク」にいいねボタンとして回収されて、平べったくなっていく。

ゼビウスはその後は無数の電子ゲームが乱舞していったので、おそらくいま遊んでみても当初の感動は色褪せているにちがいない。

愛用の”お古” シャープ《書院》

コム・デ・ギャルソンの黒い紐付きの白シャツはいまでも気にいってはいるけれど(イッセイのスタンドカラーの白シャツなどとともに)、それははっきりいって「お古」なのである。

が、大事なのはこの「お古」との付き合いのうちにも、あのときの感動とそれをもたらした才能とを交差させられるかどうかということなのだ。

そもそもプラトンも人麻呂もバッハもゴッホも複式夢幻能も、これらはすべて「お古」なのである。「お古」だからこそ、何度もプラトンを読みなおしたり能楽を見なおしたりするのだが、そしてそれで少しは自分が感動した才能の位置や重みに気がつくこともあるし、少しは「お古」を脱したと感じるのだけれど、これでは甘いままになる。それよりむしろもっと「お古」を相手に才能と向き合うべきなのである。「お古」をバカにしてはいけない。

これは思うに、感動は転移しつつあるあいだも(AからBに、BからCやDに)それなりの主張をしているはずなのだから、その転移のなかでの様変わりな変容も捉えておいたほうがいいだろうということだ。ぼくが何を一番鍛えてきたかといえば、おそらくはこの「お古」をいつも甦らせる状態で自分の編集力をリマインドしたりリコールできるかということだった。

感動や驚嘆には才能の楽譜やレシピが刻まれている。ぼくの編集力はそのことをヴィヴィッドな状態でホールディングしたり別の場所にキャリングする(移行させる)ことを、試行錯誤をくりかえしながらも何度も試みることで、そこそこ鍛えてきたように思う。ただし、そこにはいろいろの秘伝もある。そのあたりのこと、おいおい話してみたい。

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イメージ連想の文化誌

山下主一郎

新曜社 2001

 イシス花伝所は編集師範代になるための士官学校にあたる。昨日、その三期目の入伝式があった(二〇〇五年十一月)。花伝所では入学を入伝、卒業を放伝という。その入伝式である。どのようにイメージを連鎖させながら編集すればいいのか、それをコーチングする師範代になるにはどうしたらいいかということを交わす最初の顔合わせだ。
 入伝式では最後に校長への質問が出る。校長とは不肖ぼくのことだ。本の読み方、学生時代のこと、恋愛観、あまり眠らないこと、句作のことなど、いろいろ質問があったが、なかに「なぜISISってつけたのですか」があった。イシスが「オシリスとイシスの物語」のイシスであることを質問者は知っているようだったが、その名を選んだもっと深い理由が知りたかったらしい。
 ISISは“Interactive System of Inter Scores”の略である。インタラクティブ・システムとインタースコアがつながっている。「相互記譜システム」とか「相互的情報編集記譜システム」などと訳す。インターネット上に「編集の国」というヴァーチャル・カントリーを想定したときに命名した。この「編集の国」の一隅に、二〇〇一年二月、編集学校が小さな産声をあげた。だから相互記譜ということを重視してISISとした。ロゴタイプはぼくが一番信頼しているデザイナーの仲條正義さんに頼んだ。命名にあたっては女神イシスを連想してもらえることを念頭においてイニシャルを組み合わせた。イシスは再生の女神であって、月の舟に乗っている。
 今夜は、アト・ド・フリースの『イメージ・シンボル事典』(大修館書店)の翻訳などで知られる山下主一郎さんがイメージ文化誌にまつわる話題を縦横に綴った一冊を紹介するのだが、以下はイシスの話から好きにイメージを連鎖させていくことにする。ただし、今夜のイメージ連鎖はぼくが枝葉をふやし、地下茎の分岐を伸ばし、ついでにところどころちょっとした翼をつけてみた。

 エジプトの祖神はヌー(ヌート)である。大地をアーチ状に覆うグレートマザーであった。そのヌーが四人の子を産んだ。オシリス、イシス、セト、ネフテュスだ。
 オシリスとイシスは兄妹の関係で、やがて夫婦になった。オシリスが植物神、イシスが地母神。セトとネフテュスも夫婦になった。近親結婚であるが、古代初期にはインセスト・タブーはよく破られた。
 夫のオシリスは植物神であるだけに地上の王となり、牧畜・農耕・技術を統括して、よく国を治めた。とりわけナイルの治水をうまく制御した。古代の王は治水王であることが多いのはエジプトでもインダスでも中国でも同じである。中国では治水王と偏固の王(跛行する王)がしばしば結びついている。
 このオシリスの活躍を軍神のセトが妬んだ。セトは策略を練って、ある祭りの席上に豪華な櫃を持ち出して、ここにぴったり入れる者には櫃を進呈すると言った。次々に櫃に入ることを試みたが誰一人としてうまくいかない。導かれてオシリスが入ってみるとぴったりした。セトはいきなり蓋を閉じると鍵を降ろし、そのままナイル川に投げこんでしまった。

オシリス・ホルス・イシス

オシリス・ホルス・イシス

 植物神オシリスが死んだため、地上は凶作に苦しんだ。それまで碧いナイルと自慢されていた大河もどんより黒ずんだ。妻のイシスは悲しみ、せめてオシリスの遺体だけでも見いだしたいとおもって旅に出た。さんざん尋ね歩いたあげく、櫃が今日のレバノンのビブロスの浜辺に打ち上げられていることを知った。櫃は生い茂ったエリカの木に覆われて腐食を免れていたようだった。ビブロスの王はその木の美しさに魅せられて、実はすでにそれを宮殿の柱にしていた。イシスは事情を話して柱をもらいうけ、櫃の中からオシリスの死体を取り出してエジプトに持ち帰った。
 あらためてオシリスの遺体にとりすがったイシスは、これぞネクロフィリアの原型ともいうべき話だが、やがて意外なことに妊娠をする。子も授けられた。それがのちのちエジプトで万神の神の子とされるホルスである。
 オシリスの死体が戻ってきたことを知ったセトは、ふたたびイシスの目を盗んでオシリスの死体を奪い取る。一年中で夜が一番長い夜半のこと、今度はオシリスの死体を刻み、各地にばらまいて捨てた。それを知ったイシスはまたまた各地を彷徨い歩いて死体の断片を集め、それらを縫い合わせて冥福を祈り、永遠の生を与えられるように儀式を営んだ。おかげでオシリスは冥界の王となって永遠に生きながらえるようになったのだが、ひとつだけ欠陥をもっていた。死体の断片を集めたとき、どうしても男根だけが見つからなかったのである。イシスはやむなく粘土で男根を作ってくっつけた。
 
 これが「オシリスとイシスの物語」のひとつのプロトタイプとなった話だ。そこにあれこれの後日談がついた。
 主流になった話は、オシリスが冥界の王となったため、イシスは極貧に喘ぐことになったというふうに進む。しかたなくイシスは幼いホルスを葦の束に隠して家をあけ、物乞いをする日々が続く。ある日、家に帰ってみるとホルスが半死の状態になっている。セトが毒蛇を遣わして(毒蛇となって)、ホルスを咬んだのだ。イシスは懸命に看病して、ホルスは回復する。
 長じたホルスが父の仇を討つために、セトに復讐することになったというのは当然の成り行きだ。ホルスはセトに挑むのだが、戦闘は苛酷で、ホルスは両眼をセトに抜き取られてしまった。それでも戦闘は続いて決着がつかない。やがて争いは法廷にもちこまれ、セトとホルスのいずれが王位につくかの判決を待つことになった。ところが法廷でも継承権をめぐる問題は当時も複雑だったようで、決着がつかない。そのため決闘が再開されるのだが優劣つけがたく、冥界のオシリスに判定が委ねられ、ホルスが王位を継承した。イシスはその後、「月の舟」に乗りいつも再生を誓う神として君臨した。ところで、ホルスの両眼はその後、書記神であるトートが管理していたという話である。
 
 さて、この物語は歴史的にはどのようにできたのか。何かのルーツや背景があるはずだ。ふつうに考えると、この話にはエジプトの国家統一にからむ出来事が象徴されていることがわかる。ナイル川の上流の上エジプト(セトの国)と下流の下エジプト(オシリスの国)の分断と統合が物語に変じていたわけだ。
 また、オシリスが二度にわたって死体となりながら再生したということには、植物が根から発芽して成長してまた土に還って発芽するというサイクルが象徴されていることも見てとれる。それをイシスが再生の女神として祀ったこともわかりやすい。そのばあいはイシスは植物神だったのだ。
 オシリスが殺されることによって次の王ホルスが王位を継承したことは、ジェームズ・フレイザーの大著『金枝篇』に名高い「王殺し」の一場面にぴったり照合する。王は聖樹(ここではエリカ)のもとで殺されることによって次王への継承権を与えるのである。この手の「王殺し」の話はかなり各地に散らばっている。
 しかし、ここには妙な暗示も埋まっている。ひとつはオシリスの男根がなくなっていること、次にはホルスの両眼がなくなってトートに管理されていたことだ。

 なぜオシリスの男根がなくなったのかということを推理するには、セトがオシリスの死体を切り刻んだのが「一年中で夜が一番長い日」だったことに注目する必要がある。セトは冬至の夜にオシリスを切り刻んだのだ。
 冬至とは太陽の勢力が最も衰える日である。オシリスはおそらく四〇〇〇年前くらいに、ラーに匹敵する太陽王として信仰されていた神だった。太陽の力に関係する王だとすれば、その力が最も衰えるのは冬至である。そのオシリスを冬至の日に切り刻んだということは、王の力が最も弱まったときに「王殺し」をする習俗が上古のエジプトにあったということになる。
 男根の切断あるいは紛失とは、王の象徴が王から離脱したことをあらわしている。男根がなければ世継ぎはそれ以上は生まれない。他の力をもつ血統に属する娘とも交われない。男根の喪失はそうした王権にまつわる出来事の暗示だったのである。これでとりあえずはオシリスの男根の意味の見当がつく。
 では、ホルスの両眼はなぜ失われてトートに預けられていたのだろうか。トートはのちにギリシアのヘルメスと同一視された神で、呪詞と書記とを司っている。知恵がある。ということはホルスの両眼はきわめて神秘的な作業力をもつところで管理されたということで、いいかえれば、その両眼を他の者が傷つけたり奪ったりすることを避けたということなのだ。ということは、ホルスは王位を継承するにあたって、それまでのあいだの苦難を乗り越えられるように、また王位についたときに慧眼をすぐに発揮できるように、あえて両眼の力を温存したのだというふうに解釈できる。
 一説には、両眼は男根の代替物で、実はホルスも男根を奪われて王位継承能力を失いかねないので、これをトートが守ったというふうにもなるのだが、まあ、そのへんはいずれでも読み筋は変わらない。
 
 これでオシリスとイシスの話の謎が解けて、めでたしめでたしかというと、そういうわけにはいかない。イメージ連鎖と触発編集はさらに複合化する。オシリスの神話はその後に盗まれてキリスト教のなかに換骨奪胎されたのである。
 キリスト教に換骨奪胎されたということは、その前にユダヤ教のなかでも蘇っていたということだ。だいたいクリスマスが冬至に近い日であること、つまりその日にイエスが誕生しているというのがあやしいのである。その話を続ける。
 オシリスには実は二〇〇近い名前がある。それだけ名前があるということは、エジプトの神々のほとんどすべてに習合しているといっていい。ということは、どこでも、どの時代でも、さまざまな神がオシリスに肖ったのは想像がつく。オシリス来てほしい、オシリス来てほしいということだ。事実、エジプトを越えて地中海や小アジアでもオシリス信仰は広まった。ということは、危機に再臨してくれる神として、オシリスはつねに待望されたということだ。
 このように危機に再臨する神を待望するという思想は何かに似ている。然り、「メシア」を待望する思想に似ている。まさにそうなのだ。オシリスは姿を変えて救世主メシアとして、ユダヤの民の幻想のなかに継承されていたのである。
 このメシアの思想をそのまま引き取っていったのが、イエスが磔刑に処される以前の原始キリスト教だった。謎のクムラン宗団のことは第一七四夜(エリエット・アベカシス『クムラン』)に書いたのでここでは省くけれど、その周辺には「善の教師」や「救世主」や「再生者」などの、いくつものオシリスのヴァージョンがあらわれている。こうしてイエス・キリストが登場して、すべてはキリスト教のものとして集大成されていく。とくにイエスの誕生日を十二月二五日にしたことが注目されるのである。
 
 十二月二五日のクリスマスにイエスがベツレヘムに生まれたということは、いつ決まったのか。これについては多くの議論があるところだが、四〇七年に死んだことがわかっている聖ヨハネ・クリュソストモスがその説を定着させたということが通説になっている。この聖人はのちのちまで「黄金の口のヨハネ」と尊称されていた。それだけその言葉に信憑性がもたれたのだろう。
 それによると、天使ガブリエルがマリアに受胎告知をしたのが三月二五日で、イエスが誕生したのが十二月二五日とされている。それまで、キリスト教会でイエスの誕生日を特定する議論がひっきりなしにおこっていた。とくに異教の好きな古代ローマ帝国に蔓延しつつあったミトラス教が冬至の日をもってミトラ(ミトラス)の誕生日だとしていることの影響力が大きかった。
 察するに、このミトラの誕生日とオシリスの男根が切られて次のホルスへの継承が刻印された日を重ねることによって、教会の議論はイエス冬至誕生説に傾いていったのだろうかと思われる。そうだとすると遅くとも四世紀くらいには、イエスの誕生日とクリスマスの日が決まっていたということだ。キリスト教会の編集力は侮れない。
 しかし、これでイエスにまつわる編集が終わったわけではない。イエスをイエス・キリストと名付けた謎がのこる。本書の山下主一郎もそこに疑問をもった。
 イエス・キリストは姓名ではない。イエス(Jesus)が名で、キリスト(Christ)が家名なのではない。だいたい古代ユダヤに姓はなかった。イエスはイエスとだけ呼ばれていた青年だった。ちなみにイエスはカトリックの発音では「イエズス」で、正教会では「イイスス」である。「イエス」と呼称してきたのはプロテスタントだけだった。カトリックでは「神父」、プロテスタントでは「牧師」になるのと同様、カトリックとプロテスタントはことごとく何かが異なっているのである。それはともかく、そのイエスがなぜイエス・キリストなのか。
 キリストはギリシア語クリストスの発音に近い。『新約聖書』をギリシア語で書いたとき、ヘブライ語のキリストに当たる言葉を「クリストス」とした。それがキリストになった。しかし、そうだとするともともとのヘブライ語のキリストがどういう言葉で、どういう意味だったかである。
 ヘブライ語ではキリストに当たる言葉は「マーシーァハ」という。これは「油を注がれた者」という意味をもつ。それだけではない。実は「マーシーァハ」は「メシア」のことだった。これで見当がつくように、オシリス=メシア=キリストはキリスト教にとってはほぼ同じ情報なのである。こういうことをするのがキリスト教というものだ。
 しかし、ちょっと疑問ものこる。なぜ「油を注がれた者」のイメージをイエス・キリストは継承したほうがよかったのか。教会ではそんなことはしていない。聖水をつかい、洗礼のために水に浸かることはあっても、油はほとんどつかわない。
 ここで油とは、オリーブの実の油すなわちオリーブ油のことである。すでにバビロニアの昔からオリーブ油は特別の力があると考えられていて、とくに油を体に塗ることは大変な治癒力をもたらすと信じられていた。バビロニアでは医者をアシューとよぶが、これは「油に詳しい者」という意味だった。のみならずバビロニアやアッカドやアッシリアでは、支配者を司る祭司は王位の継承者に油を注いでその就任に意義を添えていた。
 いったい油と王の関係がどのようになっているのか。「創世記」にはヤコブは枕にしていた石を立て油を注いでそこをベテル(神の家)と名付けたとある。「出エジプト記」にはアロンは祭司の職に就くときに油を注がれたとある。「レビ記」では大祭司がしばしば「油を注がれた祭司」であった。つまり、油を注ぐとは「聖別する」ということだったのだ。キリスト教はその「聖別」がほしかったのだ。イエスはこうして油を注がれたキリストとなったのである。
 
 イメージはイコン性やシンボル性やアレゴリー(寓意)を伴うことが多く、そこにさまざまの属性や持ち物や服装をあらわすアトリビュート(attribute)がくっつく。ギリシア神話ではゼウスの山羊、ヘーラーの石榴、アポロンの月桂樹や竪琴が、キリスト教美術ではマリアの百合、ナザレのヨセフの鉋、洗礼者ヨハネの皮衣などがアトリビュートになる。そのアトリビュートもしだいに自立したイメージになっていく。
 イメージというもの、このように分化し、連鎖し、編集されていく。連鎖的編集がおこるのだ。複合的につながる「イメージのネットワーク」を辿りはじめたらキリがないくらいだ。今夜、本書を媒介にイシスから始めたイメージの連鎖も、たちまちイエス・キリストの称号にまで重なってしまった。
 いま好きに進めた連鎖にして、そのネットワークのわずか一本の連鎖に少しだけ翼がついたにすぎない。たとえばこれをイシスの舟に注目すれば、イメージは異なる方向へのびていく。またたとえば古代ローマではイシスは舟の女神として崇拝されてもいたのだが、それは舟をイシスの子宮の象徴と見立てていたからだ。だからイシスの宮殿にはたいてい石で彫られた舟がある。それはまた「月の舟」であって、「再生の舟」なのだ。
 それとそっくりのキリスト教の教会がローマにある。サンタ・マリア・デラ・ナヴィチェラである。「舟の聖母マリア教会」だ。これはあきらかにイシスの宮殿をのちにキリスト教がテイクオーバーしたわけである。乗っとったのだ。
 このようにイメージというもの、必ず歴史をもっているし、どんなイメージにも連想の糊代というものがついていて、それは他のイメージの糊代といくらでもくっつく可能性をもっている。
 ぼくは編集思想の真骨頂はアナロジーにあると確信しているのだが、そもそもイメージの本体もまたアナロジーの連鎖の途中を切断したものなのである。むしろ神名やキャラクターや場面そのものが、すべてひとつながりのイメージの劇場の飛沫だったと見たほうがいい。そして、その多くに「物語の型」と「編集の型」がひそんでいるとみなしたほうがいい。オシリスとイシスの物語はそのようなイメージ編集のアーキタイプだったのである。

附記¶著者の山下主一郎さんは「イメージ連想」そのものを学問の対象とした人である。昭和とともに生まれ育って、東大では英文学を、その後に中央大学で教えるようになってからは、多くのシンボルとアレゴリーの研究に携わった。『イメージの博物誌』『シンボルの誕生』(大修館書店)があるほか、ぼくがしょっちゅう遊ばせてもらっているアト・ド・フリースの『イメージ・シンボル事典』やバーバラ・ウォーカーの『神話・伝承事典』、ルルカーの『エジプト神話シンボル事典』(ともに大修館書店)などの監訳者や訳者を引き受けている。フェミニズムを背景に縦横に神話世界を再解釈してみせたウォーカーの事典はとくにすばらしい。