父の先見
センス・オブ・ワンダー
新潮社 1996
Rachel L. Carson
The Sense of Wonder 1965
[訳]上遠恵子
「わたしはなにかおもしろいものを見つけるたびに、無意識のうちによろこびの声をあげるので、彼もいつのまにかいろいろなものに注意をむけるようになっていきます。」
彼とは4歳のロジャーという少年のことだ。レイチェル・カーソンの姪の息子にあたる。レイチェルはこのロジャーをメイン州の森や海辺に連れ出しては、大きな自然や小さな生命の驚異を二人でたのしんだ。レイチェルはロジャーにはどうしてもそのことが必要だと感じたのである。「このようにして、毎年、毎年、幼い心に焼きつけられてゆくすばらしい光景の記憶は、彼が失った睡眠時間をおぎなってあまりあるはるかにたいせつな影響を、彼の人間性にあたえているはずだとわたしたちは感じていました」。
本書はそのロジャー少年に捧げられた。原文は1956年に「ウーマンズ・ホーム・コンパニオン」に掲載された。ロジャーはその後、5歳のときに母を失い、それからはレイチェルに引きとられて育てられた。レイチェルはいつかこの原稿を膨らませて単行本にしたいと考えていたようだったが、それが叶わぬまま、1964年に56歳の生涯を閉じた。
本書はレイチェルの死後、友人たちが惜しんで掲載原稿そのままに出版したものである。原書は大判でメイン州の森と海の写真入りだが、日本語版ではすばらしい翻訳に加え、八ヶ岳に住む森本二太郎のカラー写真が添えられている。
センス・オブ・ワンダーとは、レイチェル自身の言葉によると「神秘や不思議さに目を見はる感性」のことをいう。「目を見はる」ところが大切だ。この感性は、これもレイチェルの説明によると、やがて大人になると決まって到来する倦怠と幻滅、あるいは自然という力の源泉からの乖離や繰り返しにすぎない人工的快感に対する、つねに変わらぬ解毒剤になってくれるものである。
そのセンス・オブ・ワンダーをもつことを、レイチェルはどうしても子供たちに、また子供をもつ親たちに知らせたかった。なぜなら『沈黙の春』(新潮文庫)の執筆中に癌の宣告をうけたレイチェルは、自分の時間がなくなってしまう前に、なんとしても自分が生涯を懸けて感じた「かけがえのないもの」を次世代にのこしておきたかったからだった。その「かけがえのないもの」とは、地球を失ってはならないと感じられるセンス・オブ・ワンダーだったのである。
レイチェル・カーソンの『沈黙の春』との闘いは4年間におよんだ。それまでのレイチェルはジョンズ・ホプキンス大学の大学院で生物学を修め、つづいてはアメリカ合衆国漁業局の海洋生物学者としての活動の日々のかたわら、つれづれに科学エッセイを書いていた。
そうやって綴られた『潮風の下で』(岩波現代文庫)、『われらをめぐる海』(ハヤカワ文庫NF)、『海辺』(平凡社ライブラリー)などは、海洋生物学者としてのまさにセンス・オブ・ワンダーに充ちていた。ここまでのレイチェルの人生はきれいな人生だった。
しかし1958年の1月のこと、友人オルガーからの一通の暗示的な手紙がレイチェルに届き、それがレイチェルを変えた。役所が殺虫剤DDTの散布をしてからというもの、いつも友人の家の庭にやってきていたコマツグミが次々に死んでしまったという手紙だった。きっとコマツグミはDDTに殺されたにちがいない。この日からレイチェルの4年間におよぶ闘いが始まった。
レイチェルはいっさいの仕事を捨てて、農薬禍のデータを全米から集め、これを徹底分析して、この問題にトゲのように突き刺さっている人類の過剰技術問題のいっさいにとりくんだ。レイチェルはそのトゲを一本一本抜く覚悟だったのである。この研究調査のプロセスのすべてを綴ったのが、世界中で話題になった『沈黙の春』(Silent Spring)にほかならない。1962年の出版だった。
全世界が驚きをもってこの一冊を迎えた。どんな環境汚染の研究調査より早く、どんな薬理科学者よりも洞察が深く、どんな自然愛好者のエッセイより慈愛のような説得力に富んでいた。
ぼくが『沈黙の春』を読んだのはずいぶん前になるけれど、そのときの衝撃的な突風のような感触は、いまなお忘れない。こんなふうに、あった。「春が来ても、鳥たちは姿を消し、鳴き声も聞こえない。春だというのに自然は沈黙している」。心やさしい一文のようだが、なかなかこうは綴れない。何かが体の奥に向かってぐいぐいと食いこんできた。
いま読めばひょっとすると古い議論も多いのかもしれないが、当時は、こんな清新な読み物はなかった。しかし、この本ができあがる前に、レイチェルは癌の宣告をうけたのである。そしてそれからは、レイチェルはその存在自身がセンス・オブ・ワンダーというものになっていった。
本書は92歳で亡くなったスウェーデンの海洋学者オットー・ペテルソンが息子に残した次の言葉を引いて、静かに終わっていく。こういうものだ。「死に臨んだとき、わたしの最期の瞬間を支えてくれるものは、この先に何があるのかというかぎりない好奇心だろうね」。
われわれは、ときどきは目を見はる理科に没頭するべきなのである。