フィリップ・レクリヴァン
イエズス会
創元社「知の再発見」双書53 1996
ISBN:4422211137
Philippe Lecrivain
Les Missions Jesuites 1991
[訳]垂水洋子

 この本は「知の再発見双書」というシリーズに入っている。原著がガリマール書店で誕生して半年後、ぼくのところにパリの知人から数冊ずつ単位でシリーズが送られてきた。
 すばらしい編集だった。「文字の歴史」「マヤ文明」「化石の博物誌」「フロイト」「十字軍」「日本の開国」「ケルト人」「魔女狩り」などが、おそらく100巻以上にわたっている。こういうものは日本にも紹介されるといいなと思っていたところ、創元社から日本語版が刊行され始めた。この手を任せれば天才的な戸田ツトム君による造本設計もいい。そんなには売れることがないのだろうけれど、応援したい。
 本書はそのシリーズの中の一冊で、他のものと同様にふんだん図版が掲載され、濃縮した解説に満ちている。後半に歴史上の識者や文書から引いた“証言”があるのも、本書の視線を構造的なものにしている。

 さて、イエズス会はぼくが最も気がかりなソサエティである。歴史上のソサエティであって、いまも存続するソサエティだ。そこで何かにつけては関連図書を見てきたのだが、そのわりになんだか深い理解に到達できてはいない。
 けれども、ところどころぐんと深くなる。たとえばエチオピアにおけるペドロ・パエスである。この宣教師はエチオピア皇帝を改宗させた。たとえばロラン・バルトの『サド・フーリエ・ロヨラ』である。そこでバルトはロヨラを記号文化で解読した。たとえば「インカルチュレーション」という造語である。これは1965年から1983年まで日本に滞在した総長ペドロ・アルペ神父がさかんつかっていた言葉で、「インカーネーション」ではなくて、文化の受肉を意味していた。
 いろいろ考えさせるところも多い。なぜイエズス会はヨーロッパの伝統である牧師や修道士の古い修行生活様式を捨て、苛酷な世界への派遣士となったのか。なぜイエズス会士は異国での自己犠牲を惧れないのか。また、その土地の王や皇帝や首長に向かえるのか。なぜイエズス会には完璧なドキュメントが残るのか。なぜイエズス会士は外国語にあれほど短期間に堪能になるのか。イエズス会の会員はフランシスコ・ザビエルの頃も現在も、そのあいだもずうっと2万人から3万人なのである。これはどうしてなのだろうか。
 こういう疑問や関心がありながら、正直なことをいうと、ぼくは何度かイエズス会に入りたくなったほどなのだ。
 もっとも本書はこのような疑問に答えるための本ではない。あくまでイエズス会の活動の歴史を立体化するために編集されている。それはそれで読者を凝視に誘うであろう。

 イエズス会というのはイグナチウス・デ・ロヨラが1522年から翌年にかけてマンレサの洞窟で黙想していたときのヴィジョンに胚胎したものである。
 が、それはヴィジョンであって、ソサエティではない。それから12年後の1534年8月15日、ロヨラを中心に最初の同志6人がモンマルトルの丘で有名な誓願をし、さらにその6年後に教皇パウロ3世による正式認可をまって発足したソサエティをもって「イエズス会」(Societas Jesuites=ジェスイット・ソサエティ)とよぶ。実に18年の準備がかかっている。
 創立当時の同志には、ディエゴ・ライネス、フランシスコ・ザビエル、ピエール・フゥーヴル、ニコラス・ポバディリヤ、シモン・ロドレゲスアルフォンス・サルメロン、パシャーズ・プロエ、ジャン・コデュールらがいた。このときイエズス会がたてた誓願がその後のイエズス会の行動を決めた。
 第1の誓願は貞潔、第2は清貧、そして第3の誓願が、会員たちは勉学を終えればすぐにエルサレムの巡礼に出発するか、教皇の命ずるままに世界のどんな僻地にも旅立たなければならないというものだった。これがミッションである。それとともに従来の修道服の規定や歌唱祈祷などの古い生活様式を廃棄し、軍務に等しい新たな規律と怯まぬ伝道精神と、そして福音伝道のための学校設立の意志を確立した。
 このイエズス会の寡黙ではあるが徹底的な大計画は、当時の時代要請にあっていた。そのころヨーロッパ世界はポルトガル王とスペイン王によって支配されていたのだが、この二人の王がイエズス会士によるインドやアフリカへの宣教を期待したからだ。これには理由がある。そのころ世界は教会保護権による境界線によって分割されていたのだが、この境界線を決めたのは教皇アレクサンドル6世の勅書である。その勅書が、ポルトガル・スペイン両国は新たに発見した土地に対しては福音を伝えなければならないということを義務づけていた。かくてイエズス会士は一人の教皇と二人の国王の期待を背景に、それぞれのミッションを心に秘めて世界に旅立ったのである。

 われわれはイエズス会というと、あまりにもフランシスコ・ザビエルを思い浮かべすぎる。むろんザビエルの生涯こそは日本の近世を一変させたのだから、このことを重視しても重視しすぎることはない。しかし、ザビエルのような人物は何人にも何十人にも何百人にもおよんでいた。
 ザビエルが日本に到着する前に、すでにコンゴ宣教、モロッコ宣教、ブラジル宣教は始まっていたのだし、ザビエルが客死し(1552)、ロヨラが死んだ(1556)あとも、エチオピア宣教、モザンビーク宣教、エジプト宣教、フロリダ宣教、ペルー宣教、メキシコ宣教、ヒィリピン宣教、ベンガル宣教が連打され、日本が信長だ秀吉だ家康だといっていたその同時代に、イエズス会士はまさに複数のザビエルとなって世界を変革していたのだった。

 それだけではない。複数のザビエルたちは、その土地でまったく別の宣教を工夫した。パラグアイにおけるレドゥクシオン(原住民教化集落)のアイディアなど、キリスト教の全歴史にとってもきわめて特異なものだった。
 それも尋常な方法ではない。どんな困難をも乗り越えるし、そのわりに迅速だし、おまけに土地の住民に新たな生きる意志を生むためのロールとツールとルールを提供している。
 迅速ということからいえば、たとえばブラジルはカブラルによって“発見”され、ジョアン3世がスーザに代表政府をおいたときすでに、5人のイエズス会士が派遣されているのだが、かれらはまず沿岸地方を宣教し、そののちに内地に入っていった。その間、わずか3年だ。さらにノブレガがリオ付近とサンパウロに宣教団を設置したのが1554年である。まだエリザベス女王が即位したばかり、日本では川中島に謙信と信玄が対峙していたころだった。
 その後、信長が天下一統をとげたころには40人に近いイエズス会士がプロテスタント派の海賊ジャック・スーリに殺害されるという宗教悲劇に見舞われるのだが、なんという不死身な連中なのだろうか、日本で関ヶ原の戦いがおこるころにはふたたび勢いを盛り返して3つの学校を設立、これらを拠点にインディオの宣教に乗り出していたのである。こんな実話ばかりなのである。

 本書でイエズス会士の宣教活動を追っていると目が眩む。目が眩むとともに、その激しい犠牲の意志と多様な職業を一人ずつが担っていく開拓の闘志に痛ましさをおぼえる。
 いったい何がこのような活動を支えているのか。そう思ってみても、そのような問題をわれわれは自分の周辺の言葉で推測することすらできなくなっている。ハリウッド映画になった『ミッション』ではないが、ただただかれらの奇跡に感嘆するしかなくなっているわけなのだ。
 いや、これは現在のわれわれの感嘆だけではなかったらしい。すでにヴォルテールがこんなことを『世界風俗史論』に書いていた。「パラグアイでのスペイン人イエズス会員による居留地建設の壮挙こそは人類の勝利であって、それこそが初期征服者の残酷を贖っているのである」と。
 どうやらわれわれは、イエズス会による人類史があることを忘れてきたらしい。一人の聖フランシスコやザビエルに瞠目するのもいいのだが、そろそろ世界におけるソサエティのありかたを考える日もきているのであろう。それが過去の遺産だというなら(イエズス会は今日も活動しているのだが)、その過去の遺産をもっと覗きこむ必要がある。

参考¶イエズス会の資料はわんさとあるが、まずはイグナチウス・デ・ロヨラの『霊操』(岩波文庫・新世社)がすべてに先立っていることが重要。そのロヨラについては『聖イグナチオ・デ・ロヨラ書簡集』(平凡社)が基礎資料になっていて、それらをもとに、たとえばフランシス・トムソンの『イグナチオとイエズス会』(講談社)、垣花秀武『イグナティウス・デ・ロヨラ』(講談社)などが書かれている。ソサエティ全体の通史としてはホアン・カトレットの『イエズス会の歴史』(新世社)やヨゼフ・ロゲンドルフの『イエズス会』(エンデルレ書店)がわかりやすい。ロラン・バルトの『サド・フーリエ・ロヨラ』はみすず書房。
 ちなみにイエズス会による日本の学校設立と活動援助は、上智大学(1911)・六甲学院(1937)・栄光学園(1947)・エリザベト音楽大学(1948)・広島学院(1956)・泰星学院(1982)などにおよぶ。念のために付け加えておくと、イエズス会日本管区には1995年の時点で約300人の会士が“ミッション”をもって活動している。

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