才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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常世論

谷川健一

平凡社 1983 1988

魔の系譜。無告の民。
出雲の神々。流浪の皇子たち。埋もれた日本地図。
民俗の神。柳田学と折口学。山人と平地人。
祭場と葬所。豊玉姫考。神・人間・動物。
日本神話の風土性。地名と風土。海山のあいだ。海の群星。
琉球弧の世界。火の国の譜。北国の旅人。女の風土記。
青銅の神の足跡。鍛冶屋の母。
そして、常世論。日本人の宇宙観。

 日本人が古くから抱いてきた理想の世の面影がある。「常世」というものだ。祖国としてのクニの観念で、祖霊が住む場所のことをいう。しばしば「妣の国」とも「根の国」ともいわれた。日本人の根底に何かのカントリーがあるとすれば、まさに常世こそがマザーカントリーだった。
 最近の日本の政治家たちが想定している常世とは何なのかと、ふと思う。伊勢や靖国に詣っているが、かれらのマザーカントリーとは何なのかと思う。かれらの「母国」や「祖国」のイメージとはどういうものなのか。問い質してみたい。たとえば憲法九条をどのようにするかで、そのマザーカントリーの資質が異なってくるというなら、そこを徹頭徹尾議論するべきである。格差社会をなくして官僚政治を脱したいというのなら、その変化のぐあいを徹頭し、徹尾するべきだろう。徹頭徹尾とは、頭と尾とを終始一貫させることをいう。
 しかし、そういうものだけでマザーカントリーのヴィジョンが確立するものなのか、見えてくるのかというと、それだけではとうてい摑めない。

 日本はいつしか「無宗教の国」と言われるようになった。阿満利麿の『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書)は、そのへんを巧みに炙り出していた。山折哲雄の『さまよえる日本宗教』(中公叢書)も同断だ。日本人はいつしか「浄土」や「弥勒の世」に対する憧憬をもたなくなった。
 他方、縄文土器に日本の原エネルギーのようなものを感じない者はほとんどいない。お米が日本に不要だとか、和風旅館がいらないだとか思う者もまずいない。各地の祭りには心が弾み、神社には手を合わせ、寂びた仏像には何かの心情を託したくもなる。
 そうなると今度は、日本人が無宗教になっているとしても、日本にはいまなお続くそういう習慣があるじゃないかと、そのへんにすがってマザーカントリーを議論したくなるだろうけれど、これもどうか。各地で祭りがおこなわれているのは日本のアニミズムやシャーマニズムの伝統が今日に生きているからだと思いたくなるかもしれないが、これはあまりに虫がいい。そんなふうな繫ぎとめ方では、結び目はすぐゆるむ。

 かつて日本のシンボルとして折口信夫がタブを持ち出したのに対して、柳田国男がクロモジを持ち出したことがあった。タブもクロモジもクスノキ科の木のことだから、そんなに変わりはないのだが、2人は論争こそしなかったものの、タブとクロモジをそれぞれの原郷イメージの代替根拠にしようとした。
 折口は『古代研究』の冒頭の口絵にタブの写真を掲げ、これが常世神の漂着地である目印だと主張した。常世神というのは海流を渡って原日本にやってきた祖先たちの祖神のことをいう。その到着点を示すのに依代としてタブが選ばれ、そのタブがやがて結界を示すサカキ(境木=榊)になったのだろうと推理した。
 柳田のほうは晩年の70歳近くになって、クロモジに注目した。依代ではないが、日本人が楊枝にクロモジを選んだのは、そこに永遠の香りがひそんでいるためで、原日本の大過去に去来する記憶を思い出すためではなかったかと『神樹篇』に書いた。

漂著神(よりがみ)を祀った杜
折口信夫『古代研究』 口絵より

岬のたぶ
折口信夫『古代研究』 口絵より

 折口のタブも柳田のクロモジも、クスノキの常緑性と香りを祖先に結びつけている。なぜ2人の民俗学の巨人がクスノキにこだわったかといえば、そこに日本人のマザーカントリーの「しるし」があると感じたからである。巨魁・南方熊楠も、南の海からやってきた日本人の源流たちは、みんな楠神を崇めたはずだと想像した。
 3人の民俗学者はそれぞれに、古代日本人がクスノキにマザーカントリーの力を託しただろうと考えた。そこには植物国家のようなイメージがあったのだろうか。
 
 スサノオが自分の国を治めるために最初にしたことは、浮宝をつくること、つまり船を建造することだったと『日本書紀』神代紀には書いてある。スサノオはこれをスギやクスノキでつくろうとした。天磐樟船とよばれる。
 スサノオは常世を知っていたのだ。いや、スサノオがいたところ、そこが「根の国」とよばれていて、そこがきっと常世であろうと、のちの日本人が憧れたのである。その憧れが代々にわたって伝承されてきた。
 古代日本人がクスノキを通して常世を伝承したことや、スサノオが「根の国」をつくったことを、現在のわれわれはどのように感じたり、考えていったりすればいいのか。沖縄のウタキ(御嶽)にまで行くべきか。近くの鎮守の杜に佇むべきか。日本の祭りを応援するべきか。伊勢や靖国を大事にするべきか。そういう疑問に応えようとして立ち上がったのが谷川健一だった。

タブノキ

クロモジ

 谷川健一は常世を日本人の深層意識の原点であるととらえた。浦島太郎が行こうとしたらしい竜宮とは常世なのである。雛流しがどこへ行くかといえば、そこが常世なのである。雛は川に流され海に出て、そしていつしか海辺に戻ってくる。ということは、波打ち際には常世から寄せる波がとどいているということだ。古代人はそういうふうに夢想した。
 そういう波打ち際から、中世の日本人は熊野をあとに補陀落を求めて船出した。死出の旅路ではあるけれど、行く先の「むこう」に観音浄土とももくされる常世があって、そこはいつしか生まれ育った「ここ」につながってくると信じていたからだ。近世、そうした感覚は浄瑠璃や歌舞伎の「道行」につながっていく。
 明治になって神風連をおこした林櫻園に、「常世べにかよふと見しは立花のかをる枕の夢にぞ有ける」という歌がある。常世に行ったと思ったのは枕元に橘が香ったせいで見た夢だったという意味だ。無念におわった櫻園のヴィジョンが行きたかったところ、それもまた橘香る常世だった。
 神風連の乱は明治9年に熊本の敬神党がおこした士族反乱である。加屋霽堅・太田黒伴雄らの旧肥後藩士が廃刀令に反対して立ち上がった。かれらは刀を失えばマザーカントリーの何が失われると思ったのか。
 このようなことを行きつ戻りつしながら、谷川は常世を考えるようになったという。常世を実感するようになったという。本書はその航跡を辿った。辿ってはいるが、その民俗語りはけっして直線的ではない。学者の立場にこだわらず、仮説力と実証力が綯い交ぜになっていて興味尽きないものがある。

 70年代前半に「流動」という雑誌があって(当時は「現代の眼」に対抗していただろうか)、そこに谷川の「海彼の原郷」「若狭の産屋」「ニライカナイと青の島」「美濃の青墓」などが連載されていた。いずれも常世をめぐっていて、いつも興奮させられたし、気がかりだった。そのうちのひとつ、「若狭の産屋」にはこんなことが書いてあった。
 谷川はあるとき、敦賀湾に面した常宮という海村で、ある老人から自分の子供3人を集落の産屋で生ませたという話を聞いた。
 産屋は屋敷の片隅にあって、隣りには煮炊き用の竈がしつらえてある。産気づいた妊婦がそこに入って出産することはよくある光景なのだが、この地の習慣では母子は赤児が生まれてからも、その部屋を出ない。それが1ヵ月も続く。そこまで母子が時をすごす産屋はどんな部屋なのかと聞いてみると、畳がなく、海から採ってきた砂を敷いてあるという。その上に藁を敷きつめ、筵を重ね、いちばん上に茣蓙を置く。ただし妊婦が代わるたびに、砂はすっかり取り替えるらしい。
 そこで谷川が、「砂まで替えるんですか」と尋ねると、「ウブスナだからね」と言ったというのだ。谷川は、そうか、それをこそ産土と言うのだと粛然としたという。
 そこから谷川の推理がいろいろ飛んでいったのである。芭蕉が『おくのほそ道』で気比神宮に参拝したときの「遊行の砂持」とは産土であろうと思えたのは、まだしもたやすい推理のほうだ。斎部広成の『古語拾遺』にあった次の話の謎の解き方は、かなり谷川らしい飛びである。それを紹介しよう。

 ヒコホホデミが海神の娘のトヨタマヒメを娶ってヒコナギサを生んだとき、海浜に室をつくって、「掃守」の遠祖といわれるアメノオシヒト(天忍人命)が仕えた。そのとき掃守が箒をとって蟹を払ったという奇妙な故事が伝わっていて、その故事ゆえに舗設を司っている職掌を「蟹守」と名付けるようになった。
 これが、『古語拾遺』のくだんの記述のあらましだが、谷川はかつてはその意味がわからなかった。そのころ流布していた神話学や民俗学の一般的な解釈では、蟹は脱皮して成長するので、それに肖って新生児の誕生に立ち会う者が蟹守とよばれ、それが音韻転化して掃守になったというのだが、これではどうも説得力がないと感じていた。なぜ蟹が箒になったのか。
 そこで谷川は、産土には海浜の砂にまじって蟹も動いていて、産屋に砂を入れるにあたってはそこにまじっていた蟹を実際に箒で掃き出したのではないか、と推理した。さらには、そもそも産屋での出産に海浜の砂が敷かれるのは、日本人の古い出産の観念のどこかで、海亀や蟹などの砂浜での産卵に何かを託したのではないか。それは結局は「海に去来する常世の観念」を抱くことではなかったか。そういう海民たちの観念がさまざまに姿を変えて今日にとどいているのではないかと、推理していった。
 ぼくは、こういう谷川的推理が大好きなのである。当たっているか当たっていないかは後の世が決めればいいことで(柳田も折口もそうだったわけで)、それよりも言説や現象や習慣や地名の断片を、いまそこでどのように組み合わせていけるかが、谷川の真骨頂だったのだと思われる。
 その真骨頂の例をあげていくとキリがないけれど、ぼくが本格的に谷川の著作を読むきっかけとなった『青銅の神の足跡』(集英社)の例でいえば、この一冊だけでもずいぶん多くのマザーカントリーの痕跡がちりばめられていて、ぼくがその後にあれこれ考えることになる「日本という方法」がひそんでいた。

 あの本は銅鐸の謎を追い、その背景にひそむ青銅の神々の消息と、鉄の一族にかかわる鍛冶神の消息を解明しようとしたものだった。そこには本来は青銅と鉄の記憶にもとづいていたはずの観念が、いつしか記紀神話のなかで稲魂の成長の精神史におきかえられていった秘密も暴かれていた。
 のちに『フラジャイル』(ちくま学芸文庫)で議論することになるぼくの「欠けた王」の仮説のルーツは、さかのぼればこの『青銅の神の足跡』と、同じ年に出版された『鍛冶屋の母』(思索社→講談社学術文庫)とに発していた。
 あのころぼくは、天目一箇神をルーツとする「片目の王」の伝説や、ヤマダノソホドなどをルーツとする「足が萎えた王」の伝説に夢中になっていた。そのため福士幸次郎の『原日本考』(三宝書院→批評社)にまで手を出していて、そこにいつも鉄神や青銅神がちらちらするのが気になっていたのだが、そのうずうずとした靄々を快刀乱麻を断つごとく切り刻んでくれたのが谷川健一だったのだ。

 この人は「推理の歩行者の目」をもった民俗学者なのである。歩く学者はいくらもいるし、宮本常一のように歩いてはとどまり、そこにわれわれが忘れきった日本人を蘇らせる民俗学者もいるが、谷川は歩きながら推理して、推理の中でまた歩く。そのたびに厖大な読書遍歴が加わって、また歩く。そんなふうに読んだり歩いていくうちに、ふいに飛んでみせるのだ。
 そうなると、そこには谷川的想像力による「日本的観念の王国」があらかたできあがっていて、いったんその王国観念の飛沫に感染したら、そのウィルスはわれわれの想像力の中をここを先途と駆けめぐるという結構なのである。
 谷川的想像力にウィルスがまじっているかのような言いっぷりをしてしまったが、いやいや、それに感染することこそ日本的免疫力の発端である。谷川ワクチンの創製だ。だったら、そういう観念ウィルスに出会わないままにいて、何が日本がわかるものか。何がマザーカントリーであるものか。ぼくは早くに谷川の観念ウィルスに感染したことを、誇りとするようになっていた。

 話を戻すことにするが、常世がクスノキやタチバナなどの常緑樹に関係するのだろうことはさっきも述べたけれど、それが転じるといろいろなものになるという話をしておきたい。そのひとつに、常世神というのは「常世の虫」だったという話がある。
 この話は『日本書紀』の皇極紀に記載されている。富士川のほとりに住んでいた大生部の多が、村人に虫を祀ることをすすめた。多はこの虫は「常世の神」なのだから、これを祀れば金持ちになり、長生きもできると説き、これに同調する者たちがふえていった。効果はてきめん、やがて各地で常世神を橘や山椒の枝に祀って騒ぐようになるのだが、なぜかこれを都の秦河勝が知って怒り、大生部の多を懲らしめた。
 そういう話なのだが、ここには常世の虫が橘に寄生するもので、山椒の木にもついているという生態的な現象が語られているように見える。そうだとすればこの虫は蝶々や蛾の幼虫であろうけれど、それを秦河勝が懲らしめたというのが、わからない。そこで、秦氏は生糸の管轄者だったから、この「常世の虫」というのは蔑称で、実は秦氏の系譜のカイコではない別のカイコによる養蚕が大井川あたりに始まったことに対する、秦氏の鉄槌だったのではないかというふうに解釈されるようになった。
 ぼくもこの説でいっとき満足していたことがあった。けれども谷川はここからもっと別な推理の羽をのばして、またしても飛んだのである。その飛んだ先は常陸の鹿島だった。この話、ぼくの身近な者の出自ともちょっと関係がありそうなので、『常世論』のなかの「常陸――東方の聖地」にしたがって、以下、少々の順を追っておく。

 茨城県大洗には、こんな伝承がある。
 斉衡3年(856)の12月の朝廷に、鹿島郡の大洗磯前に神が新たに降りたという知らせが届いた。国使の報告では、塩焚きの男が夜半に沖を望んでいると、光り輝くものがあり、その翌日には高さ一尺ばかりの2つの石が波打ち際に立っていた。その翌日、今度はさらに20あまりの石が、その2つの石の左右にちょんちょんと並んでいた。まるでお供の恰好のようだったという。
 そのうち村のある者が、この石神めいた者が「自分はオオモチスクナヒコナである。昔、この国を作り終えて東海に去ったが、いままた民を救うためにやってきた」と託宣していたと言ってきた。
 スクナヒコナといえば、『古事記』では海の彼方からガガイモの舟に乗ってやってきた神で、誰もその正体がわからなかったのだが、カミムスビの母神がこれは自分の子だ、私の手の指から生まれたのだと言ったというふうになっている。『日本書紀』の一書では、出雲の相見郡にあるらしい淡島(粟島)から粟茎にのぼってはじかれ、そのまま常世に渡っていったとされている。
 いずれにしても、それほどの「ちいさこべ」であったわけで、それゆえこの記述ではスクナヒコナは芋や粟に関係する神になっている。この伝承はその後は、海民たちが芋の酒や粟の酒をスクナヒコナに奉じて祀り、それにスクナヒコナが海辺の立石として応えたという呼応の物語になった。そう、後付けたくもなる。
 そういうことからすると、大洗に立ったスクナヒコナもこの手のプロットがたんに変形したのだろうとも思われる。ところが、ここにはもうちょっとおもしろい推理が成り立ちうるということを、谷川ウィルスが放ったのである。

 大洗は鹿島台地に続いている。ここには古墳群があって、そのひとつ、直径100メートル近い車塚は仲国造の墳墓だとされている。仲国造は那賀国造でもあって、その名はタケカシマノミコト(建借間命)であると『常陸国風土記』は書いている。
 タケカシマは崇神天皇の時代に、東の一族を平定するために東方に遣わされた族長だった。反逆する者を追って潮来の近くにまで来たとき、賊たちが土窟に逃げこんだので、一計を案じて海に舟を浮かべ、音楽を奏して誘惑し、首尾よくこれを平定した。
 このタケカシマからカムヤイミミ(神八井耳)の一族が出た。カムヤイミミには19の子孫の系譜が連なった。その筆頭に立っているのは、実は多氏であった。系族にはそのほか、常道氏、石城氏などがいる。
 一方、鹿島信仰で最も有名なのは、なんといってもミロク踊りである。なぜ鹿島に弥勒が踊るのか。そこにはおそらくちょっとした変遷がある。
 柳田国男は『海上の道』に、出現する弥勒を海から迎えるという信仰が八重山群島に見られるとして、それは琉球一帯のニライカナイ信仰のヴァージョンであって、つまりは常世信仰のひとつであると考えた。谷川はそのようなニライカナイを弥勒浄土とみなす信仰をもった一群が、その後は分派して琉球から本土の方へ向かったにちがいないと考えた。そしてこのことが、海人たちの東上につれて紀伊半島、渥美半島、房総半島をへて常陸にとどき、そして鹿島で弥勒下生のミロク踊りになったのだろう。そう、推測した。
 ようするに、常世の信仰はときにスクナヒコナの、ときに弥勒下生の姿をとりながら、海流とともに西から東へ運ばれてきたのである。そして、いくつかの地で、その根をはやしたのだ。鍵が海流に乗って動いてきて、どこかで鍵穴にはまったのだ。西から東に鍵が動けば、これを待ち構える鍵穴が東にもなければならない。それが、大洗や鹿島や潮来あたりだとしたら、そこに待っていた鍵穴とは、では何なのか。谷川は大場磐雄の仮説をもとにしながら、さらに羽を広げていった。

 タケカシマの根拠地と推定される潮来に、大生原というところがある。その中心は旧大原村の大生である。その説明を『常陸国風土記』は、ヤマトタケルが食事を煮炊きする小屋を海辺にかまえて、そこから行宮に通ったからだとした。そこで大炊の意味をとって、大生の村と名付けたと書いている。いまも大生神社がのこっていて、タケカシマとカムヤイミミが祀られている。

潮来市の大生地区にひっそりとたたずむ大生神社。
いまの神域は広くはないが、社叢は県天然記念物の指定を受けている。
付近には大小の古墳が多い。
写真提供:太田保春氏

 当時は海民がこのへんを頻繁に往来した。鹿島の国には、ほとんどが海路で行方台地の岬を通って大生から舟で入っていった。それなら、ここらあたりに鍵穴があったはずである。そうだとすると、大生神社から鹿島神宮へのコースにも、何かがひそんでいなければならない。
 おそらくこの地方に来た先駆者たちは、大生から入海を下っていったん大海(太平洋)に出て、常陸の明石の浜に上陸し、沼尾をめざして鹿島に入っていったのだろう。ということは沼尾がもうひとつの鍵穴だ。ここには沼尾神社があって、天の大神の社、坂戸の社、沼尾の社の三処が合わされている。調べてみるとトップの天の大神とは、天のオホの神、あるいは海のオホの神のこと、すなわち多氏の一族の氏神なのである。
 これでだいたいの推理が組み立ってくる。多氏こそが、きっとスクナヒコナの伝承を語ったか、語り伝えた一族だったにちがいない。鍵穴は多氏が持っていた。けれども大和朝廷が強大になってくると、多氏の一族にはなんらかのしわ寄せがきたのであろう。
 そこで一族の跳ねっ返りが、今度は東から西に向かい、大井川あたりにさしかかったのだろう。大井は大炊でもあった。大生部の多とはそのことだ。勢力ももった。そのせいで、ここで都からの秦氏の制止を食らった。秦氏は生糸の生産を握っていた。そこで「常世の神」の伝承が「常世の虫」の伝承に切り替えられたにちがいない。ざっとはそういうことではなかったか。
 谷川はそんなふうに鍵と鍵穴の話を結んでいる。急いで合い鍵をつくった一派の話をたくみに組み込んで……。

 こんな話をやや詳しく紹介したのは、さきほどもちょっと書いたように、この昔語りの経緯には、ぼくが多少の因縁を感じるからだ。
 実はいま、ぼくの最も近いところで活動してくれている太田香保と太田剛は姉と弟なのだが、その名のオオタはなんともオホ氏めいている。そればかりでなく、いまはその実家は潮来(!)になっている。これは谷川ウィルスと谷川ワクチンを借りてでも、この因縁を常世に結びつけたくなるわけだった。
 いやいや、谷川健一のすぐれた研究をこんな身近な因縁話でおわらせるのは申し訳ないかもしれないが、けれども、ときにはこういう本の読み方もあってもいいはずで、何も古代中世の一族を訪ねるだけが歴史語りとはいえないはずなのだ。今夜はそんな気分であったので、あえて「多氏」と常世と来訪神を結びつけた話の紹介に徹してみたわけだ。

 とはいえやっぱり、谷川健一の壮大な業績も紹介しておきたい。せめて冒頭のイントロ・フレーズだけでも見ていただきたい。これは三一書房の『谷川健一著作集』全10巻のメインタイトルからの抜粋である。「魔の系譜」「無告の民」「流浪の皇子たち」……。「祭場と葬所」「海の群星」「火の国の譜」……。いずれも気になるものばかり。ともかくもこれだけのサブジェクトを書き続けた人だったのだ。ほんとうはこれらのいちいちを少しずつでも紹介したいのだが、今夜はそれは控えたい。
 そのかわり第8巻『常世論・日本人の宇宙観』の、その「日本人の宇宙観」のサワリだけをちらつかせておくことにする。だいたいはこんなふうだ。谷川さんの声を想像して、耳で読まれたい。

沖縄本島玉城村 海神に祈る
第3巻 民俗学篇3 口絵
伊雑宮の御田植祭
第4巻 古代学篇1 口絵

神倉山のゴトビキ岩
第5巻 古代学篇3 口絵
宮古島狩俣の祖神祭
第6巻 沖縄学篇口絵

 あのね、日本に世界と共通の神話や伝説があったかどうか、そんなことを考えるのは愚の骨頂なんですよ。日本には日本勝手な世界山があり、日本勝手な洪水伝説があったというふうに見たほうがいい。
 たとえば天香具山はね、天山が2つに分かれて降ったのですよ。記紀の冒頭の神世7代に、宇比地邇神、妹須比智邇神のあと、角杙神、妹活杙神が出てくるでしょう。あれは洪水のあとにその地を治水した王が杙(杭)を打ったからなんですよ。
 これじゃ、まだ不満? ムリにでもユダヤ・キリスト教に比較したいというなら、それなら楽園喪失の観念の違いを強調しておくとね、日本の神話では、楽園喪失や楽園追放は洪水以前の社会におこったのではなくて、スサノオが追放された「根の国」のほうにあるんです。しかもそこをこそ追憶すべき「妣の国」としたところに特色があるんだな。われわれのマザーカントリーは、墜落したり、喪失したりした者が高所を振り仰ぐものとして位置づけられたのではなかったんですよ。
 だからね、人間がどこから生まれたのかという説明がないじゃないかなどと思ってもらっても困るんだ。東アジアや東南アジアには瓢簞からも卵からも人類創世がおこっているけれど、なるほど日本には卵生神話は宮古島くらいにしかないけれど、それって、何も見てないんですよ。実は各地に無数にのこる「むろ」や「うつほ」の伝承こそ、日本的世界卵の母型たりうるものであるはずなんだねえ。
 かくして日本の常世を思うにあたって重要なのは、つまりはタマとカミなんですよ。その姿や形ではなくて、そのプロフィールやフィギュアが日本人の面影の原型観念そのものなんだ。そういう面影の観念がプロフィールであり、その動向がフィギュアなんだ。しかも、そこにはね、「ある」がなくて、「ある」はたちまち「なる」に移っていくものなんですよ。

 サワリにしてもあまりにサワリにすぎなかったろうが、それにぼくが我田引水しすぎたかもしれないが、あとは『谷川健一著作集』に自身で遊ばれたい。たとえば、トヨタマヒメ伝説ひとつでも、じっくり渉猟をすることだ。ご本人は第8巻のあとがきで、こう書いていた。
 「日本人とは何か」という問いは、具体的には日本人の意識や行動の根底によこたわっている世界観や宇宙観を問うことにほかならない。もとより、その世界観や宇宙観の素材は日本だけにあるのではなく、他の民族とも共通している。しかし日本人はその素材の組み立て方、また組み立てた観念の構築物を、長い時間をかけて成熟させ、細部を洗練させていくやり方について、やはり独自のすぐれたものをもっていたと考えざるをえない。その証拠としてトヨタマヒメの神話を挙げるだけで充分であろう。