才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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ユーラシアニズム

ロシア新ナショナリズムの台頭

チャールズ・クローヴァー

NHK出版 2016

Charles Clover
Black Wind, White Snow―the Rise of Russia's New Nationalism 2006
[訳]越智道雄
編集:松島倫明・塩田知子 協力:小林丈清・奥村育美・加賀雅子 校閲:酒井清一
装幀:岡孝治

 ロシア軍のウクライナ侵攻から2ヶ月がたった。激越、空威張り、避難、いとけない、無残、途方に暮れる、空爆、もうやめて、相互制裁、塹壕、苛酷、かけひき、都市崩壊、悲鳴、残骸、パンと水、虚妄、戦場記者、難民‥‥。
 トルストイやレマルクの文学作品の中にひしめく言葉の大半がたった2ヶ月で閃光のようにとびだしてきた。こんなに戦争渦中の被弾状況がつぶさに報道されることは、ベトナム戦争や湾岸戦争やチェチェン紛争の時にはなかったことである。
 ゼレンスキー政権は一歩も引かない姿勢で断固とした抵抗を示し、そのつど西側諸国の応援をとりつけて軍事交戦に応じているが、ロシア軍の執拗な攻撃は止まらない。首都キエフ(キーウ)からは大隊を撤退させたようだが、マリウポリをはじめとする東部ドンバス地域は制圧されつつある。1000人以上の兵士や市民が製鉄所地下の水路に籠もっていて、その光景が一部公開されているというのも、過去のリアル戦争史にはなかったことだ。個人のスマホが映し出す光景がいくらでもふえていくのも異常だ。
 ロシア軍の作戦は混乱したらしく、傭兵(外人部隊)の導入を含めて戦線はぶつ切りになっている。ウクライナ大統領府の高官たちはこの戦争が今後1年以上にわたるかもしれず、かつてのイスラエルと中東諸国の数次にわたる中東戦争のようになる危険性もあるという見方をしはじめた。
 なぜプーチンの戦争は止(や)まないのか。誰もがその疑問をぶつけたがっているが、この疑問は空中の大風船のようにふくらんだままにある。しかし、プーチンがなぜ戦争を仕掛けたかということなら、とっくにわかっていた。

モスクワ時間2月24日午前6時0分にプーチンは、ウクライナ東部で「特別軍事作戦」を開始することを決定したと発表。数分後に、キーウ、ハルキウ、オデーサ、ドンバスで爆発が報告される。折しも、国連安全保障理事会ではまさにウクライナ東部に関する緊急会合の最中であった。国連事務総長のアントニオ・グテーレスは、会合後の記者会見で「戦争を始めるな」と涙を浮かべてプーチンへ呼びかけた。

ロシアのウクライナ全面侵攻計画と紛争発生地。黄色がウクライナの領土で、赤がロシアの占領地域である。(2月21日〜4月29日)

2月27日から3月30日に発生したブチャの惨劇。AFP通信の記者は「静かな並木道に、見渡す限り遺体が散乱していた」と報じた。

4月4日、ブチャを視察したゼレンスキーは、「ロシア軍の一連の行動はジェノサイドである」と主張した。

スロバキア国境付近。ウクライナからスロバキアへ逃れる難民。

3月16日に破壊されたマウリポリ市内の劇場。爆撃当時、子どもを含む数百人の市民の避難場所になっていたとされる。劇場前広場には爆撃機に訴えかけるため、Дети(ロシア語で「子どもたち」)と大きく記されていた。

キーウ中心部に設置されていたウクライナとロシアの友好を象徴する銅像。4月26日に解体作業が行われた。ロシアの像(右)は頭部が落とされている。

4月27日、ウクライナ情勢をめぐり、国連のグテーレス事務総長はモスクワを訪問し、プーチン大統領らと会談を行った。

 4月22日付けのワシントン・ポスト紙が、プーチンの戦争はアレクサンドル・ドゥーギンの「新ユーラシアニズム」を打ち出した地政学的戦略によって支えられていることを、いまさらながら強調していた。
 当然だ。そんなことは、2014年にクリミア奪還を旗幟鮮明にして東部ウクライナ侵攻をはたしたプーチンが、その後に西側諸国やNATOに仕掛けた異常な圧力示威このかた、ずっと丸見えだった。プーチンの妄想はドゥーギン製なのである。
 けれども、ドゥーギンのことは伏せられてはいないにもかかわらず、いまもって正面きって語られない。ましてグミリョフやリモノフについては、ほとんど知られていないままにある(日本では、ぼくが知るかぎり東浩紀の「ゲンロン6」のロシア現代思想特集がとりくんでいた程度だ)。プーチンの狂気じみた戦争観はこの「ほとんど知られないままにある」ところからリロセーゼンと出所した。このリロセーゼンは近代ロシアの過敏かつ鈍重な民族観がもっていたものだ。
 過去すでに5人の洞察があった。ドストエフスキー(950夜)はロシアの思想がいかに怪物を生み出すかを抉(えぐ)っていた。ケインズ(1372夜)はロシアが哲学的幻想だらけの“仮想真実”でできていることを見抜いていた。ハンナ・アーレント(341夜)は独裁制や全体主義においては「真っ赤な嘘」ほど威力をもつとみなした。アイザイア・バーリン(ラトビア出身のオックスフォードの哲学者。主著に『自由論』)は「ロシアは思想を吸収する能力にかけて驚くほど敏感である」と喝破した。初めてプーチンと出会ったドイツ首相のメルケルはすぐに「彼は別世界に住んでいるわよ」と告げた。
 今夜はそういうロシアが、ついにプーチンの戦争に及んだ「出だし」だけを書いておきたい。そこには「ユーラシアニズム」という名のノヴォロシア(新ロシア)が爆(は)ぜていた。

ユーラシアの地図を前にするプーチン(本書図版より)。共産党員の父と信心深いロシア正教徒の母、祖父はソビエト連邦の初代指導者ウラジーミル・レーニンに仕える料理人という家系に生まれる。スパイに憧れを抱き、10代前半の頃からソ連国家保安委員会(KGB)への就職を真剣に考えていた。

アレクサンドル・ドゥーギン(本書図版より)。西側諸国のリベラルな思想を徹底批判する、ユーラシアニズムの思想家。神秘主義にも傾倒し、盟友エドゥアルド・リモノフからは「ファシズムの聖者、聖キリルと聖メトディオス」と形容された。

ドンバスの戦闘の期間中、兵士たちがつけていた「ノヴォロシア」の部隊標識。

 アレクサンドル・ドゥーギンは、激情の理論家として知られたレフ・グミリョフの歴史思想を譲りうけた地政学者である。そのレフ・グミリョフは、ロシアを「パッシオナールノスチ」(前進して変化をつくる能力)によってユーラシアの雄にすることを、まるで犬笛のように吹きまくった歴史家である。二人がユーラシアニズムの基本シナリオをおおむね準備した。
 1999年に発表されたドゥーギンの『地政学の基礎』は、欧米のシーパワー(海)に対するに、ロシアがランドパワー(陸)に依拠してNATOの多極化を画策するべきだという構想を描いたものだった。たとえば飛び地のカリーニングラードをドイツに返却して中央ヨーロッパを内政化させ、それに乗じて欧州全体を徐々にフィンランド化させるべきだというのである。
 NATOがそんな甘い手に乗るはずがないかどうかは、考慮しない。ドゥーギンはまた、中東ではトルコを反ロシアから転換させるためにイランやクルド人と組み、極東では日本にクリル列島(千島列島)を譲渡して、そのかわり日米同盟を解体させるようにもっていくべきだと説いたのだが、これまた実現しそうもないシナリオだった。
 けれどもたとえば、中国のプレゼンスをインドシナ半島に南下南進させ、フィリピンやオーストラリアなどの親アメリカ勢力と拮抗もしくは対決させるという勝手な(アメリカが応じるはずもない)シナリオは、習近平の一帯一路戦略や台湾戦略と重なるところが生じて、ひょっとすると進捗しそうなのである。

 実現可能かどうかはさておくとしても、こうしたドゥーギンの勝手な世界戦略はプーチンの胸に突き刺さった。
 二人の蜜月期間も長い。ドゥーギンは早くに熱狂的なロシア・ナショナリズムを謳う政治思想家として、モスクワ大学の学部長となり、クレムリンのブレーンになってきた。2002年に「ユーラシア党」を、2005年には「ユーラシア青年連合」を設立して、欧米の自由民主主義、金融資本主義、個人主義、グローバリズムを徹底批判していったことも、プーチンには心地よかった。
 それにしても、どうしてロシアはこんな粗雑な国際戦略と睨めっこしながら自由世界を敵にまわすのか、容易には理解しがたい。コスパも悪い。その理解しがたいところをロシアの21世紀に踏みこんで解きほぐしたのが、本書『ユーラシアニズム』だった。

 著者のチャールズ・クローヴァーはフィナンシャル・タイムズの元モスクワ支局長で、1998年からはウクライナに滞在してユーラシアニズムの動向をつぶさに観察した敏腕ジャーナリストである。以来、ドゥーギンとは8年の親交がある。西側でも稀有のロシア通ジャーナリストとして知られる。
 本書があきらかにしてみせた「ユーラシアニズム」という汎ロシア的なネオナショナリズムは、もともとはニコライ・トルベツコイとローマン・ヤコブソンの言語学が用意し、これにグミリョフとドゥーギンが大胆な歴史観と地政学の大樹をはやしたものである。
 トルベツコイは実父がモスクワ大学の学長で、叔父はウラジミール・ソロヴィヨフだった(『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャのモデルに擬せられていた)。ソロヴィヨフの甥には、黙示録にぞっこんの詩人アレクサンドル・ブロークがいた。
 そんな血脈を背景に、トルベツコイは若いときはロシア・フォルマリズム(ロシア・アヴァンギャルドを巻き込んだ独特の文芸美術形式主義運動。構造主義や文化記号論を先駆した)に熱中し、その後はスラブ言語の音韻と意味をめぐるルーツ研究に打ちこんだ。そこにユーラシア言語群が噴き出した。
 トルベツコイの6歳年下のローマン・ヤコブソンは、ロシア革命下ではモスクワの前衛芸術運動の創始メンバーとして疼き、ついではロシアにおける一人称単数の問題に関心を寄せ、独特の言語学を構成したくなっていた(本人は家族に対しても自分のことを一人称単数では喋らなかったらしい)。

チャールズ・クローヴァー(左)と『ユーラシアニズム』の原書(右)。1987年より英国の有名紙”Daily Telegraph”の環境担当編集者を務める。BBCテレビ、スカイ、BBCラジオのニュースや、英国を代表する長編テレビニュース番組「ニュースナイト」にも頻繁に寄稿している。

トルベツコイとヤコブソン(左)。発生起源の共通性に基づく語族とは異なる、地理的に隣接する複数の言語が似た性質を有する「言語的類縁性」による言語分類を提唱。言語の「氏」だけでなく「育ち」も取り入れた両者の言語学観から、ヨーロッパ人ともアジア人とも異なるユーラシア人の独自の歴史的発展を解明するユーラシア言語同盟という概念がうまれた。

 やがて二人が出会うと、自分たちが考えている「原・言語」が既存ヨーロッパの文法や知識では説明できないと感じ、音韻・単語・語彙・言語構造には民族の歴史とその変転がさまざまに埋まっていることを確信する。
 トルベツコイはウクライナ語とベラルーシ語とロシア語が13世紀に同根から生まれたとみなし、とくにウクライナ南部で母音が変化したことが、その後の中欧語や北欧語との混交を促したと分析した。岩波書店から『音韻論の原理』が訳出されている。ヤコブソンは、これはぼくがまだその理由と説明ができないでいることなのだが、民族言語学をボルツマンの熱力学と結びつけ、言語が熱力学第二法則と似た原理を内在させているだろうと見ていたようだ。
 二人はロシア革命から第一次世界大戦に激動が続くなか意気投合し、ヤコブソンが「ユーラシア言語同盟」をおこし、トルベツコイが「ユーラシア文化集合体」に依拠した。こうしてトルベツコイの『ヨーロッパと人類』『東方への脱出』が大いに読みまわされた。この「東方」とはルーシ人(古ロシア人)の記憶にひそむ「タタールの軛(くびき)」をどうするかということだ。
 1925年、ヤコブソン、トルベツコイ、ピョートル・サヴィーニ、エミール・バンヴェニストらはプラハ言語学サークル(Prague School)を立ち上げた。これは言語学史では誰もが知っている言語学的構造主義の輝かしい登場だった。ソシュールの影響を受け、レヴィ=ストロース(317夜)に影響を与えた。しかし、これらの初期ユーラシアニズムはスターリンの暴政のもと、次々に地下にもぐりこまされることになる。トルベツコイはのちにこう書いた。この一文には「プーチンの戦争」の明日を暗示させるものがある。
 「われわれは診断医としてすぐれていたし、予言の数々も悪くはなかった。ところがイデオローグとしてまことにお粗末で、予言では的中させたのに、それは悪夢へと一変した。われわれはユーラシア文化が登場すると予言した。その文化がいざあらわれると、それは完全な悪夢のように、われわれを慄然たる思いで後ずさりさせた」。

プラハ言語学サークルは1920年代のチェコ・プラハで興った構造主義の言語学派。写真は彼らが主催する初の国際会議の参加者たち。プラハ言語学サークルの研究はのちの統語論、文体論、文芸論など幅広い影響を与えた。メンバーがチェコ人、ロシア人、ウクライナ人、セルビア人、ドイツ人という多国籍であるだけでなく、国籍、身分、政治信条、芸術的感性も異なる者たちが同じ言語学のフロンティアを抱いて共同研究を繰り広げた新しい「連合」のようであった。

 スターリンの粛正はソ連をめちゃくちゃにした。レフ・グミリョフはカラガンダ労働収容所に入れられているうちに、ロシアの歴史の書き換えに走った。フン族、テュルク族、モンゴル族を研究し、それらとルーシとの葛藤を組み立ててみると、そこに「相互補完性」のようなものが作用していることに気がついた。
 進化的ではなく、また発展的でも淘汰的でもなく(つまりダーウィニズム的でなく)、独特の行ったり来たりで民族社会が育まれていくこと、とくにロシアの歴史にはそれがぴったりあてはまることに注目したのだ。グミリョフはこの相互的な力をロシア正教とヘーゲル学の色合いをこめて「パッシオナールノスチ」と名付けた。かつてマキャベリ(610夜)やヴィーコ(874夜)が「ヴィルトゥ」と呼んだものに近い。
 しかしグミリョフの『匈奴』や『古代テュルク系諸族』や『想像の王国を求めて』(プレスター・ジョン伝説についてのモンゴル論考)は、長らく注目されなかった。ロシア人にとって、ロシア史はニコライ・カラムジンの『ロシア国家の歴史』全12巻一辺倒なのである。それがフルシチョフによる「雪解け」でいよいよ議論の俎上にのぼってきた。グミリョフの著作はいささか空想がまじった歴史観ではあったものの、その民族創成の見方には西側を納得させるに足る「エトノス」(同系文化を共属する独立単位集団)があると認められた。

強制労働によって建設された、モスクワ運河の状況を視察するスターリン。1929年からスターリンが亡くなる1953年までに、1800万人がグラーグと呼ばれる強制収容所に移送され、数多の労働に従事させられた。

大粛清の影響は、政治家だけでなく一般市民にまで及んだ。138万人が即決裁判で有罪とされ、68万人が死刑判決を受けた。1940年には「カティンの森」で22000人のポーランド人が虐殺された。最後のグラーグが閉鎖されるまでの間に、ソビエト全土で消息不明になった人々は数百万に及ぶ。

9歳の時に秘密警察に父親を処刑されたグミリョフもまた、大粛清の影響を受けた。26歳から47歳までの内、15年間をグラーグで過ごした。その過酷な監禁生活の中でグミリョフは神秘主義とユーラシア主義に傾倒していく。

グミリョフは、宇宙的エネルギーから生命が受ける影響(パッシオナールノスチ=激情)によって、歴史が動き民族も生まれると考えた。グミリョフはロシア人を、14世紀の「クリコヴォの戦い」(図版)で放出されたエネルギーによって生まれた、新しい活力溢れる民族とした。それに対し西側諸国の人々を、はるか昔の宇宙線から生まれた、古びた没落途中の民族であると考えた。

 フルシチョフからブレジネフに政権が移ると、政権内部にロシア党派とユダヤ党派の対立が目立つようになった。もはやマルクス主義の行き場がない。
 さらにゴルバチョフがあらわれてペレストロイカが始まると、それまでの「ソ連」の束縛があまりに放埒にほどけてしまったので、それまで抑圧されていたロシア思想がことごとく唸りを上げて噴きこぼれてきた。バーリンは「ロシアは思想を吸収する能力にかけて驚くほど敏感である」と言ったけれど、敏感というよりも伏せられてきた激情が次々に噴き出てきたのだ。本書はこう書いている。「マルクシズムは消えた。放り出された。後にはがらんどうの空き地だけが残った。空白を埋めるのはナショナリズムか超ナショナリズムしかなかった」。
 ここに登場してきたのがアレクサンドル・ドゥーギンの、大胆不敵ではあるが、そうとうに独りよがりのロシア民族主義的地政学だったのである。

ソビエト8月クーデターの写真(1991年)。ソビエトを構成する15の共和国の権限を拡大しようとした新連邦条約に反対した、ゲンナジー・ヤナーエフ副大統領ら保守派グループが起こした。市民の抵抗により失敗に終わり、逆にソビエト連邦の崩壊を招いた。

ペレストロイカは、1980年代、ゴルバチョフによって、グラスノスチ(公開性)、ウスコレーニエ(加速化)とともに掲げられた政治的スローガン。直訳は「再建」。信仰の自由を認め、複数政党制と大統領制の導入などを行った。写真は、チェルノブイリ原子力発電所事故の翌年である1987年に、アメリカとの間で結んだ、中距離核戦力全廃条約の調印式の様子。

 本書は若き日のドゥーギンがモスクワの「ユジンスキー・サークル」(ユーリー・マムレーエフのカリスマ性によるアンダーグラウンド・ムーブメントの拠点)に出入りして、どんなふうに神秘主義にかぶれていたかをそこそこ克明に綴っているが、そのへんは省略しよう。スーフィズムやロートレアモン(680夜)やルネ・ゲノン(神秘主義哲学者)に惹かれていたようだ。
 反体制的なユジンスキー運動は当然にKGBに目をつけられたが、ドゥーギンはしょっ引かれるたびにその組織性に関心をもった。のみならずドゥーギンはロシアという国家共同体にはKGBをも覚醒させる世界戦略が欠如していることに地団太を踏む。これはなんとかしなければならない。そこでまずは『専制の手法』と『福音の形而上学』を書いた。ロシア・エリートの価値観を鮮明にさせるためのもので、これが評判になって旧ソ連の国防関係機関で講演を依頼されるようになった。そのぶん学界からはファシスト扱いされた。
 そういうドゥーギンに目を細めたのは、フランスのアラン・ド・ブノワだ。「フランス新右翼の霊感」と言われた男だ。海外からの評価を得たドゥーギンは意気揚々である。パリでも講演活動をし、その成果をロシアに戻ると軍事ノーメンクラトゥーラたちに振り撒いた。「赤いエリート貴族」たちだ。ここに広がりはじめたのが「ユーラシアニズム」という用語である。
 1997年、ドゥーギンは『地政学の基礎』を書き、ロシアにとってどこがハートランドであるか、熱っぽく呈示した。アメリカのフーヴァー研究所のジョン・ダンロツプは、「共産主義以降のロシアで刊行された本で、軍部・警察・外交のいずれの分野でもこれほどの影響力を及ぼしたものは他にない」と敵をほめた。
 かくしてドゥーギンのまわりには、いかにも怪しくて危険きわまるような人物がさまざまに接近していくことになる。その一人に国家ボルシェヴィキ党を率いたエドゥアルド・リモノフがいるが、今夜はこの稀にみる奇矯な危険分子については言及しないことにする(どこかで別の本にからんで千夜千冊したい)。オリガルヒ(新興財閥者たち)や効果的政治団体(コンサルタントたち)も近づいてきたが、このことも省く。
 そんななか、ロシア人としてドゥーギンの理論に最も強く関心を示した男がいた。チェチェン紛争で失脚したエリツィンに代わって台頭してきた、誰あろう、ウラジミール・プーチンである。KGBの予備大佐から秘密警察FSBの長官にのぼりつめていた。プーチンの言語はチェキスト(チェカをはじめとする秘密警察グループ)の専用ボキャブラリーでかためられていたらしく、そこへドゥーギン製のユーラシアニズムのウルトラナショナルな言葉づかいがビタミン剤のように染みこんでいった。

ユージンスキー・サークル、別名「マムレーエフ・サークル」は、ユージンスキー通りのマムレーエフ宅で開かれた非公式の文学・オカルトクラブである。この会合は、後の多くの著名なロシアの人道主義者の思想や見解に大きな影響を与えたと考えられている。左からヴァレンティン・ヴォロビエフ。ウラジーミル・コトリャロフ(トルストイ)。タチアナ・ゴリチェヴァ。マムレエーフ。イーゴリ・ドゥディンスキー。

アラン・ド・ブノワ。中道右派と極右の間で評価が別れているジャーナリストであり政治学者。ドゥーギンは政治思想を自由主義、共産主義、ファシズムの三種にわけ、これらを克服する第四の政治理論「エセルチ(Esserci)」を考案して、リベラリズム批判としてのブノワの思想を後押ししていると見なされている。下の写真はブノワ(左)とドゥーギン(右)の対談風景。

KGB時代のプーチンの身分証。旧東ドイツの秘密警察シュタージが発行したとされる。東ドイツ共産党やシュタージで要職にある職員からの技術的機密情報の盗取、東ドイツを訪れる西側諸国の人間への接触、西ドイツへの密入国などの任務を遂行していたと推測されている。

1988年、ソ連訪問時に赤の広場を歩くレーガン大統領。左端に映る金髪の男性はKGB時代のプーチンとされる。

 プーチンがおこした第二次チェチェン紛争が、ドゥーギンの理論で組み立てられたものだったかどうかは、わからない。しかしチェチェンの野戦司令官だったホジ=アフメド・ヌハーエフをプーチンが取り込んだのは、「ドゥーギン製の地政学」のそのままの適用だった。ヌーエフは「ユーラシアニズムはロシア正教とイスラム主義を結びつけるはずだ」と豪語した(チェチェンはムスリムの地域)。
 2001年、9・11同時多発テロが勃発し、アメリカは世界のテロ組織を相手に容赦ない反撃戦争を仕掛けることになった。プーチンはこれに乗じて表向きの親米路線をスタートさせると、その一方でいかにアメリカを裏切ってロシアのユーラシア化を成就するか、少しずつ狙いを定めたがっていた。2003年から翌年にかけてグルジア(ジョージア)とウクライナでおきたバラ革命とオレンジ革命は、プーチンを慎重にもさせ、疑り深くもさせ、いつユーラシアニズムの軍事化を始めればいいのかということについては、そのことこそがプーチンのアタマをいっぱいにさせた。
 2006年、プーチンの側近中の側近であるウラジミール・ヤクーニンは『ロシア地政派』を書いた。これはさしずめ「ドゥーギンのプーチン化」だった。お膳立てが揃った。
 このあと、何がおこっていったかはほぼ一直線だ。南北オセチア問題、ジョージア侵攻、リーマンショックによるルーブル暴落、反クレムリン・デモ、メドヴェージェフ解任‥‥。これで大きな歯車が元に戻った(ように、見えた)。プーチン・ロシアのユーラシアニズムの実践講座の開闢が始まった。
 2010年、カザフスタンとベラルーシと関税同盟を結ぶと、ベラルーシのミンスクに「ユーラシア法廷」を立ち上げ、2013年からはEUの拡張を邪魔立てし、ウクライナを脅した。翌年、キーウでマイダン革命がおこり、政権派とユーロ派の激突としてヤヌコヴィチ大統領が失脚、ロシアへ亡命した。このあとの大統領選で俳優ゼレンスキーが登場して当選した。ウクライナはEUとNATOに近づいた。
 プーチンはウクライナのNATO接近を強力な方法で分断することに走る。ウクライナ東部を「ノヴォロシア」と呼び、親ロシア派の軍事力を次々に潜入させていった。
 あとはウクライナが折れるかどうか。ここから頻度の高い駆け引きが続くのだが、プーチンはぎりぎりになってこの展開を読み誤った。大統領ゼレンスキーはまるで逆ドゥーギン=逆プーチンとして「欧米をとりこむユーラシアニズム」を標榜してきたのである。
 プーチンは容赦なくミサイルを打ち込むことにしたけれど、戦況はこじれている。欧米からの武器弾薬が供与されもした。その後の事情の一部は、諸君がニュースでご存知の通りだ。その後のドゥーギンの動向はそのうち明るみに出るだろう。

プーチンは一貫して、周辺を親ロシア化することに余念がなく、武力の行使も辞さない。

1999年に始まった第二次チェチェン紛争ではチェチェン共和国(アフマド・カディロフ政権)を樹立。

2008年の南オセチア紛争ではジョージア内のアブハジアと南オセチアを支配下に置いた。

一方で、民衆はこれまでたびたび反プーチンの狼煙を上げている。2003年にはジョージアでバラ革命が、2004年にウクライナでオレンジ革命が起こった。ロシアでは2011年~2013年に大規模な反クレムリン・デモが何度も行われた。

プーチンはロシア正教会との関係を深めている。なかでもモスクワ総主教のキリル1世とはKGBのエージェントだった共通点があり、精神的盟友だと言われる。キリル1世とロシア正教会は、現在のウクライナ侵攻を支持している。

3月1日に首都キーウのテレビ塔にミサイルが落とされた。世界中が息を呑み、ここから21世紀戦争の序幕が切って落されることになる。
TOPページデザイン:富山庄太郎

図版構成:寺平賢司・梅澤光由・大泉健太郎・米川青馬・穂積晴明・上杉公志・富田七海 

⊕『ユーラシアニズム』⊕

∈ 著者:チャールズ・クローヴァー
∈ 編集:松島倫明・塩田知子 ∈ 協力:小林丈清・奥村育美・加賀雅子 
∈ 校閲:酒井清一
∈ 装幀:岡孝治
∈ 発行所:NHK出版
∈ 発行:2016年

⊕ 目次情報 ⊕
∈∈ はじめに
∈ 第1部 黎明期(ニコライ・トルベツコイ;第三の道;西欧化からの脱却;「トレスト」の罠)
∈ 第2部 混迷期(レフ・グミリョフ;ボリジョイ・ドーム;労働収容所)
∈ 第3部 復興期(アレクサンドル・ドゥーギン;一九九〇年パリ;サタンのボール;ハートランド;プーチンとユーラシアニズム;政治的テクノロジー;尻尾が犬を振り回す;パッシオナーリーの輸出)

⊕ 著者略歴 ⊕
チャールズ・クローヴァー(Charles Clover)
アメリカ人ジャーナリスト。『フィナンシャル・タイムズ』紙の前モスクワ支局長。現在は中国特派員として北京在住。同紙特派員としてウクライナに在住していた1998年からユーラシアニズムの動向を追い続け、2011年に、英国報道賞の海外特派員賞、およびマーサ・ゲルホーン賞を、2014年に、ロシア・ノーボスチ通信賞を受賞