才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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道教

福井康順・山崎宏・木村英一・酒井忠夫

平河出版社 1983

編集:榎本栄一・高津良子
装幀:伊藤政芳・宮内淑子

道士、方士、巫祝、五岳、神仙道。
北斗七星、易、卜筮、本草、風水、奇門遁甲。
守一、存思、五斗米道、太平道、上清派。
タオイズムの歴史は神仙の伝承とともに古いけれど、
道教が発動したのは仏教東伝後のことである。
が、いったん発動したとたん、これほど多様に
特異な生命観を謳歌した信仰は、
世界宗教史でも民間民俗でもめずらしい。
そこには仙人から北斗七星までが、
老荘思想から太極理論までが、
風水から導引術まで、呂洞賓から媽祖まで含まれる。
しかし、まずは古代道教の基本的なアウトラインが
見えてこなければ、何もわからない。

 葛洪の『抱朴子』とアンリ・マスペロの『道教』(平凡社東洋文庫)を手にしてこのかた、ぼくの手元にはざっと200冊以上の道教関係の本がたまっている。老荘関係や「気」や仙境をめぐる本を入れれば500冊をこえるだろうか。学術書もあれば入門書もあるが、まだ読みきれないものもたくさんある。
 なかで30年近く前のものであり、やや堅いところはあるけれど、当時は本シリーズが最もよくまとまった構成になっていた。

 道教がカバーする範疇は、これを広く見れば中国呪術や陰陽五行やタオイズムの全般に及び、そこには神仙道から風水までが、易や漢方から導引術までが入る。狭くとれば教団道教の信仰具合や道士の祈祷だけになる。
 それゆえ一口に道教とかタオイズムといっても、系統樹に収まったり、システマチックに分類できるようにはなってはくれない。そのため道教初心者だけでなく、かなりの道教贔屓になった者にとっても、いったいどこから説明していいのやら、何を教義やドクトリンとみなせばいいのやら、その特色や仕組みがあまりに多彩で入りくんでいて、なかなかアウトラインを摘出できないできた。しばしばそのネステッドな迷宮性にくらくらと戸惑うこともある。
 道教の神々といっても、時代が進むにつれて次から次へとふえていく。多様多産はいいけれど、神々の登場理由には牽強付会が多く、とうてい整理がつくものじゃない。いいかげんな特色もいっぱい付いている。加えて神仙(仙人)のたぐいは奇形や変人を含めてゴマンと山野に棲息してきたのだし、道教経典も続々と編纂編集されていて、そのぶん通俗化も甚だしいものだった。なかには偽経も少なくない。
 が、道教というもの、そんなことは平気なのだ。いくらネステッドでもかまわない。道教ファンにとっては、中国的な民間信仰の大半や自分をふくめた親類縁者の身体の養生のすべてがタオ(道)と関係していて、神農さんも錬丹術の葛洪も仙人たちも、老子(太上老君)も泰山府君も関羽(関帝)も、孫悟空が神格化した斉天大聖も日本では端午の節句に飾られる鍾馗(しょうき)さまも、いまでは漁業関係者や華僑たちから娘娘(ニャンニャン)と親しまれている「媽祖」(まそ)だって、みんな道教の神々なのである。

 そもそもタオ(TAO=道)とは世界の仙胎にひそむ本質のようなもので、天地や人の生死にまつわるすべての「気」の方途(=way)の起源になっている。
 だからタオの原郷(母体)には、蓬莱や五岳(泰山・衡山・華山・恒山・崇山)や崑崙などの幻想的な山岳があてはめられたり、桃源郷や竜宮なども想定されてきた。そんなところに棲むのはおそらく仙人たちばかりで、どんな生活をしているのか見当すらつかないはずなのだが、きっと不老不死の秘密を知っているのだろうと想像されるようになった。そのうちこの仙人を神仙とみなして、せめてはその長生術にあやかりたいものだと思うようになると、そういうことをめざす者たちがいよいよ道士や方士を自称して、これがタオイストとして認められるようになったわけだった。
 このあたりから神仙道にもとづいたプレ道教のプロローグが始まった。やがて呼吸法や食事法や薬事法が精しく神秘化されていくと、ここにしだいに道教の原型ができあがっていく。

 このようなタオイストの活動や修行にとって、老子(1278夜)や荘子(726夜)の無為自然の思想ほどぴったりするものはなかった。プレ道教はただちに老荘思想と結びつき、さらにはその周辺の「易」や「本草学」に共感していった。これが道家とタオイストが重なっていった理由になっていく。
 ごくわかりやすくいえば、道士と道家が信仰し、かれらがオペレーションしていることなら、そのすべてが道教の内実になっていったのだった。
 しかし、ここからさきの道教の伸展はまことに多様で、猖獗をきわめた。また曖昧で、しばしば無手勝流だった。道教が宗教であるからにはさまざまなシステムや神統譜のようなものが教団として必要になるのだが、それらを折から中国に入ってきた仏教との対比対立をへて、そうとう勝手に仕上げていったのだ。
 とはいえ、だからといって、それで道教タオイズムの特色は褪色もしなかったし、衰えるわけでもなかった。かえってありとあらゆる民間信仰を吸収するようになり、しだいに世界でもめずらしいほどの生命観を謳歌する信仰世界を広げていった。その伸展と拡張はまことに自由自在であって、かつ牽強付会だったのである。けれどもそのぶん、いったいどこからどこまでが道教で、どこに道教の根幹があるのかがわかりにくくなってもいった。

 そこで今夜は、そういう捉えがたい道教を少しは「仕組み」を通してふわりと概観してもらうべく、本シリーズに従って入門的なナビゲーションをしておこうと思う。数夜前から森三樹三郎の『老荘と仏教(1437夜)』や金谷治の『淮南子の思想』(1440夜)をとりあげておいたのは、このための前段だ。
 いずれは細部の入り組んだタオイズム論や深化した道教思想を案内したいし、新たな研究成果を盛った雄山閣の「講座道教」シリーズ全6巻や春秋社の「道教の世界」シリーズ全5巻なども紹介したいのだが、まずはごくごくベーシックなところを案内することにする。なお、この「連環篇」ではいまは東アジアの歴史を追いながら選本をすすめているときなので、隋唐以降の道教にはふれないでおくことにする。

 ちなみにぼくが“道教漬け”になったきっかけは、二人の先駆者に出会えたことにある。一人は日本の道教学の泰斗である吉岡義豊さん、もう一人は大シリーズ『中国の科学と文明』(思索社)のジョセフ・ニーダム先生である。大いに触発された。
 ついで慶応の三田図書館で『道蔵』(仏教の大蔵経にあたる)の図像篇をかたっぱしからカメラで複写したことが大きかった。そのころのぼくのチームは興味深い図版や図像があれば、とりあえずカメラで一枚ずつ複写しつづけるということを断乎として励行していたのだが、道教関連の図版が次々に仕上がっていくプロセスはとてもウキウキする作業だった。
 そこで「遊」1978年1004号では、吉岡さんをはじめ、酒井忠夫、下出積輿、上田正昭、大室幹雄、草森紳一諸氏に、タオめく原稿を書いてもらい、そこにジョセフ・ニーダム、フィリップ・ローソンの翻訳を加えて、当時の雑誌特集としてはめずらしいタオイズム特集を組んだ。
 ちなみに草森さんは、このとき李賀(1278夜)の昇天についてたっぷり書いてくれた。ぼくにはそれが夭折の鬼才李賀との劇的な出会いだったのである。もっとも李賀がタオイストであったかどうかは、いまのところまったくわかっていない。

『遊1004』遊学計画78-3-A「タオの世界」
(1978.12 工作舎)より

 どんな道教についての本にも「道教とは何か」という一章がもうけられている。それなのにどんな研究書もそれを適確に定義づけてはいない。とうてい一義的な定義ができないからだ。
 本シリーズでも似たようなもので、いろいろな見方があることを紹介するにとどまっている。けれども、そのように多様な見方があることが道教とのベーシックな接し方であり、付き合い方なのだ。そう言わざるをえない。
 結局は、道家あるいは道士が司っている特色のすべてが道教的なるものなのである。あえてそれを分けてみれば、ざっとは次のような特色を各自各流が誇りあったと思えばいいだろう。それでも目が眩む。

①老荘思想を道教の源とみなす。

②老子を神格化して太上老君・元始天尊などとする。

③それゆえ「道」(タオ)を思想する。また「気」の身体への出入りを重視する。

④深山幽谷に住む仙人のイメージをふくらませて、長生長寿昇天を主たる教旨とする。

⑤古来の「卜占」「蠱術」や「鬼道」(シャーマニズム)を利用する。

⑥陰陽五行説や占星術や「易」を援用する。

⑦長生のための養生術を衣食住に及ぼし、さらに房中術(男女の性愛術)にも及ぼす。

⑧消災滅禍のための「方術」「道術」をつかう。またその訓練をする。

⑨錬丹術や錬金術を追求し、金丹などの薬物生成に長じる。

⑩独自の護符(霊符)を多用して、ときに調伏もする。

⑪神仙道と天師道を混合する。

⑫しだいに教団をもつ「成立道教」(教会道教)と民間信仰として広がる「民衆道教」に分かれていく。

⑬どんどん道教の神々をふやしていく。

⑭偽経も平気でどんどんつくる。

⑮風水も気功も、武術も漢方もとりいれる。

 こんなふうに、いろいろなものが混じってタオイズムや道教になっていったわけだった。
 おそらくは不老不死をキャラクタライズした神仙(仙人)を憧れる者たちの思いが根本の背景にあって、そこに老荘思想や陰陽五行説がまじっているうち、仏教が中国本土に入ってきたことをきっかけに独自の様相を呈するようになったのであろう。

 ひるがえって、道教が経典や組織としての形をなしはじめたのは、けっこう遅い時期だった。
 後漢末に張陵が「五斗米道」をおこし、その流れが張衡・張魯・張盛と4代続き、他方で山東の干吉(かんきつ)が感得したという『太平清領書』に影響された張角が、黄巾の乱とともに「太平道」をおこしたあたりのことなのだ。
 もうすこし正確にいえば、五斗米道が太平道をほぼ吸収して新たに「天師道」を名のっていったあたりからのことだった。
 その後は、魏晋南北朝(六朝)でやっと組織的な道教の力が台頭した。ふつうはこれを「教団道教」とか「成立道教」という。代表的には、北朝では北魏の寇謙之(こうけんし 365~448)が天師道を継承して太武帝の心をつかみ、道教が儒教や仏教に伍する国教になりうる可能性をひらいた。
 一方、南朝では陸修静(406~477)が登場して、道教的祈願法(のちの塗炭斎など)や三洞説(洞真・洞玄・洞神)を確立した。この動きはのちの発展系をふくめて「新天師道」ともいわれる。
 他方、呉の葛洪(かっこう 283~343)が『抱朴子』を著して、金丹などの仙薬による錬丹術や太乙元君などの神仙君主の可能性を説いたのは、東晋時代でのことだった。ぼくは長らく『抱朴子』にぞっこんで、これはぼくの好みによる贔屓目かなと思っていたのだが、その後、あれこれの道教文献や道教研究を読むにつれ、実は『抱朴子』にはその後の道教(タオイズム)の大半の分母が埋設されていたことを確信した。
 その葛洪にひそむアナーキーな香気については、「遊」9号を再録した『遊学』(中公文庫)にぼくの憧憬じみた若書きの解説をしておいたので参考にしていただきたい。

 陸修静の道教を「上清派」(茅山上清派)の道教という。これをその後も継承したのは陶弘景(456~536)だった。陶弘景は『真詰』(しんこう)を編纂して『登真隠訣』を著した。ここで中国史上初めての“道教学”ともいうべきものがあらわれてきた。
 こうして時代は隋唐に入っていくのだが、ここまでは北の道教が国家道教をめざす新天師道型を中心にしていたのに対して、南の道教は比較的緩い自由度をもった上清派のムーブメントによって彩られてきた。中国はいつだって北と南は別々なのである。
 そうしたなか、唐代にはプロの道士(タオイスト)が多く輩出するようになった。8世紀には天真道士、神仙道士、山居道士、出家道士、在家道士、祭酒道士などという区別さえ生まれている。それとともに仙人にもいろいろヒエラルキーが出てきた。A区別では天仙・地仙・水仙を分ける。B区別では神人・真人・神仙・僊人・仙人を分け、さらにC区別として上仙・高仙・大仙・玄仙・真仙・霊仙・至仙を分けた。

道教関係地図
『道教 1 ―道教とは何か』(平河出版社 1983)より

 道教にはむろん経典がある。ただし、かなり勝手なものが多い。
 初期の五斗米道のころは『老子道徳経』(いわゆる『老子』)を重視していたから、まだ独自のものがなく、次の太平道には最初の道教経典といわれる『太平経』170巻があった。
 これらは四書五経のように伝わってきたのではなく、後漢・三国時代以降につくられた。たとえば『太平経』が編纂されたのは、そのころ安世高・支鏤迦讖・鳩摩羅什らの仏教経典の漢訳に対抗したためであって、仏教経典からのヒントも多く含まれる。
 『太平経』の特徴はなんといってもその生命観を溢れさせたことにある。そもそも道教は長生を謳った生命主義型の宗教といえるのだけれど、それはたんなるテクニカルな養生術ばかりなのではなく、「守一」や「存思」のコンセプトに象徴されるように、身体(形)と「精」と「神」を分離させないという生命哲学にもとづいていた。『太平経』はそこをしつこく教義にしようと試みた。
 「守一」については、陶弘景の『真詰』『登真隠訣』にもふれられている。「守一、これ至戒なり」として、「守玄白の道」「守真一の道」だとみなした。これは何かというと、一言でいえば「節度の思想」なのである。道教は人世における多くの快楽を肯定しているのだが、そこに大小無類の節度をたくみにもちこんだのだ。そこがしばしばヨーガともタントリズムとも比較されることろになっている。

 こういうふうに初期の道教経典にはそれなりの思想が述べられているのだが、ではこれらが仏教経典のようにある種の体系を伴って発達していったかというと、どうもそういうふうにはならなかった。
 類似の教説を集めたり、較べたり、組み合わせていくのが道教ふうなのだ。したがって通俗経典も多い。それでも、そのなかから方針めいたものも出てきた。
 その方針を決定づけたのが陸修静の『三洞経書目録』だった。南北朝期に流布していた大小の道教関連文献を集めたもので、このころから道教経典をとりあえず三洞に振り分けるようになったのだ。洞真部の経典、洞玄部の経典、洞神部の経典というふうに分類したものだ。
 洞真部の経典の中心を占めたのは『上清経(上清大洞真経)』である。これが最初に決まった。ついでそれに応じて、洞玄部を『霊宝経』が占め、洞神部を『三皇経(文)』が祭り上げるようになった。

 経典がこんなぐあいだから、道教の神々もかなりあやしい。
 とうてい発生順に示すことはできないが、初期に設定されたのが太上老君であったろうこと、すなわち老子の神格化であったろうことはまず疑いがない。寇謙之は太上老君を最上位においている。
 ところが、その老君がやがて道君や天尊というふうに昇格していった。陶弘景は元始天尊を最高の神格にした。『真霊位業図』を作成して三洞に最高神をそれぞれ割り振ったのだ。これで、洞真部には元始天尊(玉清境天宝君)が、洞玄部には太上道君(上清境霊宝君または霊宝天尊または三界医王太上道君)が、洞神部には太清境神宝神(道徳天尊または十方道師太上老君)が、ランクアップされた。
 けれども、これとてその後の道教の神々のラッシュアワーからすれば一例にすぎず、古来の神仙境に遊ぶ神々から関羽を祭る道観にいたるまで、道教にはまことに多くの神々が次々に出入りしつづけたのだ。

 白川静(987夜)が強調したように、中国にはこれといった神話体系がない。それゆえ多くの神々がヒエラルキーをもってこなかった。そこへもってきて、儒教は孔子の主旨の「鬼神を語らず」を守ったし、仏教はむろんのこと別の体系の如来・菩薩・天・明王などのイコンをもっている。
 これらが道教にとってはたいそう有利にはたらいた。儒教や仏教がなんら関心を示さなかった古代神話の多くの神々を、いちはやく道教の側でヒエラルキー化することがいくらでも容易になったのである。
 こうして、盤古(ばんこ)、伏羲・女窩、黄帝、西王母、泰山府君、北斗星君、南極老人星、八仙(呂洞賓らの8人の神仙)などをも道教神の淵源にとりこみ、そこに太上老君から関帝におよぶ実在・非実在を問わぬ民間信仰のスターたちを次々に加えることができたのだ。
 ひとつ、例を出す。いっときぼくが関心をもった媽祖(まそ)という航海の女神は、今日の中国ではかなり民間で愛されている。天妃(てんひ)とか天后(てんこう)と尊称されることもある。もっと親しくは「娘娘」(にゃんにゃん)と呼ばれる。
 この媽祖はもともとは生前は林黙(りんもく)という実在の女性で、おそらくは巫女だった。郷里が福建省だったので、海洋や漁業の占いをした。それが死後100年ほどたった北宋のころに、航海や海難の女神として大いに信仰されるようになった。それも突如として信仰をあつめ、最初は霊恵夫人という名で呼ばれ、元代には護国明著天妃と呼ばれた。媽祖はまったく道教の歴史と関係がないのだが、華僑や水夫にとっては正真正銘の道教の神なのである。

天上聖母宝像(台南市西港区:玉勒慶安宮)
媽祖(天上聖母)を祀る廟は、台湾および中国沿海部に点在している。

 以上のように、道教についての説明はなかなか一貫しない。それが道教というものなのだ。日本における道教学を開拓しつづけた吉岡義豊さんもいかに苦労したかを、縷々述べられていた。そして加えて、「でもね、道教がわからないと中国の固有信仰は何も見えてこないんですよ」とも言っていた。
 しかしそうは言っても、固有信仰であればあるほどに、その研究を再現して体系だてることはやっぱり難しい。なぜなら中国の固有信仰は儒教にもルーツがあるからだ。道教研究ではそこを分かつものがなければならない。ところが道教はその儒教をも適宜とりこんでいる。そこがなんともややこしい。柳田国男(1144夜)や折口信夫(143夜)に始まった日本の民俗学がなかなか体系づけられないのと、どこか似ている。
 こうして道教を案内するには、かなりの工夫が必要になってくる。本シリーズも第1巻「道教とは何か」、第2巻「道教の展開」、第3巻「道教の伝播」というふうに構成して、重複をおそれずにさまざまな角度から道教の世界と社会を浮上させるように工夫をした。
 その努力、なかなかなものだった。ぜひとも手にとって中身をぱらぱらとでも見られることを勧めたい。

 タオイズムはまことに魅惑的な霊気と思想を秘めている。その両翼は神仙タオイズムと陰陽タオイズムに広がっている。
 道教はそれらをとりこんで、いささか呪術的な一角を占めていったのだが、その思想や行法からは今日のわれわれが失っている生命観や身体観がいきいきと出入りしてきたことも、知らなければいけない。呪能に長け、官能に富んでいるため、怪しげなものもそうとう含まれるけれど、その根底は老荘に及んで、古代東洋思想としての高潔をも担ったのだ。「連環篇」だけではその独特の特色を多く紹介できないかもしれないが、できるだけ今後もとりあげたいと思っている。


平河出版社
『道教』
<第一巻 道教とは何か>
<第二巻 道教の展開>
<第三巻 道教の伝播>
監修者:福井康順・山崎宏・木村英一・酒井忠夫
1983年2月5日 初版発行
発行者:堤たち
発行所:株式会社平河出版社
装幀:伊藤政芳・宮内淑子

【目次情報】

<第一巻 道教とは何か>
序言 福井康順・山崎宏・木村英一・酒井忠夫
道教とは何か ―酒井忠夫・福井文雅
  一 はしがき
  二 道教とは何か―諸学者の考え
  三 「道教」と「道家」
  四 民衆道教と教会道教
  五 「道術」と「道士」
  六 あとがき
道教史 ―秋月観暎
  一 古代の神々と信仰
  二 原始道教々団とその動向
  三 道教々団の成立と教学の発達
  四 隋・唐帝国と道教
  五 宋代の道教と新道教の出現
  六 明・清時代の道教
道教経典 ―尾崎正治
  一 三洞四輔の成立
  二 道蔵編纂の歴史
  三 道教経典数種解説
道教の神々 ―石井昌子
  一 道教の神々はいかにしてつくられたか
  二 道教の神々の系譜
  三 道教の神々の系譜(二)
  四 白雲観に祀られている神々
  五 泰山で信仰されている神々
道教と宗教儀礼 ―松本浩一
  一 神仙と巫祝
  二 台湾の道士とその儀礼
  三 斎醮
  四 唐代の斎醮と杜光庭
  五 宋代の斎醮
長生術
  一 見直される導引術
  二 体内をめぐる気
  三 生を養う房中術
錬金術
  一 錬金術の歴史
  二 錬金術の理論
  三 錬金術の実験
神仙道
  一 神仙思想
  二 秦漢の神仙方士
  三 後漢の神仙道
道教関係地図
索引
監修者略歴
執筆者略歴

<第二巻 道教の展開>
道教と老子 ―砂山稔
  一 道教と老子
  二 道教と『道徳経』
  三 道教と老子と『道徳経』
道教と儒教 ―楠山春樹
  一 『抱朴子』の倫理思想
  二 道教戒に見える儒教思想
道教と仏教 ―福井文雅
  一 道・仏二教の関係交渉史
  二 道・仏二教の相関 ―教理と経典
  三 道・仏二教の相関 ―儀礼
  四 道・仏の相違点 ―道教の特色

民衆道教 ―奥崎裕司
  一 民衆道教の歴史
  二 民衆道教の経典
  三 宝巻
  四 功過格
社神と道教 ―金井徳幸
  一 「社」概観
  二 村社(里社)とその対象神
  三 関羽信仰の展開
  四 土地廟とその神
  五 華北の神々
  六 江南の土地神
  七 村社とその広がり

道教と民衆宗教結社 ―野口鐵郎
  一 民衆宗教結社とは
  二 宝巻と道教
  三 民衆宗教結社の神と道教の神
  四 「妖術」と道教の術
  五 現代の民衆宗教結社と道教

道教と中国医学 ―吉元昭治
  一 宗教と医学
  二 中国医学の発生と特徴
  三 目録学的見地からみた道教と中国医学
  四 道蔵、道蔵輯要、雲笈七籖等にみる医書
  五 馬王堆出土の医書(導引図)について
  六 中国医書にみる道教の影響
  七 『太平経』にみる医学
  八 「道教と中国医学」さまざま
  九 現代における「道教と中国医学」

道教と文学 ―遊佐昇
  一 六朝・唐の文学と道教
  二 中国の小説と道教
  三 敦煌俗文学と道教
  四 近世の俗文学と道教
道教と年中行事 ―中村裕一
  一 清代蘇州の年中行事
  二 二月・三月の神々
  三 衆生済度に尽す神仙たち
  四 治水・治病に祈られる神々

索引
監修者略歴
執筆者略歴

<第三巻 道教の伝播>
口絵 台湾道教の法器 ―劉枝萬
道教と老子 ―中村璋八
  一 道教の日本への伝来
  二 奈良朝以前の神仙説と咒術
  三 奈良朝の道教
  四 平安朝の道教の盛行
  五 鎌倉・室町期の道教
  六 江戸時代の善書の流行
  七 道教の諸研究
韓国の道教 ―都珖淳
  一 古代の神仙思想
  二 道教の受容と変容
  三 韓国の丹学派と道教医学
  四 図讖思想と風水思想
  五 道教的民間信仰

台湾の道教 ―劉枝萬
  一 台湾の道教
  二 教派
  三 道士
  四 台湾道教の今後

敦煌と道教 ―金岡照光
  一 二十世紀の発見
  二 敦煌文献中の主なる道教写本
  三 敦煌本主要道経の諸様相
  四 敦煌における冥界、長生、養生等の信仰について
最近日本の道教研究 ―野口鐵郎・松本浩一
  一 道教研究のたかまり
  二 道教そのものに関する研究
  三 道教の周辺に関する研究
  四 道教の伝播に関する研究
欧米における道教研究 ―福井文雅
  一 研究前史
  二 研究小史
     1 フランス
     2 ドイツ
     3 オランダ
     4 ソ連邦
     5 イギリス・アメリカ・オーストラリア
     6 イタリア・北欧

索引
資料 ―野口鐵郎・石田憲司
道教年表
道教研究文献目録
総合索引
監修者略歴
執筆者略歴