フィリップ・K・ディック
ヴァリス
サンリオSF文庫 1982 創元SF文庫 1990
ISBN:4488696058
Philip K. Dick
VALIS 1981
[訳]大滝啓裕

 ブライアン・オールディスは早々と「ディックとバラードだけが読むに足る作品を書いている」と選んでみせた。アーシュラ・ル・グインは「わが国のボルヘス」という、グインにとっての最大級の賛辞をつかった。ティモシー・リアリーはディックを20世紀をとびこえて「21世紀の大作家」と名付け、さらには「量子時代の創作哲学者」と褒めちぎった。ジャン・ボードリヤールは「現代の最も偉大な実験作家である」と書いた。
 アート・スピーゲルマンは「20世紀前半におけるフランツ・カフカと20世紀後半におけるフィリップ・K・ディックは同じように重要である」と言った。きっと1963年にヒューゴー賞を受けた『高い城の男』を読んだのだろう。あれは哲学的迷路というものが初めて稠密なSFになった記念碑だ。舞台は第2次世界大戦後にアメリカの西部が日本によって、東部がドイツによって分割統治されるという、とんでもない設定のネーベンヴェルト(パラレルワールド)になっていた。
 いまおもえば、あの主人公ホーソン・アベンゼンこそ、その後のディックの作品に繰り返しあらわれる「コイノス・コスモス」(社会的共有世界観)と「イディオス・コスモス」(個人的幻想世界観)との対決を辞さない男の原型だった。
 しかし長いあいだ、ディックが何かの原型や母型を求めているとは思われていなかった。ディックはもっと多様な才能の持ち主だと思われていた。ロンドンタイムズが「あらゆる種類の文学を試みたフィリップ・K・ディックこそが欧米の前衛作家の全員の顔色をなからしめている」と書いたのもそのせいだったろう。
 こういうぐあいにディックをめぐる評価には尖ったものも、その才能に感嘆しきっているものもあるのだが、しかし、いまなおその真骨頂が文学としても思想としても申し分なく語られているとは思えない。
 とくに『ヴァリス』においては――。

Vast Active Living Intelligence System。
 これが“VALIS”の正式名称である。本書を訳した大滝啓裕の訳以来、「巨大にして能動的な生ける情報システム」と訳されているヴァリス。ディックのボルヘスふうの知的トリックだが、架空の『大ソビエト事典』第6版には、次の説明があるという。「巨大にして能動的な生ける情報システム。アメリカの映画より。自動的な自己追跡をする負のエントロピーの渦動が形成され、みずからの環境を漸進的に情報の配置に包摂かつ編入する傾向をもつ、現実場における摂動。擬似意識、目的、知性、成長、環動的首尾一貫性を特徴とする」。
 小説『ヴァリス』のなかではこの名は、これまたディック得意の仕掛けによって、同名のSF映画として登場する。ロックグループのマザー・グースのエリック・ランプトンが監督・脚本・主演している映画だ。エレクトロニクスの天才が経営するレコード会社とホワイトハウスを二つの舞台にした映画で、どうもニクソンの陰謀と失脚が“VALIS”とおぼしいシステムによって動かされていたという筋書きになっているらしい。「らしい」というのは、こうしたことは小説『ヴァリス』の登場人物たちの断片的な会話によってしか語られていないので、映画の“実態”はわからない。ようするにヴァリスはこのSFの題名であって、映画の題名なのである。
 だいたい小説『ヴァリス』そのものが多重の構造というよりも、多重の構想が錯綜して、こう言っていいなら、古代から未来をさえ引き取って進む。要約はほとんど不可能に近い。

『in search of planetary nostalgia』

 主人公ホースラヴァー・ファットは親しいガールフレンドのグロリアの自殺を止められなかった。これが発端である。ファットはこのことに耐え切れず、自分が自殺を幇助したとか贖罪をどこに求めるかといった精神的苦痛によって、しだいに狂い始める。ファットの妻もドラッグのせいか、前年に精神病で死んでいた。
 主人公が狂い始めたのだから、この先、いったい何が実際に進行したストーリーで、何が妄想によって語られたものなのかは判別しがたくなってくる。時代は1960年代後半から70年代にかけてのことになっている。事態の進行は、ファットの友人の「わたし」によって報告されていく。そこにファットの「日誌」が絡む。「日誌」にはたいてい宇宙が情報で構成されていることとか、脳がその情報の配置の一部しか感知できないこととか、世界は理性によってはとうてい理解できないといったこととかが断片的に述べられている。
 ファットはこのような宇宙的汎知性を最初は「ゼブラ」と名付けた。“それ”がシマウマの縞のような混合的な“Active Living Intelligence”と見えたからである。
 こうしてファットは「神」に出会い、ピンク色の光を体験し、完全な死をめざす。

 物語はこのように進むのであるけれど、ディックが死んでからのちに判明したように、この物語に始まった“ヴァリス三部作”は、それまでディックが書いてきたディストピア・オデッセイとは決定的に異なるものが発散していた。
 ディックはこの三部作を書いて1982年に死んだ。まるで三部作は遺言なのである。実際にも作品にはディック自身の終焉を取りこみ、死を予感したディックがそれまであえて紆余曲折を見せつつ人類の宿命を問題にしてきた多様なテーマを、一種の黙示録めいて提出しようとしたようなところがあった。
 なぜディックがそのような試みに突入していったのか、それがなぜ「巨大にして能動的な生ける情報システム」の宿命になっていったのかは、まだほとんど議論されないままにある。というのも、この“ヴァリス三部作”によって、ディック自身が発狂してしまっていたのではないかという憶測が流れ、そっちの話題にディックが包まれてしまったからだった。この憶測はいまなお否定されてもいないままになっている。

 いまではディックのファンにはすっかりお馴染みになった「2-3-74」は、1974年2月から3月にかけて、ディックが不気味で異様な夢や幻覚や音声に見舞われたときの体験を示す符号である。ディックはこのときフィボナッチ数列の光の放列の奥にグノーシス的な叡知のときめきを感じた。
 この「2-3-74」体験をへて、ディックは数年間にわたってグノーシス主義やクムラン宗団の文献を読み、その周辺を探索し、そしてついに『ヴァリス』を書いたのであろうとおもわれる。執筆は1980年に突入していた。続けて『聖なる侵入』『ティモシー・アーチャーの転生』を発表した。これが“ヴァリス三部作”である。

 ぼくが『ヴァリス』を読んだのは、翻訳が出てまだ数日もたっていなかったころである。一読、三分の一ほど進んだところで、なんと「エントロピーによる虚無」って書けるのかと思った。そして、この奇怪な物語装置は太古から続いているある種の神秘宗教の総決算であって、また、それを十全に処理しきれなかったディックの科学主義が消費しつくせなかった残骸のように見えた。
 宇宙の大エントロピーが生命という小エントロピー(負のエントロピー状態)にさしかかって、生命誕生以来の何事かの「情報システム上のいたずら」を数十億年にわたってしてきたことはわかっている。それが遺伝情報における“誤植”という事件であった。その途中で人類という“別の知性”が派生して、その知性が個体としてはたかだか数十年で夥しい死を数珠つなぎに経験してきたこともわかっている。言葉や道具や絵画や機械はその途中にもたらされた「別のいたずら」による産物である。
 しかし、このことが宇宙の情報システムのどんな誤作動によるものか、またその誤作動をどうして一部の人類が解読しようとしたのかは、まだわかっていない。

 ディックはいつしか、宇宙の一部ないしはホロニックな全体のそこかしこに「生ける情報」(Active Living Intelligence)があると見て、それが生命情報システムとして人類にさしかかったものを「プラスマテ」と名付けることにした。
 プラステマといっても特別のものじゃない。一般にはこのプラスマテのことを「精神」とか「魂」とよんでいる。人類とは本来はホモ・プラスマテなのである。ディックは、宇宙の情報エントロピーはまわりまわってこのプラスマテ形態になっていると考えた。
 ここまでは、とくにディックだけに特有な独創ではない。プラスマテとよぶかどうかをべつにすれば、ほとんどの哲人や宗教者はそういうことがありうると考えてきた。ぼくのようなぼんくらにも、そんなことは20代の後半にほとんど見えていたことだ。その一部の直観は『自然学曼陀羅』にも書いたし、その後の『遊学』にも散らしてある。
 だからここまでのことは、宇宙生物学遺伝情報論、ヘラクレイトス、ゾロアスター教義インド六派哲学新プラトン主義カバラ文献パスカルスピノザ程度を読むだけでも、十分に見当がつく。いや、古代宗教者の大半がプラスマテに近いことをアヌやらヌースやら般若やら六現観といった別の言葉で言いあらわしていた。

 ところが、ディックはこのプラスマテはごく一部の人間にしか感知できなかったと考えた。そして、その一部の人間にエリヤやアスクレピオスやテレピヌスや、そして魔術師シモンやイエスやクザヌスやヤコブ・ベーメを充てた。
 こうなると、これは「菩薩はプラスマテの受信者であった」とか「グノーシスは宇宙情報システム解読の記録であった」と言っているようなもので、ここからはディックの狂気と妄想なのである。PKDカルトなのである。PKDはフィリップ・K・ディックの頭文字のことをいう。
 けれどもこのPKDカルトが“ヴァリス三部作”を記述させた。でなければ、残念ながら、こんな“傑作”は生まれない。それはそうなのである。ディックはついに長年にわたった「コイノス・コスモス」と「イディオス・コスモス」との対決に決着をつけたのだ。が、それだけに、そういう決着の経過を描いた『ヴァリス』を読むことは、人類が総じて受容した情報システムの正体と向きあうことを読者に強要することになり、ぼくのような優しい心情の持ち主からすると(ふっふっふ)、こういう対決を読者が引きかぶるのはあまりに気の毒のようにも思えるのである。
 つまりは、この最期の“ディック”は真剣すぎるのだ。そして、そのわりにはその後の事態が“Vast Active Living Intelligence System”を宇宙というより、地球に引きずりおろしてしまったことを、不幸にもディックは予感できなかったと言うべきなのである。このことはぼくも参加した『インターネット・ストラテジー』(ダイヤモンド社)を読んでもらえば、すぐに見当がつく

 こうして『ヴァリス』の読み方にはいろいろの楽しみ方を変奏したほうがいいということになる。
 第1には、おそらく最も知的な読み方が翻訳者の大滝啓裕が試みたように、ここに頻繁に登場してくる神秘思想を複合的に賞味することだろう。とくにシモンの知やグノーシス思想について、これほど興味深く採りこんだものはなく、それを啄むだけでも十分に楽しめる。
 第2に、ディックの精神の軌跡を追いながら読むのは、正統SF派の読み方で、多くのSF読者が試みてきたはずだ。ただしこのためにはル・グインをはじめ60年代SFのエキスを浴びていなければならず、こうした免疫がないままに“ヴァリス三部作”から入ってしまうと、たいへんな混乱を生じるだろう。知がずたずたにされてしまうということもある。が、ディックが文学として認められるには、このような読者をこそ通過しなければならなくなっている。
 第3に、もうちょっと気楽に読む気なら(これは実は不可能に近いのだが)、先にディックが書いたエッセイを読んでおくことだ。『フィリップ・K・ディックのすべて』(ジャストシステム社)というノンフィクション集成が刊行されているので、ここに収録されているディックの文章で地ならしをしておくといい。
 リドリー・スコットが『模造記憶』と『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』を下敷きに、かの『ブレードランナー』を映画にしたのはよく知られている。しかしディックがこの短い原作が映画になりうることを1968年にとっくにノートとして発表していたことなどは、この『フィリップ・K・ディックのすべて』でなければわからない。
 第4にの楽しみ方は、ディックへの入口を『高い城の男』か『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』か『ユービック』にし、それからおもむろに『ヴァリス』を楽しむことだ。これならひょっとしてハリウッド映画のように読める。つまり『ヴァリス』という映画を見るつもりで読むとよい。

 以上はむろん老婆心である。ディックはカフカともル・グインとも違うし、ボルヘスやエーコほどの幻想制御もしていないということを、また、ティモシー・リアリーデレク・ジャーマンのポスト・ジェンダーふうの陽気をもちあわせていないということを、老婆心から語ってみたにずきない。
 しかし、どんな読み方をしようとも、『ヴァリス』(と、その続編)が、今日考えられるかぎりの「宇宙と脳と神秘哲学をめぐる情報システム」を扱った最初で最大の唯一の文学思想的な試みであったことからは、読者は逃れようはないとも思うべきである。ぼくは面倒なのでここには書かないが、カルトを脱出するのはそんなに難しいことではないけれど、そんなことを考えるより、やはりいったんはディックの周到で狂気に満ちたPKDカルトに浸ることなのである。
 そうすれば、これだけは請け合うが、読み終わったのちに、何が何だかわからない自分がそこにぽつんと取り残されるのを感じることだろう。が、そのぽつんとした自分こそ、死を前にしたフィリップ・K・ディックが入念に仕上げたディックその人の虚無そのものなのだった。

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