才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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リモノフ

エマニュエル・キャレール

中央公論新社 2016

Emmanuel Carrère
Limmonov 2013
[訳]土屋良二
編集:郡司典夫
装幀:細野綾子 協力:沓掛良彦

 エドワルド・ヴァニアミノヴィチ・サヴィエンコ。政治名また筆名はエドワルド・リモノフ。
 作家・政治家として知られる以前の謎と噂が囂(かまびす)しくて、実像がなかなか掴めない男である。面と向かってプーチンに対決できる唯一の男と言い立てられてからも、テロリスト、国籍剥奪者、カウンターカルチャリスト、ネオファシスト、パンクな革命家、自暴自棄の作家、最後のトロツキスト、単なるならず者などという、実情がさだかにならないレッテルばかりが先行した。ぼくが「遊」をつくっていた70年代後半では、ただ一言「赤いリモノフ」あるいは「ロシア・アナーキーのデヴィッド・ボウイ」と聞くだけだった。
 先だっての2020年3月20日に亡くなった。危険な死ではなかったようだが、プーチン・ロシアが最も危険なステージに突入していた時期だ。78歳だった。そうか、いまのぼくの歳にあたるではないか。老いさらばえたのか。それとも何かから逃げきったのか。

国家ボルシェヴィキ党の旗を背景に、正面を見据えるリモノフ(2010年ごろ)。政治家として活動するまでの前歴は謎が多く、多くの噂や俗説が飛び交ってきた。

モスクワ・トリウムファルナヤ広場で行われた「もう一つのロシア」の集会で演説するリモノフ(2014年10月31日)。

 そんなリモノフを、最近は映画にも乗り出している異才作家のエマニュエル・キャレール(他の作品ではカレールと表記)がノンフィクションノベルに仕立てたのが本書である。「赤いリモノフのためのレ・ミゼラブル」になっていた。
 早くに難敵フィリップ・K・ディック(883夜)の伝記をものしていた作家だ。傷口を優しい指で触れていく書きっぷりで、ボルシチのようにコクをつけたり、凍土を掘り返すようにしたり、ときにロシア・アヴァンギャルドふうな発条(ゼンマイ)をいくつか組み合わせて突き放したりしている。
 作家キャレールには『冬の少年』『嘘をついた男』『口ひげを剃る男』(いずれも河出書房新社)などの小説があり、映画監督作品では自作をいじった『口ひげを剃る男』のほか、ジュリエット・ピノシュ主演の絶妙な侵入ルポルタージュ『ウイストルアム』もあって、これはその筋で話題になっていた。いずれも主題に応じて陶冶していた。本書も伝記小説の見立てだが、そのスタイルはリモノフにふさしく右に左に、ロシア正教ふうにも反世界ふうにも揺動する。

エマニュエル・キャレール。大学卒業後、映画評論やテレビドラマのシナリオ、実験的小説などを書いていたが、1986年に発表した『口ひげを剃る男』で注目を浴びた。その後、テレビ・ドキュメンタリー制作を契機に、母方の祖父がロシア人という自分のルーツに目覚め、映画を撮りはじめる。

キャレールの邦訳されている著作3冊。いずれも映画化されている。キャレールの小説は、純然たるフィクションではなく、実在する人物の人生を作家の目で見つめ直すノンフィクション的構成になっていて、『リモノフ』もそれに倣っている。

映画《ウイストルアムー二つの世界の狭間で》。著名な作家のマリアンヌは、雇用不安の取材のため、フランス北部で掃除婦として働き始める。仕事仲間との仲が深まっていくにつれ、マリアンヌは素性を隠し調査しつづけることの罪悪感に苦しめられていく。

 話は2006年10月、キャレールが当時のロシア社会の取材に訪れていたモスクワで、アンナ・ポリトコフスカヤが凶弾に倒れたニュースに出会うところから始まる。
 アンナはプーチンの政治に公然と反対する女性ジャーナリストで、そのチェチェン紛争にとりくむ果敢で毅然とした言動と姿は、西側メディアでも評判になっていた。その彼女が暗殺された。FSB(ロシア連邦保安庁、KGBの後身)の仕業だろうことは、みんな薄々知っていた。次に暗殺されるのはリモノフだろうということも、これまたみんな予想がついていた。
 キャレールは80年代始めからリモノフを見聞していたらしい。そのころはパリでのお調子者だった。スキャンダラスな小説仕立ての『ロシア詩人は立派な黒人が好き』(原題『俺はエージチカ』、英訳『俺がエディ』)がそこそこ当たって、ヘンリー・ミラー(649夜)やトルーマン・カポーティ(38夜)を想わせていた。ソ連から亡命したのちのニューヨークでのみすぼらしい日々と、女性や同性者との猥雑な関係を遠慮なく綴ったものだ。
 当時のパリにはソ連主義(フルシチョフ・ブレジネフ・アンドロポフらの体制)に刃向かう反体制派ロシア人がけっこういたが、たいていは髭を生やしていかつい肩幅で口角泡をとばすような連中だった。リモノフはまったく違っていた。どことなくセクシーで如才なく(太枠の眼鏡をかけ)、喧嘩と女が大好きで(少し背が低く)、セックス・ピストルズのジョニー・ロットンをヒーロー扱いしていた(ツンツンの髪型に凝っていた)。

反骨ジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤの遺影。実行犯らは終身刑などの判決を受けたが、所属先だった独立系紙「ノーバヤ・ガゼータ」は黒幕がいると主張している。

1986年のリモノフ。ジョニー・ロットンばりに髪を逆立たせている。

 2007年7月、キャレールはモスクワでリモノフと面と向かうことになる。2週間にわたる取材を許可されたのだ。
 リモノフを取材したいと思ったのは、ひとつには、リモノフが議長を務めた「国家ボルシェヴィキ党」(通称ナツボル)を絶賛するイエリエナ(エレーナ)・ボンネルの言葉が信用できたからだった。アンドレイ・サハロフの未亡人だ。サハロフはソ連を代表する原子物理学者で、フルシチョフ時代のソ連の核実験のリーダーであるとともに、アフガニスタン侵攻には猛烈と反対活動をして、ノーベル平和賞以外の栄誉を剥奪され、流刑された。そのサハロフ未亡人のエレーナがそこまでリモノフの肩をもつと言うなら取り組んでみたいと思った。
 もうひとつには、リモノフはプーチンの政党「統一ロシア」に対抗して、非合法政治同盟「もう一つのロシア」を結成したからだった。結成の会見にあらわれたのはガルリ・カスパロフ、ミハイル・カシヤノフ、そしてリモノフだった。カスパロフは歴史上最も偉大なチェスの名人、カシヤノフはプーチン政権の元首相、そこにリモノフが並んだ。キャレールはこの顔ぶれに参った。

「もう一つのロシア」によるデモ行進の様子。左からミハイル・カシヤノフ、リモノフ、ガルリ・カスパロフ。2006年12月16日。

 取材を始めてみると、自分が翻弄されていることがよくわかった。このままではリモノフを描けない。評判になっていた『落伍者の手記』を読んだ。
 手記の極め付きに「私は暴力的な蜂起を夢見ている。私はナボコフ(161夜)にはならない。100万ドル用意してくれ。武器を買い、どこの国でもいいから反乱を起こしてやる」とあった。ナボコフにならないとは、ナボコフのように西側のインテリに転向したりしないという意味である(ナボコフはコーネル大学で教授となった)。こういう男なのだ。キャレールは自分が翻弄されているのではなく、リモノフから相手にされていないということがよくわかった。
 また、こういうくだりもあった、「私はだめなものの味方をしてきた。三流新聞、謄写版印刷のチラシ、まったく見込みのない政党、一握りしか集まらない政治集会、へたな音楽家たちが出す雑音。私はこれらが好きなのだ」。
 腹をくくらなければならない。いったいリモノフはテロリストなのか、革命家なのか。カルロスなのか(ベネズエラ人の国際指名テロリストのコードネーム。ジャッカルとも)、それともジャン・ムーランなのか(フランス・レジスタンスの英雄、ゲシュタポの拷問の末、移送列車の中で死んだ)。
 キャレールはどっちもありだと思った。こうして、本書はリモノフの両面を綴ることになっていく――。

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国家ボルシェヴィキ党の集会を無許可でおこなったため、ロシアの機動隊によって拘束されるリモノフ(2014年3月31日)。これまでに数十回以上、取り締まられている。

リモノフ亡き後も、ロシアでは「もう一つのロシア」によるデモが頻繁におこなわれている。

 リモノフことエドワルド・サヴィエンコは第二次大戦の渦中の1943年にノヴゴロド生まれ、秘密警察要員の子としてウクライナのハリコフで育った。ハリコフはロシア読み、ウクライナ語ではハルキウになる。キエフ(キーウ)に次ぐウクライナ第2の大都会で、ロシア帝国時代は南部の要塞だった。
 少年は父親に敬服し、厳格な母親には脅えていたが、ハリコフの路地裏や廃墟で屯する不良グループにまじって、ロックンロールに痺れ、いつもポケットに折り畳みナイフをしのばせていた。デュマ(1220夜)やジュール・ヴェルヌ(389夜)を読み耽り、冒険と復讐と未知と恋とに胸をときめかせていた少年だ。10歳のとき、スターリンが死んだ。泣いた。初めてウォトカを飲んだら1時間でいくらでも飲めた。
 喧嘩や万引やその程度のことだが、ちょっとずつ悪いこともした。拘置されたり、手首を切って心療病院に入れられたりもした。映画館での詩の朗読大会に出て自作を読んでもみた。優勝した。書店で手伝いをするうち、書物のまわりには頽廃派たちが出入りしていること、世の中には地下出版(サミスダート)があるということ、書店員の女は寝てくれること、そういう女こそ世の中の本質をずばずば見抜いていることを知った。
 悪友にも出会えた。かれらにはたいてい二つの取り巻きがいた。SSまがいか、シオニストまがいだ。当時のロシアの悪童はネオナチまがいか、自由ユダヤ派まがいを引き連れていたのだ。憧れでもあるが嫉妬もしたくなる詩人たちとも交わった。その一人がヨシフ・ブロツキーだ。マンデリシュタームとツヴェターエワなきあとのロシア最高の詩人アンナ・アフマートヴァが発掘した若い偉才だ。耀いていた。
 しかしリモノフは、そうした羨ましい連中を嫌いになろうとして、ハリコフを離れモスクワに移って作家の真似事を始め、もっぱら冷笑シニシズムや文芸アナキズムを謳歌する。

1953年、10歳のリモノフと母と姉。このころはまだ感受性豊かなおとなしい少年だったが、生まれ育ったハリコフから、郊外の労働者地帯・サルトフに引っ越したことで、自由で危険な人生を歩んでいく。

23歳のリモノフ。ハリコフにある書店に通い、常連だった詩人や芸術家と交流するうちに自分で詩をつくるようになる。詩人としての名をエド・リモノフと名付けた。ウクライナ語のリモンカ=手榴弾を由来として、のちに刊行する政党機関紙にも「リモンカ」と名付けている。

20代後半のリモノフ。パンクロッカーのようにスキニーなファッションを決めている。

 青年リモノフがモスクワで感じたことは、スターリニズムを脱したはずのソ連官僚たちの権力闘争と制度不全があまりにもおかしすぎるということだった。ガマンができない。そこであからさまな反体制活動を開始するのだが、あまり狡智ではなかったのだろうか、すぐに挙動がばれて、たちまち国外追放処分をうけた。ソ連国籍も剥奪された。やむなくアメリカに亡命した。
 一方、リモノフはやたらに美女や美少女を好むところがあって、次々に生活と活動をともにしたようなのだが、しばらくするとたいてい彼女たちが離れていったため、数度の結婚履歴も何がどこでどうなったか、どうもはっきりしない。本書には革のミニスカートがめちゃくちゃ似合うイエリエナとの日々のことがやや詳しく描かれているが(イエリエナの伯母はマヤコフスキーのミューズ、その妹はフランスのシュルレアリスム詩人アラゴンのミューズ)、なぜリモノフが女漁りに熱意をもったのか(30歳年下の少女とも暮らした)、本書を読んでもいまひとつ伝わってこない。
 イエリエナなど、いい女が何人もいたにかかわらず、ニューヨークでの日々はさんざんだったようで、服なおし(裁縫は嫌いではないらしい)、ホテルボーイ、三文記事原稿記者、金持ちの使用人、校正係などで糊口を埋めあわせた。ほんとうは目にもの見せたかった作家としての名声は、まったく上がらなかった。

1970年代前半、2番目の妻イエリアナ・シャポワ。2人は拠点をモスクワからニューヨークに移し、愛欲の日々を送る。しかし数ヶ月後、イエリアナは家を飛び出し、リモノフは失意のどん底に陥る。

3番目の妻ナタリア・メドベージェワは、歌手でありファッションモデルとして人気を博していたが、リモノフと出会い、アメリカでのキャリアと当時の夫を捨て、ともにフランスに移住する。結婚生活は10年近くにおよんだ。

4番目の妻となったエリザベス・ブレイズは、リモノフの機関紙「リモンカ」のデザイナーで、30歳年下だった。結婚生活は3年弱で終止符をうち、その後もリモノフは再婚と離婚を繰り返していく。

1980年代、パリ在住時代のリモノフ。アメリカでの刊行が許されなかったため、フランスに移住し処女作『それは俺、エーディチカ(ロシア詩人は立派な黒人が好き)』を発表。簡潔で具体的な語り口、文学的な気取りがなく、”ロシアのジャック・ロンドン”としてパリの文壇でもてはやされた。

『それは俺、エーディチカ』の原著。イエリアナとの破局後、男女との見境のない情事や過度な飲酒を繰り返した失意の日々をスキャンダラスに綴った。当時ブルジョワの若者にすぎなかったキャレールは自由闊達で波乱万丈なリモノフに対して崇拝の思いを抱いていた。

 1991年、リモノフはソ連が崩壊したのを機にモスクワに戻る。ゴルバチョフとエリツィンの新生ロシアを目の当たりにして、その混迷と錯誤ぶりに失望した。オルガリヒ(新興財閥)は政権にべんちゃらたらたらだ。怒りがこみあげた。
 盟友アレクサンドル・ドゥーギンと出会い、ここだ、このときだと突っ込み、「国家ボルシェヴィキ党」(ナツボル)を組織して、共産主義とユーラシア主義と民族主義を糾合する「ロシア・ユーラシアニズム」を過激に吹聴しはじめた。ユーラシアズムがどういうものかは、1797夜を読んでいただきたい。
 ドゥーギンには教えられることが多く、感心もしたが、2人を指導者とする政治活動のほうはなかなか核心をもちえない。それならというので、ロシア自由民主党を結党し、5ケ国語を操る極右ポピュリストのウラジミール・ジリノフスキーと手を組もうとするのだが、この男がたいそうな食わせ者で、リモノフは食わせ者は得意なはずだったのに、ジリノフスキーには「テロルの匂い」がしない。これでは「赤いリモノフ」の相棒にはなりえない。
 そこへKGB上がりでエリツィンに気にいられたウラジミール・プーチンが満を持するかのように台頭してきた。シロヴィキ(軍部官僚・警察官僚)で陣容をかため、オルガリヒの脱税を取り締まり、チェチェン紛争を収拾し、与党「統一ロシア」をバックに着実きわまりない大統領の座を確立した。
 プーチンにはテロルの匂いがした。アンナ・ポリトコフスカヤの射殺はそのひとつだ。ほかにも、多量のポロニウムが検出されたアレクサンドル・リトピネンコの死、ボリス・ベレソフスキーの暗殺計画の発覚などもある。リモノフはプーチンこそが同じ匂いのする宿敵であることを知る(プーチン自身も少なくとも5回にわたって暗殺されそうになった)。
 ドゥーギンやジリノフスキーではまにあわない。リモノフは非合法組織「もう一つのロシア」を結成すると、ことごとくプーチンに楯突いていく。こうしてリモノフとプーチンは鏡の表と裏で対峙する。

1993年、国家ボルシェヴィキ党員として政治活動を行うリモノフ。ソ連が崩壊するやいなやフランスでの生活に終止符をうち、混迷を極めるロシアに舞い戻った。作家としてではなく、過激な政治家として反体制のデモに身を投じた。

国家ボルシェヴィキ党のメンバー。真ん中の髭の男がアレクサンドル・ドゥーギン、右隣がリモノフ。あらゆる書物を読み、15ヶ国語を操っていたドゥーギンをリモノフは心から尊敬し、教えを請うていた。ちなみにドゥーギンは当時35歳でリモノフより15歳年下だった。

年金生活者と病院患者への給付金の貧しさに対し国家ボルシェヴィキ党が反発。2004年8月2日、モスクワの保健省の建物を占拠し、プーチン大統領の肖像画を投げ捨てている。

 どうしてそうしたのかはわからないが、本書は晩年のリモノフの「外なる擾乱」と「内なる動乱」を追跡していない。察するにキャレールはリモノフを追ううちに、むしろプーチンの魔力のほうにこだわっていったのである。リモノフの晩年はプーチンの裏返しだと見抜いたのだ。
 この落着は、本書の最後で語られていて、なんともプーチン賛歌ともいうべきものになっている。そしてリモノフの「ぼくはならず者だった。中央アジアにこそ行くべきだった」という感想を引き出して、本書を閉じている。
 しかしぼくは、そんな程度ではリモノフを締め切れないと思っている。いくつか白日で話題にすべきことがあるはずだ。ひとつはモスクワのナツボルの地下アジト「バンカー」(掩体壕)のことだ。ここには職業革命家やイゴール・レートフらのパンクロッカーが出入りしつづけた。地下写真を見ると、スターリン、ファントマ、ルー・リード、ニコ、ブルース・リーなどのポスター、そしてリモノフの写真が貼りめぐらされている。このリモノフのやらずぶった切りのパンク性をもう少し覗きこんでほしかった。
 もうひとつはリモノフが編集していた機関メディア「リモンカ」のことだ。このロシア語のレモン(檸檬)をもじった定期刊行物を(俗語では手榴弾を意味する)、ぼくはまだ手にしたことはないのだが、リモノフの隠れた全貌はこのメディアの隙間にこそ蟠っているはずなのである。
 リモノフがかかわった「テロリズムの失敗」についても気になる。ラトビアの聖ペーター教会爆破計画、数々の武器密輸、ほとんど失敗したクーデター計画、プーチンに仕掛けたであろう数々の罠、友人たちのとの別れ方(たとえばドゥーギンとの抉別)、いずれもまったくわかっていないままにある。
 いま、プーチン・ロシアはウクライナ侵攻の渦中にあって、NATO、アメリカ、EUを相手に異常な全面戦争を辞さなくなっている。白系ロシアにミサイルをぶち込み、戦車で蹂躙を恣(ほし)いままにしている深意は計りかねるけれど、まったく同時期、習近平の中国がゼロコロナ作戦を完遂するため、上海や北京に「しらみつぶし」を徹底せざるをえなくなっていることと照らし合わせてみると、二人は戻りえない過誤に向かって軌を一にしているようにも見える。今後、ロシアと中国は無数のリモノフに脅えることになるはずなのだ。
 アメリカは徹底的に「漁夫の利」を占めることになるだろう。西側はその「利」に抗うことはできないだろう。
 今夜の千夜千冊は、世界がそうした妄動を止められなくなった2022年5月の何かの亀裂口からのレポートだ。この一夜を通して何かの「暗号」に思い当たっていただきたい。ぼくだけでは役不足なのである。

上の写真は政治新聞「リモンカ」の第1号。下の写真はモスクワの抗議集会で「リモンカ」を手に演説する国家ボルシェヴィキ党員。2002年に「過激主義を助長し、憲法秩序の転覆を呼びかけた」として発禁処分を受けたが、2010年からは「もう一つのロシア」の機関紙となって刊行されている。

2013年、70歳のときのリモノフ。左腕にはリモンカ(手榴弾)のタトゥーが彫られている。2014年にロシアがクリミアを併合した際、90年代から反体制派としてリモノフが訴えてきたことは政治的に正しかったと世間の評価が高まった。

TOPページデザイン:富田七海 協力:穂積晴明
図版構成:寺平賢司

⊕『リモノフ』⊕

∈ 著者:エマニュエル・キャレール
∈ 訳者:土屋良二
∈ 編集:郡司典夫
∈ 協力:沓掛良彦 
∈ 装幀:細野綾子
∈ 発行所:中央公論新社
∈ 発行:2016年

⊕ 目次情報 ⊕
∈ プロローグ モスクワ 2006年10月、2007年9月
∈ Ⅰ ウクライナ 1943年―1967年
∈ Ⅱ モスクワ 1967年―1974年
∈ Ⅲ ニューヨーク 1975年―1980年
∈ Ⅳ パリ 1980年―1989年
∈ Ⅴ モスクワ、ハリコフ 1989年12月
∈ Ⅵ ヴコヴァル、サラエヴォ 1991年―1992年
∈ Ⅶ モスクワ、パリ、クライナ・セルビア人共和国 1990年―1993年
∈ Ⅷ モスクワ、アルタイ 1994年―2001年
∈ Ⅸ レフォルトヴォ、サラトフ、エンゲリス 2001年―2003年
∈ エピローグ モスクワ 2009年12月
∈∈ 訳者あとがき

⊕ 著者略歴 ⊕
エマニュエル・キャレール(Emmanuel Carrère)
1957年、パリに生まれる。小説家、脚本家、映画作家。パリ政治学院修了。著名なソヴィエト研究者エレーヌ・キャレール・ダンコスを母に持つ。精力的に作品を発表しており、邦訳に、『冬の少年』(フェミナ賞受賞、河出書房新社、1999年)などがある。

土屋良二(つちや・りょうじ)
1959年、東京に生まれる。東京外国語大学大学院外国語学研究科修士課程修了。津田塾大学、白百合女子大学ほか講師。