父の先見
欲望の植物誌
人をあやつる4つの植物
八坂書房 2003・2012(新装版)
Michael Pollan
The Botany of Desire 2001
[訳]西田佐知子
編集:八尾睦巳
この本には4つの植物が登場する。リンゴ、チューリップ、マリファナ、ジャガイモだ。作物といってもいいけれど、植物学的には栽培種というものだ。
これらは、わがホモサピエンスの慎重な歴史よりもずっと以前から地球という庭のどこかで光合成によって勝手気儘に野生してきたものたちであるが、いつしかわれわれの社会と文化と生活の歴史とともに変質するようになった。21世紀の今日、この4つの作物はかつての姿をしているとはかぎらない。変質が過ぎたのだ。何がおこったのか。人間は何をおこしてきたのか。
リンゴは知恵の実だったはずだが、いつしか「甘さ」が求められた。チューリップはその「美しさ」ゆえにオランダで投機の対象となった。マリファナは麻の一種でありながら、そのトリップが強調されてすっかり「快楽」の対象になった。ジャガイモにいたってはBtトウモロコシとともに、アメリカの遺伝子組み換えを代表する「特許管理植物」になった。
なぜこうなったのか。マイケル・ポーランはこの変化を、4つの作物が人間の4つの欲望にコントロールされるようになったと見た。「甘さがほしい」「もっと美しく」「快楽に浸りたい」「いつでも大量に」の4つだ。だから『欲望の植物誌』という、ややあからさまなタイトルがついた。
とはいえこの本は、植物や作物に人間社会の欲望が次々に投下されていったことや、GMO(遺伝子組み換え作物)をやみくもに告発するといった本ではない。そうではなくて、われわれという存在が「下水や屋根やネクタイやメガネや電話や自動車やコンピュータ」とカップリングされて、もはやそれらを切り離せなくなった体になってしまったように、そうした作物と人間とが「新たな共進化のフェーズ」に入っていることを、たいへんしなやかな見方と丹念な筆力で叙述した。
マイケル・ポーランには、これまでいろいろ感じさせられてきた。最初に読んだ『雑食動物のジレンマ』上下巻(2006 東洋経済新報社)では人間を植物的文明観から読み直すという着眼点に刺激され、その後にPBSの番組でのコメントやTEDでの発言ではジャーナリストとしての執拗な探求力にちょっと驚かされた。
その栽培者や料理者としての生き方は、本書(2001)や『ガーデニングに心満つる日』上下巻(1991 主婦の友社)や『人間は料理をする』(2013 NTT出版)に詳しいが、読んでいるうちに、母があれほどの愛園家であったのにぼくが園芸を一顧だにしてこなかったことが、しばしば悔やまれることになった。
ぼくは庭は好きだが、園芸趣味はない。だから荒れた庭にだって興趣が慕る。泰山木にもダリヤにも、清流のワサビや土を破るキノコにも、あるいは苔やシダにも心が奪われることがあるけれど、それらを育てたいとは思ってこなかった。
ポーランはそうではない。園芸が大好きで、植物たちととことん付き合い、収穫物をちゃんと料理もする。ふつうなら、そういう御仁の生き方がぼくを悔やませることなどないはずなのだが、それがそうでもなかったのだ。
この本はそのポーランが植物についての多感な思想を、さしずめ植物的文明観ともいうべきものを、初めて本気で綴った一冊だ。執筆の動機は正鵠を射ていた。
文化(カルチャー)は農作(アグリカルチャー)から派生したのだから、その栽培植物の変節をあれこれ追ってみることは、農耕資本主義のカセギには無縁の栽培者(=文化者)である自分のツトメであろうと、そう判断して綴ったのである。
けれども百科事典ふうにはしたくない。また、自分がかかわった作物だけを話題にしてみたい(ここが憎い)。
そこで果物からはリンゴを、花としてチューリップを、薬草からはマリファナを、基本食品からはジャガイモを選び、それらに社会が「甘さ」「美しさ」「快楽」「農業管理」という欲望を託した仕業をめぐって、まことに自在に綴ってみせた。
ぼくが脱帽せざるをえないのは、この4つの文明的作物をポーランは自分の庭でなんとか育てようとしたということだ。なにしろこの男、町のスーパーマーケットのすべての品物を博物学者の目で観察できる男なのである。
◆
【リンゴな男】
ヘンリー・デイヴィッド・ソローは「リンゴがどれほど緊密に人間の物語に組み込まれてきたか、驚くほどだ」と書いた。もっとも当時のリンゴは「やたらに酸っぱくて」「リスの歯は浮き、カケスは悲鳴をあげる」とも付け加えた。
当時というのは、ソローが森の丸太小屋に住み、自給自足を試みて、その体験を『ウォールデン 森の生活』(岩波文庫・講談社学術文庫・小学館)にまとめた頃の1850年代前半のアーリーアメリカンな佳日のことだ。
ラルフ・ウォルド・エマーソンはソローに影響をもたらした無教会派のトランセンデンタル主義(超絶主義)だが、リンゴこそは「アメリカの果実」だと書いた。リンゴが「アメリカの果実」であるのは、理由がはっきりしている。ジョニー・アップルシード(Johnny Appleseed リンゴのタネ)こと、ジョン・チャップマンのせいである。
【チャップマン・バッグ】
チャップマンは西部開拓期のアメリカでコーヒー豆用の麻袋をだぶだぶのコートにして、壊れた鉄鍋を帽子にしてかぶり、スウェーデンボルクの本を携えて、裸足で町を歩きまわっていたという伝説的な人物だ。
その伝説に肖(あやか)って作られた「ジョン・チャップマンのバッグ」は(ぼくの好みではないけれど)いまでも世界中で売られている(ぼくはボストンバッグさえ嫌いなのだ)。
チャップマンがジョニー・アップルシードという端的な異名をもつのは、単身で西部開拓をしながらリンゴの種を撒いていったからだった。生まれ故郷のペンシルヴァニアのミンスターでせっせとタネを集め、これを毎年、麻のだぶだぶコートで西部に入っては撒いていったのだ。
1806年生まれであること、オハイオ州の各地に転々と伝承がのこっていること、そしてロバート・プライスによる伝記もあるにはあるのだが、しかしこの奇妙な人物の詳しいことはほとんどわかっていなかった。
ポーランはそこに目を付けた。ジョニー・アップルシードの足跡を追ったのだ。なぜ、そんなことをしたのか。リンゴの種を撒いてもリンゴは育たないはずなのに、なぜアップルシードのタネ伝説がアメリカに残ったのかを調べたかったからだ。
【接ぎ木する】
リンゴはタネからでは「もの」にはならない。育たないのではない。タネから育ったリンゴは両親とは似ても似つかぬ野生の木になっていく。食用のリンゴを育てたいなら、必ず「接ぎ木」をしなければならない。
リンゴを真っ二つに切ると、きれいに星形に並んだ5つの小部屋があらわれる。どの小部屋にも1個の(まれに2個の)タネが入っている。このタネには少量だがシアン化物が含まれて、動物どもにタネを食べられないようにしている。これがリンゴの野性味をつくり、生物学用語ではヘテロ接合性という変異に強い特性を発揮させてきた。
接ぎ木は挿し木ではない。2固以上の植物を人為的な切断面で接着していく方法だ。枝がよく使われるが、目的とする植物の枝から根を生やさせるのではなく、別の植物の根の上に目的の植物の枝をつなぐ。この方法にリンゴのヘテロ接合性が対応する。リンゴは異種格闘技が好きなのだ。
【プロテスタントのリンゴ】
野生リンゴのルーツはカザフスタンの南部である。接ぎ木を発明したのは中国人で、これが「林檎」と綴られた。プリニウスの博物誌には古代ローマに23種のリンゴがあったと述べられているが、むろん野生リンゴだ。それなりに珍重されたのではないかと想像される。
この珍重リンゴのうちの何かのタネ(接ぎ木後のタネ)がイギリスに渡って、たとえば「レディアップル」などとなり、それがピルグリム・ファーザーズかその末裔とともにアメリカに持ち込まれた。だいたいそういう順番になる。
けれどもそのアメリカン・ドメスティックとなったリンゴは、ジョニー・アップルシードのようにタネを撒いているだけでは、甘いリンゴにならなかったはずである。ポーランはチャップマンが甘いリンゴを食べるのではなく、甘いリンゴ酒にしてこれを広めるために植えていたのではないかと推理した。
チャップマンのリンゴは、ワインに対抗するハードサイダーのためだったのではないかというのだ。ブドウに対するにリンゴ、というわけだ。なるほど、そうだとすれば、「カトリックが作ったブドウ酒」に対して、チャップマンは「プロテスタントのリンゴ酒」を広めたかったということになる。それならジョニー・アップルシードが敬虔なスウェーデンボルクに従っていたという伝説の背景も読めてくる。
【医者いらず】
今日のリンゴはやたらに甘い。古代ローマでも中世中国でも、こんなに甘いリンゴを食べてはいない。いつからこんなに甘くなったのか。
20世紀に入っても、すぐには甘くならなかったことがわかっている。むしろ「毎日1個のリンゴで医者いらず」というような医事的なキャッチフレーズが、長らく家庭のリンゴ幻想を守ってきた。リンゴは長いあいだにわたって健康果実と受け取られていたのである。
では、いつ甘くなったのか。甘くしたのか。それがはっきりしない。スウィートアップルへの転換点がわからない。ゴールデンデリシャスの「元」は1950年代に育ったであろうウェストヴァージニアのクレイの丘の一本の木以前にはさかのぼれないし、レッドデリシャスの「元」もアイオワのジェズ・ハイアット牧場の大理石の記念碑が「ここにあった」と示しているだけなのだ。そのまた「元」にあたるであろうクローン・リンゴの木もあったろうが、1914年にポール・ストーンが500ドルで買ったという記事があるだけだ。
ともかくもアメリカ人は戦後社会でリンゴを甘くしてしまったのである。モノカルチャー・アップルがこうして誕生していった。「ふじ」(世界で一番多く生産されている)も「ガラ」もこの甘い遺伝子にもとづいている。
【花と女生徒】
ぼくはチューリップにまったく気が向かない。あの色も形も花屋の店先での扱いも、いかにもアイ・キャンディ(eye candy)だ。お子ちゃま向けの人形を大人がいまだに愛玩しているようで、どうもいただけない。これはぼくが気づいたことなのだが、とくにサムライにはチューリップが似合わない(ということは日本的精神にはということだろう)。
だが、ポーランは最初に植えた花がチューリップだという。両親が25個とか50個の球根を買ってきて、バキサンドラのあいだに植えていくのを手伝っているうちに、好きになったらしい。
どんな花を誰が好きになるかというのは千差万別だ。こっそり何かの花を好きになったからといって、文句を言われる筋合いはない。ぼくは高校時代の女生徒Aが「私ね、花水木が好きなの。花水木のこと、知ってる?」と、女生徒Bか「ガーベラの深紅ってたまらないでしょ」と言ったとき、さあどっちの肩をもったらいいのか戸惑ったことを思い出す。「松岡さんは?」と言われて、「ダリヤか曼珠沙華かな」と言ったときは彼女らも困ったことだろう。
【花は比喩である】
花を愛でるのは習慣かもしれないし、生活文化なのかもしれない。『文明と未開』(岩波書店)のジャック・グディによれば、花を愛でる文化は古今東西どこにも生じたが、ただしなぜかアフリカだけには育まれなかったと書いている。アフリカ人は花を栽培することがめったにないらしい。貧しかったこと、そもそもアフリカの大地に花が乏しかったことが理由なのだろう。
ということは、花は「文明の比喩」なのである。ユリは貴婦人、バラは情熱、アネモネは希望、コスモスは調和、フリージアは純潔、ポインセチアは高揚、アイリスは恋、ランは娼婦、ラベンダーは誘惑、シクラメンは嫉妬、そしてガーベラは神秘で、その花粉をはこぶハチたちは「空飛ぶペニス」なのである。
これほどまでに人間の感情や美意識を花が代行できるとは、花のほうでも思ってもいなかったことだろう。とはいえこのことは、ダーウィンが「性選択」を思想したときから自然科学的な根拠さえもっていた比喩だった。ちなみにダリヤの花言葉は「エキサイティング」であるらしい。ま、いいか。
【トルコのチューリップ】
チューリップをヨーロッパに最初に紹介したのは、イスタンブールのスレイマン大帝のもとに派遣されていたハプスブルク家の大使だった。チューリップの球根はトルコからヨーロッパに入ったのだ。そもそもチューリップという名が「ターバン」を意味するトルコ語が訛ったものだった。
オスマントルコではチューリップが変種を作りやすいことが知られていた。トルコのミニアチュール(細密画)を見ていると、やたらに先っぽが尖った花びらの赤いチューリップが好まれていたことが見てとれる。とりわけアフメト3世がスルタンだった時代(1703~1730)は「ラーレ・デヴリ」(チューリップ時代)と呼ばれるほど、チューリップが娟(けん)を競っていた。
このチューリップの球根がオランダを大いに狂わせたのである。1634年からの3年間というもの、オランダはチューリップに投資することが狂気のように大流行し、あっというまにチューリップ・バブルに陥った。おそらくはカルロス・クルシウスによるものだ。
【投機とバブル】
クルシウスは植物学者だった。アイリス・ユリ・キンポウゲ・ヒヤシンスの新種を見いだし、球根博士としてウィーンの帝国植物園の園長として招かれ、当時の目ぼしい花を集めまくった。ここでチューリップに目覚め、1593年にオランダのライデンの植物園に招聘されたときは、もっぱらチューリップの喧伝大臣になっていた。
アンナ・パヴォードの有名な『チューリップ:ヨーロッパを狂わせた花の歴史』(大修館書店)によると、クルシウスには「珍しい花を独占したい」という欲望も長けていたらしく、おそらくはかなりのチューリップの種や球根をトルコなどから盗んできたのではないか、つまりは世界一の「花泥棒」だったのではないかと憶測されている。
17世紀オランダにもっと異様なことがいろいろおこっていたことについては、『風景と記憶』で有名なサイモン・シャーマの『あり余る豊かさ:オランダ黄金時代の文化』(未訳)か、日本の研究書でタイトルがミもフタもないのだが、小山和伸の『不況を拡大するマイナス・バブル:恐るべきチューリップ・バブルの血脈』(晃洋書房)などに詳しい。
オランダのチューリップ・バブルは各地に波及した。バブルというのはそういうものだ。たとえばお隣りのフランスでは「メーレ・ブリューン」という球根を手に入れるために水車小屋を手放す御仁がいたり、すばらしい球根を持参金代わりに花嫁に持たせた一族が登場したりもした。この花嫁代わりのチューリップはいまもその名を「マリアージュ・ド・マ・フィーユ」と言って高値を呼んでいる。
【ブレイク・ウィルス】
最近では日本でも「ケーキ食べ放題がブレイク」とか「歴女のブレイク」とか「これからブレイクするリゾートホテル」というふうに、のべつ「ブレイク」が話題になるようになった。実はこの「ブレイク」はチューリップの品種が人気になったときに使われた言葉だった。
最初にブレイクしたチューリップはいまでは「レンブラント系」と呼ばれているもので、赤い地に白い模様が出ているマーブル模様の花をもつ。ついでは「センペル・アウグストゥス」や黒いチューリップとしておなじみの「夜の女王」が圧倒的にブレイクした。
チューリップにブレイクをおこしたのは、実はウィルスのせいだった。もともとチューリップの花の色は下地の黄色か白の色にアントシアニンの色素が乗って決まるのだが、このアントシアニンがウィルスによって発現を抑えられると、その度合いによって例の赤白まじりの「まだら模様」になっていく。このウィルスはモモアカアブラムシがはこんでいた。育種家たちはこの秘密に気が付いたのだ。
【禁断の植物】
植物が地球上に繁茂して、昆虫とともに「虫と花の惑星」ができあがっていったのは、白亜紀のことである。正確には被子植物が白亜紀をつくったのだ。
このとき植物は「誘惑」の本質をもつとともに、化学物質を内包させることによって「毒性」の本質をもつことになった。ニコチンもカフェインも、アヘンもキニーネも、花の美貌とはうらはらな強力な毒性である。
この植物の魔法のなかに、動物たちに「酔い」(トリップ)をもたらすものがまじっていた。わかりやすくはネコにとってのマタタビ(木天蓼)だ。マタタビには中性のラクトンと塩基性のアクチニジンの独特の臭気があって、これにネコが恍惚になる。
コーヒーの発見も、ヤギがコーヒーの実ではしゃぎまわるのに気がついてからのことだった。キニーネは傷ついたピューマが知っていた。キナ(機那)の樹皮に含まれるアルカロイドはマラリア蚊のみならず、多くの毒虫の刺激を和らげたのだ。
それなら、動物たちはそうした麻薬の効用を知っていたのかというと、少しはそうだが、人間が純度を高めた麻薬とは根本的に異なっている。
念のために書いておくけれど、幻覚作用をおこすものがすべて麻薬だというわけではない。法的には「麻薬」(narcotic)とは、ケシ(芥子 opium/poppy)の実からとれるアルカロイドを合成したアヘンやモルヒネやヘロインやコカインのことをいう。
【赤く咲くのは芥子の花】
麻薬の“マザー”はアヘンである。アヘンはモルヒネを10パーセントほど含んでいて、少し工夫をすればケシの実から精製できる。このことは文明の開闢とともに知られていた。
紀元前3400年のメソポタミアでケシ栽培採取は始まっていて、3000年頃のシュメール人は乳液の採取のことを記述した。古代エジプトでもアヘンを作っていたことを示すパピルスが残っているし、バビロニアのアッシュルバニパル王の宮殿でもケシの実を束ねたレリーフが彫られていた。
その後の大半の民俗宗教でも、そこにシャーマンや霊媒師がかかわっているならたいていはアヘンの粉が何らかの寄与をしていたと思ったほうがいい。そのアヘンがさらに精製されて陶酔力と向精神剤としての純度を高めていったのが、いまは取り締まられているヘロインやコカインであり(あいかわらずどんどん精製されているが)、同時に鎮痛剤としての効能を高めていったのが、いまは医療にも応用されているモルヒネなのである。
一方、大麻(たいま)は麻の花冠や葉を乾燥させ、さらに樹脂化や液体化をさせたもので、植物としてはカンナビスのことを、ドラッグとしてはマリファナ(マリワナ marijuana)のことをさす。五木寛之(801夜)がぞっこんだった藤圭子(宇多田ヒカルのお母さん)の『夢は夜ひらく』は「赤く咲くのは芥子の花」と始まっていた。
【マリファナを育てる】
マイケル・ポーランは自分の家の庭にマリファナを栽培していた。アメリカではマリファナ使用を合法化していた州がけっこうあったので、なんら気遣いもしなかったのだと思う。
「マウイ」という種類のカンナビスだったようで、湿ったペーパータオルでタネを発芽させ、二つの苗になったところで庭に移した。数カ月で元気な2~3メートルになったその勢いに「雑草の熱意」を感じたという。マリファナの光合成力はそうとうなものらしい。
マリファナがトリップをもたらすのはTHCというサイコアクティブ成分(デルタ9-テトラハイドロカンナビノール)による。ふつうは3パーセントほど含まれる。THCの含有量が一番多いのは「シンセミア」で8パーセントのものもあり、ほかにノーザンライト、スカンク・ナンバーワン、ビッグバッズ、カリフォルニア・オレンジなどのマリファナがある。
日本の60年代にはサイケデリックなアンダーグラウンド文化が渦巻いていた。寄ると触ると、誰かがマリファナを回していた。「草、やってみる?」というのが合図だった。ぼくも某所で吸ったが、いまひとつおもしろくなかった。粗悪品だったのではないかと憶っている。
【アルタード・ステーツ】
瞑想、断食、ジョギング、遊園地の乗り物、ホラー映画、過激なスポーツ、感覚遮断、不眠続き、歌唱しまくり、音楽への耽溺、お酒による酩酊、スバイスのきいた食事、なんらかの危険を冒すこと‥‥。これらはわれわれがふだん選択しているトリップだ。いずれも意識の変成状態をつくれそうなもの、すなわち「アルタード・ステーツ」のための選択である。
サミュエル・テーラー・コールリッジの『クラブ・カーンあるいは夢で見た幻影』は史上稀な詩の作品だ。デイヴィッド・レンソンが言うように、この詩を本気で「感じる」には、アヘンの介在を想定するしかないかもしれない。アルタード・ステーツは想像力を変質させるのである。
いまさら言うまでもなく、トマス・ド・クインシーはアヘンこそが哲学的な意識の変成状態をつくるに最もうってつけののものだとみなし、シャルル・ボードレール(773夜)もこの意見に従って、この快楽による状態を「人工楽園」と呼んだ。19世紀のアメリカ作家フィッツ・ヒュー・ルドローはハシーシ(大麻の一種)のおかげで古代哲学がよくわかったと告白した。
メスカリンはサボテンの一種のペヨーテから採取する。メキシコの原住民ウィチョル族が飲んで儀式に参加した。その後はヨーロッパに伝わって、このメスカリンこそは「知覚の扉」を開くと言ったのはオルダス・ハクスレーで、そのメスカリンによってすばらしい詩とドローイングをしてみせたのはアンリ・ミショー(977夜)だった。
こういうことは、どこででも密談のように広まっていった。日本でも同じだ。折口信夫(143夜)も、古代日本人の「妣が国」にトリップするため、しばしば向精神剤を常用していたことが知られている。
最近の研究では、ソクラテス、プラトン(799夜)、アリストテレス(291夜)、アイスキュロス、エウリピデスが「エレシウスの秘儀」に加わっていたらしいという証拠があがっている。おそらくは麦角菌に由来する薬物を使ってのエクスタシーがもたらされたものだった。
【リーガル・ハイ】
日本では脱法ドラッグとか脱法ハーブの名が躍ったが、これはもともとは合法ドラッグに対して違法ドラッグや危険ドラッグという名称が使われてきたことを総称したものだ。
英語の総称ではマリファナは「リーガル・ハイ」(legal high)が一般的で、薬事的には新規向精神薬(new psychoactive substance)という。そのあたりの事情はレンソンの『ドラッグについて』が詳しい。
いったい、こうしたドラッグは何を人間にもたらしたのか。レンソンは「自分が注目したいものが、その世界に属する代表のように感じられる」ということが最も効能的なことだったのではないかと言っている。
そうだとすると、快楽植物は人間に「快楽のミーム」をもたらしたのではないかと、マイケル・ポーランは書いた。
【脳と植物】
60年代の半ば、イスラエルの神経学者ラファエル・メコーラムは、マリファナからTHCを採り出して、その化学成分が痛み・引き付け・嘔吐・緑内障・神経痛・喘息・痙攣・偏頭痛・不眠・鬱病に効果があることをつきとめ、これらの作用をもつ物質をカンナビスに含まれる「カンナビノイド」と名付けた。
1988年、セントルイス大学のアイリーン・ハウレットは脳の中にもTHCに特化できる受容体があると発表した。この受容体はニューロン・ネットワークにかかわって、ドーパミン、セロトニン、エンドルフィンの分泌に関与していると想定された。その後、カンナビノイド受容体は大脳皮質・海馬・扁桃体にもあることが報告され、記憶と想起と快楽に同時に作用することが仮説されるようになった。
ここでふたたびイスラエルのメコーラムが30年ぶりに動き出した。1992年、メコーラムはウィリアム・ディヴェインともに脳がつくりだすTHCのメカニズムの解明にとりくみ、脳が作るカンナビノイド系脳内物質に「アナンダミド」という名前を付けた。やりすぎのネーミングだが、サンスクリット語で「内なる悦び」という意味だ。
ここまでくると、何が化学的な根拠なのかあやしい気分になってくる。とはいえ、植物が作り出したカンナビノイド・ネットワークのようなものが植物と人間の共進化のなかでつくられなかったとも言いきれない。われわれは結局はモルヒネによって激痛を和らげるしかないままなのである。
かくてポーランは言う。神がエデンの園でアダムとイヴから隠そうとした「知恵の木」は、ひょっとして「麻薬のなる木」だったのではなかったのか、と。
【モンサントのジャガイモ】
野生のジャガイモは苦く、ちょっとした毒をもっている。今日、誰もがおいしいと言っている「ニューリーフ」のようなジャガイモは、すべて遺伝子組み換えのジャガイモだ。
アメリカの5000万エーカーの農地には、ずらりと遺伝子組み替え作物が植わっている。干ばつに強いトウモロコシ、ビタミンAが豊富なゴールデンライス、油で揚げても脂肪分をあまり吸収しないジャガイモ、どんな色をも鮮やかな染め色にするワタ‥‥。みんなGMOである。
さて、ここからが本書のクライマックスになるるのだが、こともあろうにマイケル・ポーランは、モンサント社から「ニューリーフ」を植える許可をとったのだ。こう書けばあとはあらかたのことが想像できるだろうが(だから手短かに書くことにするが)、ポーランはついに1代かぎりのF1交配種の正体を実感したのである。
その実感は最初からやってきた。ポーランがモンサント社から受け取ったジャガイモのタネは、EPA登録番号524-474というナンバーが付いたものだったのだが、それは農薬としてアメリカ環境保護局(EPA)に登録されていた! モンサントのジャガイモは農薬の同義語だったのである!
それだけではなかった。ポーランが受け取った「ニューリーフ」はBt遺伝子がまざっていたので、その遺伝子がもたらす知的財産の特許に守られたジャガイモだったのだ。Btとはいまはよく知られているだろうバキルス・トゥリンギエンシスという土壌バクテリアのことだ。
モンサント社は、1901年にアメリカのミズーリ州に創業した多国籍バイオ化学メーカー。遺伝子組み換え作物の種の世界シェアは90%。ベトナム戦争で使われた枯葉剤の製造メーカーでもある。
【GMOという名の怪物】
モンサントのジャガイモは工業的化学情報でつくられたジャガイモだった。その知識はもともとは有機農業者がもっていた。それらは大企業によって巧みに応用され、再解釈され、化学的検討が加えられて、GM化(遺伝子組み替えの作物をつくること)されてきた。GMとは“Genetically Modified Organism”のこと、だからGMOとも呼ばれる。
GMOの出発は育種学界が1973年以降にとりくんだことに始まった。胚の染色体に変異を導入した。放射線の照射、重いイオンの粒子線の照射、変異原性薬品の投与などによって、染色体に変異を導入した母本をたくさん作り、そこから有用な形質をもつ固体を選抜するという手順だった。
最初に市場に送り出されたのGMOはトマトである。アンチセンスRNA法という、タンパク質の生合成を抑える技法を用いて誕生した。ペクチンを分解する酵素ポリガラクツロナーゼの産生を巧妙に抑制したトマトだった。他のトマトとくらべると熟成しても果皮や果肉がじゅくじゅくになりにくく、一気に市場での評判を得た。
【ゲノムを栽培している】
バイオテクノロジーの基本に問題があるのではない。多くの医療的な薬品にバイオテクノロジーが適用されてきたように、人間の活力の保持や回復には、また損傷や衰退からの逆転には、バイオテクノロジーは欠かせない。それが食品に適用されることと、医者からもらうクスリを服用することは、本質的には変わらない。
そもそもパン、ビール、チーズ、ワイン、食酢、醤油、味噌、日本酒は、誰もが知っているように「発酵」というバイオテクノロジーがなかったら作れなかった。のみならず、ペニシリンもストレプトマイシンも、ガン治療のためのインターフェロンもインターロイキンも、多くの心臓疾患を救った遠藤章のスタチン薬(コンパクチン)も、すべてバイテクの産物なのである。
けれども、モンサント社がGMO作物「ニューリーフ」にカップリングしているのは、そうしたバイオテクノロジーの効能ではなく、その「管理」なのである。ポーランは本書のなかで最も劇的な一文として、次のように書いている。
「ついにゲノムそのものが栽培化され、文明という屋根の下に入ることになったのだ」。「これまで紹介してきた植物はいずれも、栽培化の対象であると同時に主体でもあった。かれらと人間とのあいだには対話があり、ギブ・アンド・テイクの関係が保たれていた。ところがニューリーフというジャガイモは、いわば人間からテイクするばかりなのである」。
本書は、はたして作物にこれ以上の「遺伝子流動」があってもいいのかという問いかけでページを閉じている。遺伝子流動は近縁の種のあいだでしかおこらなかったものなのだ。
◆
マイケル・ポーランの本を読んでから、それなりの日々が過ぎた。この本の旧版は2003年に翻訳されたもので(だから今夜とりあげた2012年版とはカバーも異なっていたのだが)、とても身につまされた。そのため前夜にも紹介したけれど、ぼくもちらちらその手の本を読んで考えこむようになった。
そのひとつが、パット・ムーニーの先駆的な『種子は誰のもの』(八坂書房)や野口勲(1608夜)の『タネが危ない』だった。そこからジェフリー・スミスの『偽りの種子』(家の光協会)、安田節子の『自殺する種子』(平凡社新書)といった「タネもの」を追うことになった。
が、それとともにもう少し本格的なドキュメントも読んだ、A、B、二つの系列があった。
興味をもたれる読者のためにメモっておくと、Aはたとえば、人類学者シドニー・ミンツの往年の名著『甘さと権力』(平凡社)、品種改良史にとりくんできた日本育種学界の大御所・鵜飼保雄の『トウモロコシの世界史』(悠書館)、自身でコーヒー焙煎事業もしていたアントニー・ワイルドが産地事情からスタバのしくみまでを紐解いた『コーヒーの真実』(白揚社)、若い女性ジャーナリストが巨大企業マーズとハーシーの秘密に挑んだエル・ブレナーの『チョコレートの帝国』(みすず書房)などなどの、つまりは歴史変遷ものだ。
Bは、今日のアグリビジネスとバイテクと食糧コングロマリットを追求した一連の本だ。前夜に挙げた『モンサント』や『モンサントの嘘』などの告発ものと、ポール・ロバーツの『食の終焉:グローバル経済がもたらしたもうひとつの危機』(ダイヤモンド社)、ダニエル・チャールズの『バイテクの支配者:遺伝子組み換えはなぜ悪者になったのか』(東洋経済新報社)、クリスティン・ドウキンキンズの『遺伝子戦争:世界の食糧を脅かしているのは誰か』(新評論)、鈴木宣弘『食の戦争:米国の罠に落ちる日本』(文春新書)といった警告本で、どこまで現状を抉っているのか確かめようもなく、次々に手にしたものだ。
人類が「食」の争奪によって歴史をつくってきたのは、いまさら言うまでもない。隠しようもない。塩、砂糖、トウモロコシ、米、小麦、ジャガイモ、香辛料はとくに争奪が激しかった。
それでもそれは、かつてバックミンスター・フラーが「ワールドゲーム」として石油資源から食糧資源におよぶ「資源の濃淡と移動」を示したように、そこには「過剰と過少の不平等」が繰り返しおこっていたとも言えるわけで、そこで生態系そのものに狂いが生じるとか、その生態系にアグリビジネスが食い込んだというほどではなかった。
しかし、モンサント社が先頭を切ったのだが、遺伝子組み換えのGMO食品と除草剤ラウンドアップとBt遺伝子とを組み合わせてしまったということは、もはや食生活が「管理された情報を食べる」という生態系の段階に突入したことをあらわしていた。それなら、ここには文明思想としての新たな検討が加わる必要があったのである。
けれどもモンサントをこきおろすだけでは、文明的な考察は生じないとも言うべきだ。植物や食物にひそむ情報を新たに取り出し、バイオテクノロジーだけでは語れない植物的文明観を、まずは散策すべきだったのである。マイケル・ポーランは、よくぞこの試みに着手した。
⊕ 『欲望の植物誌―人をあやつる4つの植物』 ⊕
∈ 著者:マイケル・ポーラン
∈ 訳者:西田佐知子
∈ 編集:八尾睦巳
∈ 発行所:八坂書房
∈ 発行者:八坂立人
∈ 印刷・製本:モリモト印刷
⊂ 2012年10月25日 第一刷発行
⊗目次情報⊗
∈ 序章 ヒトという名の働きバチ
∈ 第1章 「甘さ」への欲望あるいはリンゴの物語
∈ 第2章 「美」への欲望あるいはチューリップの物語
∈ 第3章 「陶酔」への欲望あるいはマリファナの物語
∈ 第4章 「管理」への欲望あるいはジャガイモの物語
⊗ 著者略歴 ⊗
マイケル・ポーラン
アメリカのジャーナリスト。カリフォルニア大学バークレー校で教鞭をとるかたわら、ガーデニングから環境問題まで、幅広い分野で執筆、講演活動を展開。とりわけ近年は食や農の問題に関する話題作を次々と刊行し、この方面の旗手として活躍している。主な著作に『ガーデニングに心満つる日』(主婦の友社)、『ヘルシーな加工食品はかなりヤバイ』(青志社)、『雑食動物のジレンマ』『フード・ルール』(東洋経済新報社)など。