アルフレッド・ジャリ
超男性
白水社 1977
Alfred Jarry
Le Surmale
[訳]澁澤龍彦

 最近の日本ではスポーツがどんどん強化され、衆愚化され、そして一方的に聖化されている。一人のJリーガーや競歩選手の苦しみに満ちたトレーニングと、その苦痛を越えて勝ち取ろうとしている栄冠に対する強靭な意志などを執拗に描いたドキュメント番組は、たいていの日本人の心を打っている。
 かつては、そういう扱い方は甲子園球児などには向けられていたものの、スポーツ全般に向けられるなどということはなかったものだった。
 いったい何がスポーツにひそんでいるというのだろうか。おそらくは、他のものに見出しにくくなかったさまざまなこと、熱や挫折や集中や瞬時性といったものが、スポーツから発見しやすいからにちがいない。
 しかし、そこが考えどころなのである。

 スポーツにひそむとんでもないもの、それを早々と発見したのがアルフレッド・ジャリだった。
 ジャリはスポーツの本質とセックスの本質と機械の本質とが同質のものであることを見抜いたのである。ただし、それはスポーツの側から発見したわけではない。身体というものにひそむ本来的な衝動と緊張を追跡していくことによって、スポーツに出入りしてやまない「性機械」の飛沫ともいうべきが暴かれていった。超男性とはそのことなのである。

 ジャリは世紀末に機械のような青春を送って、20世紀の初頭に早々とオイルを切らし、さっさと34歳で倒れた異様のブルターニュ人である。酒とピストルと自転車を偏愛し、悪趣味と韜晦と男性自身をこよなく好み、どんなばあいも「複雑な全体」というシステムに全身で敬意を払いつづけた。しかも、そのような好みの世界を、ジャリ自身の肉体がフィジカルにもメタフィジカルにも引き取ってしまうことが、ジャリの生き方だった。
 とりわけ1896年に、パリにセンセーションをまきおこした『ユビュ王』が上演されてからというものは、そのときまだ23歳だった作者のジャリは“異常なユビュ”としての登場人物の人生すら演じはじめたのである。
 UBUとは、それ自体が遍在的でありながら円環をなしてしまう存在の代名詞であり、おそらくはジャリ自身のことである。
 そのようなジャリの哲学を、ジャリ自身の命名によって、われわれは「パタフィジック」とよんでいる。

 『超男性』には副題がついている。「現代小説」というものだ。
 これは、前作の『メッサリーヌ』(1901)に「古代ローマ小説」という副題がついていることを踏襲したジャリの“作法”ともいうべきもので、しかも鬘をつけていたメッサリーヌに“超女性”を演じさせていたのに対照して、『超男性』の主人公アンドレ・マルクイユを現代そのものに仕立ててみたかったという、そういう対応の趣向を暗示した。
 しかし、この「現代小説」はそんじょそこらの現代小説ではなかった。なにしろ主人公のアンドレ・マルクイユはつねに競争しつづける機械なのである。最初は5人のサイクリストと1万マイルを競争する。競争者たちには小人や影と列車とも加わった。
 次の競争は、リュランスの城の大広間における愛の競争である。マルクイユはエレンとの死闘をくりひろげるが、そこにはまさにスポーツを観戦するかのように、ガラス窓をへだててバティビウス博士、7人の娼婦、怪物のような蓄音機が、目撃者として参加した。
 最後の競争は、この現代小説を包みこむ全体としての競争ともいうべきもので、もはやパタフィジックとしかいいようのない愛と機械の競争である。新しい神話としか名づけようのない神学的でエロティックな永久運動そのものがひたすら提示されるのだ。
 こういう現代小説は、その後はほとんどあらわれてこなかった。ジャリだけが描きえた文学の近代五種競技であり、言語のトライアスロンなのである。

 スポーツ。今日のスポーツと、それをとりまく観察と熱狂の視線というものは、このままほっておけば「あらゆる人生の代名詞」となっていくだけだろう。
 それをいまや、21世紀に向かって驀進する肉と魂の神学的機械に変更させる可能性があるとすれば、われわれはいまこそアルフレッド・ジャリを読まなければならないということになる。超男性とはスポーツに投身するすべての精神と身体が向かっているものの象徴なのである。
 ジャリは書いている。
 「定理。神は無限小である」と。

参考¶本書は澁澤龍彦の翻訳の冴えをたのしめるようにもなっている。また、本書の狙いとジャリの機械学的ナルシスムを、フランツ・カフカの『流刑地にて』と、マルセル・デュシャンの『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』と比較した有名の論考が、ミシェル・カルージュの『独身者の機械』(1954)にある。

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