谷川健一
常世論
平凡社 1983 講談社学術文庫 1989 三一書房 1988
ISBN:4061588974
魔の系譜。無告の民。
出雲の神々。流浪の皇子たち。埋もれた日本地図。
民俗の神。柳田学と折口学。山人と平地人。
祭場と葬所。豊玉姫考。神・人間・動物。
日本神話の風土性。地名と風土。海山のあいだ。海の群星。
琉球孤の世界。火の国の譜。北国の旅人。女の風土記。
青銅の神の足跡。鍛冶屋の母。
そして、常世論。日本人の宇宙観。

 日本人が古くから抱いてきた「常世」(とこよ)はクニの観念である。原観念のようなものだ。厳密にいえば、常世は「祖霊が住む場所」のことで、しばしば「妣(はは)の国」とも「根の国」ともいわれた。日本人の根底にあるカントリーがあるとすれば、まさに常世こそがマザーカントリーだった。
 日本の政治家たちがいま想定している常世とは何なのかと、ふと思う。かれらのマザーカントリーとは何なのかと思う。「母国」や「祖国」のイメージとはどういうものなのか。たとえば憲法9条をどのようにするかで、そのマザーカントリーの資質が異なってくるというなら、そこを徹頭徹尾するべきである。また格差社会をなくして官僚政治を脱したいというのなら、その変奏ぐあいを徹頭し、徹尾するべきだろう。徹頭徹尾とは、頭と尾とを終始一貫させることをいう。
 しかし、そういうものだけで日本人の常世にあたるマザーカントリーのヴィジョンが確立するものなのか、見えてくるのかというと、それだけでは掴めないものがいろいろある。
 日本はいつしか「無宗教の国」と言われるようになった。阿満利麿の『日本人はなぜ無宗教なのか』は、そのへんを巧みに炙り出している。山折哲雄(1271夜)の『さまよえる日本宗教』も同断だ。日本人はいつしか「浄土」や「弥勒の世」に対する憧憬をもたなくなった。まことに惜しい。
 けれども他方、日本人で縄文土器に日本の原エネルギーのようなものを感じない者はほとんどいない。お米が日本に不要だとか、和風旅館がいらないとかと思う者もほとんどいない。各地の祭りには心が弾み、神社には手を合わせ、寂びた仏像には何かの心情を託したくもなる。
 それはそうでもあろうが、そうなると今度は、日本にいまなお続くそういう習慣にすがってマザーカントリーを議論したくなるだろうけれど、これもどうか。さらにまた、こういうことを日本のアニミズムやシャーマニズムの伝統が今日に生きているからだというのは、あまりに虫がいい。それでは性急なのである。そんなふうな繋ぎとめ方では、あまりにも説得力がない。
 それにそんな程度では常世はわれわれを相手にしてくれない。では、たとえば、どんなふうに見ていけばいいのか。

 かつて日本のシンボルとして折口信夫(143夜)がタブを持ち出したのに対して、柳田国男(1144夜)がクロモジを持ち出したことがあった。タブもクロモジもクスノキ科の木のことだから、そんなに変わりはないのだが、二人は論争こそしなかったものの、タブとクロモジをそれぞれの原郷イメージの代替根拠にしようとした。
 折口は『古代研究』の冒頭の口絵にタブの写真を掲げ、これが常世神(とこよがみ)の漂着地である目印なのだと主張した。常世神というのは海流を渡って原日本にやってきた祖先たちのことをいう。その到着点を示すのに依代(よりしろ)としてタブが選ばれた。そしてそのタブがやがて結界を示すサカキ(境木=榊)になったのだろうと推理した。
 柳田のほうは晩年の70歳近くになって、クロモジに注目した。依代ではないが、日本人が楊枝(ようじ)にクロモジを選んだのは、そこに永遠の香りがひそんでいるためで、原日本の大過去に去来する記憶を思い出すためではなかったかと『神樹論』に書いた。

漂著神(よりがみ)を祀った杜
折口信夫『古代研究』 口絵より

岬のたぶ
折口信夫『古代研究』 口絵より

 折口のタブも柳田のクロモジも、クスノキの常緑性と香りを祖先に結びつけている。なぜ二人の民俗学の巨人がクスノキにこだわったかといえば、そこに日本人の原観念の萌芽の「しるし」があると感じたからだった。二人だけではなく巨魁・南方熊楠も、南の海からやってきた日本人の源流たちは、みんな楠神(くすしん)を崇めたはずだと想像した。
 スサノオが自分の国を治めるために最初にしたことは、浮宝(うきたから)をつくること、つまり船を建造することだったと『日本書紀』神代紀には書いてある。スサノオはこれをスギやクスノキでつくろうとした。天岩楠船(あめのいわくすぶね)とよばれる。スサノオは常世を知っていたのだ。いや、スサノオがいたところ、そこが「根の国」とよばれていて、そこがきっと常世であろうと、のちの日本人が憧れたのである。その憧れが代々わたって伝承されたのだ。
 では、古代日本人がクスノキを通して常世を伝承したそのことを、スサノオが「根の国」をつくったというその常世を、現在のわれわれはどのように感じたり、考えていったりすればいいのか。沖縄のウタキ(御嶽)にまで行くべきか。近くの鎮守の杜(もり)に佇むべきか。そういう疑問に応えようとして立ち上がったのが谷川健一だった。

タブノキ

クロモジ

 谷川健一は常世を日本人の深層意識の原点であるととらえた。浦島太郎が行こうとしたらしい竜宮とは常世なのである。雛流しがどこへ行くかといえば、そこが常世なのである。雛は川に流され海に出て、そしていつしか海辺に戻ってくるものだ。ということは、波打ち際には常世からの寄せる波がとどいているということだ。古代人はそういうふうに夢想した。
 そういう波打ち際から、中世の日本人は熊野をあとに補陀落(ほだらく)渡海に船出した。死出の旅路ではあるけれど、行く先の「むこう」に常世があって、それはいつしか生まれ育った「ここ」につながってくると信じていたからだ。近世、そうした感覚は浄瑠璃や歌舞伎の「道行」(みちゆき)につながっていく。
 明治になって神風連をおこした林櫻園に、「常世べにかよふと見しは立花のかをる枕の夢にぞありける」という歌がある。常世に行ったと思ったのは枕元に橘が香ったせいで見た夢だったという意味だ。無念におわった桜園のヴィジョンが行きたかったところ、それもまた橘香る常世だったのである。
 このようなことを行きつ戻りつしながら、谷川は常世を考えるようになったという。常世を実感するようになったという。本書はその航跡を辿った。辿ったものではあるが、その“民俗語り”はけっして堅くない。学者の立場にこだわらず、仮説力と実証力が綯い交ぜになっていて興味尽きないものがある。
 70年代前半に「流動」という雑誌があって(当時は「現代の眼」に対抗していただろうか)、そこに「海彼の原郷」「若狭の産屋」「ニライカナイと青の島」「美濃の青墓」などが連載されていた。いずれも常世をめぐっていたが、いつも興奮させられたし、気がかりだった。その「若狭の産屋」(本書所収)には、こんなことが書いてある。

 谷川はあるとき、敦賀湾に面した常宮(じょうぐう)という海村で、ある老人から自分の子供3人を集落の産屋(うぶや)で生ませたという話を聞いた。
 産屋は屋敷の片隅にあって、隣りには煮炊き用の竈(かまど)がしつらえてある。産気づいた妊婦がそこに入ってから出産まですることはよくある光景なのだが、この地の習慣では母子は赤児が生まれてからも、その部屋を出ない。それが1カ月も続く。そこまで母子が時をすごす産屋はどんな部屋なのかと聞いてみると、その産屋には畳がなく、海から採ってきた砂を敷いてあるという。その上に藁を敷きつめ、筵(むしろ)を重ね、いちばん上に茣蓙(ござ)を置く。しかし妊婦が代わるたびに、砂はすっかり取り替えるらしい。そこで谷川が、「砂まで変えるんですか」と尋ねると、「ウブスナだからね」と言ったというのだ。
 えっ、それをウブスナと言うのか。谷川は、そうか、それをこそ産土(うぶすな)と言うのだと粛然としたという。腑にも落ちた。
 そこから谷川の推理がいろいろ飛んでいったのである。芭蕉(991夜)が『おくのほそ道』で気比神宮に参拝したときの「遊行の砂持」とは産土であろうと思えたのは、まだしもたやすい推理のほうだ。斎部広成の『古語拾遺』(571夜)にあった次の話の謎の解き方は、かなり谷川らしい飛びである。それを紹介しよう。

 ヒコホホデミが海神の娘のトヨタマヒメを娶ってヒコナギサを生んだとき、海浜に室をつくって、「掃守」(かにもり)の遠祖といわれるアメノオシヒト(天忍人命)がそこに仕えた。そのとき掃守が箒(ほうき)をとって蟹を払ったという奇妙な故事が伝わっていて、その故事ゆえに舗設(しきもの)を司っている職掌を「蟹守」(かにもり)と名付けるようになった。
 これが、『古語拾遺』のくだんの記述のあらましだ。が、谷川はかつてはその意味がわからなかった。そのころ流布していた神話学や民俗学の一般的な解釈では、蟹は脱皮して成長するので、それに肖(あやか)って新生児の誕生に立ち会う者が蟹守とよばれ、それが音韻転化して箒守になったというのだが、これではどうも説得力がない。なぜ蟹が箒になったのか。
 そこで谷川は、産土には海浜の砂にまじって蟹も動いていて、産屋に砂を入れるにあたってはそこに交じっていた蟹を実際に箒で払い出したのではないか、と推理した。さらには、そもそも産屋での出産に海浜の砂が敷かれるのは、日本人の古い出産の観念のどこかに海亀や蟹と同様の海の動物たちの砂浜での出卵に何かを託したようなものがあったのではないか。それは結局は海に去来する常世の観念を抱くことではなかったか。そういう海民たちの観念がさまざまに姿を変えて今日にとどいているのではないかと、そんなふうに推理していった。
 ぼくは、こういう谷川的推理が大好きなのである。当たっているか当たっていないかはべつとして、そんなことは後の世が決めればいいことで(柳田も折口もそうだったわけで)、それより言説や現象や習慣や地名の断片を、いまそこでどのように組み合わせていけるかが、谷川の真骨頂だったのだと思われる。
 その真骨頂の例をあげていくとキリがないけれど、ぼくが本格的に谷川の著作を読むきっかけとなった『青銅の神の足跡』(集英社1979)の例でいえば、この1冊だけでもずいぶん多くの「日本という方法」がひそんでいた。

 あの本は銅鐸の謎を追い、その背景にひそむ青銅の神々の消息と、鉄の一族にかかわる鍛冶神の消息を解明しようとしたものだった。そこには本来は青銅と鉄の記憶にもとづいていたはずの観念が、いつしか記紀神話のなかで稲魂(いなだま)の成長の精神史におきかえられていった秘密も暴かれていた。
 そのようなおきかえに積極的だったのが柳田国男だったので、谷川はこのときいきおい柳田批判にまで言葉をすすめたものだった。
 しかし、あの本はぼくを変えたのである。のちに『フラジャイル』で議論することになるぼくの「欠けた王」の仮説のルーツは、さかのぼればこの『青銅の神の足跡』と、同じ年に出版された『鍛冶屋の母』(思索社1979)とに発していた。あのころぼくは、天目一箇神をルーツとする「片目の王」の伝説や、ヤマダノソホドなどをルーツとする「足が萎える王」の伝説に夢中になっていた。そのため福士孝次郎の『原日本考』にまで手を出していて、そこにいつも鉄神や青銅神がちらちらするのが気になっていたのだが、そのうずうずとした靄々を快刀乱麻のごとく切り刻んでくれたのが谷川健一だったのだ。
 この人は「推理の歩行者の目」をもった民俗学者なのである。歩く学者はいくらもいるし、宮本常一(239夜)のように歩いてはとどまり、そこにわれわれが忘れきった日本人を蘇らせる民俗学者もいるが、谷川は歩きながら推理して、推理の中でまた歩く。そのたびに厖大な読書遍歴が加わって、また歩く。そんなふうに読んだり、歩いていくうちに、ふいに飛んでみせるのだ。そうなると、そこには、谷川的想像力による日本観念の王国があらかたできあがっていて、いったんその王国観念の飛沫に感染したら、そのウィルスはわれわれの観念をここを先途と駆けめぐるという結構なのである。
 谷川的想像力にウィルスがまじっているかのような言いっぷりをしてしまったが、いやいや、その感染こそ日本的免疫力の発端である。谷川ワクチンの創製だ。だったら、そういう観念ウィルスに出会わないままにいて、何が日本がわかるものか。何がマザーカントリーであるものか。ぼくは早くに谷川の観念ウィルスに感染したことを、おおいに誇りとしていたい。

 話をまた常世に戻すことにするが、常世がクスノキやタチバナなどの常緑樹に関係するのだろうことはさっきも述べたけれど、それが転じるといろいろなものになるという話をしておきたい。そのひとつに、常世神というのは実は「常世の虫」だったという話がある。
 この話は『日本書紀』の皇極紀に記載されている。富士川のほとりに住んでいた大生部(おうべ)の多(おう)が、村人に虫を祀ることをすすめた。多はこの虫は「常世の神」なのだから、これを祀れば金持ちになり、長生きもできると説き、これに同調する者たちがふえていった。効果はてきめん、やがて各地で常世神を橘や山椒の枝に祀って騒ぐようになるのだが、なぜかこれを都の秦河勝が知って怒り、大生部の多を懲らしめた。
 そういう話なのだが、ここには常世の虫が橘に寄生して、山椒の木についているという現象が語られているように見える。そうだとすればこの虫は蝶々や蛾の幼虫であろうけれど、それを秦河勝が懲らしめたというのが、わからない。そこで、秦氏は生糸の管轄者だったから、この「常世の虫」というのは蔑称で、実は秦氏の系譜のカイコではない別のカイコによる養蚕が大井川あたりに始まったことに対する、秦氏の鉄槌だったのではないかというふうに解釈されるようになった。
 ぼくもこの説でいっとき満足していたことがあった。けれども谷川はここからもっと別な推理の羽をのばして、またしても飛んだのである。その飛んだ先は常陸の鹿島だった。この話、ぼくの身近な者の出自ともちょっと関係がありそうなので、『常世論』のなかの「東方の聖地――常陸」にしたがって、以下、少々の順を追っておく。

 茨城県大洗には、こんな伝承がある。
 斎衡3年(856)の12月の朝廷に、鹿島郡の大洗磯前に神が新たに降りたという知らせが届いた。国使の報告では、塩炊きの男が夜半に沖を望んでいると、光り輝くものがあり、その翌日には高さ一尺ばかりの二つの石が波打ち際に立っていた。その翌日、今度はさらに二十あまりの石が、その二つの石の左右にちょんちょんと並んでいた。まるでお供の格好のようだったという。
 そのうち村のある者が、この石神めいたものが「自分はオオモチスクナヒコナである。昔、この国を作り終えて東海に去ったが、いままた民を救うためにやってきた」と託宣していたと言ってきた。
 スクナヒコナといえば、『古事記』では海の彼方からガガイモの舟に乗ってやってきた神で、誰もその正体がわからなかったのだが、カミムスビの母神がこれは自分の子だと言い、私の手の指から生まれたのだと言ったというふうになっている。『日本書紀』一書では、出雲の相見郡にあるらしい淡島(粟島)から粟茎(あわがら)にのぼってはじかれ、そのまま常世に渡っていったとされている。
 いずれにしても、それほどの「ちいさこべ」であったわけで、それゆえこの記述ではスクナヒコナは芋や粟に関係する神になっている。この伝承はその後は、海民たちが芋の酒や粟の酒をスクナヒコナに奉じて祀り、それにスクナヒコナが海辺の立石として応えたという呼応の物語になった。そう、跡付けたくもなる。
 そういうことからすると、大洗に立ったスクナヒコナもこの手のプロットがたんに変形したのだろうとも思われてくる。ところが、ここにはもうちょっとおもしろい推理が成り立ちうるということを、谷川ワクチンが放ったのである。

 大洗は鹿島台地に続いている。ここには古墳群があって、そのひとつ、直径100メートル近い車塚は仲国造(なかのくにづくり)の墳墓だとされている。仲国造は那賀国造でもあって、その名はタケカシマノミコト(建借間命)であると『常陸国風土記』は書いている。
 タケカシマは崇神天皇の時代に、東の一族を平定するために東方に遣わされた族長だった。反逆する者を追って潮来(いたこ)の近くにまで来たとき、賊たちが土窟に逃げこんだので、一計を案じて海に舟を浮かべ、音楽を奏して誘惑し、首尾よくこれを平定した。
 このタケカシマからカムヤイミミ(神八井耳)の一族が出た。そのカムヤイミミには19の子孫の系譜が連なった。その筆頭に立っているのは、実は多氏であった。系族にはそのほか、常道(ひたち)氏、石城(いわき)氏などがいる。
 一方、鹿島信仰で最も有名なのは、なんといってもミロク踊りである。なぜ鹿島に弥勒が踊るのか。そこにはおそらくちょっとした変遷がある。
 柳田国男は『海上の道』に、弥勒の出現を海から迎えるという信仰が八重山群島に見られるとして、それは琉球一帯のニライカナイ信仰のヴァージョンであって、つまりは常世信仰のひとつであると考えた。そこまでは、いい。ただし、谷川はそのようなニライカナイを弥勒浄土とみなす信仰をもった一群が、その後は分派して琉球から本土の方へ向かったにちがいないと考えた。そしてこのことが、海人たちの東上につれて紀伊半島、渥美半島、房総半島をへて常陸にとどき、そして鹿島で弥勒下生のミロク踊りになったのだろう。そう、推測した。
 ようするに、常世の信仰はときにスクナヒコナの、ときに弥勒下生(1313夜)の姿をとりながら、海流とともに西から東へ運ばれてきたのである。そして、いくつかの地で、その根をはやしたのだ。鍵が海流に乗って動いてきて、どこかで鍵穴にはまったのだ。西から東に鍵が動けば、これを待ち構える鍵穴もなければならない。それが、大洗や鹿島や潮来あたりだとしたら、そこに待っていた鍵穴とは、では何なのか。谷川は大場磐雄の仮説をもとにしながら、さらに羽を広げていった。

 タケカシマの根拠地と推定される潮来に、大生原(おうはら)というところがある。その中心は旧大原村の大生(おう)である。
 『常陸国風土記』には、ヤマトタケルが食事を煮炊きする小屋を海辺にかまえて、そこから行宮(あんぐう)に通ったとある。そこで大炊(おおい)の意味をとって、大生の村と名付けたと書いている。いまも大生神社がのこっていて、タケカシマとカムヤイミミが祀られている。

潮来市の大生地区にひっそりとたたずむ大生神社。
いまの神域は広くはないが、社叢は県天然記念物の指定を受けている。
付近には大小の古墳が多い。
写真提供:太田保春氏

 当時は海民がこのへんを頻繁に往来した。鹿島の国に入るには、ほとんどが海路で行方台地の岬を通って大生から舟で入っていった。それならどうやら、ここらあたりに鍵穴があったはずである。そうだとすると、大生神社から鹿島神宮へのコースにも、何かがひそんでいなければならない。
 おそらくこの地方に来た先駆者たちは、大生から入海を下っていったん大海(太平洋)に出て、常陸の明石の浜に上陸し、沼尾をめざして鹿島に入っていったのであろう。ということは、沼尾がもうひとつの鍵穴だ。ここには沼尾神社があって、天の大神(おおかみ)の社、坂戸の社、沼尾の社の三処が合わされている。調べてみると、トップの天の大神とは、天(あま)のオホの神、あるいは海(あま)のオホの神のこと、すなわち多氏の一族の氏神なのである。
 これでだいたいの推理が組み立ってくる。多氏こそが、きっとスクナヒコナの伝承を語ったか、語り伝えた一族だったにちがいない。鍵穴は多氏が持っていた。ところが、大和朝廷が強大になってくると、多氏の一族にはなんらかのしわ寄せがきたのであろう。
 そこで一族の跳ねっ返りが、今度は東から西に向かい、大井川あたりにさしかかったのだろう。大井は大炊でもあった。大生部(おうべ)の多(おう)とはそのことだ。けれども、ここで都からの秦氏の制止を食らった。そこで「常世の神」の伝承が「常世の虫」の伝承に切り替えられたにちがいない。ざっとはそういうことではなかったか。
 谷川はそんなふうに鍵と鍵穴の話を結んでいる。急いで合い鍵をつくった一派の話をたくみに組み込んで‥‥。

 こんな話をやや詳しく紹介したのは、さきほどもちょっと書いたように、この昔語りの経緯には、ぼくが多少の因縁を感じるからだ。
 実はいま、ぼくの最も近いところで活動してくれている太田香保と太田剛は姉と弟なのだが、その名のオオタはなんともオホ氏めいている。そればかりでなく、いまはその実家は潮来(!)になっている。これは谷川ワクチンを借りてでも、この因縁を常世に結びつけたくなるわけだった。
 いやいや、谷川健一のすぐれた研究をこんな身近な因縁話でおわらせるのは申し訳ないかもしれないが、けれども、ときにはこういう本の読み方もあってもいいはずで、何も古代中世の一族を訪ねるだけが歴史語りとはいえないはずなのだ。今夜はそんな気分であったので、あえて「多氏」と常世と来訪神を結びつけた話の紹介に徹してみたわけだ。
 とはいえやっぱり、谷川健一の壮大な業績も紹介しておきたい。せめて冒頭のイントロ・フレーズだけでも見ていただきたい。これは三一書房の『谷川健一著作集』全10巻のメインタイトルからの抜粋である。「魔の系譜」「無告の民」「流浪の皇子たち」‥‥。「祭場と葬所」「海の群星」「火の国の譜」‥‥。いずれも気になるものばかり。ともかくもこれだけのサブジェクトを書き続けた人だったのだ。ほんとうはこれらのいちいちを少しずつでも紹介したいのだが、今夜はそれは控えたい。
 そのかわり第8巻『常世論・日本人の宇宙観』の、その「日本人の宇宙観」のサワリだけをちらつかせておくことにする。こんなふうなのである。谷川さんの声を想像して、耳で読まれたい。

沖縄本島玉城村 海神に祈る
第3巻 民俗学篇3 口絵
伊雑宮の御田植祭
第4巻 古代学篇1 口絵

神倉山のゴトビキ岩
第5巻 古代学篇3 口絵
宮古島狩俣の祖神祭
第6巻 沖縄学篇口絵

 あのね、日本に世界と共通の神話や伝説があったかどうか、そんなことを考えるのは愚の骨頂なんですよ。日本には日本勝手な世界山があり、日本勝手な洪水伝説があったというふうに見たほうがいい。
 たとえば天香具山はね、天山(あめやま)が二つに分かれて降ったのですよ。記紀の冒頭の神世七代に、宇比地邇(ウヒジニ)神、妹須比智邇(イモスヒジニ)神のあと、角杙(ツノクヒ)神、妹活杙(イモイクグヒ)神が出てくるでしょう。あれは洪水のあとにその地を治水した王が杙(杭)を打ったからなんですよ。
 これじゃ、まだ不満? ムリにでもユダヤ・キリスト教に比較したいというなら、それなら楽園喪失の観念の違いを強調しておくとね、日本の神話では、楽園喪失や楽園追放は洪水以前の社会にあるのではなくて、スサノオが追放された「根の国」のほうにあるんです。しかもそこをこそ「妣の国」としたところに特色があるんだな。われわれのマザーカントリーは、墜落したり、喪失したりした者が高所をふりあおぐものとして位置づけられたのではなかったんですよ。
 だからね、人間がどこから生まれたのかという説明がないじゃないかなどと思ってもらっても困るんだ。東アジアや東南アジアには瓢箪からも卵からも人類創世がおこっているけれど、なるほど日本には卵生神話は宮古島くらいにしかないけれど、それって、何も見てないんですよ。実は各地に無数にのこる「むろ」や「うつほ」の伝承こそ、日本的世界卵の母型たりうるものであるはずなんだねえ。
 かくして日本の常世を思うにあたって重要なのは、つまりはタマとカミなんですよ。その姿や形ではなくて、そのプロフィールやフィギュアが観念そのものなんだ。観念がプロフィールであり、観念の動向がフィギュアなんだ。しかも、そこにはね、「ある」がなくて、「ある」はたちまち「なる」に移っていくものなんですよ。

 サワリにしては、あまりにサワリにすぎなかったろうが、それにあまりにぼくが我田引水しすぎたかもしれないが、あとは『谷川健一著作集』に自身で遊ばれたい。たとえば、トヨタマヒメ伝説ひとつでも、じっくり渉猟をすることだ。ご本人は、第8巻のあとがきで、こう書いていた。

 「日本人とは何かという問いは、具体的には日本人の意識や行動の根底によこたわっている世界観や宇宙観を問うことにほかにならない。もとより、その世界観や宇宙観の素材は日本だけにあるのではなく、他の民族とも共有している。しかし日本人はその素材の組み立て方、また組み立てた観念の構築物を、長い時間をかけて成熟させ、細部を洗練させていくやり方について、やはり独自のすぐれたものをもっていたと考えざるをえない。その証拠としてトヨタマヒメの神話をあげるだけでも充分であろう」。

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