渡辺京二
逝きし世の面影
葦書房 1998 平凡社ライブラリー 2005
ISBN:4582765521
誰が日本を見捨てのか。
何が日本を見殺しにしたのか。
ここに描かれているのは、一つの文明である。
その文明は、もう滅びたものなのだ。
では、われわれはその文明をどのように見ればいいのか。
そうなのだ、新たに遭遇する異色の光景と社会として、
ここに接するべきなのだ。

 一つの文明が滅んだのである。一回かぎりの有機的な個性としての文明が滅んだのだ。
 それを江戸文明とよぶか徳川文明とよぶか、歴史学はそんなふうには日本の近世を見ていないから、いまのところ呼び名はどうでもいい。しかし、そのように呼びたくなるほど、われわれにとっての大きなもの、つまり文明が、いつしか喪失してしまったのだ。
 バシル・チェンバレンは「あのころの社会はなんと風変わりな、絵のような社会であったか」とのべて、でも「古い日本は死んでしまった」と書いた。チェンバレンには、「日本には貧乏人はいるけれど、貧困は存在しない」と見えたのに、そのうち日本も、富国強兵・殖産興業をもってわざわざ富裕階級とともに貧困階級をつくりだしてしまった。そのためチェンバレンは、自著の『日本事物誌』(平凡社東洋文庫)を、古き日本のための「いわば墓碑銘たらんとするもの」と位置づけた。
 司法省の顧問として明治5年に来日したジョルジュ・ブスケも、『日本見聞記』(みすず書房)に、「日本人の生活はシンプルだから貧しい者はいっぱいいるが、そこには悲惨というものはない」と書き、日本人に欧米諸国の貧困層がもつ野蛮さがないことに驚嘆したうえで、それがしだいに失われていく日本を哀惜した。
 日本アルプスを“発見”したウォルター・ウェストン(382夜)も同じだった。「日本が昔のように素朴で美しい国になることはけっしてあるまい」と、『知られざる日本を旅して』に綴った。いや、日本に惚れた多くの外国人は、その後の日本の欧米化を残念がった。

 渡辺京二もまさにそのような感慨をもって、本書を叙述した。「文化は残るかもしれないが、文明は滅びる」。そこを哀惜した。
 仮に羽根つきや凧あげは残ったとしても、それはかつて江戸の空に舞っていた羽根や凧ではないものなのだ。蕪村の空は、そこにはない。渡辺は、正月の羽根つき・凧あげをいまの子供たちがプラスチックにしているからといって、それを「日本文化の継承」だというふうに“錯覚”しようとすることは、いさぎよく文明の滅亡を語り、それを「逝きし世の面影」だとみなすことよりも、ずっと苦痛であると感じたのである。
 本書は、その渡辺の苦渋とともに読まなければ、なんにもならない。発売以来、「こういう本こそ待っていた」と迎えられた一方で、あまりにも「過去の日本に対する懐旧に堕している」という批判も出たのだけれど、ぼくはまずは、『日本事物誌』も『ベルツの日記』も、モースの『日本その日その日』も読んでいない日本人が、本書によって文明的焦眉をひらかれることを、むしろよしとしたい。

 安政のころから日本を頻繁に訪れるようになった外国人たちが、どのように日本を見たかということについては、現代の日本人にはほとんど信じられないようなことがひしめている。
 自然の景色の美しさを称賛しているのなら、おおかたの予想がつくだろう。そうではなく、たとえば港町そのものに、また、そこからちょっと離れた郊外の美しさに、かれらはほとほと目を奪われたのだ。当時の日本人にとっても、その時期の版画や写真を見せられた現代の日本人にも、そこまで美しいとは思わなかったかもしれないのに、だ。
 たとえば、『エルベ号艦長幕末記』(新人物往来社)のラインホルド・ヴェルナーは、長崎が、「世界3大美港のリオデジャネイロ、リスボン、コンスタンチノープルよりずっと美しい」と書き、万延元年に通商条約締結のためにやってきたプロシアのオイゲンブルク使節団のベルクは、その長崎の「郊外の美しさは譬えようもない。どこに足をむけてもすばらしい景観だった」と絶賛した(『オイゲンブルク日本遠征記』雄松堂出版)。
 プロシアの商人リュードルフも下田に来て、「郊外の豊饒さはあらゆる描写を超越している。日本は天恵をうけた国、地上のパラダイスであろう」と書いた(『グレタ号日本通商記』雄松堂出版)。地上のパラダイスとまで言われると、まことにおもはゆい。
 安政6年に初代駐日イギリス大使として着任したラザフォード・オールコックは、その3年間の日本見聞記『大君の都』(岩波文庫)を読めばわかるように、必ずしも日本に甘くはなかったのだが、それでも随所で日本の景観の美しさには心底驚いている。それも、たとえば小田原から箱根におよぶ道路の「比類のない美しさ」にさえ、目を奪われた。
 オールコックは、田園と日本農業のありかたにも唸った。「日本の農業は完璧に近い。自分の農地を整然と保つことにかけては、世界中で日本の農民にかなうものはない」と書いた。これはオールコックがライバル視したタウンゼント・ハリスにとっても同じことで、ハリスはやはり水田の見事さに驚いたあと、「私はいままで、このような立派な稲、このような良質な米を見たことがない」と兜を脱いだ。

王子の風景
江戸北郊のこの地は、異邦人が必ず
一度は訪れる名所だった。

 感心したのは、景観だけではない。子供たちの自由なふるまい、女たちの屈託のない素振りと姿、日用雑器やおもちゃや土産物の細工のすばらしさにも、多くの外国人が目を見張った。
「デイリー・テレグラフ」の主筆で、『亜細亜の光』(岩波文庫)を書いたあったエドウィン・アーノルドは、「日本の最も貧しい家庭でさえ、醜いものは皆無だ。お櫃(ひつ)から簪(かんざし)にいたるまで、すべての家庭用品や個人用品は、多かれ少なかれ美しく、うつりがよい」と講演でのべた。
 フランス海軍の兵卒として慶応2年に来日したスウェッソンは、日本の家が「いつも戸をあけっぱなしにしている」ことにびっくりし、女性たちがあけっぴろげであることとともに、その開放感がいったいどこからくるのかを考えこんだ(『江戸幕末滞在記』新人物往来社)。イギリス公使館の書記官だったミットフォードは、そうした日本を「おとぎの国」「妖精の国」(エルフランド)とよぶしかなくなっている。
 スイスの遣日使節団長だったアンベールは、日本が何百年にもわたって、質素でありながらつねに生活の魅力を満喫していることに、驚くとともに感銘をうけている。ルドルフ・リンダウの『スイス領事の見た幕末日本』(新人物往来社)には、次のようにある。「何もすることもなく、何もしていない人々は、日本では数多い。かれらは火鉢のまわりにうずくまって、お茶を飲み、小さなキセルを吸い、満足な表情で話をしたり、聞いたりしている。そこには日本人のやさしい気質と丁寧な人づきあいとがあらわれている」。
 熊本に入って徳富蘇峰らに影響をあたえた英語教師のリロイ・ジェーンズは(その影響が熊本ハンドとなった)、日本では乞食でさえ節度あるふるまいをしていると驚いた。大森貝塚の発見でも知られるエドワード・モースが『日本その日その日』(東洋文庫)に、いつもそこいらに置きっ放しにしていた自分の持ち物や小銭が一度も盗まれなかったことを、何度も書いていることは有名だ。
 こうして、日本について10冊以上もの感想や記録を綴ったウィリアム・グリフィスは(化学教師として越前藩に招かれた)、「きっと日本人は2世紀半というもの、主な仕事は遊びにしていたのではないでしょうか」と半分冗談まじりで書いたのだ(『明治日本体験記』平凡社東洋文庫)。

元日風景(ワーグマン画 1865年)

大山神社の小犬たち(1873年)

 本書は、幕末維新の日本に滞在した外国人の感想記のみを素材にして、失われた日本の面影を案内するという方法に徹している。日本側からの目はいっさい紹介されない。渡辺の感想も、ほとんどない。
 この方法が、はたして日本社会や日本文化の研究として妥当であるかどうかなどということは、渡辺はまったく意に介さない。渡辺は、あえてこのような方法をとったのだ。ぼくもそのつもりでしか本書を読まなかった。それで十分だった。
 日本人がそうした「失われた日本の面影」をどう見ていたかということは、だから別の本で当たったほうがいい。たとえば南博の『日本人論』や築島謙三の『「日本人論」の中の日本人』などがいいだろう。ぼくも気分がのれば、それらをいつかとりあげたい。
 というわけで、本書はきわめて特別仕立ての本になっているのだが、それがかえって凡百の議論を忘れさせ、日本の面影に浸れるような結構になった。
 たとえば、かつての日本が「貧乏であっても貧困ではなかった」かどうかということは、経済指標などでは測れない。いくら欧米諸国やアジア諸国と比較しても、そんなことの説明はつかない。
 ぼくは1967年から1973年くらいまで、「夏はソーメン、冬はいなりずし」という日々を原則にしていたが、その途中で結婚し、借金をして「遊」を創刊し、そんなぼくのまわりにお金のない連中ばかりが集まってきて、それでも一緒に仕事をしたいというふうになっていった数年間を、いまから思えば「最低の経済生活」をしていたというふうになるにもかかわらず、その日々を「最も恵まれた日々」だったと思い出すことができる。
 そんなことは当然のことなのだ。安政期から明治中期までの日本に、貧困や苛酷があったのは当然である。むろん盗みもあったし、忌まわしい犯罪もあった。白土三平の『カムイ伝』(1139夜)に如実なように、村落での圧政も少なくはない。けれども、その当時はまだ、それらを含んで広がる日本の類いまれな生活意識があったのも事実なのである。だから、問題は経済生活論でも衛生論でも失業問題でもないのだ。
 そこに「面影」として共有できる「日本」があったかどうかということなのだ。そして、その「面影としての日本」が、ある時期をさかいに急速に失なわれていったのである。渡辺が書きたかったことは、それだけだった。

江戸近郊の茶屋

 すでにタウンゼント・ハリスの通訳として安政年間の日本を見たヘンリー・ヒュースケンが、次のように書いていた。「いまや私がいとしさをおぼえはじめている国よ。この進歩は、ほんとうにおまえのための文明なのか」というふうに(『日本日記』岩波文庫)。
 長崎海軍伝習所に請われて教育隊長となったリドル・カッテンディーケも、「日本はこれまで実に幸運に恵まれていたが、今後はどれほど多くの災難に出会うかと思えば、恐ろしさに耐えない」と書いた(『長崎海軍伝習所の日々』東洋文庫)。そのカッテンディーケに伴った医師のポンペの『日本滞在見聞記』(雄松堂出版)には、日本に開国を強要したことは、「社会組織と国家組織との相互関係を一挙にうちこわすことになる」と自省をこめた。
 勝手に土足で座敷に上がってきて、この言い草はないだろうとも言いたくなるが、ここはとりあえず謙虚に耳を傾けておいたほうがいい。ポンペは、開国後の日本、とくに幕末の日本人がすでに堕落しつつあることを実感していたのだった。

 それなら、かれらは古きよき日本のどこを絶賛したのか。日本を訪れた外国人たちが、たんなる異国情緒や、エドワード・サイードのいうオリエンタリズムによって、日本を美化したにすぎなかったのかどうかということだ。
 たとえば安政5年に、日英修好通商条約を結ぶためにエルギン卿とともに来日した艦長オズボーンと秘書オリファントの感想記がある。そのなかで、オズボーンは「男も女も子供も、みんな幸せそうで満足しているように見える」と書き、オリファントは「個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足しているように見えることは、まったく驚くべき事実である」と書いた。
 オリファントはさらに、「日本人は私がこれまで会ったなかで、最も好感のもてる国民で、貧しさに対する卑屈や物乞いのまったくない唯一の国である」という感想をのべた。
 いずれも『エルギン卿遣日使節録』(雄松堂出版)に収録されている言葉で、これに注目したのは、ぼくもよく知っている京都大学の横山俊夫だった。横山は、このような「日本贔屓」は、十分に熟考したものでなく、正確な比較をしたものでもなく、たんに旅行者や滞在者が自動筆記のような感想をのべたものだと結論づけた。
 オズボーンが江戸に上陸したその日の感想に、「不機嫌でむっつりした顔には一人も出会わなかった」などと書いているのもを読むと、ぼくもきっとその程度のことだろうと感じる。しかし渡辺は、それを言い出してはダメだと踏んばったのだ。その批評を持ち出してはいけないというのだ。とくに青木保のように、そういうことから「文化の翻訳不可能性」を引き出すのは、もってのほかだと言うのである。
 かれらには、オリエンタリズムを差っ引いてもなお余りある日本観察があったと思うべきだと、渡辺は断定するのである。

 先にも書いたけれど、オールコックの『大君の都』は、必ずしも日本に甘くはなかった。そこには、日本を訪問した外国人の多くがこぞって日本を「楽園」扱いしていることを批判した箇所が少なくない。
 東洋的専制主義が、中国とともに日本に満ちていることも指摘した。とくに知的道徳においては、日本がヨーロッパ12世紀のレベルにとどまっていることを、容赦なく指弾した。
 それにもかかわらず、オールコックは日本を見て、「ヨーロッパ人が、どうあっても急いで前に進もうとしすぎている」ことを実感せざるをえなくなり、「アジアがしばしば天上のものに霊感をもちつづけている」ことに驚き、そこに「ヨーロッパ民族の物質的な傾向に対する無言の抗議」があることに気がつくのだ。そして、いささか都合がよすぎる反省ではあるが、次のように日本の役割について綴るのだ。
 「これらは、ヨーロッパの進歩の弾み車の不足を補うものとして、そしてまた、より徹底的に世俗的で合理的な生存を夢中になって追求することへの無言の厳粛な抗議として、この下界の制度のなかで、ひとつの矯正物となるかもしれない」。
 何をオールコックはえらそうなことを言っているのかと思いたくもなるだろうが、また、日本の役割が「無言の抗議」にあるなどと見ることに、どうしょうもないアングロサクソン的な傲慢の態度を見せもするが、しかしそれでも、オールコックは当時の日本に脱帽するところがあったのだ。問題があるとすれば、そのことを「無言」ではなく、「有言」として、日本が世界に示さなかっただけだということになる。

 では、以下はちょっとした感想だ。
 いったい「見捨てる」とか「見殺す」とはどういうことなのだろうか。そのことを問うてみたい。価値がわかっていて見捨て、必要を感じていながら見殺すことが、見捨てることで、見殺すことであるとするのなら、欧米列強は、アジアを見捨て、日本を見殺したのである。
 カール・ポランニー(151夜)が、欧米社会から自立した市場システムは、欧米社会に矛盾を激化させるよりなお速く、むしろアジアの後進国を見殺しにするだろうと予測し、イヴァン・イリイチ(436夜)が「資本の本性」と「利潤の自由」という観念の実行こそ、どんなヴァナキュラー(辺境的)な地域をも変質させ、見捨てることになるだろうと分析したことは、「逝きし面影」の放棄をとっくの昔にみずから選択して体験せざるをえなかった日本の近代史からすると、その主張さえ遅きに失したというべきなのである。
 しかし、実は、日本を見捨て、日本を見殺しにしたのは日本人であったのだ。イリイチは「資本市場主義のプラグをさっさと抜きなさい」と言ったけれど、かつて日本はそのプラグを入れることすらしていなかったのだ。が、いまさらプラグを入れたことを、そまプラグを抜きがたくなったことを憂いてもしょうがない。そのうえで、日本人は何もかもを見て見ないふりをして、いまなお日本を見捨て、日本を見殺しにしつづける。問題は、ただひたすら、そのことにある。
 こういうときは、もはや欧米を詰(なじ)ってもムダである。たとえば文化人類学が「異文化を自国の文化コードで読み解いてはならない」と言っているじゃないかなどと、その程度のことを知識人が言い出したところで、なんの力もない。

 では、どうすればいいのか。渡辺京二が本書を上梓したのち、ジャーナリストや書評家たちから、「あれはただ、昔の日本はよかったと書いただけじゃないか」と批評されたとき、静かに反論した文章がある。いまは『荒野に立つ虹』(葦書房)に収録されている。
 そこで渡辺が言い放ったことは、かつて日本には「親和力」があったということ、それは文明であって、かつ滅んだのだということ、だからこれらをわれわれは「異文化」として新たに解釈しなくてはならないということだった。
 つまりは、いまや「日本の面影」の本来的な研究と再解釈と、そしてそこにひそむ方法を感知することだけが、一挙に、そしてただちに要請されているだけなのである。
 ぼくがかつて、四国の四国村で「日本再発見塾・おもかげの国」(古田菜穂子プロデュース)を1年にわたって続けたのも、NHKの8回の人間講座を「おもかげの国・うつろいの国」と題したのも、それを『日本という方法』(NHKブックス)としてにまとめたのも、いまは「連塾」で、その「日本という方法」をもう4年にわたって続けているのも、まさにそのことだった。
 そのためには、いったん、日本の歴史が「近代」のところで極端に分断されたことを、もう少し知ったほうがいい。いやいや、海外の滞在者による記録だけを読めばいいというわけではない。渡辺も、本書ではその案内作業にみごとに徹したが、ほかのところでは、西郷を北一輝を、吉本隆明や谷川雁を、ポストモダン思想の全般を相手に、つねに格闘してきた。

嘉永6年の下田港

附記¶本書はもともとは「週刊エコノミスト」に『われら失いし世界』と題されて連載されていた。そのためか、繰り返し、似たようなテーマが展開されている。しかしそれが、なんだかこの日も、あの日も、その縁側の光景に立ち会えたような気分になって、心地よい。そういう著書なのだ。本書は葦書房によって刊行されたのち、長らく絶版になっていたのだが、さきごろ平凡社のライブラリーに入った。
 著者の渡辺には、何冊かの著作がある。葦書房からは「渡辺京二評論集成」として、『日本近代の逆説』『小さきものの死』『荒野に立つ虹』『隠れた小径』がまとめられている。近著には『日本近世の起源』(弓立社)、『江戸という幻景』(弦書房)がある。ぼくが最初に渡辺京二を読んだのは『北一輝』(朝日選書)だった。

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