才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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タネが危ない

野口勲

日本経済新聞出版社 2011

編集:工藤憲雄・桜井保幸
装幀:永井亜矢子

この本に書いてあることはたいへん端的で、あまりに一途のことなので、この世の野菜市場的な事態があらかた著者が言っているようになっているのかどうか、ぼくには敷延のしようがないのだが、しかし数年前にこの本を読んだときの印象は、かつてレイチェル・カーソン(593夜)の『沈黙の春』やデボラ・キャドバリー(1073夜)の『メス化する自然』を読んだときとほぼ同質の共感に抉られた気分だった。

 この本に書いてあることはたいへん端的で、あまりに一途のことなので、この世の野菜市場的な事態があらかた著者が言っているようになっているのかどうか、ぼくには敷延のしようがないのだが、しかし数年前にこの本を読んだときの印象は、かつてレイチェル・カーソン(593夜)の『沈黙の春』やデボラ・キャドバリー(1073夜)の『メス化する自然』を読んだときとほぼ同質の共感に抉られた気分だった。
 話題はひたすら野菜と果物のタネのことに徹している。メッセージはただひとつ、世に出回っている野菜や果物がF1(一代雑種)になっている問題を問うことだ。そうではあるのだが、話は手塚治虫(971夜)からミトコンドリアにまで及ぶ。
 手塚が出てくるのは著者の野口さんの若い頃の最初の仕事が虫プロで、手塚のライフワーク『火の鳥』の完成に向けての道程やメディア化などにかかわったからだが、なぜミトコンドリアに及ぶのかは説明ぐあいによっては大事(おおごと)になるので、あとで紹介する。いまは、著者にとって火の鳥とミトコンドリアは同義に近いのだと思っておいていただきたい。

 ちなみに野口さんとは2011年の12月6日に「幹塾」(かんじゅく)にお招きしたとき、会っている。小野地悠さんを伴って、なぜ「F1のタネが危ない」のか、一時間ほど話してもらい、その後は長谷川眞理子さんや加藤秀樹さん、あとは林芳正・世耕弘成・河野太郎・古川元久・松本剛明などの政治家諸君を交えてディスカッションをした。

『火の鳥』の第1巻「黎明編」(虫プロ商事刊「COM名作コミックス」 1972)

 野口さんは埼玉県飯能のタネ屋の3代目である。野口種苗園は、もともとは蚕のタネ屋(つまり蚕種の販売)をしていた本家から分家したおじいさんが昭和4年に始めたもので、おやじの代からは自給用野菜の固定種のタネを売るようになった。「みやま小かぶ」などを中心に、それなりに仕事ができていた。
 敗戦後の日本ではタネは配給制で粗悪だった。日本中のタネが配給本部に集められて全国に配分される。配給元がよいタネを取ってそこに古いタネを混入して都道府県に分配し、地方の役員はそこからまたよいタネを取って古いタネを混ぜて配布する。そんなことだから末端のタネ屋に来たときは、芽が生えないようなタネがけっこう混じっている。おやじはそんなタネを売ってはお客さんに申し訳ないからと、発芽試験器を考案した。このとき野口種苗園という名前を野口種苗研究所に変えた。
 それが昭和40年代になってF1(一代交配種ともいう)が出回り、そのうち固定種など売れなくなった。
 固定種というのは品種として独立したもので、味や形はずうっと変わらない。交雑して雑種化した交配種とは区別される。生物学的には単一系統の遺伝子しかもっていないので「単種」とも言われる。

1950年頃の野口種苗園

メネミル(野口式種子発芽試験器)

 F1(first flial generation)は一代雑種(一代目だけの交配種)である。雑種は英語ではハイブリッド(hybrid)というが、F1はたんなるハイブリッドではなく、メンデルの法則がもたらす一代目の優良な形質を保持するために作られた交配品種のことをいう。
 いくら優秀な親どうしを掛け合わせても、その子どうしの二代目以降の交配になるとばらつきが出る。そこで一代交配雑種に限ってタネが優良になるように工夫した。その工夫の技法には「自家不和合性」とよばれる改良技法や「雄性不稔」(ゆうせいふねん)という意外な技法があるのだが、このこともあとで説明する。ともかくこうやって、かなり人為的に作り出したのがF1である。

F1野菜のタネ袋野菜の種の売場で普通に見かけるF1種(写真は2枚ともみかど共和株式会社のもの)

メンデルの法則が描かれた記念切手(左:オーストリア発行 右:バチカン発行)

F1種の花F1種は野菜のみならず花卉市場をも席巻している。サカタの誇るトルコキキョウ「ロジーナ」(左)とヒマワリ「ビンセント」(右)

 F1にはばらつきがない。野菜や果物なら形も色も味も揃う。それを大手が売り出した。日本では京都のタキイ種苗、群馬のカネコ種苗、宮城の渡辺採種場などが大手だ。
 日本のタネ屋は江戸中期の滝野川(東京北区)に生まれた。いまもあるみかど協和の越部家、東京種苗の榎本家、日本農林社の鈴木家などだ。滝野川ニンジンや滝野川ゴボウが有名になった。そんなふうに江戸に最初の種苗店が誕生したのは元禄年間のことで、フランスでヴィルモラン種苗商会が創業したのが1742年で、これは享保2年にあたるから、ヨーロッパも日本もだいたい同時期にタネ屋ができたわけである。
 農民はそうしたタネ屋から野菜のタネを買って何年も自家採種して、その土地に合った野菜をつくっていった。これが「固定種」である。固定種は味はしっかりしているけれど、不揃いなことが多い。
 タネ屋が工夫したものは固定種だが、農民が自分たちで工夫して自家採種したものは「在来種」という。
 その後、明治以降になると日本の種苗(しゅびょう)を海外に販売する横浜植木や「サカタのタネ」などが登場し、やがて多くの大手タネ屋がF1を売るようになった。これで固定種の人気が落ちた。野口種苗はピンチになった。

サカタのタネ(1920〜30年代)1913年に創業し、早くからユリ球根の輸出や海外支店開設などを展開した。

(左)滝野川ゴボウのタネ袋 (右)昭和初期の滝野川ニンジンのタネ袋滝野川ゴボウは現在は江戸東京野菜に認定されているが、滝野川ニンジンは昭和30年代以降衰退した。

ヴィルモラン社のカタログ(1766年)細密な博物画が美しい。

 おやじは「おまえはタネ屋なんだから千葉大の園芸学部に行け」と言った。野口さんは受験勉強が嫌いだったので国立大なんてとんでもない。タネ屋を放棄してどこかの出版社でマンガ雑誌の編集でもしたいと思った。
 それで私大の国文科に入って児童文学でも専攻しようかと迷っていたところ、大学2年のときに新聞で虫プロ出版部の募集広告を見た。狂喜して試しに受けてみたら合格した。

 野口さんは筋金入りの手塚フリークだった。それも、かなりのフリークだ。少年期に貸本屋に通い、折から連載が始まった『鉄腕アトム』に夢中になった。ぼくと同い歳なので、このあたりの事情はよくわかる。
 ただ、野口さんは最初からSF感覚にも富んでいたようで、月刊の「おもしろブック」の別冊に手塚の読み切りマンガが付いていたりすると何度も読み返すという少年だ。たとえば『白骨船長』などを夢中で読みこんだ。地球に人間がふえすぎたため、子供を抽選で間引いて白骨船長のロケットに乗せて月の裏に捨てるという話だが、てっきり子供たちは捨てられているもんだと思っていたら、月の裏ではたくさんの子供が元気で暮らしていた。白骨船長は「このことを知っているのは大統領と俺だけだ」と呟く。野口少年はギョッとした。
 いまは初期の名作として知られる『来たるべき人類』にも、けっこう唸らされた。超大国が世界中の反対を押し切って42GAMI(死に神)という新型核兵器のための核実験を日本アルプスの上空で炸裂させるというSFマンガだが、野口少年は「そこから人類は平和のためにこんなバカなことをやるのか」という強烈なメッセージを教わった。

 手塚ワールドで世界と人間についての考え方を学んだ野口さんは、進学校の川越高校に入ってはみたものの、高校2年のときに第1回日本SF大会(1962)に参加して、ますます想像力の世界のほうにのめりこんでいった。
 この通称MEG-CONの大会に高2の生徒が行っていたというのは、よっぽどだ。目黒公会堂(清水記念館)でおこなわれた大会はその後のギョーカイ伝説になっている。そこには、星新一(234夜)、光瀬龍、福島正実、半村良(989夜)、眉村卓、紀田順一郎(517夜)、筒井康隆、小野耕世らにまじって、マンガ家として初めて手塚、石森章太郎らが顔を出したのだ。ぼくもそのモノクロ写真を何度も眺めて「そうか、ここから始まったのか」と溜息をついたことがある。その記念写真に高校生の野口さんが写っていたとは、本書を見るまで知らなかった。いやはや、とんでもない。
 野口さんはさっそく雑誌「火の鳥」の初代担当編集者になった。編集長は山崎邦保である。けれどもこれもよく知られていることだが、虫プロはあえなく倒産した。昭和48年(1973)のことだ。野口さんはしばらくマンガ出版社の子会社で編集をしていたようだが、新しい「センス・オブ・ワンダーを提供するようなマンガ」が理解されなくなったことを感じ、30歳を機に家業のタネ屋を継ぐことにした。

第1回日本SF大会
1962年(昭和37年)5月に東京の目黒公会堂・清水記念館で開かれた。最前列に向かって左から光瀬龍、星新一が、右から森優、筒井康隆、眉村卓が並ぶ。前から2列目、右から5人目の学ラン姿の青年が野口氏。前から3列目、左から4人目の人物が手塚治虫。

『COM』創刊号(1966年12月25日 虫プロ商事)
雑誌『COM』は『火の鳥』を看板作品として生まれた。

 タネ屋になるにあたって、これが自分の応援歌だと思ってブラザーズ・フォーの『七つの水仙』に肖(あやか)って、家の庭に水仙の球根を七つ植えた。
 見合い結婚をして子供が生まれてからは、地元の青年会議所に入り、何か町のためにしたくて2年をかけて300万円の資金を集め(マンガ家やSF作家の色紙をオークションして)、そのお金で町に鉄腕アトムの銅像を建てた。手塚センセーが来てくれた。新しい店の看板には火の鳥をあしらった。
 しかし商売のほうは芳しくはない。野口さんは農薬にも肥料にもF1にも気乗りがしない。手塚センセーも『火の鳥』の現代篇を描けないまま60歳で亡くなってしまった。
 いったい火の鳥とは何だったのか。野口さんは大いに考えた。センセーは未来篇で火の鳥にこう語らせている。‥‥「でもこんどこそ」と火の鳥は思う。「こんどこそ信じたい」「こんどの人類こそ、きっとどこかでまちがいに気がつくだろう」「生命を正しく使ってくれるようになるだろう」。
 本書はこの手塚治虫の“人類に遺した予言”のようなものに従っている。
 というわけで、いま野口さんは農薬も肥料も苗もF1のタネも園芸用具も売るのをすっかりやめている。固定種のタネをインターネットで売るだけだ。まさに火の鳥の後塵を拝するということなのだろう。

 日本がF1天国になったのは、野口さんによると戦争が終わって平和になったからだった。
 敗戦後、日本は極端な食糧難になり、GHQは農地改革を進めた。このとき大量の化学肥料とDDTが日本に入ってきた。もともとはアメリカが戦争化学を農薬や肥料に転換するシナリオを転用したもので、一言でいえば毒ガスが農薬に変わったようなものだった。アメリカが窒素肥料などをつぎこんだのは日本だけではない。世界中に入れ込んでいった。
 東南アジアやフィリピンでは雨季と乾季があって、田畑には雨季に肥沃な水が流れてくるから肥料に頼らずとも農業が成立する。二毛作も当たり前で、年に三回も作物が収穫できるところもある。そんな国にも窒素肥料や化学肥料を入れるものだから、コメもムギも背丈が高くなりすぎて葉数がふえ、その葉から窒素を抜こうとしてしまい、結局は収穫が落ちていった。
 アメリカは抜け目がなかった。そういう国にも、たくさんの肥料をやっても収穫だけがふえる品種改良を奨励するようになった。これがのちに「緑の革命」と言われた実態だ。窒素肥料をふやせば虫も集まってくるから農薬も必要になるという悪循環が、ここに確立した。日本の大手タネ屋もこの路線に乗った。

 ビニールハウスが安価に作れるようになったことも事態を変えた。塩化ビニールに囲われた温室は周年栽培がどこでもできるようになったのだ。農協もビニールハウスに融資した。
 かくして一年中いつも同じキャベツやタマネギばかりを作る「モノカルチャー農業」(単一作物生産主義)が跋扈した。長野のキャベツ、熊本のトマト、高知のピーマン、静岡のイチゴは一年中作られている。
 モノカル農業の元凶になったのは、昭和46年(1971)の野菜生産出荷安定法である。このとき野菜の指定産地制もスタートした。豊作になると価格が暴落するので、価格調整のためにトラクターが余った作物を踏み潰すようになったのも、このときからだった。
 日本の農業のなにもかもがF1で悪くなったというのではない。世界の食糧事情を救ったのも大量F1による。しかしこのあとに野口さんの仮説を紹介するように、いったい人類のためのタネはどうあるべきかということを(手塚センセーに成り代わって)考えると、これはどう見てもF1をめぐる産業技術を問題にせざるをえなくなる。

 F1(一代雑種)の作り方は花の構造によって異なる。ナス科のトマトは、花が開くと自分の雄しべの花粉で雌しべが受粉してタネを稔らせる。これは自家受粉である。トマトはもともとあまり交雑しないから形質はほとんど変わらない。そのためトマトの種類は世界中に何千とある。
 けれども自家受粉はF1には都合が悪い。雑種にならないからだ。そこで雄しべを除くようにする。これを「除雄」(じょゆう)という。そうしておいて別のミニトマトなどの雄しべの花粉を取って、指先にくっつけて、雌しべばかりの除雄トマトの花に押しつける。最も基本的なF1技法がこうしてできる。
 ナスの除雄を最初にやったのは埼玉県の農事試験場だった。真黒ナスと巾着ナスを掛け合わせて埼玉交配ナスにした。埼交ナスと言われた。
 スイカのF1は奈良が試みた。日本のスイカのもとになっている品種は奈良で生まれた旭大和で、なかなか甘いのだが、皮が弱くて傷みやすい。縞もない。これでは出荷して東京に運ばれていくうちに傷ものになる。そこで海外から味はまずいが、縞があって皮の丈夫なスイカをもってきて、これを父親にして掛け合わせた。これが熊本をはじめ全国に広まった。最近のおいしい縞スイカはすべてこのF1スイカだ。「縞王」などというべらぼうにおいしいスイカもある。

 除雄よりも進んだ技法は「自家不和合性」を利用したやりかただ。タキイ種苗はアブラナ科野菜の自家不和合性という性質を利用してF1を作った。ヘッドハンティングした禹長春(ウ・チョーユン)による独自の技法だった。
 アブラナ科の野菜は自分の花粉でタネをつけられないという自家不和合性がある。いわば近親婚を嫌がる。他の株ならば受粉する。この性質は蕾のときははたらかず、花が成熟してからはたらく。禹長春はこれを逆手にとった。蕾をピンセットでむりに開かせ、すでに咲いている自分の成熟した花粉をその蕾につけるようにした。これでクローンができることになる。この作業をすべての蕾にほどこせば、たった1株のクローンが何百何千のクローン野菜になっていく。
 こうしてできたアブラナ科の野菜、たとえばカブのタネを、今度は同じアブラナ科の白菜と隣り合わせに交互に撒いておくと、受粉してくれる。受粉後は花粉を出す役目をおえたカブをブルトーザーで潰してしまえば、カブの花粉のついた一代雑種をもった白菜のタネばかりがとれる。F1白菜の誕生だ。
 この技法は一言でいえば「植物の生理を狂わせる」ということにある。最近はそのためビニールハウスで二酸化炭素(炭酸ガス)を使うようにもなった。人間の文明はこのように自然の生理を変えることで繁栄してきたのである。マット・リドレーの大作『繁栄』(早川書房)は、「歴史を駆動するものは何か。それはアイディアの交配(セックス)だ」と書いている。

 いまは自家不和合性よりも「雄性不稔」(ゆうせいふねん)という方法が格段に一般化した。雄性不稔とは、植物の葯(やく)や雄しべが退化して受粉が機能不全になることをいうのだが、これを利用すると優性品質のF1を安定的に作れることがわかったからだ。
 最初は赤タマネギの雄性不稔がきっかけで、アメリカの農園でさまざまなバッククロス(戻し交配)をしているうちに、花粉の出ない黄タマネギができた。これを母親役にして畑に撒き、そばに雑種強勢がはたらく父親役の野菜を撒いておくと、あとはミツバチたちに交配を任せておけばすばらしいF1タマネギが得られた。「雑種強勢」(heterosis ヘテロシス=ハイブリッドビガー)というのは、純系どうしの雑種には性質か強くなったり成長が早まったりすることをいう。
 雄性不稔がどうしておこるのか、長らくわかっていなかった。母系遺伝だけするのだから、これは説明がつかない“非メンデル遺伝”だろうなどと言われていた。ところが、実はほんとうの原因はミトコンドリア遺伝子の異常にあったのである。

 すでに「遊」や千夜千冊で何度かにわたってとりあげてきたように(1177夜『ミトコンドリアと生きる』、1499夜『生命の跳躍』など)、ミトコンドリアは生命の歴史において、外から入りこんだ闖入者である。
 すなわちミトコンドリアは、きわめて劇的ないきさつによってわれらが原始細胞の中に入りこんだ“外部侵入器官”であって、きわめて重大な生命活動の機能を担っている細胞内小器官(オルガネラ)なのである。呼吸活動の根幹を担い、ATPのもとを用意して生命エネルギーのもとを支え、「性」を司り、そのくせ活性酸素(フリーラジカル)を出してヤバイこともする。活性酸素は癌の要因にもなっている。
 なぜミトコンドリアのような外部者がわが生命系の中に入ってきたかということも、これまで千夜千冊で説明してきた。かんたんにいえば、次の事情によっている。

 46億年前に地球が生まれ、38億年ほど前に最初の生命が誕生したとき、この最初の生命は単細胞のバクテリアのようなものだった。バクテリア時代は数億年以上続いたろうが、その中から海中のシアノバクテリアに代表される光合成をする藍藻型のバクテリアが生まれた。
 それまで酸素をもっていなかった地球はこのシアノバクテリアが作り出す酸素を大気圏にとじこめて、次の生命系を準備することになった。しかし、それまでのバクテリアは酸素がない状態で生まれていたので嫌気性である。嫌気性のバクテリアにとっては酸素は猛毒だ。そこで多くの嫌気性のバクテリアは海底の深いところや地中の奥深いところで生きのびた。

 こうしてあるとき、好気性のバクテリアと嫌気性のバクテリアが出会うことになった。ここで劇的なことがおこったのである。嫌気性の生命体が好気性の生命体を取り込んで、酸素呼吸をする生命システム(真核細胞の生命体)に進化した。この好気性のバクテリアこそミトコンドリアになったものだった。
 この驚くべき“細胞内共生”(endosymbiosis)という出来事は、リン・マーグリス(414夜)によって仮説予想され、最初はみんなあっけにとられていたのだが、その後は誰もが認める事情になった。生物はクローン生殖ではなくて「性」を媒介にした有性生殖ができるようになったのだ。

 こうしてわが生命系は、この外部からの侵入者ミトコンドリアの機能をフルに使って、エネルギーに満ちた多細胞生物に向かっていった。ミトコンドリアが呼吸やエネルギーの工場として機能しているのはそのためだ。
 その後、生命の歴史はミトコンドリアによって乗っ取られたのではないかというテイクオーバー説や、われわれの生命はミトコンドリアの寄生体ではないかというパラサイト説などが出た。ミトコンドリアがアポトーシス(細胞死のプログラム)の鍵も握っているせいでもある。けれども、このあたりの議論の決着はまだ見ていない。ぼくはニック・レーン(1499夜)のミトコンドリア新統合仮説がおもしろいと思っているが、このへんの結論は出ていない。
 しかしミトコンドリアの特別なところは、それだけではないのである。遺伝的に注目すべきなのは、その遺伝子が母親だけから子供に伝わっていくという母系遺伝をすることにある。われわれの細胞にひそむミトコンドリアは1万年、10万年、100万年以前りミトコンドリアと“母伝い”につながっているのだった。動物や植物でもそうなっている。われわれはすべて「ミトコンドリア・イブ」から生まれたのである。
 そのミトコンドリアの遺伝子の異常にかこつけて、F1種が作られていたとすると、さあ、どうか。何かとんでもない「過誤」がおこっているのかもしれなかった。野口さんはそう考えた。

 かつてキャベツは自家不和合性を利用してF1を作っていた。F1キャベツには父親役の株と母親役の株がある。この母親役のタネをハウスに撒くのだが、ハウスにはあらかじめ雄性不稔のダイコンが植えられている。そこにボンベから炭酸ガスを吹き出してダイコンの生理を狂わせる。花が咲いたらミツバチを放つ。
 ミツバチは血中のヘモグロビンをもっていないから、酸欠をおこさない。ハウスでちゃんと働いて、母親キャベツの花粉をせっせと雄性不稔のダイコンにつけていく。キャベツとダイコンはゲノムが違うから混ざらないはずなのに、二酸化炭素の濃度が高められているので生理が狂い、キャベツ50パーセント、ダイコン50パーセントの合いの子のタネを生む。
 ゲノムが異なる異種間に受粉がおこってタネができるメカニズムは、正確に生物学的に説明しようとすると難解になるが、わかりやすくいえば、強いストレスが植物を焦らせてタネ作りに向かわせたのである。
 こうした作られたタネは母親譲りの雄性不稔のキャベツになるが、自分には子孫を作る能力はない。そこでまわりに父親役の野菜を配して、ミツバチなどに交配させる。このプロセスをうまく組み立てればF1キャベツができあがる。

 いま、「サカタのタネ」が圧倒的シエアをもっている春キャベツの金系201号も、タキイのSPキャベツやEXキャベツも、雄性不稔のF1キャベツである。 四国の南国市は全国一のシシトウの産地であるが、現在発売中のシシトウの99パーセントは雄性不稔の葵シシトウだ。多くの病気(乾腐病など)に強いツキヒカリというF1タマネギは、固定種の札幌黄から改良したF316にアメリカのW202を掛けた雄性不稔タマネギから得たフラヌイを、さらに病気抵抗の強いタネを求めて作り上げたものであるらしい。
 これらのF1野菜は、短絡すればすべてミトコンドリアの遺伝子の異常を利用したものだった。わが生命系が継承してきた母系遺伝の狂いを利用したものなのだ。ここに問題がないなどというはずがない。野口さんはこの問題を訴えたくて、この本を書いたのだ。「幹塾」で加藤秀樹が「野口さんを呼ぼう」と決めたのも、政治家たちにこの警告を聞かせるためだった。

 このところCCDとかVBSという用語が入った事件がニュースになることがある。CCDは“Colony Collapse Disorder”の略で「蜂群崩壊症候群」と訳され、VBSのほうは“Vanishing Bee Syndrome”で「ミツバチ消失症候群」と訳されている。数十年前のアメリカで数万匹の大量のミツバチが各所で消えてしまったという異様な現象を報じるニュースだ。
 さまざまな推測が出ていて、すでにローワン・ジェイコブソンの『ハチはなぜ大量死したのか』(文春文庫)や岡田幹治の『ミツバチ大量死は警告する』(集英社新書)、船瀬俊介『ミツバチが消えた「沈黙の夏」』(三五館)などという本もある。ジェイコブソンは物理学と英文学を引っさげた食環境ジャーナリスト、岡田は朝日の論説委員と「週刊金曜日」の編集長の歴任者、船瀬は環境問題や食品問題について夥しく本を書いているジャーナリストだ。

 CCDについてはいろいろな原因が憶測された。
 ハチに免疫不全がおこっている、農薬ネオニコチノイドが原因だろう、ダニ(ヘギイタダニ)のせいだろう、地球温暖化の影響だ、ケータイ電話の電磁波によるものだ、遺伝子組み換え(BT)の作物がおこしたことだ、ノゼマ病菌による、単一作物のストレスがハチを去らせたのだろう、抗生物質の作用が過剰だった‥‥等々。どうも正解はないらしく、おそらくは複合的な事情が重なったのだろうということになっている。
 が、野口さんは独自の仮説を立てたのである。そもそもミツバチが何のために野菜や果物の受粉をしてきたのか、そこに目をつけた。仮説は次のようなものだった。

 (1)1940年代、タマネギやニンジンなどの雄性不稔野菜にミツバチを使って受粉させてF1種子を採るようになった。
 (2)ミツバチはミトコンドリア遺伝子の異常な野菜の蜜や花粉を集めるようになった。これがローヤルゼリーになって次世代の女王バチの幼虫に与えられるようになった。
 (3)やがて次世代の女王バチたちは他のコロニーのオスバチと交尾して、たくさんの働きバチを生むとともに、次の女王バチと数匹の雄バチを生む。この雄バチは未受精卵だから女王バチの遺伝子しかもっていない。
 (4)養蜂業者は一定の農家と契約しているから、雄性不稔のF1種子の受粉のために使われたミツバチは、世代が変わっても同じ季節に同じ採種農家の畑に行く。それゆえ、この養蜂業者が所有するミツバチは代々にわたって雄世不稔の蜜と花粉を集め、さらに次世代の女王バチと雄バチを育て続けることになる。
 (5)こうしてミトコンドリア異常の蜜で育った女王バチの体には、世代を重ねるごとに異常なミトコンドリアの蓄積が多くなり、あるときに無精子のオスバチを生むことになったのではないか。
 (6)こうした事情が重なってくると、巣の中のオスバチがすべて無精子症になってしまうことがおこりうる。
 (7)巣の中に無精子のオスバチしかいないことに気が付いたメスの働きバチはパニックをおこすにちがいない。集団で巣を飛び立っていってもおかしくない。
 (8)この異常が最初におこったのが1960年代だったとすると、オスバチが無精子化するのに約20年という継代が必要だったのだろう。そうだとしたら、ミツバチの大量疾走事件はきっと1980年代にもおこっているはずだが、まだその記録は調査されていない。
 (9)以上の仮説が妥当だとすれば、2020年代にはもっと大きな規模でCCDやVBSが発生するはずである。

 はたしてこの野口仮説がどれほどのエビデンスを得るか、いまのところはわからない。しかし、手塚治虫はこのことをこそ警告したのだったろう。
 現在、世界にF1ハイブリッドライスが出回るようになった。7、8年前で中国では58パーセント、アメリカでは39パーセントがハイブリッドライスになった。日本ではまだ1パーセントに及んでいない。ちなみに中国のF1ライスのうち、インディカ米は80パーセント、ジャポニカ米は3パーセントだ。
 野口さんは次のように綴って、本書を締めている。「人間は本来やるべきではないことをやっているのではないだろうか。すべての植物を子孫が作れない体にして、人間がそれを食べていくことで世界中がお返しを受けているのではないだろうか」と。

 その後、ぼくもいろいろ知ったし、いろいろ読んだ。F1犯人説というより、食糧ビジネスが採り込んだ技法の数々が、けっこう忌まわしかった。
 とくにモンサント、デュポン、シンジェンタ、バイエルクルップなどの巨大アグロバイオ企業の食糧戦略は、卑しいほど恐ろしい。本書はF1種子を主題にしているが、GMO種子(遺伝子組み換え種子)はさらに凄まじい世の中をつくっている。まとめて「ターミネーター・テクノロジー」と称される。
 安田節子の『自殺する種子』(平凡社新書)、ヴァンダナ・シヴァの『食料テロリズム:多国籍企業はいかにして第三世界を飢えさせているか』(明石書店)、マリー=モニク・ロバンの『モンサント:世界の農業を支配する遺伝子組み換え企業』(作品社)、ブレット・ウィルコックスの『モンサントの嘘』(成甲書房)、船瀬俊介の『モンスター食品が世界を食いつくす:遺伝子組み換えテクノロジーがもらたす悪夢』(イーストプレス)などを覗いてみることを薦めたい。

 いま、日本を含めて太平洋沿岸国はアメリカのTPP戦略にほぼ包囲されていしまっている。TPPは農作問題や食糧問題だけではない貿易戦略だが、その仮面はすでにニュージーランドのジェーン・ケルシーの『異常な契約:TPPの仮面を剥ぐ』(農文協)をはじめ、多くの識者が問題点を訴えている。
 なかで農作・食糧・食品技術に関しては、TPPの仮面を剥ぐ程度ではおさまらない「過誤」がもっと進んでいる。マイケル・モスの『フードトラップ』(日経BP社)、ジョナサン・サフラン・フォアの『イーティング・アニマル』(東洋書林)、ラジ・パテルの『肥満と飢餓』(作品社)、スーザン・ドウォーキンの『地球最後の日のための種子』(文藝春秋)などは、背筋がゾッとするというより、もうこれ以上読みたくないという気にさせられる告発本である。
 手塚治虫の予言は当たりすぎていたのだ。 

⊕ 『タネが危ない』 ⊕

 ∈ 著者:野口勲
 ∈ 発行所:日本経済新聞出版社
 ∈ 発行者:斎田久夫
 ∈ 印刷:三松堂
 ∈ DTP:マッドハウス
 ∈ 製本:大口製本印刷
 ⊂ 2011年9月5日 第一刷発行

⊗目次情報⊗

 ∈ 第一章 タネ屋三代目、手塚漫画担当に
 ∈ 第二章 すべてはミトコンドリアの采配
 ∈ 第三章 消えゆく固定種 席巻するF1
 ∈ 第四章 F1はこうして作られる
 ∈ 第五章 ミツバチはなぜ消えたのか
 ∈ 付録 F1はこうして作られる
 ∈∈ おわりに
 ∈∈ 生命のことをずっと考えてきた人
 ∈∈ 野口さんのタネの哲学

⊗ 著者略歴 ⊗

野口勲(のぐち・いさお)
野口種苗研究所代表。1944年東京都青梅市生まれ。親子三代にわたり、在来種・固定種・全国各地の伝統野菜の種を扱う種苗店を埼玉県飯能市で経営。店を継ぐ前は、漫画家の手塚治虫さんの担当編集者をしていた経歴を持つ。2008年山崎記念農業賞を受賞。主な著書に「いのちの種を未来に」(創森社)。