才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

> アーカイブ

閉じる

つぼみたちの生涯
ふしぎの植物学
雑草のはなし/都会の花と木
植物はすごい

田中修

中公新書 2000・2003・2007・2009・2012

編集:佐々木久夫・酒井孝博 編集協力:高橋亘・菅井啓之・平田礼

ずいぶん前に『植物的生命像』(講談社ブルーバックス)を読んだ。四半世紀ほど前だ。古谷雅樹という植物生理学者が書いた本で、ふーん、なるほど、そうかそうかと思った。「生命の絵を描けと言われると、さあ何を描くといいのだろうか」とか、「植物は囲碁型で、動物は将棋型である」とか、

 ずいぶん前に『植物的生命像』(講談社ブルーバックス)を読んだ。四半世紀ほど前だ。古谷雅樹という植物生理学者が書いた本で、ふーん、なるほど、そうかそうかと思った。
 「生命の絵を描けと言われると、さあ何を描くといいのだろうか」とか、「植物は囲碁型で、動物は将棋型である」とか、「植物はプロペラをもっていて、動物はスクリューをもっている」とか、植物は「ばらつき」「むだ玉」「異端の効用」などを生かしているといった、なかなか示唆に富む話が綴られていた。
 その後、この本を書棚から失していたのだが、同じ著者の『植物は何を見ているか』(岩波ジュニア新書)で、このセンセイが1926年生まれの光形態形成やフィトクロムの本格的な研究者であること、専門書以外はあまり一般書を書くことなくリタイアされていること、それにしてはたいへん広い視野の持ち主だったことを知った。もうちょっとこの線で愉しんでもらえば、寺田寅彦(660夜)だったのにと思われた。
 寺田寅彦はドングリが爆(は)ぜることや葉脈の割れ目パターンにはことのほか関心をもったが、植物派ではない。観察に徹した物理派だ。

 ぼくが植物についての本に惹かれたのは、3人の際立つ先駆者による。ゲーテ(970夜)、メーテルリンク(68夜)、フェヒナーだ。いずれからも植物学というより植物哲学を突き刺された。3人とも『遊学』(中公文庫)に採り上げた。
 ゲーテからは「原植物」という考え方を貰った。ゲーテはフランクフルトでの幼年期に園芸に親しみ、カイコに桑を与えて飼育していたりした。大学時代はライプツィッヒやストラスブールで植物自体のめくるめく形の多様性に関心を寄せ、その後はワイマールに植物園をつくり、さまざまな植物標本も集めた。そのうち「形態の変容」に注目して、植物変態論(Metamorphose der Pflanzen)という独特の見方をする。のちに『植物変態論文集』としてまとめられている。
 葉序を観察研究して、一言でいえば「花は葉の変形したものだろう」という、当時としてはかなり先駆的な仮説を打ち立てたのである(現代の分子生物学がこの仮説を立証している)。ここから今日の形態学(メタモルフォギー)がスタートした。
 ゲーテは植物には「原植物」(Die Urpflanze)ともいうべき原形がひそんでいると考えた。ぼくはこの「植物に蹲(うずくま)っているであろうメタ的なるもの」という卓抜な見方に惹かれた。ゲーテは植物にアーキタイプを仮想してくれたのだ。それはラマルク(548夜)の鉱物界=生物界をまたぐ「形成力」を想わせた。

W. Trollにより描かれたゲーテの「原植物」の例(「Vergleichende Morphologie der Höhere Pflanzen」第一巻,1937)

 モーリス・メーテルリンクの『花の知恵』(工作舎)には泣いた。『蜜蜂の生活』『蟻の生活』『白蟻の生活』三部作(工作舎)もすばらしいが、『花の知恵』は花にひそむ理想力(いや、理念力かな)のようなものを次々に抜き出して、その超然たる可能性を縷々説いて画期的だった。
 植物の特色を「種子、運動性、交配、密腺、適応力」など30ほどの視点に分けて解説し、本の後半ではそこにはゲニウス・ロキとしての地球霊や植物的想像力と植物的意志すらもが秘められていると、あの瑞々しい文体で叙述したのである。おそらくここまで「植物の精神力」に入れ込み、その意義を組み上げた考察は、それまでまったくなかったのではないかと思う。
 メーテルリンクが植物をこのうえなく絶賛するだろうことは、『埋宮』や『温室』を読んだときから想定できたと、ぼくはかつて『遊学』(もとは「遊」9・10号の「存在と精神の系譜」)に書いた。『埋宮』は大正時代にロマンチストの栗原古城が『万有の神秘』として訳したものだ。
 日本語にはゲン(験)、ツキ(憑)、カン(勘)という言葉がある。メーテルリンクはこのゲン・ツキ・カンのような「はたらき」、つまりは理念実装力ともいうべきを霊感要素や霊感物質として華麗に追跡するようなところがある。ぼくはそれを「ファンタシウムの追跡」と呼んで、メーテルリンクを偏愛していた時期があるのだが、そのファンタシウムはチルチルとミチルなら「近所」に見いだしてほしいものだったが、実は植物の「根と葉と花」にこそ充ちていたわけである。

モーリス・メーテルリンク『花の知恵』(工作舎) 冒頭の口絵より
多様なランの花(左)・エニシダ(右)

モーリス・メーテルリンク『花の知恵』(工作舎)より
メーテルリンクが本書の中でハクサンチドリの小嘴体について解説している。

 グスタフ・テオドール・フェヒナー(1801~1887)はハナっからぶっとんでいた。精神と物質を切り離さず、物心両者をつねに表裏一体あるいは不即不離のものと捉え続けて、のちの電気心理学や、感覚物理学あるいは精神物理学の泰斗となった。感覚の閾値をあらわすフェヒナー=ウェーバーの法則を発見して、ヘルムホルツやマッハ(157夜)の実験心理学に先行したのは、フェヒナーからすればほんの小手先の成果だったろう。
 そのフェヒナーが晩年に『ナナあるいは植物の精神生活』を書いたのである。フェヒナーは、光と残像の正体を観察しようとして無謀にも太陽を直視しすぎたため、視力を3年ほど傷めてしまったのだが、やっと回復して包帯を取ったその翌朝、眼前に広がる緑の植物たちの眩しいほどの生命力に感動した。『ナナ』はそのあまりの眩しさの起源を追いたくなって綴ったものだ。ぼくはさっそく「遊」に「フェヒナーは宇宙を織り成す霊的神経系を実感したのだろう」と書いた。
 科学者でありながらフェヒナーには、妖しいことを本気で考えるという性向がある。未見だが、どうやら『月がヨードからできていることの証明』『空間は四次元をもつ』『影は生きている』といった風変わりな著作もあるらしい。『ナナあるいは植物の精神生活』については、いまではピーター・トムブキンズとクリストファー・バードが解説を膨らませた『植物の神秘生活』(工作舎)に詳しい。

『遊』9号、10号(1976、1977年)
2号にわたる「存在と精神の系譜」特集。サブタイトルを「『私』と『世界』を超えようとした者たちの景観」と題し、ピタゴラスからボードレールまで、ジュール・マレイからマンディアルグまで計142人をそれぞれ見開きで紹介。カバーデザインは杉浦康平氏。のちに『遊学』上・下(中公文庫)にまとめられた。

メーテルリンクの見開き(『遊』10号より)
「埋もれた『埋宮』につての紹介」と題し、メーテルリンクの神秘主義に分け入った内容。荒俣宏氏も「メーテルリンクには畏怖すべき宇宙論的著作がある」と証言。

フェヒナーの見開き(『遊』9号より)
フェヒナーも「植物の声を聞きのがさなかったフェヒナー」として紹介されている。

 ひるがえって、ぼくの青少年期の植物の感覚に対する関心は、最初は俳句に詠まれた花や植物の感覚に触発されたことが大きかった。虚子(1597夜)のホトトギス派による花鳥風詠の写生句は、おびただしいボタニカル・ポエムでもあったのである。
 ついではやっぱり牧野富太郎(171夜)の植物図鑑に誘われた。これは長じては龍膽寺雄(178夜)のサボテン探求に迷い込むことになり、そのころは人間めいたサボテンの魔力についつい(さら)攫われる気分になった。ペヨーテ(サボテンの種)から採れるメスカリンに惹かれていたのであろう。アンリ・ミショー(977夜)が溺れたメスカリンだ。
 しかし、ぼくはキノコには嵌まらなかったのだ。まわりにはジョン・ケージや飯沢耕太郎をはじめたくさんのキノコ・フリークがいたにもかかわらず、また南方熊楠にぞっこん憧れていたにもかかわらず、キノコの妖しい魅力にはついに深入りできなかった。とくに理由があったわけではないが、こういうこと、あとからふりかえるとなんとも説明がしがたいことだ。

 植物文化史を教えてくれたのは中尾佐助だった。かの照葉樹林文化論はぼくの「日本という方法」をめぐる思索の大前提になったし、『花と木の文化史』(岩波新書)や『栽培植物と農耕の起源』(岩波新書)は、いまでは別の仮説も出ているが、文明と植物をつなげる大きな橋梁だった。表題ほどの中身にはなっていなかったのだが、山下正男の『植物と哲学』(中公新書)は文明文化と植物観のいくつもの結節点をランダムに喚起させてくれた。
 こうしたボタニカルな読書遍歴のなかで、30代後半に入ったころのぼくをとびきり狂喜させたのは、電子工学者フェリックス・パトゥリの『驚異のデザイナー』(白揚社)だった。原題は“Geniale Ingenieure Der Nature”(1974)だ。この本は「植物の織りなす不思議な世界」というサブタイトルになっていて、水力学、応用熱力学、電子光学、幾何学、材料工学などから植物の構造性や形態性やデザイン性をみごとに解いたもので、いまだにこの本を上回るものには出会えていないというほどの傑作だった。
 パトゥリの「外からの機能解析」に対して、「内からの形態形成の説明」を案内してくれたのが、植物発生遺伝学の塚谷裕一による『植物の〈見かけ〉はどう決まる』(中公新書)などだった。ここからはのちにバイオテクノロジーが躍り出た。

『原色牧野植物大図鑑』(北隆館)より

フェリックス・パトゥリ『驚異のデザイナー』(白揚社)より
左:ベルクロのファスナー(上)とゴボウの実(下)を同じ倍率で拡大した写真。かぎ針状のよく似た構造を比較している。
右:タンポポの綿帽子の拡大写真。パラシュート構造の種は吹いてくる最初の風で旅立つのではなく、よい風を待つようにできている。

 いま巷間には、植物に関する本がそうとう出回っている。園芸用やハンドブック的なものはゴマンとあるし、『動物と植物はどこがちがうか』(高橋英一)、『ヒマワリはなぜ東を向くのか』(瀧本敦)、『誰がために花は咲く』(大場秀章)、『花はなぜ香るのか』(渡辺修治)、『キャベツにだって花が咲く』(稲垣栄洋)、『モヤシはどこまで育つのか』(増田芳雄)といった、読者の興味を引きそうなタイトルの謎解き本もいろいろあって、園芸派の目を呼びこんでいる。
 近ごろはベレ出版ががんばって、嶋田幸久・萱原正嗣の『植物の体の中では何が起こっているのか』や園池公毅の『植物の形には意味がある』を刊行した。ある程度の専門的な知識をつかって植物の正体を一般読者に伝える可能性が、だんだん広まってきたようなのである。古谷さんの『植物的生命像』を継承するものだろう。おおいに結構なことだ。

(左)嶋田 幸久・萱原 正嗣 『植物の体の中では何が起こっているのか』
(右)園池 公毅『植物の形には意味がある』(ともにベレ出版)

 植物の謎をめぐる本がふえてきたのは、ダニエル・チャモヴィツの『植物はそこまで知っている』(河出書房新社)が代表的に提示したように、「植物は見ている」「植物は触っている」「植物は聞いている」「植物は位置を感じている」「植物は知っている」「植物は憶えている」といった、植物には動物とは別の、ときに動物に匹敵するかそれを上回る“五感”や“知性”があることを訴えたくなってきた趨勢をあらわしているのだろうと思う。
 動物観察についてはエソロジー(動物行動学)というものが、ティンバーゲンやローレンツ(172夜)らによって隆盛を見せたのだが、最近はこれに匹肩しうる“植物行動学”がセリ出してきたのである。
 やっとメーテルリンクに追いついてきたわけだ。
 ただし神秘的な植物力が話題になっているのではなく、ちゃんと植物生理学的に証拠のある植物力が多様多彩に注目されるようになってきた。ようするに最近は、環境問題や異常気象や地球温暖化問題などが重視されるにつれ、植物こそがかなり知的であることが訴えられている時期だということなのである。

(左)ダニエル・チャモヴィッツ『植物はそこまで知っている』(河出書房新社)
(右)ステファノ・マンクーゾ、アレッサンドラ・ヴィオラ、マイケル・ポーラン『植物はをもっている』(NHK出版)

 まあ、そういう弁護団をどんどん形成したくなるほどに、これまで植物はながきにわたって過小評価されていたともいえる。
 その植物力を最もわかりやすくしてみせたのが、イタリアの植物性理学者ステファヌ・マンクーゾの本格的な研究成果をアレッサンドラ・ヴィオラがやさしくまとめた『植物は〈知性〉をもっている』(NHK出版)であろう。この本には、いとうせいこう君が寄せた「私は彼らにユーモアさえ感じる」という帯が付いている。
 以上のような本の何冊かについては、いずれも千夜千冊したい気分にもなっているが、今夜はそうではなく、田中修の数冊を摘まんでもらうことにした。一人の著者の本を数冊表記するのは酒井順子(1583夜)の『ユーミンの罪』と『オリーブの罠』を並べて掲げてから2度目のことで、5冊掲示は初めてだ。すべて中公新書のものにした。
 田中修さんは京大農学部出身の植物生理学者で、甲南大学の理工学部で植物学のいっさいを教えてきたようで、ぼくが大好きなスミソニアンの研究所にもいたらしく、その発想はかなり柔らかい。

 それでは以下、あっさりした紹介にとどめるが、『つぼみたちの生涯』(2000)はサブタイトルが「花とキノコの不思議なしくみ」というもので、5冊の本のなかでは最も解明力が高い。主眼は、なぜ蕾(つぼみ)はあたかも時の移りを知っているかのように開くのかということで、はたして蕾は季節の動きや太陽の照度のどこまでを知っているのかという話になる。
 たとえばアサガオは朝を感じて蕾を開くけれど、よくよく実験をしてみると、朝の到来を知って開いているのではないことがわかった。意外なことにアサガオは昼の長さや朝の時間に応じているのではなく、「夜の闇の長さ」によって蕾を緩ませていたのである。植物学ではこれを「限界暗期」という。
 この限界暗期が植物によって異なっていて、それが蕾の成長にも関与する。アサガオやオオナミは約9時間の限界暗期の暗がりが1回あれば蕾が形成されるのだが、ナズナでは4回、ナデシコでは6回、シソは8回以上を体験しなければ蕾は開花の準備に入らない。いずれも電照実験であきらかになったことだ。

 蕾がつくられるしくみも説明される。植物は成長点をもっていて、かぎりなく芽をつくり葉をつくるという能力をもっている。しかしアサガオの芽の先端が蕾になると、背丈が低くたって花が咲く。その芽からツルが伸びたり葉が出ることはない。蕾は別のしくみから生まれるのではなく、成長点自身が蕾になっていたのである。
 それなら、なぜ特定の、あるいは任意の成長点が蕾になることを決断するのか。そこには「おまえが花になれよ」という何かの合図が葉から芽に伝わっているはずだ。1937年、ソ連のチャイラヒアンはそこには花成ホルモンともいうべき「フロリゲン」なるものが作用しているのだろうと仮説した。花咲か爺さんならぬ花咲かホルモンを予想したのである。
 フロリゲンの候補はその後、次々に上がってきた。たとえばジベレリンである。ジベレリンは「種なしブドウ」をつくるホルモンで、同じくナデシコ、ハツカダイコン、ホウレンソウ、レタス、ペチュニアの蕾も促成させている。ニンジン、キャベツ、セロリなどの長日植物は蕾をつくる前に低温状態をある期間受ける必要があるのだが、ジベレリンを与えると蕾ができる。
 パイナップルではエチレンが蕾を形成させ、オーキシンはナスの蕾を急がせる。
 かくしてフロリゲンの候補はいろいろ出てきたのだが、どこでこの花成ホルモンが蓄えられたり、何をスイッチにして動いているのかは、いまだにわかっていない。だからいまでも幻のフロリゲンの追跡が続いている。
 そのほか、本書は蕾をめぐってあらかたの説明をしてくれている。植物好きにはいろいろ傾向(クセ)があるのでいちがいには言えないのだが、本書がもたらす知識は植物にとりくむ者にとってはたいへん有効な入口になるだろう。

 次の『ふしぎの植物学』(2003)はタイトルも妙にやさしく、サブタイトルも「身近な緑の知恵と仕事」などと銘打たれているが、そのわりには植物生理学やバイオテクノロジーが投げかけている問題をちょっと本気で扱った。
 植物は光と水と二酸化炭素から光合成によってブドウ糖やデンプンをつくる。動物も人もこの植物や果実をむしゃむしゃと食べ、その動物をまた人が加工してもりもり食べて文明をつくってきた。シアノバクテリア以来の酸素圏を用意されて酸素にありつき、植物の溢水(いっすい)や蒸散による水分で、われわれはヒートアイランドに住まなくともよくなった。われわれは植物に全面的に依存して文明をつくってきたのだった。
 それなのに文明は、はある時期から遺伝子組み替えの技能に習熟し、タネの遺伝子を組み替えてまで万能トウモロコシ「スターリンク」とその除草剤をつくり、そのトウモロコシを粉末にして牛や豚を育てるようにした。一代雑種(F1)をはびこらせたのだ。本書はそのあたりにもチクリと注射の針を刺している。すでに野口勲の『タネが危ない』(1608夜)、マイケル・ポーランの『欲望の食物誌』(1609夜)、ラジ・バテルの『肥満と飢餓』(1610夜)などでも紹介しておいたことである。

映画『モンサントの不自然な食べもの』(動画)
モンサント社はみずからを「生命科学企業」と位置づけ、命の糧である食料の世界支配を目指し、遺伝子組換えの種を商品として独占した。

映画『世界が食べられなくなる日』(動画)
“タネ”は命の源で、可能性そのもの。“タネ”を受け継ぎ、汚染のない世界を残すために必要なものは、新しい技術か、それとも古来受け継がれる知識なのか。

 『雑草のはなし』(2007)と『都会の花と木』(2009)は、都会人がふだん目にする草花を扱っている。この手のガイドブックは世の中にいくらでも出回っているのでめずらしくはないが、田中修さんはそうした通りいっぺんの案内をしたのではなかった。千夜千冊で『シダの扉』(1476夜)を採り上げた盛口満さんの『雑草が面白い』(新樹社)ほどスリリングではないものの、そうした雑草や草花がわれわれに「順調な自然」をもたらしていると思わないほうがいいと諭すのだ。
 たとえば、セイヨウタンポポが急激にふえて、在来種のタンポポが山際や畑の畦に追いやられていった。日本中でおこったことだ。レンゲソウを田植え前の田圃で育てておけば、レンゲの根にくっついていた根粒菌が豊富な窒素を田圃にもたらすので好都合だったのに、化学肥料と田植え機械が導入されてレンゲを田園から追いやった。
 こういうことはいくらでもおこってきたことだった。植物たちもたえず生存競争をして、自分たちで「自然の形」を変えてきたわけで、今日の日本列島に「日本ゆかりの草木」が残っているとはかぎらないのである。

 キャベツのタネは1粒5ミリグラムで、このタネが栽培されると1玉のキャベツは1200グラムほどになる。約4カ月ほどで24万倍になるわけだ。レタスのタネは1粒1ミリグラムぽっちだが、育った市販レタスは500グラムに膨らみ、10ミリグラムのダイコンは1粒10ミリグラムのタネが1キロにまで成長する。
 なぜこんな大変化がおこるのか。『植物はすごい』(2012)はそんな話から始まる。

 植物はタネをお化けのように膨らませてきただけではない。その膨らんだ実の中のタネたちをできるかぎり多様な土にばらまきたい。それには風や昆虫や鳥や動物たちがタネを飛ばしたり食べたりして遠くに運んでもらうといいのだが、そのためにはどうするか。植物は驚くべき工夫を凝らしてきた。
 たとえばナスやトマトやピーマンなどの野菜は、同じ場所で栽培される成長が悪くなるようにした。「連作障害」という工夫だが、これは「われわれはここでは殖えない」というメッセージの発信なのである。このため農家は、ナスやトマトを移しながら植えている。
 またたとえば、カキ(柿)の木には1本で1000個くらいのタネができるのだが、これを鳥や獣が若い実のうちから食べては困るし、茎や枝ごと食べられても困る。鳥や獣に「体のおいしいところ」を捧げつつも、肝心の根幹は守る必要がある。植物には「体は売っても心は売らない」という自負と気概と芸当が用意されるのである。
 防衛しつつ提供する。この戦略は動物の食物連鎖とも子孫繁栄作戦とも異なっている。もっと高級だ。バラ、オジギソウ、アロエ、ビラカンサ、ヒイラギ、イラクサなどが刺をもっているのも、「防衛かつ提供」のぎりぎりのシナリオをつくってきたのだと説明できる。
 その刺もバラやサンショウのように表皮を変形させたり、ボケのように茎や枝を変形させたものもある。アロエは刺もあるが、齧ればネバネバの液体で鳥や動物をがっかりさせる。イラクサは蕁麻疹(じんましん)の語源となった蕁麻という毒さえ放つ。

 植物が磨き上げた「防衛しつつ提供する」という驚くべき両義的戦略は、さまざまな作用にあらわれる。実は「味」もその戦略にもとづいたものなのである。
 味には「甘い」「苦い」「酸っぱい」「辛い」「渋い」といったヴァージョンがあると思われているが、植物と動物のあいだではもっと多様で特有の「味」が鍵と鍵穴を準備してきただろうと推測される。クリやカキはタンニンの、タデはタデオナールの、ワサビはシニグリンとミロシナーゼの「味」がする。ワサビにあっては種類によって、この二つを混ぜたアリルイソチオシアネートの味を発揮するものもある。
 ヨーロッパの肉文明を狂わせた香辛料が地球を席巻したことはよく知られているが、そんな「香辛感覚」は人間文明だけが好んだのである。われわれはコショウのピヘリン、ショウガのジンゲロール、サンショウのサンショウオール、トウガラシのカプサイシンに参ったのだ。

 ぼくはこれまで2度、食べ物に当たった。1度目はパリから帰って東京のそのへんの珈琲屋でコーヒーを飲んだところ、急激に胃がちりちりと痛くなり、それが別の日のコーヒーでも続けておこったので、以降10年ほどコーヒーを飲まなくなった(日本茶・紅茶時代をおくった)。パリのカフェで濃いコーヒーをがぶ飲みしていたので、その反動がきたのでしょうと言われた。
 2度目は箱根で自然薯(じねんじょ)入りのとろろ蕎麦を食べたとき、胃が七転八倒した。それから半年ほどたって京都の美山荘に桐島洋子さんを案内したとき、とろろ入りの練り物を食べたのだが、これも僅か5分ほどで異様な発汗がおこり、その場を壊さないようにするのがやっとだった。以来、大好きなとろろ蕎麦を食べられなくなったのだ。
 ヤマイモにはムチンというネバネバ物質が含まれている。ムチンはオクラ、モロヘイヤ、アシタバにも入っていて、一方では胃の粘膜を守るとともに、他方ではアレルギーを引き起こす。レンコンを切ったときに糸を引くのもムチンのせいである。
 果実や樹木にはしばしば乳液状の液物が含まれている。イチジクの実にはフィシンがあってタンパク質を分解し、パイナップルの果汁はプロメラインをもたらし、キウイにはアクチニジンが、メロンにはククミシンが含まれる。これらは果実が熟れすぎると妖しい「味」と「粘っこさ」を発揮する。しかし、これこそは「若すぎもせず熟れすぎもしない頃合いに私の実をつつきなさい」という、植物が鳥や獣に対して発しているエロチックなメッセージなのである。
 こうしたメッセージはフィトンチットなどの化学物質の放散にもあらわれる。日本人はなかでもヒノキのフィトンチットにしてやられた。

 『植物はすごい』にはまだまだたくさんの事例が紹介されているが、このくらいにしておく。田中修さんの本は科学的な説明力と植物のおもしろさと、それに植物に対する敬意が、ほどよく案配されていて好ましい。
 もっと実用的な本なら、たとえば橋本郁三の『食べられる野生植物大事典』(柏書房)とか、森昭彦の『うまい雑草、ヤバイ野草』(ソフトバンク・クリエイティブ)とかなどのほうが役に立つだろうが、それはそれ、われわれはときに植物のアフォーダンスと亙りあうことが重要なのである。また植物のエピジェネティクスと交わることが重要なのだ。
 世の中には「本末転倒」という言葉がある。また「根も葉もない話」などとも言う。何かが決定的にまちがったということを暗示する。あまり本末転倒に陥らず、根も葉も繁る話をしたいなら、できれば、年に数回は「山川草木悉皆浄土」をゆっくり実感すべきなのである。

⊕ 『つぼみたちの生涯―花とキノコの不思議なしくみ』⊕

 ∈ 著者:田中 修
 ∈ 発行所:中央公論新社
 ∈ 発行者:中村 仁
 ∈ 本文印刷:図書印刷
 ∈ カバー印刷:大熊整美堂
 ∈ 製本:小泉製本
 ∈ 扉絵:丹治清子 
 ⊂ 2000年 9月 15日 第一刷発行

⊕ 目次情報 ⊕

 ∈∈∈ はじめに
 ∈ 1 つぼみの誕生
 ∈ 2 つぼみを生むしくみ
 ∈ 3 つぼみの成長
 ∈ 4 開花
 ∈ 5 開花のしくみと花の寿命
 ∈ 6 キノコのつぼみ
 ∈∈∈ おわりに
 ∈∈∈ 参考文献

⊕ 『ふしぎの植物学―身近な緑の知恵と仕事』⊕

 ∈ 著者:田中 修
 ∈ 発行所:中央公論新社
 ∈ 発行者:小松敬和
 ∈ 本文印刷:図書印刷
 ∈ カバー印刷:大熊整美堂
 ∈ 製本:小泉製本
 ∈ 挿画:星野良子
 ⊂ 2003年 7月 25日 第一刷発行

⊕ 目次情報 ⊕

 ∈∈∈ はじめに
 ∈ 第1章 何を食べているのか
 ∈ 第2章 ストレスと闘う
 ∈ 第3章 からだを守る
 ∈ 第4章 季節を先取りする
 ∈ 第5章 生殖に工夫を凝らす
 ∈∈∈ 参考文献

⊕ 『雑草のはなし―見つけ方、たのしみ方』 ⊕

 ∈ 著者:田中 修
 ∈ 発行所:中央公論新社
 ∈ 発行者:大橋 善光
 ∈ 本文印刷:三晃印刷
 ∈ カバー印刷:大熊整美堂
 ∈ 製本:小泉製本
 ⊂ 2007年 3月 25日 第一刷発行

⊕ 目次情報 ⊕

 ∈∈∈ はじめに
 ∈ 第1章 春を彩る雑草たち
 ∈ 第2章 初夏に映える緑の葉っぱ
 ∈ 第3章 夏を賑わす雑草たち
 ∈ 第4章 秋を魅せる花々と葉っぱ
 ∈ 第5章 秋の実りと冬の寒さの中で
 ∈∈∈ 参考文献
 ∈∈∈ 写真撮影者・提供者一覧
 ∈∈∈ 索引

⊕ 『都会の花と木―四季を彩る植物のはなし』 ⊕

 ∈ 著者:田中 修
 ∈ 発行所:中央公論新社
 ∈ 発行者:浅海 保
 ∈ 本文印刷:三晃印刷
 ∈ カバー印刷:大熊整美堂
 ∈ 製本:小泉製本
 ⊂ 2009年 2月 25日 第一刷発行

⊕ 目次情報 ⊕

 ∈∈∈ はじめに
 ∈ 第1章 新春の訪れを告げる花と木
 ∈ 第2章 春を彩る草花たち
 ∈ 第3章 春を彩る木々の花たち
 ∈ 第4章 夏を魅せる草花の花たち
 ∈ 第5章 夏を魅せる木々の花たち
 ∈ 第6章 秋を魅せる花と木
 ∈ 第7章 冬を象徴する花と木
 ∈∈∈ 参考文献
 ∈∈∈ 写真撮影者・提供者一覧
 ∈∈∈ 索引

⊕ 『植物はすごい – 生き残りをかけたしくみと工夫』 ⊕

 ∈ 著者:田中 修
 ∈ 発行所:中央公論新社
 ∈ 発行者:小林敬和
 ∈ 本文印刷:三晃印刷
 ∈ カバー印刷:大熊整美堂
 ∈ 製本:小泉製本
 ⊂ 2012年 7月 25日 第一刷発行

⊕ 目次情報 ⊕

 ∈∈∈ はじめに
 ∈ 第1章 自分のからだは、自分で守る
 ∈ 第2章 味は、防衛手段!
 ∈ 第3章 病気になりたくない!
 ∈ 第4章 食べつくされたくない!
 ∈ 第5章 やさしくない太陽に抗して、生きる
 ∈ 第6章 逆境に生きるしくみ
 ∈ 第7章 次の世代へ命をつなぐしくみ
 ∈∈∈ おわりに
 ∈∈∈ 参考文献

⊕ 著者略歴 ⊕

野中 昌法(のなか まさのり)
1947年(昭和22年)京都に生まれる。76年、京都大学農学部卒業、同大学大学院博士課程修了。スミソニアン研究所(アメリカ)博士研究員などを経て、甲南大学理学部教授。農学博士。専攻・植物生理学