才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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李賀詩選

李賀

岩波文庫 1993

[訳]黒川洋一

天は迷々、地は密々。
そんな時代に詩を書いて、
不可視の刺客になってみる。
そういうことをする詩人が、かつてはいた。
中唐の夭折詩人・李賀である。
その詩は幻奇奔放であって、幽明超越的、
凝結していながら流動し、
比喩は幾重もの屈曲を内に秘めたまま、
無政府きわまる想像力を謳歌した。
嗚呼、李賀のアブダクション!

 潜勢という意志がある。いたずらに表面に出ない勢いのことだ。ひたすら姿勢を内側にもつ。ただの引きこもりではない。奇も衒わない。潜んで勢いをもつ。
 生命系のシステムを見ていると、ほとんどはこの潜勢がのちのちはたらいてシャトル系を漲らせた蝉の翅になったり、受精卵のその後の神経系になったり、非対称な蘭の花の驚くべき容姿になったりしているのだろうという気がしてくる。第548夜に書いたように、ラマルクはこれを「形成力」(プラスチック・フォース)とよんだ。が、ここでいう潜勢は人にひそむものをいう。李賀がその潜勢をもっていた。
 諸君は李賀の詩を読んだことがあるだろうか。盛唐の杜甫・李白より一時代遅れた中唐の詩人だ。今夜とりあげた岩波文庫でも「中国詩人選集」の第14巻でもいいが、まあ、覗いてみることだ。

 とんでもない詩人だった。異才であり、鬼才だった。
 わずか27歳で夭折してしまったにもかかわらず、ぼくの好きな言葉で形容するなら、表現世界における「見えない刺客」とか「姿を消した暗殺者」という境涯に達していたといってもいいだろう。
 いやいやテロリストであったのではない。言葉の刺客に達していた。表現にテロルがあった。それもまことに静かな暗殺である。まずは、次の『春坊正字の剣子の歌』というのを見られたい。最初に黒川洋一の日本語による詩訳を読み(ぼくなりの言葉も加えた)、つづいて漢詩訓読を掲げるので、それを読まれたい。
 一振りの鋭い剣を詠んでいる。それがかつて秦の始皇帝を暗殺しようとして失敗した荊軻(けいか)の剣のようだというのだ。フォントにない漢字も交じっているのであしからず。

わが友の匣(はこ)の中の三尺の業物(わざもの)は、
あたかも秋の水のような代物だ。
昔日、勇士が呉の潭(ふち)に入って龍を斬ったものだという。
その剣は隙月(げきげつ)が斜めに差すがごとく輝き、
砕け散る露のごとくに寒々と煌いている。
また、練帯(練り絹の帯)のように平らで、
吹く風にそよとも動きもしないし、
その鮫胎(鮫皮)の束や鞘は古色の蔦の刺(とげ)のようだ。
刃を抜けば、それは鳰鳥(におどり)の尾っぽのように流れ、
まさにあの荊軻(けいか)の胸中に迸る殺気を想わせる。
これは、東宮の書庫などに眠っているものじゃなく、
そんなところで振り回すものでもない。
むろん、とうてい文字を照らしているものなどではありえない。
組紐と金色(こんじき)の玉飾りの鞘の内には、
神光こそが秘められていて、
まさに藍田山の宝玉をも切り裂かんばかりなのである。
だとすれば、これを引っ提げて西に向かえば、
白帝の神(秋と西方をつかさどる神)は慌てふためき、
鬼母(亡者の母)は秋の野原に立ち尽くして哭き叫ぶにちがいない。

先輩の匣中(こうちゅう)なる三尺の水
曾て呉潭に入りて竜子を斬る
隙月 斜めに明るく 露を刮(けず)りて寒く
練帯(れんたい) 平らに舖(し)かれ 吹き起こらず
鮫胎(こうたい) 皮は老いて疾藜(しつり)の刺(とげ)
劈鵜(へきてい) 花を冷やして白關(はくかん)の尾
直(た)だ是(これ) 荊軻(けいか) 一片の心
春坊の字を照見せしむ莫(なか)れ
妥糸(だし)団金 懸かって轆矚(ろくそく)
神光は截(き)らんと欲す 藍田(らんでん)の玉(ぎょく)
提出すれば西方 白帝は驚き
嗷嗷(ごうごう)として鬼母は秋郊に哭(こく)さん

 李賀の従兄弟の春坊正字がもっていた一本の剣の感想を綴っているだけなのに、この構えと神韻だ。なんとも凄い。おうおう、凄まじい。こういう詩を詠める者は盛唐にはいなかった。あえて古きを思い返すなら『楚辞』である。その『離騒』の屈原がある。
 しかしながら李賀については、日本人はまだ大きな議論ができないでいる。ぼくが知るかぎりは荒井健と草森紳一が李賀を語ってすこぶる李賀めいていたけれど、なかなかそういう御仁はいない。
 中国でも李賀の詩は「注なしには読めない」と言われたほどだから、よほどの難物で、実は縦横無尽には李賀が論じられてはこなかった。いや、読めばすぐにわかると思うが、李賀は勝手に縦横無尽に扱えないところが、李賀の李賀たる真骨頂なのである。なにしろ潜勢の刺客なのだから――。

 それでも李賀の詩名は生前からすこぶる高く、27歳で夭折したものの、すでに晩唐には早くもその深秘(じんぴ)を慕う者がいた。
 たとえば李商隠と皮日休(ひじつきゅう)がその耽美に深く溺れ、その後も、宋では遺民の劉辰翁(りゅうしんおう)や汪元量(おうがんりょう)が、李賀をわかるのは自分だけだと自得し、元代では妖怪詩人の異名をとった楊維禎(よういてい)や、明の個性解放の先駆となった徐渭(じょい)らは、ひそかに李賀結社とでもいうべきものの提唱に走ったものだ。それが明末には「復社」ともなったのである。
 これらはいずれも、中国では折り紙付きのパトリオリズム(ナショナリズムではありません)の系譜に入る者たちにあたるのだが、この機運は近代中国でも康有為や梁啓超の「戊戌の新法」に続こうとした譚嗣同(たんしどう)らに受けつがれ、ついにはその譚嗣同をして時代を悲憤慷慨させて、「では、自分の血を流そう」と言って34歳で刑場の露と消えた事件にまでいたっている。
 その譚嗣同が、こう言い切ったものだった、「私はこれまで古今の詩集詩文をそうとうに読んできたが、完全無欠なのは陶淵明(872夜)のほかは、ただ李賀だけだった」。
 こんな称賛、めったにない。

 そもそも李賀は早くから「鬼才」と呼ばれてきた。宋代『南部新書』のなかで、「李白を天才絶と為す。白居易(白楽天)を人才絶と為す、李賀を鬼と為す」と謳われたのがその嚆矢だったはずだが、ここにいう「鬼」とはまさに死者で才絶あって、なお霊異をおこせる者をいう。
 日本の能でいうなら、橋懸かりの向こうから登場する亡霊なのだ。だから中国で「鬼才」とよばれた者には、必ず神秘と幻想と異様とがともなった。
 一例として、『神絃曲』というものすごい漢詩を紹介する。これは神を迎えて怪を退かせるための神曲で、もともと女巫(じょふ)が奏でる曲をさした。李賀はそのモダリティを借りて、そこに青狸寒狐(せいりかんこ)を出没させ、雨神を躍らせ、蛟(みずち)の尾がうねる只中に万塵から抜け出てきた花の裳裾(もすそ)の巫女(みこ)たちを登場させている。

西山(せいざん)に日は没して 東山(とうざん)昏く
旋風は馬を吹いて 馬は雲を踏む
画絃素管(がげんそかん) 声 浅繁(せんはん)たり
花袴(かくん)は萃蔡(すいさい)として 秋塵に歩(ほ)す
桂葉(けいよう)は風に刷(はら)われて 桂は子(み)を墜(おと)し
青狸(せいり)は血に哭して 寒狐死す
古壁の彩蛟(さいきゅう) 金は尾に帖(ちょう)す
雨工は騎(の)りて入(い)る 秋潭(しゅうたん)の水
百年の老梟(ろうきょう)は木魅(ぼくみ)と成り
笑声と碧火(へきか)と巣中(そうちゅう)に起(おこ)る


 花袴が花を散らした裳裾のことを、雨工が雨の神をさしている。そのなかで、老いた梟(ふくろう)がただぼうぼうと鳴いている。なんとも幽遠だ。かつてぼくが『神絃』や『神絃別曲』とともに、その妖魅に唸った漢詩だった。
 『神絃』も、海神(わたつみ)と山鬼(やまつみ)を「斎(いつき)の庭」に降ろした歌で、最後に「神を送りて万騎は青山(せいざん)に還る」というふうに結語する。
 こういう詩も得意だった李賀であるが、しかし李賀はこれにとどまらない。何というのか、あきらかに何かと刺し違えているところがある。しかし、それを始末しきれないもどかしさも、もっていた。

 刺促(せきそく)という言葉がある。相手を刺すのに急ぎすぎたという意味で、転じてあくせくしてしまうことをいう。ぼくは20代に、何度か刺促をおぼえた。その場で一気に人を斬るのは、ぼくもいまなお得意のつもりだが、そんなことを焦っては何にもならない。それをやがて知った。まさに刺促だ。 花袴が花を散らした裳裾のことを、雨工が雨の神をさしている。そのなかで、老いた梟(ふくろう)がただぼうぼうと鳴いている。なんとも幽遠だ。かつてぼくが『神絃』や『神絃別曲』とともに、その妖魅に唸った漢詩だった。
 李賀の『浩歌』(こうか)はその刺促を歌っている。一読、「王母の桃花は千遍も紅(くれない)に、彭祖(ほうそ)や巫咸(ふかん)と幾回か死せる」というように、西王母や彭祖や巫咸が登場する幻想味も溢れるが、最終行は「二十(はたち)の男児、那(なん)ぞ刺促たる」とあって、二十歳そこそこの男児が何をあくせくしているのかという激越な問いになっていく。

 ここには、ついに行動をおこせなかった李賀の自戒があるとともに、行動をおこすことなく「精神の刺客」となる覚悟をした者の、一方では奇っ怪だが、他方では香りの高貴な横溢がある。
 さすがに魯迅(716夜)はこのことを見抜いたようだ。このこととは、李賀が「精神の刺客」であったろうということだ。魯迅はもともと陶淵明の複雑な表現構造の本質を半ば喝破した人である。その目は譚嗣同と同じく、やはりのこと李賀に届いた。ただ、魯迅の見方はさすがに孫文の革命にも右往左往しなかっただけに、李賀の本質が「非行動」にあると見て、その非行動の深さゆえに「精神の刺客」を詩に生かせたとみなしたのだった。

 李賀がそうなったのは、時代のせいもある。
 李賀(本名は李長吉)が生まれたのは、安禄山・史思明の大乱が収束してから30年ほどたった791年だ。中国史では、この時代を盛唐のあとの中唐(766~835)という。すでに李白も杜甫もない。
 安史の乱をさかいに、唐は急激に下降線を辿りはじめ、中央は宦官が蔓延(はびこ)って、基本勢力は地方政権に分散しつつある。ウィグルやチベットなどの異民族が北からも西からも侵入していて、地方は自力でこれを防衛せざるをえなくなっている。中央から派遣された節度使が公然と中央に反発して、その地方で独立的な領国づくりに向かったのも宜(むべ)なるかな、『元和国計簿』によると、盛唐時の戸数が3割もへったのに、地方の兵力は3割ふえて、2戸に1人の兵士を出していたという。
 李賀はそのような時代に少年期をおくり、たちまち憂国の士になっていった。少壮である。字が「李」であることも手伝って(「李」は唐の皇室に通じるので)、ひそかに皇室を慕っていたが、もはや盛唐の日々は戻らない。すべてはオンリー・イエスタディなのである。
 けれども李賀はそれが許せない。なんとも見えなくなった君主の威光のために暗殺を敢行したい。その気概は隠れることはない。そこで、たとえば雁門関を墨守する一人の太守に託して、こんな詩を詠んだ。傑作の誉れ高い『雁門太守行』(がんもんたいしゅのうた)である。

黒雲(こくうん)は城を圧して 城は摧(くだ)けんと欲し
甲光は月に向かいて金鱗(きんりん)開く
角声(かくせい)は天に満つ 秋色の裏(うち)
塞上(さいじょう)の燕脂(えんじ)は夜紫(やし)を凝らす
半ば巻ける紅旗(こうき)は易水(えきすい)に臨み
霜は重く鼓声は寒くして起こらず
君の黄金台上の意に報いんとして
王竜を提攜(ていけい)して 君が為に死せん

 こういうものを読むと、李賀が「李杜韓白」(李白・杜甫・韓愈・白楽天の4人の詩才)とはかなり異なるものをもっていたことが、よくわかる。とくに韓愈と異なっていたことは、韓愈自身がよく理解した。
 韓愈は若き李賀に出会って、その才能に驚愕してしまったのだ。韓愈が洛陽の国子博士であったころ、李賀が訪ねて門人に一篇の詩を託したのだが、たまたま多忙であった韓愈はそれを見過ごそうとしたとき、ふとその詩巻の冒頭に「黒雲圧城城欲摧 甲光向月金鱗開」とあるのを見て、はっとして束帯を着けなおして李賀を迎え入れたという。そういう逸話がある。『幽間鼓吹』に載っている。
 この詩こそ、いま紹介したばかりの『雁門太守行』の冒頭2行だったのだ。李賀はそのとき17歳くらい。
 韓愈も幻想怪奇を好んだ詩人だった。けれどもそれは韓愈の憧憬から出たものであって、やや厳しくいうなら人為がつくりだすものだった。ところが李賀の詩句には生得のものがある。妖怪趣味なのではなく、その足下から魑魅魍魎そのものが立ち上がっている。地中においてすでに李賀の言葉が湧いている。韓愈はそこに驚いたのだ。
 もっというなら、韓愈には憂国を歌う気持ちがあったとしても、憂国の出奔がない。李賀は憂国をもって少壮を送り、もはやそんなものでは足りなくなっていた。この不足こそ、「李杜韓白」では持ち合わせられないものだったのだ。

朝鮮活字本の李賀詩集

 李賀の詩には、いろいろなものがある。不思議な特徴がある。銭鐘書や荒井健の整理では(それにぼくの見方を付け加えるが)、まず詩の各部分が孤立(自立)していて平気になっている。説得によってはつなげていない。
 ついでフレーズはつねに凝固に向かいながらも、その展開はたえず流動してやまない。これは理屈を好んでいないことによるだろうけれど、その詩句があくまで高速に速写されるので、イメージが気体のように揺動する。さらに必ず時空間が超越して飛んでいる。いや、移動する。春泥かと思えば七夕の夜陰となり、主語の者が門を入ったかと思うと、次は銀漢(天の川)が落ちるあたりを彷徨する。こんな詩は盛唐までは、まったくなかった。
 もっと注目したいのは比喩と暗喩の屈曲だ。アナロジーをば駆使しつづける。ここではあまりの長詩なので全容を引くのは遠慮するが、たとえば『昌谷詩』(しょうこくのし)では、1行目から「昌谷→細青(さいせい)→遥巒(ようらん)→頽緑(たいりょく)→光潔(こうけつ)→涼曠(りょうこう)→竹香→粉節(ふんせつ)→草髪(そうはつ)→光露」が、息継ぐまもなく連打連想されていく。それが第2連でも第3連でも、どんどん続く。たとえば、こうだ(フォントがないのはあしからず)。
 「陰藤 朱鍵を束ね」「竜帳 趙魅(しょうみ)を著(つ)く」「碧錦 花楴(かてい)を帖し」「香衾(こうきん) 残貴に事(つこ)う」「歌塵 蠹木(とぼく)に在り」「舞綵 長雲に似たり」「珍壌 繍段(しゅうだん)を割(さ)き」「里俗 風義を祖とす」‥‥。また、こうだ。

竹薮(ちくそう) 堕簡に添え
石磯(せきそ) 鈎餌(こうじ)を引く
渓湾(けいわん) 水帯(すいたい)を転じ
芭蕉 蜀紙(しょくし)を傾く
岑光(しんこう) 穀襟(こくきん)のごとく晃(ひか)り
孤景 繁事を払う
泉樽(せんそん) 陶宰の酒
月眉(げつび) 謝郎(しゃろう)の妓

 細青から遥巒をへて、頽緑、光潔へ。陰藤朱鍵を束ねて、竜帳に著き、碧錦から香衾をへて歌塵、蠹木、舞綵に華麗に進む。芭蕉の蜀紙が岑光の穀襟のごとく晃(ひか)って、それはつづけさまに泉樽の酒となったとおもえば、次には月眉にいたるのだ。まさにアブダクションの妙なのである。
 こうした比喩と暗喩の連打は、李賀が代用語と新語と造語につねに挑んでいたからだった。言葉の「乗り換え、着替え、持ち変え」を徹底して試みたからだった。“一人編集学校”である。
 詩を解釈させなかったのだ。高速編集をしてみせた。杜牧(とぼく)は呆れて、「李賀は創作における踏みならされた道筋をことごとく無視した」と褒めるほかなく、王埼(おうき)は「騎魚という字を見て、写しまちがいかと思ったほどだ」と腰を抜かした。「騎魚」は李賀の造語だったのである。

 才能が迸(ほとばし)っていた李賀がついに不遇で終わったのは、その夭折とともに惜しむべきことかどうかは、わからない。われわれも時として石川啄木(1148夜)を、あえて60歳まで生きながらえさせたいとは思わないときがある。
 李賀は洛陽の官吏登用試験の予選には合格し、そのとき河南令(県知事にあたる役職)に任命された韓愈がその才能に注目してさっそく科挙の進士を受けられるように推薦したのだが、この栄達は周囲の多くが妬んで、妨げた。20歳のときである。長安に身を運んだ李賀を待っていたのは、周囲の者たちの横車と中傷と悪罵ばかりだったのだ。
 韓愈が李賀のための用語の弁論を用意したのはえらかった。けれどもそれにもかかわらず李賀の推進は阻まれた。ここで諸君は、なぜ鬼才と謳われたほどの才能の持ち主だった李賀が、高級官僚などをめざすのか訝るにちがいないだろうが、それは定見まちがいというものだ。当時はすぐれた詩才があれば、それがすぐれた官僚たる者の器量となると確信されていた時代だったのだ。

 こうして李賀は故郷の昌谷(しょうこく)に戻ってきた。『城を出づ』の詩はそのときに綴られた。故郷に戻った李賀が何をしたかといえば、そこで「見えない刺客」になったのだ。日々、詩を綴り、まるで刃を磨くように推敲しつづけた。母親はその姿を見て、この子はそのうち心臓を吐き出して死んでしまうと思ったらしい。
 こうして、李賀はそのようにして死んだ。ただ244首の詩が残った。それで充分なのかもしれない。「不足」というものがそこには充足しているからだ。「負の作用」が編集アブダクションと表現テロリズムをつくりうることが、告示されたからである。

『昌谷詩』第4連より