トルーマン・カポーティ
遠い声・遠い部屋
新潮社 1955
ISBN:4102095020
Truman Capote
Other Voices, Other Rooms 1948
[訳]河野一郎

 一冊の本と出会うには、いろいろなことがおこる。文学作品であっても、文学史のように出会うなどということは、まずありえない。そんな読者は、きっとよほどつまらない研究者なのだろう。
 たまたま本屋で手にした本を読むばあいもあれば、評判に惹かれて読むこともある。買っておいたのにずっと放ってある本を、何かの拍子で読むこともある。それがおもしろくて、ついつい同じ作家や著者をたてつづけに読むことも少なくない。
 問題は、その本をどのような意識状況にいたときに読んだのかということである。その意識状況によっては、別のことに気をとられているときに読んだために、その本のおもしろさがまったくつかめず、十年以上もたってふたたび手にしてみて、しまったとおもうこともけっこうおこる。

 ぼくがトルーマン・カポーティを初めて読む気になったのは『冷血』だった。
 が、この本には残念ながらほとんどなじめなかった。当時は(1960年代の後半は)、アンチロマンやアンチテアトロなんぞを読んでいて、ずいぶんなトンチンカンなのだが、カポーティのこの作品をまるでサミュエル・ベケットやマルグリット・デュラスのつもりで読んだせいだったろう。『冷血』は当時はだれも試みたことがないノンフィクション・ノベルの先駆であったのに。
 それでカポーティを食べなくなった。スキャンダラスな自己宣伝めいたカポーティ像も気にいらなかった。蝶ネクタイ、角縁メガネ、低くて太った体躯、女優の背中にやたらに手をまわしている男。
 加えて「輝かしい破壊の天使」とか「麻薬常用者にしてアル中の天才」といった見えすいたキャッチフレーズがつねにつきまとっていた。それならウィリアム・バロウズマイルス・デイビスが断然なのだ。
 いまおもえば、これらのカポーティの印象の大半はアメリカの雑誌の“やらせ”に近いもので、それを鵜呑みにしていた日本のメディアや批評家にも騙されたということなのだろう。ぼくもまた、どうせ『ティファニーで朝食を』や『冷血』の二番煎じなら、そんなものは読まなくてもいいやという偏見の中にいた。
 それが、ゲイ・カルチャーに関心をもつにつれ、急激にカポーティが読みたくなった。それでやっと出会ったのが『遠い声・遠い部屋』である。

 すばらしかった。
 これが処女作なのか。空気の粒のような文章ではないか。カポーティはこんなふうに少年の魂を書けるのか。町の描写だって徒者じゃない。「ぐらぐらした生姜色の家」だなんて。
 片隅に放置されたオブジェの書き方も手がこんでいる。「火山のようにぱっくり開いた口の中で金歯がびかりと光り、伸びたり縮んだりをつつげる小さな通信販売のアコーディオンは、襞のついた紙と真珠でできた肺のようである」だなんて。
 あんなに俗っぽく見えていた男が、まるで静寂から聞こえてくるエレミア記の響きのような作品が書けるのはなぜなのか。ぼくは一挙にカポーティの周辺が気になってきた。
 しかも、カポーティがこれを書いたのは22歳のときである。各地を転々として2年をかけている。けれども、どの一行にも破綻がなく、透明度が維持されている。処女作ならこのような集中はどんな作家にもありうることなのだが、その才能は群を抜いている。ぼくはその才能を『冷血』では見抜けなかったのだ。

 『遠い声・遠い部屋』の舞台は、アメリカ南部のヌーン・シティとよばれている小さな町である。いわば「白昼街区」といった町の名だ。カポーティ自身が南部の町ニューオリンズの生まれであった。
 そこに、父親を探している少年のジョエルがやってきて、だんだん近づきつつある大人への予感に怯えていく様子が克明に描かれる。カポーティの両親も4歳のときに別れたままになっている。そのため、カポーティは幼いころからルイジアナ、ミシシッピ、アラバマを転々とした。つねに親戚の家にあずけられたのだ。
 このような、親戚をたらいまわしにあずけられた少年の心境は、おそらくはびくびくしたものになる。そのくせ、大人の世界に対しては鋭くも深い。こうして傷つきやすい観察が芽生えていく。その「あわい」がたまらない。まさにカポーティがそういう少年だったのである。
 こういう少年がしだいに年上の者を知り、少女に出会い、勝手な優しいおばさんに声をかけられていく。どうなっていくかは決まったようなものだ。大人への恐怖をもちつつ、自身に萌芽する自我と成熟におののくばかりなのである。

 そのようなネオテニーな少年の目で眺められた世界をどう描くのか。
 カポーティはそこがうまかった。「どんよりと曇った日だった。空は雨に濡れたブリキ屋根のようで、やっと姿を見せた太陽は魚の腹のように青白かった」というふうになる。
 こういう描写は随所にあらわれる。いわばそれらは、成長にとどめを刺したい少年の、フラジャイルな心の文字で綴られた「電気で濡れた文体」なのである。英文では頭韻や脚韻さえ踏んでいた。
 こうして、ぼくはカポーティの熱烈な読者になったのだった。
 が、カポーティのすべてが好きになったわけではない。ホモセクシャルな感覚の表現については、かなりの文句がある。けっして感心しない。のちのヘイドン・ホワイトなどのほうがよっぽどうまい。
 けれども、カポーティの「内なる少年」については、ぼくはいまなお熱烈な共振者なのである。

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