レイチェル・カーソン
センス・オブ・ワンダー
新潮社 1996
ISBN:4105197029
Rachel L. Carson
The Sense of Wonder 1984
[訳]上遠恵子

 「ただ、わたしはなにかおもしろいものを見つけるたびに、無意識のうちによろこびの声をあげるので、彼もいつのまにかいろいろなものに注意をむけるようになっています」。
 彼とは4歳のロジャーという少年のこと、レイチェル・カーソンの姪の息子にあたる。レイチェルはこのロジャーをメインの森や海辺に連れ出しては、大きな自然や小さな生命の驚異を二人でたのしんだ。レイチェルはロジャーにはどうしてもそのことが必要だと感じたのである。
 「このようにして、毎年、毎年、幼い心に焼きつけられてゆくすばらしい光景の記憶は、彼が失った睡眠時間をおぎなってあまりあるはるかにたいせつな影響を、彼の人間性にあたえているはずだとわたしたちは感じていました」。
 本書はそのロジャー少年に捧げられた。原文は1956年に「ウーマンズ・ホーム・コンパニオン」に掲載されている。ロジャーはその後、5歳のときに母を失ってしまい、それからはレイチェルに引きとられて育てられた。レイチェルはいつかこの原稿を膨らませて単行本にしたいと考えていたようだったが、それが叶わぬまま、1964年に56歳の生涯を閉じた。
 本書はレイチェルの死後、友人たちが惜しんで掲載原稿そのままに出版したものである。原書は大判でメインの森と海の写真入りだが、日本語版ではすばらしい翻訳に加え、八ヶ岳に住む森本二太郎のカラー写真が添えられている。

 センス・オブ・ワンダーとは、レイチェル自身の言葉によると「神秘さや不思議さに目を見はる感性」のことをいう。
 この感性は、これもレイチェルの説明によると、やがて大人になると決まって到来する倦怠と幻滅、あるいは自然の源泉からの乖離や繰り返しにすぎない人工的快感に対する、つねに変わらぬ解毒剤になってくれるものである。
 そのセンス・オブ・ワンダーをもつことを、レイチェルはどうしても子供たちに、また子供たちをもつ親たちに知らせたかった。なぜなら『沈黙の春』執筆中に癌の宣告をうけたレイチェルは、自分の時間がなくなってしまう前に、なんとしても自分が生涯を賭けて感じた「かけがえのないもの」を次世代にのこしておきたかったからだった。その「かけがえのないもの」がセンス・オブ・ワンダーだったのである。

 レイチェル・カーソンの『沈黙の春』との闘いは4年間におよんだ。それまでのレイチェルはジョン・ホプキンス大学の大学院で動物学を収め、つづいてはアメリカ合衆国漁業局の海洋生物学者としての活動の日々のかたわら、徒然に科学エッセイを書く立場にあった。そうやって綴られた『潮風の下で』『われらをめぐる海』『海辺』などは、海洋生物学者としてのまさにセンス・オブ・ワンダーに満ちている。
 しかし1958年の1月のこと、友人オルガーからの一通の手紙がレイチェルに届き、それがレイチェルを変えた。役所が殺虫剤DDTの散布をしてからというもの、いつも友人の家にやってきていたコマツグミが次々に死んでしまったという手紙だった。この日からレイチェルの4年間におよぶ闘いが始まった。
 レイチェルはいっさいの仕事を捨てて、農薬禍のデータを全米から集め、これを徹底分析して、この問題にトゲのように突き刺さっている人類の過剰技術問題のいっさいに取り組んだ。レイチェルはそのトゲを一本一本抜く覚悟だったのである。
 この研究調査のプロセスのすべてを綴ったのが、世界中で話題になった『沈黙の春』(Silent
Spring)にほかならない。1962年の出版。どんな環境汚染の研究調査より早く、どんな薬理科学者よりも洞察が深く、どんな自然愛好者のエッセイより慈愛のような説得力に富んでいた。
 ぼくがこれを読んだのもずいぶん前になるのだが、そのときの衝撃的な突風のような感触は、いまなお忘れない。いま読めばひょっとすると古い議論も多いのかもしれないが、当時は、こんな清新な読み物はなかった。
 しかし、この本ができあがる前に、レイチェルは癌の宣告をうけたのである。そしてそれからは、レイチェル・カーソンはその存在自身がセンス・オブ・ワンダーというものになっていった。

 本書は93歳で亡くなったスウェーデンの海洋学者オットー・ペテルソンが息子に残した次の言葉を引いて、静かに終わっていく。こういうものだ。
 「死に臨んだとき、わたしの最期の瞬間を支えてくれるものは、この先になにがあるのかというかぎりない好奇心だろうね」。

参考¶レイチェル・カーソンの著書は『潮風の下で』(宝島社)、『われらをめぐる海』(ハヤカワ文庫)、『海辺』(平河出版社)などとして読める。話題の『沈黙の春』は日本では最初『生と死の妙薬』という奇怪な邦題で出版されたが、新潮文庫に入ったときに原題通りの『沈黙の春』に戻った。

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