才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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欲望を生み出す社会

アメリカ大量消費社会の成立史

スーザン・ストラッサー

東洋経済新報社 2011

Susan Straser
Stisfication Guaranted― The Making of the American Mass Market 1989
[訳]川邊信雄
編集:芽根恭子・須永政男

本書は、陽気で厚顔無恥なアメリカン・デイリーライフを昂揚させた多くの商品の起爆的トリガーが、ほとんど20世紀初頭の商品開発とマーケティングと企業キャンペーンによって成立していたことを事細かに解読した。

 ジレットが男の髭を剃る習慣をつくり、コダックが誕生日や卒業式でスナップ写真をとる習慣をつくった。ナショナル・ビスケット社(ナビスコ)とハーシーが子供たちのピクニックに袋入りのビスケットやチョコレートをもたせ、コルゲートが家族みんなに朝晩の歯磨きをさせた。
 そうなのである。リグレーがなければ人前でガムをくちゃくちゃさせるなんて無礼はなかったろうし、それをかっこよく決めたジェームズ・ディーンの真似をする若者もなく、コカコーラがなければ日用品の半ダース買いなんて当たり前にならなかった。ポップコーンが映画館の暗闇を日常化させ、スーパーマーケットに積み上がったキャンベルのスープ缶詰がアンディ・ウォーホルのシルクスクリーンを出現させたのだ。
 本書は、陽気で厚顔無恥なアメリカン・デイリーライフを昂揚させた多くの商品の起爆的トリガーが、ほとんど二十世紀初頭の商品開発とマーケティングと企業キャンペーンによって成立していたことを事細かに解読した。
 話は十九世紀末から始まっていた。なかでコダックのカメラ(一八八八発売)、コルゲートの練り歯磨(一八九六)、ジレットの安全剃刀(一九〇一)、コカイン抜きのコカコーラ(一九〇三)などが先行し、こういう名うての商品がまずは二十世紀の二〇~三〇年代のアメリカ全土を席巻していったのである。そこにケロッグのコーンフレークやP&Gのクリスコなどが割り込んでいく。たんに売れたのではない。たんに当たったのでもない。売れるように仕組み、当たるようにアメリカ人を変えた。

アメリカの20世紀を切り開いた商品
P&Gのクリスコ(左上)
ジレットの安全カミソリ(右上)
コダックのカメラ(左下)
初期のコカ・コーラ(右下)

 P&Gがクリスコ(Crisco)を発売したのは一九一二年だ。クリスコは固形の植物性ショートニング(食用油脂)で、それまで食肉解体プロセスからつくられてきた動物性油脂に代わるものとして、実験室がつくりだした。クリスコをつかうとパンや焼き菓子がさっくりと焼き上がる。これはいける。P&Gはこの発売に勝負をかけた。
 製品の拡販を引き受けたのはJ・ウォルター・トンプソン社のスタンレー・リゾーと、のちに結婚相手になるヘレン・ランズダウンだった。ランズダウンはアメリカの広告殿堂入りした最初の女性だ。すぐさま新聞広告、路面電車広告、野外ポスターが用意され、実演販売員の写真を掲載したパンフレット、一〇〇種類のクリスコのレシピを掲載した『クリスコ・クッキングブック』が注文配布された。一年後には二セント切手五枚を送ると届くクロス製の『クリスコ物語』が刊行され、『夕食ごよみ』には六一五種のレシピが公開された。
 実演販売員は各地で一週間ずつ料理教室を開き、そのたびに教室は地元の新聞社の協賛を得た冠イベントとなり、実演レディはちょっとしたスターになった。それらが折からの「アメリカ化運動」(教育を通して移民たちをアメリカに同化させる運動)と軌を一にした。
 爆発的に売れたし、クリスコの広報戦略はその後のマーケティング、パブリシティ、キャンペーンの先行モデルとなった。明確なシナリオがあった。アメリカ人を一人ずつ顧客にしていくというのではなく、一挙に「消費者という別人格にする」というシナリオだ。
 顧客(customer)から消費者(consumer)へ。カスタマーはお店に来てくれるお得意さんだが、新アメリカのコンシューマーは「財とサービスを費やす多数派」になった。どうしてこんなシナリオがアメリカで実現できたのか。

『クリスコ・クッキングブック』(1912)
『クリスコ物語』(1914)

 話はややさかのぼる。一八八六年、ミネソタで駅員をしていたリチャード・シアーズは売れ残りの腕時計を買い取って、通信販売で安く売る商売を始めた。そこに時計屋のアルヴァ・ローバックが加わって、一八九三年にシカゴにシアーズ・ローバック社をおこした。
 そのころのアメリカはたくさんの農民が全土にいて、馬車や鉄道で遠くの町に買い物に行くか、行商人からか個人商店で高い買い物をするしかなかった。そんな状況に目を付けたシアーズとローバックはカタログを郵送して、一括仕入れをした安価な商品をコンシューマーに提供する「ダイレクト・マーケティング」を思いついた。シアーズ・カタログの誕生だ。めちゃくちゃ当たった。カタログはやたらに分厚く(一八九七年のカタログですでに七八六ページ)、中身は年々充実した。そのうちどんな家庭でもシアーズ・カタログを取り寄せるようになると、古いカタログは捨てられることなく、家々の落書き帳や包み紙やトイレットペーパーに活用された。
 シアーズ・ローバックは一九〇八年からは自動車も売り出し、組立式住宅シアーズ・モダンホームも販売した。一〇万棟以上が売れた。一九二五年からは都市の郊外に進出して広い駐車場を備えたシアーズ・デパートを開店させ、それを全米に広めた。これでアメリカ全土に「消費者という別人格」が一挙的に輩出していったのである。
 シアーズがカタログで成功を収めたのは、そのページに商品のパッケージの図を掲載したからだ。パッケージの絵や図や写真をつくっていたのは、食品メーカーや日用品メーカーや化粧品メーカーである。気まぐれな顧客たちを「欲望に疼く消費者」に衣替えさせたのは、これらメーカーの特定商品がつくりだす「物語」だった。とてもアメリカンな物語だ。

シアーズのカタログ(1897)
シアーズ社は19世紀末から始めたカタログによる通信販売でその名を全世界に轟かせた。衣料品から家電や家具のイラストが1万点以上載っていた。当時の風俗や文化、歴史を知る貴重な資料でもある。

シアーズ・ローバックのデパート(1925)

 
 本書の著者のスーザン・ストラッサーは、ニューヨーク州立大学出身の近現代アメリカ史の研究者である。ハーバードの経営大学院にも在籍していたせいか、アルフレッド・チャンドラー風の分析が目立つ。チャンドラーが「組織は戦略に従う」の視点で、初期アメリカ企業の組織経営の姿を膨大な資料を調べあげて赤裸々にしたのに対して、ストラッサーは資料を積み重ねて駆使していくところはそっくりだが、経営ではなくて「消費商品」の広まり方に焦点をあてた。そして、アメリカはヨーロッパのような「市民商品社会」ではなく、どんがらどんと大量消費で動く「欲望消費社会」をつくったという見方をとった。
 アメリカが大量欲望消費社会だって? そりゃその通りだ、言われるまでもない。何をいまさらと誰もがそう思っているだろうが、ではなぜそうなったのか、なぜヨーロッパではなくアメリカにそれがおこったのか、そのアメリカンな物語がどうしてグローバルに広がったのか、なかなかうまく説明できなかった。
 研究者たちの関心が組織経営にばかり向いて、「企業―商品―欲望―消費」という連鎖が浮上してこなかったからだ。とくに「欲望」の実態があいまいなままだった。ストラッサーはそこに分け入った。もっとも、この連鎖に鮮やかに最初にクサビを打ち込み、「生産―欲望―消費」の関係から記号性を引き出してみせたのは、残念ながらストラッサーでもアメリカ人の学者でもなく、フランス人の社会学者だった。アンリ・ルフェーブルの助手をしていたマルクス主義者ジャン・ボードリヤールだ。

スーザン・ストラッサー
リード大学で学士を、ニューヨーク州立大学ストーニィ・ブルック校でM.A.,Ph.D.を取得。ハーバード大学経営大学院経営史ニューコメン・フェローシップ(1985-86年度)等を経て、現在、デラウエア大学歴史学部教授。アメリカの消費社会の歴史における研究には定評があり『ニューヨーカー』誌で、「歴史が見捨てていたものを復活した」と称賛された。
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ジャン・ボードリヤール
フランス生まれ、思想家・文芸評論家。ジャーナリストからパリ大学ナンテール校教授.社会学記号論専攻を経て、思想家活動に至る。経済学およびマルクス経済学を継承批判、これを超えようとする試みを展開する。とくに記号消費に関する考察は有名で、現代消費社会の特質を考える上で重要とされている。

 少しだけ話が遠回りするが、ボードリヤールは一九六二年にフェリックス・ガタリとともにフランス中国人民協会をつくって、最初のうちはマオイズムにかぶれていたのだが、四年後に書いた博士論文がロラン・バルトやピエール・ブルデューの絶賛を浴びると、一転して消費社会についてのシニカルな研究に突入していった。
 博士論文をふくらませた『物の体系』(法政大学出版局)では、コードを組み合わせた商品がつくりだすモードを分析してみせ(バルトの『モードの体系』の影響が大きかった)、続く『消費社会の神話と構造』(一九七〇・紀伊國屋書店)では、消費が経済行為ではなく言語活動であると捉えて、商品にひそむ欲望記号を取り出した。消費社会の動向を言語思想や記号論で解くなんて、かなり斬新な見方の出現だった。
 ついで『記号の経済学批判』『生産の鏡』『シミュラークルとシミュレーション』(いずれも法政大学出版局)、『象徴交換と死』(ちくま学芸文庫)などで、「企業―商品―欲望―消費」という連鎖そのものをシミュレーショニズムの裡に捉えて、ひとしきり欲望社会の根源にうごめく動向の特色に焦点をあてると、「生産と消費がシステムの存続のために食われてしまっている」という矛盾の告発に向かった。
 こういう矛盾を沛然とおこしつづけてきたのは、ヨーロッパではない。どう見てもアメリカだった。ボードリヤールは「そのアメリカって何だ?」と思う。そこでアメリカに長期滞在をして『アメリカ』(法政大学出版局)を書いた。そこには、こんなふうにある。「ヨーロッパ人は理想に引き裂かれたノスタルジックなユートピア派でありつづけるだろうが、根底では理想の実現を嫌悪し、すべてが可能になると公言はしても、すべてが実現されるとは一度も言ってこなかった。ところがアメリカ人は本気ですべてが実現されると主張する」。
 ボードリヤールがアメリカの欲望を「消費できるすべてのことを実現できると思うこと」にあると決めつけたのは、たぶん当たっている。当たってはいるだろうが、当時のボードリヤールにはそれぞれの商品そのものが「欲望のパッケージ」によって準備されていたことまでは、言及できなかった。アメリカ企業の資料や記録を検証したわけではなかったからだ。

ボードリヤールの代表的著作
『消費社会の神話と構造』(紀伊國屋書店)
『シミュラークルとシミュレーション』(法政大学出版)
『生産の鏡』(法政大学出版)
『象徴交換と死』(筑摩書房)

ボードリヤール『アメリカ』(法政大学出版)と原著

 ボードリヤールによってアメリカ発の欲望商品にひそむ得体の知れない記号消費の正体が白日のもとに晒されたあと、今度はアメリカの研究者のほうが立ち上がった。
 それまで、アメリカの産業経済の爆発を議論するには、フォード社のT型フォードによる「マスプロダクト/マスセール」が土台になってきたと説明するのがほぼジョーシキで、これにテイラーの科学的な工場管理術が加わって、アメリカの大繁栄がもたらされたと論じられてきた。「フォーディズム(フォード主義)の勝利」と言われる。
 こういう説明ばかりだった。むろんそういうことはあるのだが、これだけではアメリカの野望も理想も、生活者の気分も大衆の動向もよくわからない。なんといっても、そこに「大衆商品」が躍っていない。
 フォードの自動車やスタンダード石油やカーネギーの鉄鋼がアメリカ産業の土台をつくったのは、その通りだ。それは、かれらが鉄道や道路や石油を牛耳ったからだ。さらにはかれらがもっと戦略的に押さえたのは金融である。だから鉄鋼や石油や金融から産業が生まれ、当然のことに国力は唸りを上げた。そうはなったのだが、それだけでは消費者は生まれない。アメリカは語れない。
 大衆は鉄道に憧れ、自動車を乗りまわしたいと思ううちに、それ以上に「商品にくっついた欲望」のほうに敏感になっていったのだ。その敏感を用意したのはフォードやスタンダード石油ではない。A&P社の「元気が出るコーヒー」の粒の大きさであり、A・スタイン社の「フレクソ・ガーター」(靴下留め)のホックだった。
 こうしてボードリヤールやこれを受けたジュディス・ウィリアムソンや本書のストラッサーが「商品にくっついた欲望」の動きに焦点をあてた。
 ぼくもこの「商品にくっついた欲望」のほうには興味があった。八〇年代に産業史や経営哲学にぼくを引っぱっていってくれた今井賢一さんや野中郁次郎さんには申しわけないが、アメリカを議論するには、市場分析や経営戦略の変遷ばかりに顔を向けないで、ハリウッド映画のショットにも必ず描かれる「フェチな製品や商品」にもっと近寄ってみるべきだろうと思っていた。

大量生産されたT型フォード(1908)
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フレクソ・ガーター(1901)

 二十世紀初頭の食品や雑貨業界のリーダー的エディターであったアーテマス・ウォードは、当時の小売状況をまとめて、アメリカには「パッケージ・トレード」(包装販売)の時代が到来していると書いた。なるほど、砂糖、小麦粉、酢、チーズ、蜂蜜、乾燥リンゴ、アルコール飲料、整髪用ベーラムなどのステーブル(定番商品)は、ことごとく包装され、イコノグラフィックなパッケージになっていた。
 バラ売りがなくなっていったのだ。それがすぐに紙巻タバコ、ベーキング・ソーダ、ストーブ用の黒色塗料、裁縫用の絹糸や綿糸、ヘアピンまで波及した。ウォードはそこに注目して、アメリカのブランディング戦線がどこで始まるかといえば、きっとこのパッケージ・トレードとともに動きだすだろうと予告した。
 その通りになった。アメリカの大衆は実物そのものに接する以前に、パッケージに印刷された「かたまりとしての商品」の多色アピールによって欲望をくすぐられたのだ。まさに商品の“見え”こそが欲望であり、シアーズ・カタログと売り場にはその欲望が渦巻いていなければならなかったのだ。マコーミックの調味料、P&Gのアイボリー石鹸、ハインツのソース、キャンベルのスープが、こうして世間に「欲望は夢である」「その夢がこの商品である」というメッセージをふりまいた。
 ナビスコの包装製品はたちまち四四種に達した。ブランド付きのパッケージこそ、アメリカの大量消費時代の戦闘開始のサインだったのである。

ハインツ社にディスプレイされたケチャップ缶(1944)

ナビスコのビスケット缶(1939)

 アメリカ発の「欲望のパッケージ」が強くなったのは、経営努力とポップなデザインのせいとはかぎらない。パッケージの素材と加工がすぐれていて、大量の商品を一挙に流通させることができるようになったことが大きい。フランシス・ウォーラのユニオン・ペーパーバッグ・マシン社の包装技術がこれらのツール開発をあと押しした。包装材も製函技術もコーティングも開発され、工夫された。紙、接着剤、印刷インク、箱材、封缶技術、ラミネート、セロファン、なんでもイノベーションされた。
 これらの技術を活用して、時計メーカーのインガソルは六個の腕時計を展示できるケースを開発して四万セットを無料で小売店に提供し、リグレーは六万セットのチューイングガム・ケースを配布した。コルゲートは「わが社のリボン・デンタルクリーム歯磨は容器と中身を一緒に売ります」と宣言し、ナビスコはお客がクラッカー樽から買うのをやめさせ、インナーシール包装製品を買うようにするのが社是だと力説した。
 アメリカン・ブランドとは、中身が外側に溢れ出たまま大量に輸送できる「パッケージされた欲望」のことだったのである。ずっとのちの六〇年代半ばのことになるが、建築家の磯崎新が初めてアメリカに行って帰ってきたときに、こう言っていた。「向こうじゃハンバーガーショップが大きなハンバーガーの形をしてるんだよ」。杉浦康平とぼくは「ふうん、そんなアメリカばかりじゃ困るなあ」と笑った。アメリカン・ブランディングは大中小のパッケージ化の手立ての中にあったのだ。

チューインガムのショーケース
リグレー社の小売業者への販売促進のため、大量のガムを注文した人たちに配られた。

プロフィラクテックの歯磨きの広告(1905)

エスポ・コーラとコカ・コーラ

 いまさらながらの話だが、ブランド(brand)という言葉は「焼印をつける」というノルウェーの古ノルド語“brander”から派生した。放牧している家畜に所有者の焼印を捺すことがブランディングだ。やがて牛や小麦の品評会での目印だったブランドが、ブドウ酒やチーズのパッケージのブランドとして市場に出るようになると、ブランドはメーカーや流通屋の看板になっていった。
 それならその烙印ブランドで優劣を競えるかというと、なかなかそうならない。結局は牛の品質やブドウ酒の味にまで話が戻る。ブランドはあくまで目印にすぎない。では、ブランドによって自社製品を他社製品と差別化するにはどうするかというと、実は自社ブランドと他社ブランドが競っているだけでは差別がつきにくい。自社と他社はもともとブランドがちがうのだから、そのことを強調してもそれほどのイメージの獲得にはならない。
 そこで、「自社の製品ブランド間に差異をつける」ということがブランド力の発動になっていった。さっそくP&Gは自社製品の石鹸をナフサ、アイボリー、スターに分けた。シリング社は紅茶のブランドに極上品、高級、スーペリア、ファンシーという四等級を付けて、「メイフラワー・ファンシー」と「トレジャー・スーペリア」というブランドを突出させた。
 アメリカの「消費者という別人格」すなわち「大衆」は、このような商品の多彩化に搦めとられることを悦んだ。いいかえればアメリカン・ポピュリズムとは、自分の中の別人格を刺激されることがやたらに好きなのだ。それが消費者が商品に抱くロイヤルティをつくっていったのだ。日本人はお店に行って、そこにお目当ての石鹸やシャンプーが置いてなければ似たような別の石鹸やシャンプーを買うが、アメリカのコンシューマーは自分を彩るロイヤルティをほしがった。

P&Gの石鹸[ナフサ・アイボリー・スター]

 アメリカン・ブランドをさらに勝てるものにするには、ブランドづくり以上に重要なことがあった。それは消費者たちを「新たな習慣」に乗り出させるということだ。ボードリヤールが気がついていなかったのは、このことだ。
 チューブ歯磨や歯ブラシを売るには「歯を磨く習慣」をつくる必要がある。その習慣は爽快で、気分よく続けたくなるものでなければならない。シャンプーが売れるにはバスルームでどんな恰好で「シャンプーを愉しむ習慣」が継続できるかが見えなくてはならず、男の髭そり剃刀が売れるには、それが「男の朝を代表する習慣」にならなければならなかったのだ。
 さっそくコルゲートは「歯のABC」というパンフレットを頒布し、ラザック安全剃刀のハップグッズは「身だしなみのよい男の顔」という小冊子を配り、ジレットは「顔の手入れは自分でしかできない」というキャンペーンを打った。そのときジレット社では「ジレット剃刀はたんなるデバイスなのではありません。それは背後に個性をかかえた公共サービスなのです」という過大な思想を、社の内外に浸透させていた。

ひげそりの方法を教えるジレットの広告(タウンアンドカントリー誌のもの)

 消費者が「新たな習慣」に入っていくには、その商品を使う習慣とともに、その商品がもたらす「物語」が見えてこなければならない。結局は、ここである。
 物語が見えるにはシーンとキャラクターとナレーターを提示する必要があった。そこでイーストマン・コダックは「クリスマスの朝」というシーンや「北極をめざす探検家」というキャラクターをカメラやフィルムと結び付け、ウォーターマン社は「夏の避暑地から出す手紙」や「卒業式を祝うひととき」を万年筆に結び付けた。P&Gがクリスコを決定的なものにしたのは、「おばあちゃんが焼いてくれたパイ」をそのイメージごと広げることだった。
 幸せそうな習慣ばかりが重視されたのではない。危険な場面、限界的な状況、非道徳的な暴走、差別的な陶酔も、一見つながりそうもないシーンでのアメリカの日常の活躍として遠慮なく広げられていった(これがもうひとつのアメリカの得意手だ)。
 かくして二十世紀アメリカは、チューイングガムと軍事力、ハリウッドとミスコンと麻薬、リーバイスのジーンズとヒッピーとフリーセックス、ハーシーのチョコレートと宇宙開発、そして黒人とジャズとNBAで勝ってきたわけである。それらはいつでも「おばあちゃんが焼いてくれたパイ」と一緒になれるものだった。これがヨーロッパのダンディズムや気取りやエスプリではできなかったことなのである。
 ストラッサーが、もうひとつ強調していたことがある。これもボードリヤールには見えていなかった符牒だ。それはシアーズ・カタログやP&Gのクリスコがまさにそうだったのだが、これらは多様な移民の多い北アメリカ住人を「アメリカに同化させる」ための欲望同化商品(同化政策)でもあったということだ。アメリカン・ファーストであること、みんなをアメリカに同化させること、このことこそアメリカの欲望社会のディシプリンだったのである。

コダック社の広告「クリスマスの朝」(1904)

おばあちゃんを全面化したクリスコの広告(1916)

 イソップ物語やグリム童話を見ればわかるように、欲望には「おまけ」や「おみやげ」が付きものだ。アメリカでは頻繁に開かれる万国博や見本市やカントリーフェアがこの方式を拡張させた。会場に行くと、いっぱいのワゴンやショップが立ち並び、そこでは商品を売るというより「ちょっとした未来の手立て」が配られる。
 メーカーと小売業者はそこに目をつけた。景品引替券やクーポン券を用意した。大衆は特定の商品を続けさまに買うと「おまけ」や「おみやげ」に近づけた。それが次にトレード・カードになって商品の箱の中に入りこみ、意外な変化をおこした。商品がもらえるのではなく、別の「あこがれ」が手に入るようになったのだ。煙草を買えばきれいな姉ちゃんのピンナップカードが手元にたまり、クッキーを買えばスター野球選手のカードが付いてきた。「ギブアウェイ」と呼ばれる作戦だ。
 この作戦はしだいにエスカレートしていった。リグレーはチューイングガム版の「マザーグース」がもらえるようにした。ポケモンカードを集めるように、ガムを買うたびにマザーグース・ストーリーが読めるようになっていた。
 すぐさま「ギブアウェイ」に対応したのが一般購読雑誌だ。メーカーと販売業者はお気にいりの雑誌と組んで、コーヒー、口紅、ゴム糊、万年筆、壁紙などの「夢」を記事にすると、読者を欲望消費者に仕立てなおしていった。雑誌もそうした商品が抽選で当たるような記事企画を組んだ。ここからパブリシティ(記事広告)が自立した。

 以上、本書にはアメリカの商品作戦の大半が列挙され、あきれるほどに念入りな「欲望のシナリオ」にお目にかかれるようになっている。読みやすい本ではなかったが、多少愕然とさせられたのは、その大半は昭和日本がそっくり真似したもので、その多くがたいして徹底していなかったということだ。とりわけ戦後の日本はアメリカのぐさぐさ模倣で糊口をしのいできたのはあきらかだった。

コカ・コーラ社のクーポン券
カードの下にある小さな長方形のカードを切り抜いて、店に持参すると無料でコカ・コーラが一杯飲むことができた。

カークマン社のボーラックス石鹸につけられた機械仕掛けのトレードカード

リグレー社のチューインガムについていたマザーグースのカード

 ところで去年(二〇一八)の年の瀬、ぼくは『雑品屋セイゴオ』(春秋社)という本を出した。七〇年代後半に「NW‐SF」というマイナーなSF雑誌に連載しっぱなしになっていた原稿をもとに、新たな一冊にしたものだ。編集長をしていた畏友の山野浩一に頼まれて書いた。
 中身は、とてもストレートなものだ。少年時代に夢中になった赤チン、吸取紙、ドライバー、鉱物標本、キンカン、月球儀、ホッチキス、自転車、リトマス試験紙、数珠、ガーゼ、万年筆、セメダイン、水枕など、一二〇品についての勝手な感想を綴った。三十代半ばのぼくが昭和の少年期を振り返って書いてみたものだ。一二〇品すべてに、菊地慶矩君がファンキーな絵を付けてくれた。
 帯は「五感で堪能するオブジェ雑品エッセイ」「フェチあります」になっている。まさしくぼくがフェチした商品たちがエッセイ・カタログになったようなもので、ひょっとするとどんなぼくのエッセイよりも危うい「五感派セイゴオ」が表出されているかもしれない。

『雑品屋セイゴオ』(2018,春秋社)
松岡がこれまで“フェチしてきたもの”について、昭和の郷愁と官能をもって綴った“オブジェ雑品エッセイ”。イラストと装幀は長年親交のある菊地慶矩さんが担当、松岡の妙味あるフェチ感覚に、遊び心を添えた。

オートバイ

黒板とブランコ

水枕

便器

鉱物標本

カーボン紙

 その『雑品屋セイゴオ』の雑誌連載時のタイトルは『スーパーマーケット・セイゴオ』というものだった。そのころ、ぼくはジュネの「最低の代物」に刺戟を受けていて、スーパーマーケットのほうがそんじょそこらのアートギャラリーよりうんとおもしろく、電気冷蔵庫の中のサランラップに包まれた食品のほうが、そんじょそこらのアート作品より語りかけてくるものが刺激的だと思っていたからだ。
 少年期に出会ったオブジェや商品や部品たちがぼくを疼かせ、のちのちまでフェチな感性を突き刺しつづけていた。それで、そうした雑品たちをあらためて思い出し、スーパーマーケット・セイゴオに並べてみたのである。
 必ずしもアメリカ製品が多かったわけではない。メンソレータム、チューイングガム、人工衛星、ホッチキス、Tシャツ、ヘリコプター模型、スチールシャッター、トランシーヴァーなどはアメリカ育ちだが、水枕、セメダイン、大福、文庫本、セロテープ、絵馬、キンカン、乾電池、シャープペンシル、龍角散など、日本ものやヨーロッパものもたっぷり入っている。
 ぼくにとっては、すでにストラッサーが追跡した二十世紀前半のアメリカの欲望商品は、姿を変えて昭和の戦後社会に混じり込んでいたわけである。

『NW-SF』(1980年,2月号)と編集長の山野浩一

まりの・るいにい氏が描いた「スーパーマーケットセイゴオ」の扉絵

 そんなふうに『雑品屋セイゴオ』を仕上げているなか、あらためていろいろ気付いたことがあった。
 第一には、二一世紀のネット型のコネクテッド・エコノミーには、きっと「意味と市場」の関係についてのもっとディープな議論が必要になっているはずだということである。この点についてはボードリヤールやブルデューを超える議論がいまだに出ていないのではないかと思う。
 第二には、そんな「意味と市場」のあいだで、新たな「欲望」と「商品」が生まれているのかどうかということだ。旧来の欲望商品ばかりがグローバル化され、楽天され、メルカリされているにすぎないのではないか。いっときのトレンド商品ばかりが世情を賑わせているだけではないのか。
 だとしたら第三には、あのクリスコ旋風をおこせたアメリカは、これからどうなるのかということだ。いま、大統領トランプはしきりに「アメリカ・ファースト!」を連呼しているが、これは一言でいえば往時のアメリカ型の欲望消費社会がつくれなくなっているせいだ。だからトランプは不動産屋的に、メキシコとの国境にトランプ・ウォールをつくりたくなっている。アメリカ政府は区切らずにはいられなくなったのだ。
 一方、グーグルやアマゾンはシアーズ・カタログの全面的ネット化を先行して、区切りをとっぱらった「連絡機関」として勝ちまくっているだけになってきた。欲望消費は「情報の消費」に切り替えられてばかりいるだけだ。
 第四に、これまであまりにも長いあいだにわたってアメリカのビジネス動向とポップカルチャーを向いて仕事をしてきた日本は、この先いったいどうするのかということだ。一番おバカな経団連の方針と一番ずるい電通の戦略ばかりを呑んでいるようでは、先はおぼつかない。少なくともブランディング業界、広告業界、マーケティング業界、コンサルティング業界は、これまでの畑で儲けるのを少し遠慮して、新たなコーポレート・ナラティブの確立のほうにとりくむべきだ。企業もそのことをメディアに対して要求するべきだ。
 しかしながら第五に、ひょっとするともっと本気で考えてもいいのは、「いまこそフェチを!」ということなのかもしれないということだ。かつてのボードリヤールもフェティッシュを話題にしていたが、それは二一世紀のフェティシズムの予想にまでは及んでいなかった。
 時代はとっくに「過度の情報選択時代」に傾いているけれど、みんなでいくら「いいね」ボタンを押したって、そこから「商品フェチ」は生まれない。平均化がおこるばかりだ。これはつまらない。これからは、個人の好みが際立つ少数フェチ派がコンティンジェントに罷かり出るのが、きっとおもしろい。

⊕ 欲望を生み出す社会-アメリカ大量消費社会の成立史- ⊕

∈ 著者:スーザン・ストラッサー
∈ 訳者:川邉信雄
∈ 発行者:柴生田晴四
∈ 発行所:東洋経済新報社
∈ 印刷・製本:丸井工文社
∈∈ 発行:2011年12月1日

⊕ 目次情報 ⊕

∈∈ 第1章 アメリカ的生活様式
∈ 第2章 商標ラベル
∈ 第3章 流通の連鎖
∈ 第4章 新しい製品と新しい習慣
∈ 第5章 市場の設計
∈ 第6章 販売と販売促進
∈ 第7章 新しい小売業
∈ 第8章 包装製品の政治学
∈∈ 第9章 エピローグ

⊕ 著者略歴 ⊕

スーザン・ストラッサー(Susan Strasser)

リード大学で学士をニューヨーク州立大学ストーニィ・ブルック校でM.A.,Ph.D.を取得.ハーバード大学経営大学院経営史ニューコメン・フェローシップ(1985-86年度)等を経て、現在、デラウエア大学歴史学部教授。アメリカの消費社会の歴史における研究には定評があり『ニューヨーカー』誌で、「歴史が見捨てていたものを復活した」と称賛された。これまでの著書に,Never Done: A History of American Housework ( Pantheon Books, 1982); Waste and Want: A Social History of Trash (Metropolitan Books/Henry Holt, 1999); A Historical Herbal: Healing with Plants in a Developing Consumer Culture (forthcoming)がある。