才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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女のタオイスム

中国女性道教史

カトリーヌ・デスプ

人文書院 1996

Catherine Despeux
Immortelles de la Chine Ancience 1990
[訳]門田眞知子
編集:谷誠二
装幀:未詳

西王母から魏華存に至る仙女たち。
麻姑や花姑らの遊女タオイスト。
道教では、女性は絶対不可欠のタオなのである。
これを内丹として、房中として、
さらには女丹また煉精化気として、
「性・命・心」をつなげて究めていったのも、
全真教の孫不二らの女性タオイストたちだった。
そうした「女のタオイズム」の系譜は
これまでほとんど通観されていなかったが、
ここにフランス人女性研究者による
希有な一冊があらわれた。
ぜひとも女性諸姉に読んでもらいたい。

 道教およびタオイズム関連書として、女性研究者による内丹史として、また東洋的な女性論として、少しく貴重な本であろうので紹介しておきたい。ほとんど類書はないと思う。
 本書は監修者の三浦國雄のたっての薦めによって日本語訳が刊行されたのだが、その三浦の説明でも本書に類するものは本家本元の中国にも一冊あるばかりで、それも小冊子だったという。それだけめずらしい主題なのだ。きっと女性読者にはとても不思議な感興を、ときにふわふわとした遊仙感覚を、ときにカラダの内奥に響きわたる疼くような官能と膨よかな母性感覚を、またときには神秘的な魔女感覚をもたらすのではないか。
 女性におけるタオの実感は、われわれ男子にはとうてい及びがたいものであるが、本来のタオイズムではそうしたセクシュアリティの深度さえ、女が男に、男が女に交歓しうるものなのである。羨ましい(笑)。

 本書を案内する前に一言示しておきたいのは、そもそも老子(1278夜)が「水」と「母」を謳っていたということである。「水」も「母」も生命と柔らかさの象徴だから、老子のタオ(道)は水のように自在で、母のように慈しみを深めているわけなのだ。このことは老子の文面にじかにあたって調べられるとよい。そうすれば女性諸姉の読書として、老子ほどナチュラルな感性を養発してくれるものはないと思えることだろう。
 かく言うぼくも3・11以降、『老子』を何度もページを繰るようになっていた。それはあの震災と原発事故が「母国」「母なるもの」「分母」の喪失と関係していると感じたからだった。このこと、女性が『老子』を読んでくれると、もっと深い示唆になるとも思える。いつかそんな老子読書のための有志を募りたいものだ。
 もう一言。
 本書の著者は、道教が清代に向かって内丹を「女丹」にまで発展させたこと、またそのシンボリック・リーダーとなった孫不二(そんふじ)らの活動に注目しているのだが、そのコンセプトは一途に「パンセ・クレアトゥリス」(創造的意念)による「強弱のハーモナイゼーション」におかれているということである。このことも道教の女丹がもとはといえば老子のフラジャイル・オントロジーにもとづいていたことをあらわしている。
 デスプのような現代フランスの知性にとって、このように道教がその当初において強さと弱さの両方を哲学したり、それを身体が微妙に感受でき、しかもそのことを女性が特有できるなどと計らっていたということは、たいそうな驚異だったろうと思う。
 なお本書はフランス語が原著なので「タオイスム」と表記され、そのほかのカテゴリーもフランス語ふうになっているのだが、ここでは「タオイズム」と表記し、また適宜英語表記を採用しておくことにする。もっともフランス語の用語がおもしろいことも少なくないので、そのときはそのまま用いる。フランスはアンリ・マスペロを筆頭に、20世紀初期からの道教研究先駆国なのである。
 ついでにもう一言。監修の三浦國雄は中国人の夢とトポスを綴らせたら天下一品の研究者である。風水にも詳しい。『中国人のトポス』(平凡社選書)などを読まれたい。

万物の根源である老子から万象が生じていることを表す図。

 タオイズムと女性の関係は、まずもって甲骨文にその名があらわれる西王母に始まっている。西王母は不死の女神として、また木公(東王父)のパートナーとして、いつも3羽の青い鳥を連れている伝説の母王だが、最も中国らしいグレートマザーでもある。
 西王母のキャラクターについては、古来いろいろ風説されてきた。『山海経』(せんがいきょう)には「西王母は人間の顔をしているが、豹の尾と虎の歯をもち、口笛を吹くのがうまく、髪は乱れて頭に飾りをつけている」とあって、なにやら恐ろしげであるが、これはあきらかに神懸り状態のシャーマンの姿をあらわしている。
 杜光庭の『女仙伝』では老子の母(聖母元君)についで紹介されていて、次のような説明がついている。太初、タオの気が凝固し、これがまず木公と名付けられた東の華の精霊の形をなし、ここから東王父の陽気が生まれた。ついでタオの気は金母に変貌して西の華の精霊をつくった。これが西王母である、と。
 こうした仙女伝説はだいたいは中国の南方で育まれた。安徽省(ぼくが一番行ってみたいところ)、茅山のある江蘇省、南岳と九嶷山のある湖南省、廬山のある江西省の西山一帯、臨川地方などだ。
 その後、漢代に入ると、西王母に関連して何人かの仙女伝説が続く。初期道教の上清派(茅山派)で有名なのは魏華存(ぎかそん)である。親しみをこめて魏夫人とも称されるのは、魏舒(209~290)の娘であって、劉文という男に嫁いだとされているからで、それ以上のことはわからない。実在の女性の祖師としてその後の道教社会のなかでつねにヒロイン扱いされたのだが、実際に実在したのかどうかも、まだ確認されていない。そのくらい伝説に包まれてきた。
 その魏夫人のアシスタント・タオイストに麻姑(まこ)がいた。後漢の明帝のころに活躍したらしく、断穀の料理の名人で、長い爪が有名だったようだ。いまならさしずめネイルアートが好きなマクロビオテックの料理人ということになる。のちに徽宗皇帝が尊崇して、麻姑信仰が広がった。ぼくはパリ国立図書館で趙孟頌(ちょうもうふ=フは兆ヘン)が描いた麻姑像を見たことがあるが、両手に花か薬草をもっていて、残念ながらその長い爪を確認できなかった。
 もう一人、紹介しておく。浄明道の祖師は許遜と呉猛だが、その許遜の師にジンボ(ジンは言ヘンに甚、ボは女ヘンに母)がいたことになっている。このジンボもやはり女仙の先駆であった。本書にはそのほか何人かのこうした伝説的な女仙が扱われている。

西王母を描いた図
(漢代の拓本)

 このように初期道教においては、女性は格別視されていなかったものの、他の世界宗教や儒教などとちがって、男性道士とほぼ同等の活動が期待されていたという特徴をもっていた。
 たとえば、天師道における張道陵の妻を嚆矢とする女師たちは、すでに4世紀以降にさまざまな場面で活躍していることがわかっている。
 もっとも、上清派(茅山派)では家族や親族がこぞって山中に隠棲することが目立つのだが、あるグループの例では道士となるのは男56名に対して女性道士は18名程度だったようだ。それでも図抜けた能力の持ち主の噂も少なくない。たとえば銭妙真とよばれた女性は茅山近くの燕口洞に30年をおくって、『黄帝内景経』をすっかり暗誦していたという。そうした上清派のなかで魏華存が伝説化していったのである。
 麻姑信仰に対して花姑(かこ)信仰もあった。花姑は7世紀終わりころの江西の女タオイストで、通称は黄霊微といった。
 彼女はあるとき魏華存の遺跡をめぐる二つの噂を聞いた。ひとつは臨川近くの臨汝水のほとり、もうひとつはそこから南に40里の石井山に足跡がのこっているというのだ。さっそく花姑は西山の道士の胡慧超に会いにいき、石井山にはおそらく祠があって一匹の亀がいるはずだという情報を得て、彼の地に赴き、そこで仙化した。
 この話はその後、睿宗が道士の葉善信(しょうぜんしん→1443夜)に、彼の地に道教儀式をおこなうための壇を作らせたという事歴にも、顔真卿(がんしんけい)がその壇に石碑を書くという事歴にもなっている。そういうときに彼の地を仕切っていたのがマジック・シャーマンめいた花姑だったのである。玄宗皇帝はそれらの話をまとめて『後仙伝』に記させた。

 さて、呂洞賓(りょどうひん)という快男児がいた。
 漢末か三国期かの人物で、山西省の蒲坂(ははん)永楽鎮の出身である。20歳で科挙に推薦され、五峯慮山の県知事になるのだが、ある日、山野に遊んで不思議な男に会った。漢鐘離(かんしょうり・鐘離権)だった。
 漢鐘離は終南山でタオ・マジック万般を会得して、ついでは山西省の羊角山に籠もってさらに独自に修行し、ふらりと下界を訪れては不思議な霊験をあらわしてみせていた。呂洞賓はこういう漢鐘離の生き方におおいに惹かれ、厳しい修行を受けたのち多くの道術をマスターした。その噂はたちまち知られ、フーチー(霊感による書記術)でも、青龍の剣法で悪鬼たちを一刀のもとに両断することでも名を馳せた。
 かくて日がたつにつれ、多くの民衆から「呂祖」とも尊称された。漢鐘離と呂洞賓を二人一組にして「鐘呂派」ということもある。
 この呂洞賓がいつしか「遊女娼婦の師」と慕われていったのだ。その理由ははっきりしないのだが、おそらくは男女のジェンダーをこえる言動の超越性と内丹術(アルシミー・アンテリエール)によっていたと想像されている。11世紀の『悟真篇』には呂洞賓によって超越的な精神性と官能性をコンバージョンとして体感した張珍奴という遊女の話が記載されている。

 ちなみに幸田露伴(983夜)に『仙人呂洞賓』がある。なかなか愉快に書いてある。
 そもそも露伴は明治日本で最初に道教を論じた先駆者だった。ぼくが道教に親近感をもてたのは、ごく初期に露伴を読んだからだったかもしれない。もう一人は内藤湖南(1245夜)である。湖南は最も初期に道教の価値に着目した。またその存在とその作品がなんとも道教っぽかったのはなんといっても富岡鉄斎だ。鉄斎の絵と詩はタオそのものだと言ってよい。いずれ千夜千冊をする。
 さらにもう一人加えれば、少しあとになるけれど、大正12年に『道教概説』を書いた小柳司気太だろう。この人は新潟出身で、のちに大東文化大学の初代学長になった。日本の道教研究はそれからずいぶんたって吉岡義豊さんによって本格化したのである。

 呂洞賓は八仙の一人としてもよく知られる。中国の正月では、呂洞賓・漢鐘離・張果老・韓湘子・李鉄拐(りてっかい)・曹国舅(そうこくしゅう)・藍采和(らんさいわ)・何仙姑(かせんこ)の8人を「八仙図」にあしらって玄関などにペタペタ貼るのだが、呂洞賓はその八仙の筆頭として愛されてきた。
 実は、八仙の中に一人の仙女が入っている。呂洞賓が19番目にコンバージョンをもたらしたとされる何仙姑だ。雲母や桃や棗(なつめ)を食べて自己浄化を試みた仙女でもあったらしい。デスプもこのことに注目して、この二人の仙道的関係の伝承が、その後の内丹術が女性のあいだに広がっていった象徴的契機になったのではないかと推理している。
 何仙姑については、則天武后が噂を聞いて召し出そうとしたところ、人々の見守るなか白昼に天に昇っていったという伝説もある。

八仙図
(谷文晁・画 江戸期)

 こうして道教や道士のムーブメントに、女性のための内丹が静かに流行するようになっていった。これを別して「女丹」(アルシミー・フェミニヌ)という。
 そこに登場したのが、宋の徽宗時代の曹文逸だった。
 徽宗は当時、永生を探求している道士や、タオっぽい詩の天分がある個性的な女性を探していた。そんな折り、曹文逸(曹仙姑)の風聞がとどいたので、呉妙明という女性道士とともに宮廷に招いた。予想に違わぬ才女だった。その後、曹文逸は「霊源大道歌」という堂々たるタオポエトリーをものし、徽宗以下の知識人たちを唸らせた。その内容がけっこう内丹的なのである。

 本書にはその「大道歌」がカトリーヌ・デスプによってフランス語に翻訳され、さらに門田眞知子によって日本語に訳された全詩が載っている。ぼくは本書で初めてその中身を知ったのだが、なるほど女性タオイストによる精神的な内丹性がよく詠まれていると感じた。
 何かの参考になるか、関心をもつ読者がいるだろうから書いておくが、この訳詩で次の用語がフランス語と対応させられている。たとえば「無為→アジール」「精→エサンス、神→アーム」「心意→パンセ」「不老不死→アンブロシア」「霊薬→エリクシール」「禅定→コンサントゥラシオン」「本性→ナチュウル・イネ」等々。
 なおこの訳詩のなかで「精神」に「エネルギー」のルビがふってあるのは、内丹では「気」に精・気・神の三態を認めているのだが、これでわかるように中国語の「精神」(ジンシェン)は精も神もが気の様態のこと、すなわち生エネルギーのことだったからである。精神にエネルギーのルビをふったのは妥当なのである。精神をマインドやスピリットの意味に使うのは、物心を二分した近代以降の解釈にすぎない。

 では、いよいよ孫不二(そんふじ)の話だ。
 徽宗皇帝が開封で宋王朝の栄華を誇っていた1118年の春のある日、山東半島の登州の寧海沿岸に住む一人の女性が暗示的な夢を見た。家の中庭に7羽の鶴がはばたいている。そのうち6羽は飛び立ち、7羽目が彼女の懐にとびこんできた。その9カ月後の1月5日、彼女は孫不二を産んだ。
 孫不二は礼儀作法や書道が好きな少女として育ち、やがて富裕な貴族であった馬丹陽と結婚して、3人の子を産んだ。1167年、その馬丹陽の家に王重陽が訪れた。王重陽はしばらく近くの庵に滞在し、そこから出立しようとするときに、大きな決断をした。新たな道教教団を興そうと決めたのだ。のちの全真教である。
 孫不二のほうは、そのように自宅の近辺に蟄居しつづける王重陽のことを快くは思っていなかった。伝承がいくつもあるので何が事実かはわからないが、王重陽は何度か彼女にコンバージョンを迫ったとも、床を共にしようとしたとも、夫の馬丹陽を引き離そうとしたとも言われる。
 ともかくも、そうしたなか全真教の最初の組織が誕生していった。馬丹陽、譚処端、丘長春、王処一は七宝会を発足させ、やがて組織に合流した郭広寧は寧海に金蓮堂を建てた。
 その後、1年ほどたって王重陽は半ば強制的に孫不二を組織のメンバー引き入れた。彼女も不承不承に金蓮堂に住んだ。気をよくした王重陽はいろいろのことを教示し、なかでも「天符雲篆」(てんぷうんてん)の秘訣を伝授した。天符は神秘文字のこと、雲篆はその書き方のことをいう。すでに6世紀の『真誥』(しんこう)に記されているもので、図を見てもらえば合点するだろうが、日本でいう神代文字やウエツフミのような怪しげなタオ・カリグラフィである。これをフーチーをもって自動書記したのだと思われる。のちに『道蔵』に入った14世紀の『鳴鶴餘音』にも似たような文字があらわれる。

 やがて王重陽は開封で亡くなるのだが、その直後からの孫不二の行動がなんとも目を見張る。
 まず山東半島をあとにすると、とどまることなく西に向かい、北部中国を横切って3年後に陜西に至って、京兆(西安)に入った。そこで彼女は馬丹陽に再会した。しかし夫は、「これからはわれわれは夫婦でもなく、たんなる男女でもない」と説き、互いの別離と自立を誓いあったうえで、内丹術のいっさいを教えた。
 これをきっかけに、孫不二は7年間にわたって修行にとりくみ、気の流れを逆流させ、体内のすべての経穴を開放し、三丹田の気を往復させ、ついにその内丹修法(ルーヴル・アルシミック)の大半を修得してしまったのである。そして1179年前後には洛陽に赴いて弟子を集め、風仙姑(ふうせんこ)の洞窟に住んだ。風仙姑は髪がぼさぼさの変人だが、どこか抜け切っていて、孫不二のグループをすべて受け入れた。
 こうして1182年12月29日、孫不二は卜算子の曲で詞を作ると、自身の死の刻限を予告して、そのまま尸解(しかい)をみごとに遂げてみせたと伝説される。それからである。孫不二の噂は翼がはえるように広まって、しだいに仙女として崇敬されるようになったのは。

『女功煉己還丹図説』より

 孫不二のその後の伝説は追いかけるにはキリがなく、また全真教の活動の細部にも及ぶので、このことはこのくらいにしておく。ともかくも、こうした女性タオイストは、孫不二以降はおびただしくふえていった。
 が、タオイストの数やそのうちの女性比が重要なのではない。彼女たちが何に夢中になり、何を身体作法としていったかが、重要なのだ。ということで本書にはかなり詳しい内丹や女丹の方法が、このあと解説される。
 とくに男性の内丹が下丹田を重視しているのに対して、女丹では中丹田を重視すること、また乳部および両乳間への観相が最も大事であること、男は煉気だが、女は煉形をもって気を乳房に集中すべきであることなどが、強調されている。

 以上のことをカトリーヌ・デスプが内丹思想として特色付けているプロセスに置きなおすと、3段階に説明できる。
 すなわち、女丹の第1段階は「煉精化気」で、女性が経血をある程度コントロールしたり、乳房を伸縮できるようにすることに始まる。俗に「赤い龍を斬る」と呼ばれるようだ。第2段階は「煉気化神」で、いわゆる「胎息」を自在にしていくことをいう。ここでは奥深い呼吸が要求される。
 第3段階が「煉神還虚」というもので、いったん忘我したあと、そこから脱出して「神」(しん)を頭頂部から離脱させ、自身をいったん太虚(ヴィッド・シュプレーム)に預けると、そこから自身の遍在性(ユビキテ)を実感できるようにすることである。とんでもなく難しく、3年の養生(アレットマン)と9年間の徳行が必要だとされているようだ。

 いずれもぼくにはまったく見当もつかない修行ばかりだが、デスプはさらに詳しい文献を駆使して説明する。関心のある向きはぜひとも本書を手にとられたい。
 いずれにしても“女のタオの流れ”においては、「性」(ナチュール・イネ)と「命」(フォルス・ヴィタル)と「心」(エスプリ)とが「気」(アンプロシア)によって内的に連結しているということ、このことが本書が告げたかった根本の哲理なのである。

 ところで、これはおまけの話になるが、道教では感得知の多くを色であらわしてきた。たとえば、女性にとっての「命」は紫と白と黄によって感覚できるものらしい。また、黄色い色や光は女性にとっての丹田であり、白色や白い光は「胎」(アンブリヨン)に対応し、紫の色や光は血に当たっているという。このあたり、なかなかわれわれ男どもには感得しにくいところだが、カラリストや化粧品メーカーには参考になるだろう。
 いや、男どもが感得しにくいというのは、言いすぎた。ジュール・ミシュレ(78夜)が当時の解剖図を初めて見たとたんにわかったことがあると書いていた。「男はセルヴォ(脳)で、女はマトリス(子宮)なのである」と。

男性と女性の瞑想の坐の姿勢。女性は胸のところに両手を置く。
(『内外功図説輯要』からの引用)

 

 

『女のタオイスム ―中国女性道教史』
著者:C・デスプ
訳者:門田眞知子
三浦國雄
1996年5月10日 発行
発行者:渡辺睦久
発行所:人文書院
装幀:未詳

【目次情報】

日本語版へのまえがき
序論

第一部 内丹出現以前の道教における女性

     第一章 道教諸派における女性の存在
     第二章 道教における女性とセクシュアリテ
     第三章 西王母、最高の女性神
     第四章 女性崇拝の重要性
     南岳における魏華存崇拝
     西山における麻姑崇拝
     花姑崇拝

第二部 女性内丹術の登場
     第一章 外丹と内丹
     第二章 内丹の師、娼婦たちの師としての呂洞賓
     第三章 内丹術の最初の有名な女性、曹文逸

第三部 金、元代(十二~十四世紀)の道教と女性内丹
     第一章 金、元代の道教
     金、元代の道教の主たる宗派/女性内丹の伝統の起源としての全真教
     第二章 孫不二(1119~1182)、女性内丹の重要人物
     仙者伝に基づく孫不二の生涯/孫不二先生の小説家されたエピソードの数々
     第三章 金、元代の女性道士たち
     さまざまな脈での女性の出現/元朝治下での女性全真教会の主な中心地

第四部 十四世紀から今日に至るまでの道教と女性内丹
     第一章 明および清朝治下での道教
     第二章 清朝治下における全真教の女性の修道生活
     女性に対する戒律 道教の女性修道士の日常生活
     第三章 清朝治下の女性道教の諸派
     第四章 女性内丹に関する文献の出現
     女性内丹に関する主要文献集/
     女性内丹に関する若干の書物に記された伝達の系譜/

     女性内丹と扶乩に関する書物
     第五章 現代の女性道士たち

第五部 女性内丹術を会得した身体
     第一章 身体の象徴的表現
     気の身体 身体はミニチュア化された世界である/身体は一つの山である/
     身体は閉じた世界である
     第二章 女性内丹における身体の重要な場所
     女性における胸(乳部)の重要性/気穴/乳房の分泌物
     三命(女性の三つの生の力)/背中の三関
     第三章 内丹的身体の成分
     女性における基本的な成分、経血

第六部 女性内丹のテクニック
     第一章 内丹のいくつかの基本概念
     生来の性質(性)と生の力(命)/静坐/精神(心)/内丹の修行の三段階
     第二章 第一段階 ―赤龍を斬る
     乳房のマッサージ/露の真珠(露珠)/月毎の使者(月信)/
     天体の小さな運行/
第一段階における火の調節(火候)/
     月経閉止の女性にとっての技法/
月経周期を調整するための薬の処方
     第三章 第二段階 ―胚の呼吸(胎息)
     胎息 火候
     第四章 第三段階 ―天界への上昇
     子宮からの解放(脱胎)/三年間の哺乳(乳哺三年)/壁に向かって/
     九年間瞑想する(面壁九年)/天上界への上昇

結論
付録 女丹に関する書物

原注
訳注
解説(三浦國雄)
フランスの東洋学に触れて ―訳者あとがきにかえて(門田眞知子)
索引(事項/人名・書名)
 

【著者情報】
カトリーヌ・デスプ
1946年パリ生まれ。1967年東洋学校ラング・ゾで中国民俗学などを修め台湾に渡り、太極拳や伝統医学を学ぶ。カルタンマルク教授の指導によりパリ第7大学で学位取得。1989年国立東洋言語文化研究所(パリ第3大学所属)の中国学教授になり現在にいたる。著書に『太極拳、武術、長生術』『「千金方」の処方。七世紀の孫思邈の鍼論』『タオイスムと身体。修真図』他著書・論文・翻訳多数。