マルセル・デュシャン&ピエール・カバンヌ
デュシャンは語る
ちくま学芸文庫 1999
ISBN:4480084894
Pierre Cabanne
Entretiens avec Marcel Duchamp 1967
[訳]岩佐鉄男・小林康夫

 マルセル・デュシャンに対する驚きが、ぼくを10年以上にわたって支えた。デュシャンを知ってから10年間というもの、興奮しっぱなしだったということだ。
 われわれは二つの事柄に長期にわたる興奮をする。ひとつは深くて厖大なものである。たとえば宇宙、たとえばアリストテレス、たとえばリヒャルト・ワーグナー、たとえば道元、たとえば三浦梅園である。
 もうひとつは深くて断片的なものである。たとえば叙事詩カレワラ、たとえば小林一茶、たとえば石川啄木、たとえば薄情な異性、たとえばエゴン・シーレ、たとえばマルセル・デュシャンである。

 1913年、ニューヨークのアーモリー・ショーに出品された『階段を降りる裸体』が話題騒然となったとき、人々はデュシャンについては何もわからなかった。1916年に便器をさかさまにして『泉』と名付け、R・ムットの署名をつけて出品したときも、だれもデュシャンを理解しなかった。
 しかも、デュシャンは「私は何もしていない」と言いつづけた。デュシャンはその存在そのものが深い断片にすぎなかったのである。これはぼくがいちばん好きな存在のタイプであった。デュシャン自身もそのことを知っていた。「私はひとつのプロトタイプである。どんな世代にもひとつはそういうものがある」。

 デュシャンは「創造」という言葉を嫌っていた。最も美しいものは「運動」だとみなしていた。青年期に心を奪われたのは、ガス燈の光とジュール・ラフォルグの詩とアンリ・マティスと「四次元」である。
 だいたいこんな程度のデュシャン像でもぼくが夢中になるのに十分だったが、そのうえぼくは多くのレディメイド作品も大ガラス作品も、最初に知ってしまったのだから、これは信奉するしかなかった。
 とくに大ガラス作品については、中村宏と何時間も、しかも何日にもわたって話しこんだ。それがデュシャンを知って数日目のことだったとおもう。早稲田の二年生のころである。

 ぼくはもともとフランシス・ピカビアの信奉者でもあった。しかし、そのピカビアを投影する者が出現していないことに疑問をもっていた。
 デュシャンを知ったころも、その驚くべき感覚とピカビアをむすびつけて見ることはしなかった。しかし、本書にもしるされているように、デュシャンはピカビアの射影幾何学だったのである。
 これで十分なのだ。
 ぼくはその後は10年にわたってデュシャンに興奮しつづけたのである。

 デュシャンは「大衆との交流」をバカにしていたし、それ以上に「芸術家との交流」をバカにしていた。
 デュシャンが好きなのは、細縞薔薇色のシャツとハバナの葉巻とチェスである。外出も嫌いだし、むろん美術館や展覧会にはほとんど出かけない。
 デュシャンが重視していたのは、おそらくは、つねに「あらゆる外見から遠ざかっていたい」ということである。レディメイドについてさえ、デュシャンは外見の印象を拒否するもののみを選んでいる。デュシャンが嫌いなのは“網膜的な評判”にとらわれて社会が律せられていることなのである。絵画を捨てたのもそのせいだった。

 しかし、誰もがあまり言っていないことがある。それは、デュシャンの最も劇的な特徴は、知識を勘でしか解釈しないというところにあるということだ。解釈というのもあたっていない。むしろ偉大な一知半解といったほうがいい。
 これは実のところはけっこう多くのすぐれたアーティストに共通していることなのであるが、ただしデュシャンはその勘が格別に冴えていた。とくに四次元に対するデュシャンの勘は、ほとんど科学の目でいえばでたらめに近いものではあったにもかかわらず、しかしめっぽう冴えていた。
 なぜ、こんな程度のことがデュシャンを支えられたかといえば、デュシャンは人間の生き方を見分ける目、とくにニセモノを見分ける目をもっていた。また、他人の評判から逃れる方法を知っていた。意外に、こういうことが人生を救うものなのである。

 デュシャンに関する本はあまり多くはないが、それでもいくつものまことしやかな本が出回っている。
 そういうなかでは、晩年のデュシャンがインタビューに答えている本書を読むのが最も無難であろう。

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