才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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悪徳の栄え

マルキ・ド・サド

現代思潮社 1961 1990

Marquis de Sade
[訳]澁澤龍彦

 サドは74歳におよんだ生涯の後半ほとんどを獄中で暮らした。たびたび収監され、ついで11年まるまるを監獄ヴァンセンヌと監獄バスティーユに連続幽囚された。それでいて大小50巻に達する書物に性的想像力の極みを言葉に移しおえた。ピエール・クロソウスキージョルジュ・バタイユシモーヌ・ド・ボーヴォワールは、それを大革命が産み落としたもうひとつの哲学とみなした。
 18世紀後半から19世紀初頭までのフランスは、啓蒙思想とポンパドゥール様式で始まり、それからフランス革命がおこって宮廷文化が解体し、そうかとおもったらナポレオンが登場してヨーロッパを一変させたというような、そんな激しくも劇的きわまりない70年間である。フランスがこれほど決定的に激変したことはない。そのあいだに宮廷シェフが街に放り出されたごとく(それがフレンチ・レストランの原型になった)、ありとあらゆる矛盾が露呈した。事態はヴォルテールルソーが予想したようにはならなかったのだ。

 その70年間がサドの70年間である。そんな時代の半分をサドは貴族の特権として性的狂乱に耽り、半分を貴族の権利を剥脱された者として獄中で性的妄想に耽った。
 投獄されたのは身から出た錆である。娼婦や乞食の少女を鞭でめった打ちし、下男とともに何人もの女に鶏姦を強いた。そうした度重なる性的乱行のせいだった。サドにしてみればそれは人間の本来の快楽にとって、普通のこととか尋常のこととはいえないものの、ヴォルテールの哲学同様に「普遍」の思念と行為だと思っていたのだが、宮廷文化の時代とはいえ、社会はそういう侯爵を許さなかった。いや貴族社会を打倒し、マリー・アントワネットを処刑したブルジョワジーにとってはサドの所業のこそ有罪だったのである。

 サドがしたこと(書いたこと以前に、したこと)は、字義通りのリベルタンとしての行動だった。リベルタンとして社会に対立した。
 リベルタンとは17世紀のころにはすでに「信仰や宗教的行為に従うことを拒否する者」という意味をもっていた。ルイ14世時代では、マントノン夫人がそういう言葉づかいをしていたのだが、リベルタンといえば遊蕩児のことをさしていた。
 サドはそのリベルタンだった。ヨーロッパのキリスト教社会にあってはアウグスティヌスとトマス・アクィナスこのかた、愛欲や性交は出産のための行為であって、そのことに従うのがカトリックの自然法則なのである。性を束縛すること、それが自然法則というものだった。
 しかしサドは愛欲による快楽において自然法則を拒絶した。性の束縛を解放したかった。ということは、サドの快楽をむさぼる行為はあきらかに知的な行為であって、脳髄に刺激を加える作業でもあった。逆に、知的な行為としての実感がなければ、快楽にもなりえなかったのである。

 すでにフランスの貴族社会はひどく怠惰になっていた。腐るほどに弛緩していた。多くの貴族は娼婦や女優と交わり、退屈な夫人には内緒にリビドーを満足させていた。貴族が娼婦と寝ようとも姦淫に耽ろうとも、それは隠れた慣習のなかでおこなわれる当然の安逸だったのである。
 むしろそのような男どもをほったらかしに、知的なサロンに耽ったのは夫人たちのほうだった
 けれども貴族たちも、自分がこっそり満喫したことがどんな性的快楽であったかなどということを、世間に披瀝することは絶対に憚られていた。それをおおっぴらにするだなんてことは、まったく理解しがたいことで、それを言葉にあらわし、まして哲学にすることなど、及びもつかないことだった。それをサドはやってしまったのだ。
 近代国家や現代資本主義が確立してからなら、サドの行為は合意さえあれば犯罪にもならなかったことだったろうが、それがそうとは理解されなかったのである。あまつさえ、当時は「想像力は実行力」だったのだ。”そのこと”を想像しているということは、”そのこと”を実行していることだったのである。魔女狩りがそうであったように、魔女はそれを"知っている"と判断されただけで、とんでもない罪を犯していたことになった
 だから、サドはこう書いて抵抗した。「わたしは、こうした種類のことで考えられることはすべて考えた。しかし、わたしは考えたことのすべてを実行に移したわけではなかったし、これからも実行にしないだろうことは、もちろんだ。ようするにわたしは犯罪者でもなければ人殺しでもなく、一個のリベルタンにすぎない」。

 ここで『悪徳の栄え』がどのような凌辱の場面に満ちているかということを書いてもしかたないだろう。また、おびただしい哲学的なフレーズを抜き出してもうんざりするだけだろう。それよりも、そのような想像力がサド自身の何によって支えられたのかを、その日々のなかに見ておきたい。
 かつて愛読した澁澤龍彦の『サド侯爵の生涯』(これをもとに三島由紀夫が『サド侯爵夫人』を書いた)とジルベール・レリーの『サド侯爵・その生涯と作品の研究』と、いま翻訳刊行中のジャン・ジャック・ポーヴェールの大著『サド侯爵の生涯』を参考に、サドの情けないほど異様きわまりない70年をざっと追っておく。

 サドの家系は、さかのぼればペトラルカの愛人ラウラを先祖とするプロヴァンス地方の名家にあたっている。12世紀からの家系だ。父親は伯爵で、いくつかの土地の領主でもあり、かつ軍人で外交官だった。ロシア大使になったときはペテルスブルグに赴いて手腕を発揮した。
 母親は大コンデ家の親類筋のマイエ・ド・カルマン家の娘で、ブルボン王家につながる宮廷貴族の血をもっていた。この時代の宮廷の慣習で、母親はコンデ公爵夫妻の侍女をつとめていた。
 サド自身はその宏壮なコンデ公の館で、1740年に生まれた。サン・シュルピス教会で洗礼を受けた。ドナシアン=アルフォンス=フランソワ・ド・サドという優雅な名が本名である。姉と妹がいたが、幼くして死んだので一人っ子に近い。一人っ子の遊び相手は、コンデ公の遺児のルイ・ジョセフ・ド・ブルボン王子だった。これでは先がおもいやられよう。

 当時のパリはランベール夫人やタンサン夫人からジョフラン夫人にサロン文化が移っていたころで、ヴォルテールやディドロやダランベールがいそいそとサロンを出入りしていた。モーペルテュイは『宇宙論』で適者生存説を唱え、モレリは『人間の精神に関する試論』の構想を温めていた。つまりはポンパドゥール公爵夫人がヴェルサイユ宮殿の中心にいた、たいへんロココな時代なのだ
 サドはいったん叔父の神父に引き取られて、そこで自由な教育を受けた。叔父は法衣を着ていながらもペトラルカや博物学を研究するようなディレッタントで、こっそりと娼婦と遊ぶことも平気なような男だった。サドは影響されるのだが、10歳でパリに戻り、今度は厳格なイエズス会の中学校に入れられた。家庭教師もついた。
 14歳からは近衛軽騎兵連隊付属の士官学校に入った。王子との遊び、自由な神父、イエズス会の規律、あやしい家庭教師、敬礼する士官学校。これで少年が何を感じたかはだいたい想像がつく。
 15歳で無給の少尉に任官すると、17歳のときはサン・タンドレ旅団重騎兵連隊の晴れがましい旗手になった。それから士官として七年戦争に参加した。軍服は似合ったようだ。

コンデ館の正門

コンデ館の正門

 軍隊から帰ったサド侯爵は23歳である。やや頬がふくらみかげんだが、容貌はいい。器用にマドリガルの韻を踏むことも、ちょっとした冗談で周囲を笑わせることもできた。つまり外見は伊達者(プチ・メートル)の一種であって、変種ではなかった。しかるに、その想像力と性的な関心だけは並々ならぬ異常が渦巻いていた。
 この青年侯爵サドが快楽に対して自由な見方をしていることは、父親や母親にはうっすら見当のついていたことのようだ。実際にもサドは娼婦通いに熱心だったばかりでなく(これは当時の青年貴族の大半がたのしんでいたことだ)、ロリスという恋人に熱をあげていて、そのロリスにも娼婦まがいの気分を押しつけていた。
 そこで父親は転ばぬ先の杖として、サドの結婚話を進めた。よくあることだ。富裕な裁判所名誉長官モントルイユの長女ルネ・ペラジー・ド・ローネー(以下、ルネ)を選んだ。法曹界の大物とつながりができることはサド家にとっても好都合だったし、モントルイユ家にとっても大コンデ家と血縁のある関係をもつことは悪くない。とくにモントルイユ夫人はこの縁談にはすこぶるご執心だった。

 サドは猛然と抵抗した。すでにロリスに夢中になっていたからだが、両親は許さない。
 1763年5月、サドはルネと渋々結婚した。ラ・コストの居城に住んだ。こうしてサドの生活に、ルネ夫人、その妹のアンヌ、義母となったモントルイユ夫人という新たな3人の女が公然と割りこんできた。
 サドは妻には冷淡にあたり、アンヌには欲情を感じ、モントルイユ夫人からは支配をうけることになる。それでも芝居好きだったサドはこの新しい家族に自分の才能を見せびらかすために、家族で芝居をするような"演出"をする。

 仮面のような新婚生活は半年も安定しなかった。1763年10月、サドは「妾宅における度はずれな乱行」の廉(かど)で、その後も何度か投獄されるヴァンセンヌの牢獄に収監された。
 どんな乱行だったかは、記録ではわからない。パリ郊外に小さな家を借りて家具をもちこみ、そこに娼婦たちを引っぱりこんで「神をも恐れぬ忌まわしい乱行」に耽ったと記録されているだけである。しかしサドはこの15日間の収監に動揺し、あれこれの嘆願に訴えるような手紙を書いている。今日に残されたサドの手紙は厖大なものなのだが、自我意識が極端に過剰なはずのサドは、手紙においてはたいてい狡猾な紳士のようなそぶりを示す。
 ともかくこれでサド侯爵は貴族社会で一番の要注意人物になった。司法警察官マレーがこのあとずっとサドにつきまとう。もう一人、サドの快楽の行く手を阻んだのが義母のモントルイユ夫人だった。が、それでも侯爵はまったくめげずに、人目を盗んでリベルタンとしての挑戦にとりくんでいく。イタリア座の女優コレットに執心し、これはモントルイユ夫人に阻まれたものの、次のボーヴォワザンという名代の悪女とは侯爵のその後の"サディズム"にとって肝要な修業の相手になった。悪女はよくそのお相手をまっとうしたらしく、侯爵が近隣の貴族を招いて自作自演の芝居をしたときも、悪女は仮の侯爵夫人の役割を妖艶に演じた。
 こうしたサドの勝手に対して、ルネ夫人は耐え抜いたようだ。サドによれば、夫人は「あまりに冷たく、あまりに信心が深かった」。貞女たるべく決心した女だったのだ。このあたりの事情と宮廷のロココなやりとりをふくらましたのが、三島の『サド侯爵夫人』である。

牢獄も兼ねたシャトレ裁判所(1780年ごろ)

牢獄も兼ねたシャトレ裁判所(1780年ごろ)

 1767年はサドの父が死に、長男が誕生した。そんな悲しみと喜びをよそに、サドはアルクイユに小さな家を借り、オペラ座の女優リヴィエール、同ルクレール、ルロワ、さらにD、Mとも交渉を重ね、しだいに鬱勃たる感情を狂躁に向けて爆発させていった。こうして、かの有名なアルクイユ事件がおこる。サド侯爵28歳である。
 1768年4月3日、侯爵は灰色のフロックコートと白いマフラーと狩猟用短剣とステッキを身につけて、パリ中央のヴィクトワール広場で女を物色していた。そこに36歳の女乞食ローズ・ケレルがあらわれた。侯爵は近づいて自分についてくれば1エキュの金をやると言うと、女はあたしはそんな卑しい素性の女ではありませんと言ったのだが、サドは私は女中がほしいのだと強制して、彼女を馬車に乗せアルクイユの別荘に連れこんだ。
 サドは女を部屋にまたせ鍵をしめると、1時間ほどして蝋燭を手にしてふたたびあらわれ、小部屋に導いて衣服を脱げと命じた。女はシュミーズのままためらっていたが、たちまち下着は剥ぎとられ、長椅子に腹ばいに寝かされた。それから自分も上着とシャツを脱ぎ捨てると裸体にチョッキを着け、頭にハンカチを巻きつけた。そして鞭をとって女を激しく打ちはじめたのである。女は叫んだが、サドは短剣を振って黙らなければ殺して庭に埋めてしまうと脅し、さらに革の結び玉のついた鞭で打った。ときどき手を休めて擦り傷に軟膏を塗ると、また鞭を打ち、さらに速度を速めていったかとおもうと、公爵は甲高い絶叫とともに射精してしまったのである。
 拷問は終わった。サドは水差しと洗面器とコニャックの瓶をもってきて、体を洗ってコニャックを傷口につけるように言い、着替えがすむとパンとゆで卵と葡萄酒を運んだ。すぐ帰りたいという女に、サドは今晩中に帰らせてやると告げ、姿を消した。ローズ・ケレルは鎧戸をこじあけ、ベッドカバーを繋ぎあわせて窓から下に降り、村に戻ると泣きわめいた。村中が大騒ぎになって公証人のランベール夫人が憲兵隊に通報した。

アルクイユのサド侯爵の妾宅(1900年ごろ)

アルクイユのサド侯爵の妾宅(1900年ごろ)

 これがアルクイユ事件のあらましである。事件はレチフ・ド・ラ・ブルトンヌやジュール・ジャナンらによって大袈裟に書きたてられ、非人間、怪物、生体解剖者といったレッテルがサドに貼られた。
 検事記録を見るかぎりは、女を鞭打っただけではあったが(その後はどこでもおこなわれていることであるが)、サドは前代未聞の犯罪者とみなされたのだ。
 このようにサドが重罪扱いされることになったのは、いままさに激発しようとしていたブルジョワジーの蜂起を前にしたこの時期、貴族の犯罪に対してとくに世論が厳しくなっていたこと、アルクイユ事件を担当した刑事部がモントルイユの対抗者であったこと、この事件がキリスト教徒にとって最も重要な復活祭の日にあたっていたことなどにもよっていた。
 この復活祭の日だったということについては、のちにサドが『悪徳の栄え』のなかで、ジュリエットがこの日を選んで淫らきわまりない饗宴をひらくという件りにもふたたび象徴されているように、サドに魂胆があったとも解される。それとものちにサドが自身の犯した狂乱を跡付けたのか。そこは解釈が分かれるところだが、いずれにしてもこの事件によってサドの正体は、のちにクラフト=エビングによって"サディズム"の呼称をもって規定された性倒錯の病状とみなされることになる。
 しかし、この鞭打ちサディズムについては、その後多くの議論が巻きおこっていて(それらの論評をいちいち読むのはかなり退屈であるが)、サドの倒錯はごく初歩的なものではなかったのか、ローズ・ケレルに性的な交渉をしなかったのはなぜか、むしろ被害者の絶叫や恐怖や縄や鞭といった状況がサドを興奮させたのであって、だからこそサドは一方的射精に達したのではないかといった穿った"分析"が加えられてきた。
 一説には、サドのサディズムは表象愛にすぎないとか、反社会的抵抗による初歩のサディズムだったという見解もある。

 事件ののち、モントルイユ夫人はさっそくもみ消しにかかったが、事件から4日後、サドに逮捕状が出て、ソーミュールの城塞に留置された。けれどもサドはまだ懲りてはいなかった。
 1770年8月に軍職に復帰し、長女マドレーヌをもうけ、妻の妹のアンヌに懸想した。ルネの妹に懸想したことは、そののちの『美徳の不幸』のジュスティーヌに対するに『悪徳の栄え』のジュリエットの妄想をかきたてたようだ。
 こうして侯爵は、アルクイユ事件よりもさらに忌まわしいマルセイユ事件をおこす。1772年6月、サド32歳である。

 このとき、侯爵はラ・コストの城からマルセイユに赴き、十三番館という宿屋に泊まって下男に私娼を漁らせた。
 侯爵は青い裏地の灰色の燕尾服とオレンジ色の絹のチョッキに羽飾りの帽子をかぶり、長剣を腰に吊って金の丸い握りのステッキを手に待機した。私娼たちは4人調達されていた。
 侯爵は一人ずつ選んで別室に呼び入れ、カンタリスという催淫剤をのませて鞭打ちを始めた。さらに「うしろから交わらせば1ルイをやる」と言ったが、娼婦たちは嫌がった。しかし公爵はこれを次々にくりかえした。マリアンヌを相手にしたときは自分を鞭で打てと命じた。マリエットに鞭打たせたときは、打たれるたびに声を上げ、その数を暖炉の煙突にナイフで刻みつけた。ローズのときは下男と鶏姦させ、ローズのときは下男と正常位で交わらせ、侯爵は女に鞭を打った。さらに数人と下男と一緒に姦淫をくりかえした。一人の女には強力な下剤をのませて糞便をもらさせ、その尻を愛撫した。午後になると下男は別の女たちを漁った。マルグリットが犠牲になったが、彼女は鶏姦を断った。
 これらの一連の事情は、しだいに警察の知るところとなり、サドと下男に召喚状が発令されたが、二人はさっさとイタリアに逃げていた。が、追っ手はサドの居所を発見し、12月に身柄が拘束されたのち、今度はミオランの獄房に留置された。サドの居所がこれほど早く発見されたのはモントルイユ夫人の幇助によると言われている。サドは義母によってしだいに追いつめられていくことになったのだ。

ラ・コストの城

ラ・コストの城

 マルセイユ事件でサドがおこした猟奇には、サディズムの衝動にマゾヒズムが加わっていた。のちに臨床医シュレンク・ノツィングはこのマゾヒズムに「アルゴラグニア」の名称を与えた。苦痛が快楽になるという症状である。ぼくはアルゴグラニアの男については面識がないが、アルゴグラニアを望む女性には知り合いがいる。
 サドがたんなるアルゴラグニアであったかどうかということは、いまでは疑問視されている。『悪徳の栄え』にも『新ジュスティーヌ』にも出てくるのだが、サドの快楽は放蕩によって傲慢を獲得することであり、屈辱によって矜持を強化するためでもあったからである。必ずしも被虐にのみ溺れていない。
 もうひとつ、マルセイユ事件が露呈したことは、サドに「コプロフィリア」や「ウラニスム」があったということである。コプロフィリアは糞便愛のこと、ウラニスムは肛門愛のことであるが、コプロフィリアについては『ソドム百二十日』で大きな比重を与えられているわりに、サドが執着していたという形跡はない。
 ウラニスムは鶏姦をともなうもので、これについては数々の乱行の記録を見るかぎりサドはつねにこだわっていたようだ。ボーヴォワールはサドのリビドーは肛門愛を中心に広がったのではないかと推理した。この見方はいまではサドに関する"常識"になっている。ぼくはコプロフィリアやウラニスムには近付けない(サド侯爵とぼくを較べてもしょうがないけどね)。

 さらに、マルセイユ事件があからさまにしたことがある。サドには極度の視姦主義があったということだ。
 他者の性行為を目撃することが自身の性欲のみならずいっさいの精神の興奮をもたらすということは、対自と対他が対立することなくエロスの根本に集中していたことを暗示する。そこには主客の入れ替わりがおこる。実際にもマルセイユでは、サドは下男を「侯爵さま」とよび、その"侯爵化した下男"の一物が目の前でそそり立つことをもって自身の怒張を感じた。
 このことはのちにバタイユらによって「エロティシズムの社会化」としてとくに重視された。サドはつねに社会と強姦し、輪姦し、凌辱したという見方だ。バタイユがそこから「悪」こそが社会とエロティシズムの本質を嗅ぎ分けるにあたって最も必要欠くべからざるものだという思想に到達していったことは、いまさら加言するまでもない。バタイユはそこから無神学大全を、有罪者の思想を、そして蕩尽の経済学をおもいつく。
 バタイユの思想のほとんどすべてはサドのなかにあったのである。すでにサド自身が『悪徳の栄え』で、ノアルスイユに「悪徳こそ人間に固有なもの、それにくらべれば美徳は利己主義のおちんちんのようなものだ」とか、サン・フォンに「この悲惨な社会に必要なものは悪であって、それがなければ組織なんてつくれない」とか、ジュリエットに「自然の唯一の法則はエゴイズムで、そのエゴイズムを破れるのは他人と享楽を分かちあう悪徳だけですわ」とかと言わせている。

 サドが何を書いたかではない。獄中のサドがどのような日々をおくったかということが、サドの謎の最大の問題なのである。
 監獄の監視はきわめて厳格なもので、サドは半分は社会的自由を奪われたことによって、半分は自分の矜持が蹂躙された屈辱によって、たちまち凶暴な発作感覚に見舞われたようだ。これは見逃せない。
 サドはこのころはまだ獄中で性的妄想に耽ることはむろん、まして哲学的思索に耽ったりはできなかったのだ。侯爵は自身の無実を切々と訴え、自分の行為が不当に解釈されていることに怒りをもった。そのことは数多くの請願書や手紙が実証している。
 サドが身にふりかかった幽閉2度目の断罪に混乱したことは、はっきりしている。少なくともこの時期はすっかり度を失っていていて、ひたすら釈放を哀願する一人の烙印者にすぎない者になっている。これを見かねたのがルネ夫人で、経緯は省略するが、侯爵をミオラン城から脱出させることに成功する。1773年5月の有名なサド脱獄である。
 その後、転々と身を隠す侯爵に対して世間は冷たかった。逃亡先の村では村人の襲撃すらおこる。これに決然と対抗しようとしたのはやっぱり侯爵夫人のほうで、サドのほうはこそこそ逃げ回るばかりだった。
 ただ、そのようなことをしているうちに、この侯爵の身には怒りとともにこの身を灼きたくなるような狂乱への欲望が逆巻いた。それをしないでは収まらないほど絶体絶命のエロスというものの逆巻きだ。

 こうしてラ・コスト城に戻れる日がやってくると、サドは表に出ないで密室の秘儀をくりかえすようになる。5人の若い女中を雇ってサバトを開き、そこへ夫人をすら巻きこんだ。
 密室の秘儀は連夜におよんだため、いくら隠してもそのスキャンダラスな噂は洩れはじめた。これまで言を左右して甥をなんとなく擁護してきた叔父の神父も、さすがに「甥は頭が狂ってきた。監禁したほうがいい」と言い出した。監禁が不可能なら、神父としては侯爵をせめてエロティシズムの文献に没頭させるしかなかった。
 サドはこの誘いには乗ったようだ。サバトのかたわら、さまざまな書物を入手し、古美術にも関心を示し、さらにバチカン図書館に眠るエロティックな文献の抄録の作成を命じて、これに目を通すようになった。サドは禁書にふれたのだ。それによって自身が禁書を書くことをおもいついたのだ。サドは書物こそがいっさいの自由の居城となりうることを知る。

 このあともサドはあいかわらず乱行事件を続ける。娘を奪われた男がサドに向かってピストルを発射する事件もあった。そうしたなかラ・コスト城の経済状態が悪化していった。これはサド家ばかりのことではない。すでに貴族社会は腐りきっていたのだ。
 ここでモントルイユ夫人がふたたび動いた。このまま放っておけば自分の貴族社会での身分が危うくなるばかりか、サドの放蕩によって自分の家系が経済的に没落するかもしれない。ここはなんとしてでもサドを牢獄に送りこむしかなかった。かくしてサドを付け狙ってきたマレーは心おきなくサドを逮捕した。1777年2月。サド37歳のときである。ふたたびヴァンセンヌの監獄が待っていた。

 ヴァンセンヌの監獄にいながら、サドは何度か法廷に立たされた。マルセイユ事件の裁判である。結審は鶏姦罪と風俗紊乱罪となった。罰金と謹慎が申し渡された。
 しかし、そうした審理がおこなわれていたある日、サドは監視人や護衛の目をすり抜け、身を躍らせて脱走してしまった。これがよくなかった。数日後、またまた宿敵マレーがサドを捕縛した。サドは1778年9月7日、ヴァンセンヌの監獄に三たび入ることになる。
 それからである、37歳からのなんと11年間にわたって、サド侯爵はずうっと幽囚の日をおくることになったのだ。次に侯爵が娑婆の空気を吸うのはフランス革命のさなか、バスティーユが民衆に襲撃された直後のことである。

 ヴァンセンヌの獄房は第6号室。その後、転獄したバスティーユの監獄では獄房の特定名はわからないが、独房であったことは確実である。この気がめいるような11年におよんだ獄房生活が、結局は『悪徳の栄え』をふくむサド文学の絶対の日々になる。
 しかし、これまであきらかにされてきた記録によると、サドは最初の数年間はそうとうの神経衰弱状態に陥っていて、たとえば異常に数字の計算にこだわるようになったり、手紙の行数や手紙のなかの同じ単語の数に、自分の解放の日時を想定するような作業にこだわっていたりしていて、とうてい正常とはおもえない精神の状態を見せている。
 どうも40歳までのサドはあまりに不安定な意識のまま、ろくな文章も書いていなかったようなのだ。しかしやがて読書に向かうようになってから、サドはついにペンを執る。読書はアベ・プレヴォーの『マノン・レスコー』、マントノン夫人の伝記、ルクレティウスの『万象論』、ヴォルテールの著作集、ビュフォンの『博物誌』、モンテーニュの全集、そのほかフランスや古代ローマの歴史書、年代記、演劇年間などである。これらの読書に、オナニーと被害妄想が加わった。さらに眼病にも罹った。その状態でサドはサド文学に向かったのだ。

 サドが『ソドムの百二十日』や『悪徳の栄え』をどのような精神状態で書いたかということは、厳密にはわからない。ともかく11年間も獄中にいたのである。
 そのあいだ、自分は迫害され被虐の状態にあると思いつづけていたこと、社会に対して異常な復讐をとげたいと思いつづけていたこと、それにしては日夜襲う被害者妄想と絶対自由の希求に苛まれつづけていたことは、想像するに難くない。サドはあまりに疲れていたのだ。しかしにもかかわらず、記録によれば、サドは『美徳の不幸』を15日で、『ソドムの百二十日』を35日で、『悲惨物語』にいたってはわずか6日間で書きあげている。

 ようするに、サドが11年間を文学しつづけたとおもうべきではなかったのだ。むしろ発作的に集中して書いた、そう想定すべきなのである。それもおそらくはバスティーユに移った44歳からの執筆が多かっただろう。
 評伝家やサド研究者たちは、サドが40代半ばに入ってから勃起や射精にも困難をきたしはじめたことに注目する。
 すなわち、サドは獄中で快楽を得ようとすれば、もはや物理的な処理やちょっとした空想では射精に達することができず、ありとあらゆる想像力を血を絞るように練り出さなくてはならなかったのだ。このように断定することは文学史上のサドの名誉を傷つけることになるが、サド文学はその勃起と射精のために絞り出された光景だったのである。
 しかし、もうひとつの視点からもサド文学の執筆の動機を意味づけておく必要がある。それはフランス革命に向かってリベルタンとしてのサドの意識は革命状況化してもいたということだ。

 ぼくの推理では、おそらくヴォルテールが撒いた種が起爆剤になったのだろうとおもう。ヴォルテールは『サディーグ』のなかで「自然宗教」が人間の理性と本性が本能にめざめることによって自然倫理になりうることを説いていたし、『韻文人間論』や『カンディード』では「悪の哲学」こそ神につらならない人間の生物的連鎖にもとづく解放の思想をつくりうるだろうと予告していた。
 この思想がピエール・ド・ラクロの書簡体小説『危険な関係』やクレビヨン・フィスの『ソファー』に組みこまれてサドに届いたことは十分に考えられる。ロマン・リベルタンはたんなる好色小説ではなく、道徳や知識によって表現できない"真実"を伝えうるものだとされつつあったのだ。サドはそのような考えを意識してジュスティーヌとジュリエットの物語を書こうとしていたはずである。
 そこへフランス革命が勃発した。すでにパリは物情騒然としていた。三部会の招集とともに民衆暴動や集団略奪が各地におこっていた。この嵐は獄中のサドにもちゃんと聞こえていたのだ。
 1789年のテニスコートの誓いの直後の7月2日、サドはバスティーユの獄窓からメガホンを口にあて、下のサン・タントワヌ街を行き来する市民に向かって、この監獄に迫害があること、市民が決起すべきこと、自分は解放されるべきことを怒鳴っていた。ピエール・マニュエルの『暴露されたバスティーユ』であきらかにされたことだった。
 このメガホン事件は典獄たちを警戒させた。そればかりかサドはバスティーユきっての最も危険な人物とみなされて、ただちにシャラントン修道院の精神病院に送りこまれてしまったのだった。7月4日である。それから10日後、あのバスティーユ襲撃がおこった。

 フランス革命とサド文学がぴったり重なっていたことはまちがいがない。
 それどころかフランス革命で国王ルイ16世が処刑されたあと、パリは恐怖(テロル)と無秩序(アナルシー)に突入し、ラクロやサドが予想した通りの無神論状態になったのだ。べつだんサドがラディカルな革命観をもっていたわけではない。サドは人間と社会は悪徳でできていると喝破していただけである。が、社会が本気でそのようになっていくとは、当のフランス革命の担い手たちにも見通しのつかないことだったのである。
 それがロペスピエールとジャコバン党による恐怖政治というものだった。この無神論状態を陶冶できるのは、誰もがその登場を予想できなかったナポレオンでしかなかった。サドは獄中で性のナポレオンになっていた。

 シャラントン精神病院に入ってからのサドについての研究は遅れている。マラーについての毀誉褒貶をくりかえしたり、自分の釈放を請願してくれたケネー夫人に惹かれたり、それを望んで書いたにもかかわらずジュスティーヌの物語が発禁されると、あんなものは自分が書いたものではないと言いはったりして、またまた混乱を見せている。
 実はサドは実名で書いたものと匿名で書いたものを区分けしていたのだが(つまりその程度には世間を愚弄するつもりだったのだが)、世間から見ると、そんな区分けはちゃんちゃんらおかしいほど、その区分けのための文体の努力や思索の吐露の工夫ができていなかったのである。こうしてサドは精神病院では、まったく異なる役割を演じることになったのだ。

 サドの新たな役割とは、病院のなかに劇団をつくり、その脚本と演出をすることだった。1805年のこと、サド65歳のときである。
 この演劇活動は意外にも評判がよく、当代振付け師で著名なトレニスや任期女優サン・トーバンまで見物にきた。サドは患者たちが自分のつくった歌を合唱するのをうっとり聞いていたようだ。これは逆に、サドに危険な兆候があらわれているということだった。
 サドは狂気をよそおいつつ、正真正銘の狂気に落ちていったのだ。観察記録によると、このころのサドはぶよぶよに太っていた。ケネー夫人の退院運動にもかかわらず、警視総監も内務大臣も、ナポレオンさえもが、サドの拘禁解除に反対署名した。
 1810年、サド70歳のとき、ルネ夫人が他界した。サドにはもはや何も残っていなかった。1814年12月2日、サドは侯爵を剥奪されたまま、74歳で死ぬ。

 サド文学に対してサド哲学をどう見るかということがある。ぼくが感じるところは、サドの性描写を除くすべての哲学的表現はあきらかに編集哲学であって、どんな独創性をも許さなかったことにある。
 実際のサド哲学の素材になったのは、ヴォルテール、ドルバック、ディドロなどともに、ラ・メトリやニコラ・フレレの無神論や唯物論である。サドはこれらを駆使しながら、たとえば『新ジュスティーヌ』のデルベーヌ夫人にドルバックの思想を語らせた。しかしサドはたんなる唯物論者ではなかった。そこには動物精気論がやや乱暴に組みこまれ、モーペルチュイやビュフォンの引用をふくめて、自然には物質に生命をもたらす生命粒子があることを訴えた。そこにはサドのオルガスムに対する奇妙な援護射撃があった。のちのウィリアム・ライヒのオルゴン・エネルギー論に通じる。
 一方、サド哲学には社会は個人の官能を排除するシステムだという洞察があった。ただし、この官能擁護はひっくりかえって自然にすら罪悪や悪徳がひそむという思想に膨らんだ。『悪徳の栄え』で淫乱の極みを演ずるジュリエットのキャラクターには、この自然すら否定するものが出入りする。これはさらにサド哲学を「アパティア」(無感動)とは何かというところに赴かせた。
 こうしたサド哲学を孕むサド文学が、19世紀にはまったく顧みられなかったのは当然である。マリオ・プラーツは『肉体と悪魔の死』に、サドの作品は「陰の黒幕」になることによって現代文学者のバイブルになったのだと説明している。それをついに光のもとに晒したのが、ギョーム・アポリネールだった。アポリネールは1909年に『美徳の不幸』を刊行した。それから急激な「サド復活」が連打されたのだ。
 ブルトン、バタイユ、クロソウスキー、ボーヴォワールが先駆して、モーリス・ブランショやジャック・ラカンジル・ドゥルーズがこれを追いかけた。こうしたなか、一番つまらないサド論は“サディズム”にこだわったフロイトの解釈だった。一番出来のよいサド論は、ぼくならロラン・バルトの『サド・フーリエ・ロヨラ』をあげる。

附記¶マルキ・ド・サドの著作の多くは澁澤龍彦によって翻訳され、最初は桃源社から、ついでは河出文庫に『マルキ・ド・サド選集』として収録された。『悪徳の栄え』を最初に読まれるのが妥当だとおもうけれど、ただちに『美徳の不幸』でその清純の表現に驚き、そのうえで『ソドム百二十日』でサドが考察した快楽原則のリストに当たられるといいのではないか。サド研究には多くの労作や喜作があるが、ぼくはピエール・クロソウスキーの『わが隣人サド』(晶文社)とロラン・バルトの『サド、フーリエ、ロヨラ』(みすず書房)に影響をうけた。ほかにはジュルジュ・バタイユの著作のすべて、モーリス・ブランショの『ロートレアモンとサド』(国文社)、ジャック・ラカンの『エクリ』(「サドとカント」が収録されている)、ジル・ドゥルーズの『サドとマゾッホ』などもある。サドの評伝ではジルベール・レリーの『サド侯爵・その生涯と作品の研究』(筑摩書房)と澁澤の『サド侯爵の生涯』(中公文庫)が定番中の定番。ごく最近になってジャン・ジャック・ポーヴェールの大著『サド侯爵の生涯』(河出書房新社)が翻訳刊行されるようになった。
 どうしても付言しておきたいことは、澁澤龍彦の訳業についてのことで、『悪徳の栄え』だけでもおわかりだろうが、ここには性的描写のいっさいが実にみごとな和語によって訳出されているのである。たとえば前門、後門、和毛(にこげ)、千鳥、腎水、お若気(おにやけ)、破爪、玉門など。このためもあって、『悪徳の栄え』によって自爆できたという者がいたこと、ぼくはまったく聞きおよんだことがない。ついでに言っておかなければならないのは、この『悪徳の栄え』の翻訳は猥褻罪で起訴され、有名なサド裁判になったということである。これについては、ひよっとするとどんなサド論よりおもしろい『サド裁判』(現代思潮社)という比類のない記録集がある。これはサドについての絶必本である。