才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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神仙幻想

道教の世界・5

土屋昌明

春秋社 2002

編集:桑村正純
装幀:森瑞枝

玄宗皇帝といえば「開元の治」の為政者か、
楊貴妃との遊蕩で盛唐を傾けた皇帝だと思われている。
これは困った日本的中国史のイメージだ。
玄宗皇帝こそ希代のタオ皇帝だったのである。
魔術皇帝ルドルフ2世や月王ルートリッヒを好むなら、
われわれはもう少しは、
玄宗皇帝の周辺を知ったほうがいいのではないか。

 天平勝宝4年(752)、わが遣唐使たちは玄宗皇帝に鑑真和上の日本招聘を願い出た。玄宗は道士も同行するなら認めようと言う。ところが、遣唐使たちは和上の日本招聘を取り下げてでも、道士の来日を拒んだのだ。そのため和上一行は密航者として日本にこっそり渡ることになり、井上靖(156夜)の『天平の甍』で有名な艱難辛苦を背負うことになる。
 この話、鑑真和上と南都の交流や戒律の導入による日本仏教の質的変換を語るうえでも欠かせないが、日本と道教の関係を考えるにあたってすこぶる重要である。奈良時代の日本は国内に道教が流入し、繁茂することを嫌ったのだ。正式な道士が活動することを阻止しようとしたのだ。
 日本の大君(おおきみ)が採用した「天皇」という用語がもとは道教文献によるものだという福永光司の仮説はあるものの、朝廷が陰陽寮を用意して陰陽道や陰陽師が活躍していた時期があるものの、奈良朝においては道教は正式には却下されていていたとみるべきなのだろう。いずれ日本の神仙道や陰陽道の流れととも考えてみたい。
 それとともにこの玄宗と遣唐使のあいだにかわされた会話は、唐の中国で道教がいかに豊満に重視されていたか、とくに玄宗時代の道教の殷賑ぶりを知るのにも欠かせない。

 一般に玄宗皇帝は「開元の治」の為政者として、また楊貴妃との世紀の恋愛で知られているが、実はたいへんな道教愛好者だった。つねに史崇玄や張万福や葉法善といった何人もの著名な道士に囲まれて道術や外丹・内丹を歓しんでいたし、とくに司馬承禎には道教政治の顧問のような役割を与え、国教としての道教の布教に心した。実は楊貴妃も女冠の一人だった。女冠とは男装の女性道士のことをいう。
 本書はそういう盛唐の玄宗時代の道観や道士の日々を鮮やかに再生させていて、たいへん愉快に読ませてもらった。春秋社の「道教の世界」全5巻のなかの一冊だが、このシリーズはどれもが読みものとしてもおもしろく、従来の道教ものとしても異色な構成になっている。執筆陣も若く、一人が一冊を担当しているのもよかったのだろう。初めて道教を知りたいと思う読者には、このシリーズから入ってみることを薦めたい。
 ちなみに他の巻を一言ずつ紹介しておくと、第1巻「仙境往来」(=田中文雄)は地誌としての神仙世界のモデルを桃源郷・洞天福地・泰山・斎壇などに案内したもの、第2巻「道法変遷」(=山田利明)は時代順に道教の教理と教団の変遷を述べたもの、第3巻「老子神化」(=菊地章太)はタイトル通りに老子がどのように中国史的信仰のなかで神格化されていったかを追ったもの、第4巻「飛翔天界」(=浅野春二)は今日に及ぶ道士のマジカルな儀礼のすべてをかなり詳細に紹介したもので、ぼくも初めて知ったことが多かった。

 では、なぜ玄宗皇帝は道教に溺れたのか。
 玄宗の父親は睿宗で、睿宗の母親はかの則天武后である。玄宗が道士を日本に送りこもうとするほど道教の拡大に熱心だった理由をさかのぼっていくと、母親であって絶大な権力者でもあった則天武后が道教を軽視して仏教に思い入れを激しくもったこと、いや仏教信仰というよりも仏僧に異常な思い入れをしていたことが浮かび上がってくる。
 則天は武徳7年(624)に生まれ、14歳のときに太宗李世民のおつきの侍女となった女性だった。生来、気位がかなり高く、性格もそうとう激しかったようだが、太宗の死後は殉じて長安の寺でしばらく尼になっていた。ところが太宗を継いだ息子の高宗が則天をみそめて、ふたたび宮中(後宮)に返り咲いた。
 大臣でもあり、図抜けた書家でもあった豬(衣ヘン)逐良(ちょすいりょう)はさすがに見かねて、高宗に「親子で一人の女に夢中なるのはおかしいのではありますまいか」と諌言したのだが、この話を聞きつけた則天の怒りにふれ、たちまちベトナムに飛ばされてしまった。則天の行動には、こういうことがしょっちゅうだったのだ。
 高宗には、まだ子供を産んでいない皇后と蕭淑妃という二人の則天のライバルがいた。このことが則天を計略に長けさせたようなのである。案の定、則天は自分が産んだ女児を平然と締め殺して、嫉妬した皇后の仕業であるかのようにみせかけ、まずは皇后を失脚させて自分が皇后の位につくと、ついでは皇后と蕭淑妃の手足を切って酒甕に投げ付けるという残酷な刑を断行してみせ、周囲を震え上がらせた。

高宗と則天武后の墓陵「乾陵」
(陝西省咸陽市乾県)

 こうした計略が次々に功を奏して宮中に君臨することになった則天は、気の弱い高宗の玉座の後部に簾をかけ、まさに皇帝を背後から操った。世に名高い「垂簾の政」である。
 それでも安心できないこの猛女は、わが子の李弘が優れた素質を示しはじめると、これは将来の邪魔になるだろうと見て毒殺してしまうというような、そういう驚くべき手を次々に打っている。文字通りの恐怖政治の主人公で、やがて高宗が死去すると、ついにその恐怖を片手に中国史上初の女帝になった。
 戴始元年(690)、則天は長安・洛陽および諸州に大雲寺を建立して『大雲経』を配り、全国を弥勒の世とすることを宣言して、国名を「周」に変えてしまった。いわゆる武周革命である。『大雲経』に依拠したのは、そこに浄光天女が女王に転身する話が出てくるのだが、その話を弥勒が下生して女帝になるという自分の境涯におきかえたかったからだった。則天武后こそは弥勒の生まれ替わりなのだという触れ込みなのである。
 この巧妙な読み替えシナリオを用意したのは、則天お気に入りの薛懐義(せっかいぎ)という白馬寺にいた妖僧だった。もっとも則天は男の好みも激しく、すぐに目移りするらしく、このあと愛情が御典医のほうに移ると、薛懐義がうっとうしくなっている。
 それを知った娘の太平公主はあるとき薛懐義を縛り上げて殺戮し、その死体を白馬寺に投げ入れた。太平公主もまた、母の則天に輪をかけたような残忍な感情の持ち主だったようだ。
 ぼくはいま則天武后をやたらに悪女として描いたが、実際の則天の武周革命には「明察善断」という評価もあって、有能な官僚を集めてのめざましい政策も目立っていた。残忍暴虐の餌食になったのは宮廷貴族たちのほうで、「公の政治」のほうは即断型だったのである。
 また仏教興隆にも意欲的で、洛陽の主殿である乾元城を上円下方に改築し、その背後に仏殿を建てたり、洛陽南郊の奉先寺に高さ17メートルの毘盧遮那仏を石掘して、華厳世界の偉大を知らしたりもした。持統女帝の活躍や聖武天皇の毘盧遮那仏(東大寺大仏)の建造は、則天武后の影響だった。

則天武后の時代に完成した、龍門石窟の奉先寺大仏。

 ともかくも、そうした則天時代が15年続き、則天の死後は睿玄が皇位を継ぐのだが、あまりの武周時代の煽りのあとだったので、とくに目立つこともおこせず、かくてここにその息子の玄宗が帝位につくことになった、という順番になる。
 それでもまだ太平公主が宮中にいて目を光らせていたので、若い玄宗はきわめて慎重な皇帝政治のスタートを切るのだが、やがては世に「開元の治」と謳われた高揚と繁栄をもたらすことになっていく。姚崇(ようすう)、宋環(そうえい)、張説(ちょうえつ)、張九齢らの有能な官僚もこれをよく扶けた。
 その高揚と繁栄は100万人都市長安にまことにティピカルに象徴されていた。長安は玄宗によってすべからく道教都市に読み替えられていったのである。
 北に皇帝が居住する太極宮は天の北極と直結したトポスであって、そこに太極殿が構えられ、天命を戴く天子が君臨した。北天を背にした太極宮の南側には承天門があって、そこから南北の軸上に朱雀大路が明徳門まで伸び、東に官僚たちの街区が、西に商業民と民衆の街区が広がった。
 もっともここまでは漢の武帝以来の都市設計の基本でもあるのだが、ここになんと27もの道観が建造されていったのである。そのうちの玄都観・崇真観・昊天観・福唐観・玉芝観などは随唐の歴代皇帝や皇子が立てたものであったけれど、大半は玄宗時代に次々に威容と充填を整えていった。女タオイストを育成する女冠の修法や生活を用意した道観も少なくない。本書8~9ページの道観マップを見ると壮観だ。
 これらはいずれも則天武后の異常な仏教政策に反対する勢いが、これまた異様に拡張突起したものだったと思われる。

長安道観地図

 司馬承禎という道士がいた。
 貞観21年(647)に生まれ、21歳で嵩山の潘師正に師事し、上清派の道士となった。則天に招かれて長安に入ったのだが、60代になっていた司馬承禎は3カ月で天台山にさっさと帰ってしまった。
 玄宗はこの承禎を開元9年(721)に招聘した。承禎は自身で鋳造したという鏡「含象鑑」と剣「景震剣」を持参して玄宗に法籤を授けた。80歳に近かったが、玄宗に道教の深い知恵をもたらしたようだ。著作に『坐忘論』『服気精義論』などがあり、玄宗はこれを熱心に読んだとみえる。
 五岳の祠廟を建て替えたのも承禎の進言による。この中身は承禎の『天地宮府図』にもとづいたもののようで、全国の名山が16洞天、36小洞天、72福地にランキングされ、古来の名山信仰にこだわらない道教的価値観が位置付けられている。このあとの中国の名山ブームに大きな影響を与えた。玄宗が神仙道にも大きな関心を寄せていたことがよくわかる。

 開元29年(741)、玄宗は長安と洛陽および各州に玄元皇帝廟を造っている。玄元皇帝とは老子(1278夜)のことである。このあと、各地に老子伝説がさかんに蘇る。なかには老子に出会って自分はこれからインドに道教のことを伝えにいくといったお告げがあったことを奏上してくるような、いかがわしいものも数多くまじってはいたが、時ならぬ“老子ルネッサンス”が盛唐から晩唐にかけておこっていったのも事実だった。
 玄宗にも、長安郊外の終南山の山間で老子象を発見したとか、古典籍に老子・荘子とあるところを「玄元皇帝」「南華真人」と書き替えさせたとかというエピソードが、かなり伝わっている。
 こうした玄宗の道教重視の仕上げは、天宝2年(743)に太清宮を増築してここに「崇玄学」(崇玄館)という道教編集道場を開校したことである。玄宗自身も三元の日、すなわち正月15日の上元、7月15日の中元、10月15日の下元に、崇玄学において『老子道徳経』『南華真経』などを、尹韵(いんいん)・李稘・劉玄静・劉崇政といった名だたる道士による教授によって神妙に聞くようにした。
 そのほか宮中で内丹や房中術はもちろんのこと、さまざまな外丹もあれこれ試みられていたという記録ものこっている。

「並笛図屏風(六曲屏風)」※部分
皇帝玄宗と楊貴妃とが仲睦まじく笛を演奏する様子が描かれている。
(桃山時代 伝・狩野宗秀)

 玄宗ファミリーも存分にタオイスト・ライフを満喫していた。妹に玉真公主と金仙公主がいるのだが(この名からしてタオであるが)、早逝した金仙公主はべつとして、玉真公主にはいろいろ記録がのこっている。
 玉真は幼少時から道教に馴染み、道士の葉法善(しょうほうぜん)に本格的な道法や道術の手ほどきを受けた。道観の玉真観をもらい、司馬承禎が洛陽郊外の王屋山に移ってからは、玉真みずから王屋山で国家平安を祈る儀式をとりおこなった。ここはかつての上清派のリーダーで神降ろしの仙女ともくされた魏華存(ぎかそん)の聖地でもあった。
 玉真はこのように、道教のジャンヌ・ダルク(78夜)のように信心し、レディー・ガガのようにふるまった。さらには多くの護符、たとえば「五老上真仙都君」「八威神策」「豁落七元」「五度霊飛六甲」といった護符をつかった道術のあれもこれも披露した。
 ところで、こうした公主たちが道観に入るにあたっては、多くの付き添いの官女が伴った。これがなんとも華やかな長安や洛陽の艶やかな景色をつくったのである。
 本書にも戴叔倫が詩に詠んだ「黄冠の淑女」のことや内妓として著名だった蕭という舞姫のことが紹介されていて、当時は女冠観を出入りする官女と女タオイストと芸妓と遊女の見分けがつかなかったほどだったということが案内されている。
 ぼくは盛唐の妓女といえば胡風の西域エキゾチシズムを謳歌する舞姫たちをいつも想像してきたが、どうもタオイズムの香り豊かな女たちも、今生の仙女とみなされていたようなのだ。となると、都市の道観や妓楼は市中の仙窟だったということになる。
 いや、男たちもけっこうな幻想をふりまいた。開元29年(741)に嵩山で修行していた元丹丘という道士が洛陽から長安に招かれ、昭成観という道観に入った。この元丹丘がある日、一人の詩人を玉真公主に紹介した。その詩人は性格は豪放磊落、操る言葉はまるで神仙のようで、各地の名山にも詳しい。玉真はすっかり気にいった。これが誰あろう李白(952夜)なのである。
 李白が玄宗皇帝にも気にいられて、長安郊外の温泉である華清池に行ったり、楊貴妃のために詩をつくったりしたことは有名だ。そればかりか李白はもともと「タオ」をこそ求めた詩人だった。「戴天山に道士をたずねて遇えず」「峨眉山月歌」など、なんとも神仙幻想に満ちている。李白がこんなふうになったのは、おそらくは元丹丘との交流による。

 玄宗皇帝の世は、しかし晩年の玄宗の遊蕩好みと、時代社会の変質とともに終わっていく。とくに安禄山の蜂起が大きかった。玄宗は長安を去り、終南山を越えないうちに楊貴妃を死なせた。もともとタオイストであった楊貴妃は金を服用して自害したとも言われている。
 その後、玄宗は四川の青城山で失意の日々をおくったのち、いったんは長安に戻るのだが、もはや時代はこの希代のタオ皇帝を顧みようとはしなかった。ひたすら錬丹術などに遊んだまま死んでいくことになる。
 長安も変貌した。著者の土屋昌明はこう書いている、「もっと目立つ違いは、皇帝が大明宮で政治を執るようになって、朝廷が長安の西に移動したことだ。これにより大明宮の南門である丹鳳門に近い場所が官僚の居住区になり、いわば高級住宅街になった。それにたいして、玉真観や昭成観があった西市あたりの地域は、一般民や外国人や任侠などの雑多の人々の居住区になっていったのである」。

玄宗皇帝と楊貴妃が過ごした唐代の離宮がある「華清池」
(陝西省西安市)
 

春秋社
シリーズ道教の世界5『神仙幻想 ―道教的生活』
著者:土屋昌明
2002年10月10日 発行
発行者:神田明
発行所:株式会社 春秋社
装幀:大友洋
構成:森瑞枝


【目次情報】

第一章 帝都・長安
プロローグ
1 道教都市・長安
  都市設計と『易経』
2 朱雀大街をゆく
  至徳女冠観と玄都観/坂道と『易経』/開元観と昊天観ほか
3 東西の市をめぐる
  東市あたりの道観/東市の北・太清宮/興唐寺と興唐観ほか/
  西市あたり/西市の北・昭成観/金仙観と玉真観・東明観
4 皇城内
  地上の北極

第二章 玄宗皇帝の即位
1 則天武后と道教
  則天武后/仏教の擁護/道教とのかかわり/則天武后の神仙幻想/
  建国と道教/山岳崇拝/晩年と神仙願望
2 太平公主と道教
  太平公主/韋后の誅殺/睿宗皇帝と太平公主/睿宗から玄宗へ/玄宗の即位
3 玄宗をめぐる道教
  太平公主と太清観/金仙・玉真公主の入道/玄宗と太清観/
  一切道教の編纂/太清観の道教の特徴/葉法善/宮中の道教/
  司馬承禎/司馬承禎の道教実践

第三章 皇帝の道教生活
1 国教としての道教
  聖地の制定/玄宗と神仙思想/楊貴妃/玄宗の道教政策/太清宮と崇玄学
2 宮廷の錬金術
  錬金術/錬金術の歴史/玄宗当時の錬金術/錬金術の魅力/
  宮廷の錬金術士/四川からきた錬金術士
3 房中術と皇帝
  房中術

第四章 郊外
1 宮女と仙女と女冠
  公主の入道/宮女と女冠/仙女と女冠
2 公主の山荘
  玉真公主のサロン/玉真公主と元丹丘
3 郊外の山々
  長安出発/華山/嵩山の上清羽人・焦真静/王屋山
4 玉真公主の道術
  道術の伝授/八威神策と豁落七元/霊飛六甲
5 四川の道教
  玉真公主と四川/青城山/青城山の神

第五章 李白の旅
1 「道」を求めて
  李白と戴天山/謫仙人/李白の少年時代/峨嵋山
2 「道」の友情
  孟浩然と元丹丘/孟浩然と道士の交遊/李白と元丹丘
3 師と道統
  胡紫陽の道教/胡紫陽と上清派/日月の精を服す
4 「道」に遊ぶ
  泰山の流霞/元丹丘の入京/李白の受道/錬金術をためす
エピローグ

主要参考文献

図版出典一覧
あとがき
索引


【著者情報】
土屋昌明(つちや まさあき)
1960年、神奈川県生まれ。國學院大学文学部、同大学大学院博士課程単位取得。西安交通大学、中国人民大学、富士フェニックス短大の講師を経て、現在、専修大学助教授。論文に、「後漢における思過と首過について」『道教文化への展望』平河出版社、「仙伝文学と道教」『講座道教 第四巻 道教と中国思想』雄山閣出版、“Confession of Sins and Awareness of Self in the Taipingjing”,Daoist identity, Livia Kohn and Harold D. Roth edit., University of Hawaii Press,2002など。