クレア・マリィ
「おネエことば」論
青土社 2013
ISBN:479176756X
装幀:ミルキィ・イソベ
シスターボーイ、ホモ、ブルーボーイ、おかま。
ゲイボーイ、ニューハーフ、女装。
コスメ、コスプレ、トランスヴェスタイト。
ドラァグクィーン、ミスターレディ、おネエたち。
これらの違いは説明できるのだろうか。
それにしてもいま、なぜこれほどに
「おネエ言葉」が流行るのか。
メイクオーバー・カルチャーの氾濫なのか。

 おネエ言葉に注目するとは炯眼でした。なるほど「おネエ」とか「おネエ系」はなんとも新奇な言い方で、姉さんとも姐さんとも違っています。ハイ、それまでのゲイやおかまやニューハーフとも何かが異なっている。
 ちょっと、ぼくが知っている程度の記憶で昭和日本をふりかえってみると、1950年代は青江のママがそう自称していたように「ゲイボーイ」が通り名でした。いまは美輪明宏(530夜)と改名した丸山明宏は世間からは「シスターボーイ」と半ば蔑まれて呼ばれていましたね。銭湯でなよなよと前を隠して内股で湯船に向かう“おねえさん”がいると、子供どうしでも「あれ、シスターボーイやで」と囁いたものです。
 60年代はパリのショークラブ「カルーセル」からトップダンサーたちが赤坂ミカドなどに何度も来日して、これがきっかけで「ブルーボーイ」が流行してました。性転換手術をしたM→Fさんたちがブルーボーイです。M(male)からF(female)に変わったということです。モロッコで性転換手術を受けたカルーセル麻紀が代表でしょうか。

 70年代になると、おすぎとピーコが「おかまタレント」として売り出しました。すでにゲイバーは各地にあったけれど、この気運にのったせいか、「おかまバー」と呼ばれることのほうが多くなったのではないか。「おかま」は江戸時代すでに「おかまを掘る」などと使われ、その後もそもそも女装する男娼に対する蔑称のはずでしたが、このころから柔らかく使われていったのだと思います。
 かくて、ハイ、次々におかまタレントが週刊誌やテレビを賑わせると、どこか女っぽい仕草をするタレントが「おかまっぽい」とか「ホモっぽい」と言われるようにもなって、そのころから美川憲一などもホモを隠さず、かえってネタにしたのだと憶えます。

若いころの美輪明宏

若いころのカルーセル麻紀

70年代のカルーセル麻紀

今年デビュー50周年を迎える美川憲一

 ところが80年代は、松原留美子が六本木を代表する「ニューハーフ」なんですね。ニューハーフは「ウォークマン」同様の和製英語で、アメリカの俗語では「シーメール」(She-male)とか「トラニー」(Trannie)などと言います。
 ちなみにぼくが「遊」の特別号で「は組」「ち組」「へ組」を遊んだときは、「ち組」に六本木のニューハーフに登場してもらったものでした。一方この時期、テレビは女装の男たちを「ミスターレディ」とも呼びました。
 ニューハーフといい、ミスターレディといい、よくもまあ次々にネーミングしたものです。日本語の擬態差別力にはとんでもなく豊饒な揶揄があるんですね。ぼくはこういうニセ英語が実のところは大好きです。

ホモエロスを題材にした、雑誌「遊」の特別号「ち組」

若かりし頃のおすぎとピーコにもインタビューを行った(「遊」特別号「ち組」より)

 さて90年代にはクラブシーンの最後を飾った「ドラァグクィーン」が登場します。ドラッグはdrugではなくdragで、「引きずる」という意味があります。クラブはその後ディスコに食われ、そのディスコもいまでは風営法で夜中には踊れなくなりました。残念です。ま、それはともかく、このあたりから少女マンガやラノベには「おこげ」や「やおい」も出入りしはじめたのだと憶います(661夜参照)。
 そんなこんなで21世紀に入ると、わが友人でもある稀代の論客・三橋順子の『女装と日本人』(1274夜)といった本格評論があらわれます。やっと女装も思想になったんですね。

松原留美子
1981年3月六本木イメージポスターモデルに起用され注目を集めるが、その後男性であることが発覚する。

世界各国のおネエたち左:ラナ・ウォシャウスキー(マトリックスシリーズ監督)中:ノン・ポイ(タイで有名なニューハーフタレント)右:チ・チ・ラルー(アメリカの著名なドラァグクィーン)

ドラァグクィーンのヴィヴィアン佐藤(右)

 そしてどうなったかといえば、なぜかいまや、IKKO、ミッツ・マングローブ、はるな愛、マツコ・デラックス、尾木ママ、山咲トオルなどの、「おネエ」の時代なんですね。
 いったいブルーボーイ、おかま、ニューハーフなどと「おネエ」の何が違うのか、ぼくにはよくわかりませんが、本書はそこを言葉づかい論として浮上させました。もっとも、ゲイ・コミュニティ側からは、「おネエ」はゲイの多様性を狭めているんだ、気にいらないという批判もあがっています。

芸能界の「おネエ」たち

 本書を書いたクレア・マリィ(Claire Maree)という女センセイは、オーストラリアのメルボルン大学のアジアインスティチュートの研究者です。東大の総合文化研究科で博士号をとったのち、東洋大や津田塾で教えていた。日本語とジェンダーとセクシュアリティを研究しています。
 なんとも難しいガクシャ表題ですが、その名も『発話者の言語ストラテジーとしてのネゴシエーション行為の研究』(ひつじ書房)という著書もある。言葉が相手やコミュニティとのなかでネゴシエーション(切り抜ける・掛け合う・談判する・交渉する)するときに、どんな様態をもつかを研究したものです。
 そういうクレア・マリィからすると、ブルーボーイ、おかま、ニューハーフ、おネエという用語は、特定コミュニティとそのコミュニティをまたいで「外」を意識したときの、言語ストラテジーや言語イデオロギーが洩らしていったキーワードであり、ちょっとしたパロディであり、その発信者からするとたいせつな防御力だということになります。

 社会や文化には、どんな国や民族や地域にも「言語資源」というものがあります。ふつうには「国語」や「方言」と考えていいのですが、時代や社会状況によってこの資源は使い勝手が変化します。
 たとえば「をかし」「あはれ」は使わなくなってしまったし、「かわいい」は明治時代の意味とは違っている。つまりどんな言語資源もつねに新たな「知」と「感性」をキックする言葉に転換する可能性をもっているんです。
 たとえば「あたし」という言葉は、小学生の女の子にとっては「私」という意味をもちますし、柳原白蓮の時代でも「あたし」は女性言葉になっていた。その「あたし」を男が発すれば、やっぱり別のニュアンスをもつのです。さらには男が「いや〜ねえ」と言えば、相手は混乱するばかりです。あるいはその場の調子に呑まれるかもしれない。そこに言語ストラテジーや言語イデオロギーが動くんですね。

 クレア・マリィが注目したのは、この言語資源がコミュニティをまたいでイデオロギーをもって転換するにあたって、「メイクオーバー・カルチャー」が大きな役割をはたしたのではないかということです。
 メイクオーバー・カルチャーとは何かというと、伝統的なアイデンティティや常識的な役割意識が、なんらかの理由と手段で「示し直される」文化のことを言います。出雲の阿国のかぶき踊りが女形(おやま)を含んだ野郎歌舞伎になったり、日本の洋画家がやたらにパリの画家ふうのベレー帽をかぶったりするのもメイクオーバー・カルチャーですし、マドンナが娼婦のコスチュームで“Like A Virgin”を歌ったり、シリコンバレーのCEOがジーンズでプレゼンテーションするのも、メイクオーバー・カルチャーでしょう。
 つまりは、それなりのメイキング・プロセスが露出するのが、メイクオーバーです。ふだんは外に見せないメイキングの途中をあえて見せてしまうのです。
 そのメイクオーバー・カルチャーがジェンダーやセクシュアリティをまたぐと、どうなるか。ハイ、ひとつには強烈な流行語が生まれます。でもまた、時として強烈な役割意識のあてこすりやジェンダー文化の防衛や特別なニューカルチャーの発信にもなるのです。クレア・マリィはそれが日本ではテレビ番組などの「メイクオーバー・メディア」によって主に仕組まれたとみなしました。

手塚治虫はベレー帽をかぶり続けた。

マドンナ「Like A Virgin」

ジーンズのスティーブ・ジョブズとフォーマルなビル・ゲイツ

 メイクオーバー・メディアなどと言うとまたまた難しく聞こえるかもしれませんが、いやいや、みんながよくよくテレビで知っていることなんです。番組の中で“誰か”を一気に「変身」「改造」「披露」させるという、メイキングの途中を見せる番組のことです。
 その番組の中で、お父さんは改造され、お母さんは見違えるようになるという、あのことです。
 これはかつてから欧米では「リアリティ・テレビ」とも言われていたもので、ごくフツーの人間(一般視聴者)やごくフツーの趣味(料理・ファッション・インテリアなど)を、専門家がそこにかかわることで一気に特別仕立てなものにしてみせるメディアの手法でした。つまりはわかりやすくいえば、「ビフォア/アフター」の見世物ですが、とりわけ「変身」の意外性と「披露」(reveal)に重点がおかれるのが特徴です。
 そのためにはビフォアができるだけ貧弱であり、誰が見ても惨憺たるものでなければなりません。そうでないと変身・改造の意外性が出ない。また、アフターに対する強い期待も喚起しなければなりません。かくしてひどく住みにくい家屋がみごとにリフォームされて一家がよろこびあい、「おブス」が美女に変身して、シズちゃんやオークボが立派なモデルになってランウェイを歩くのでした。
 が、ここまでのことならクレア・マリィは欧米メディアでも見慣れてきたものです。ところが日本では、これが「おネエキャラ」の創出や「おネエ言葉」という言語文化の確立に向かったのでした。そこにメイクオーバー・メディアがかかわったのでした。それで驚いた。

テレビ番組「ビューティコロシアム」(フジテレビ)
数々のビフォア/アフターが放送された。

 そもそもビフォア/アフターには、どうしてもその場かぎりという限界があります。改造されたお父さんはしばらくたてば元の木阿弥になっているでしょうし、スペシャル・メークアップを施されたお母さんが、あのままその後の日々の化粧をしているとは思えません、ハイ。
 もっと本格的にビフォア/アフターを見せるにはどうすればいいか。これが案外難しい。仕上がりのいい美人や筋肉マンに出てもらうのはかんたんですが、これではビフォアがわからない。せいぜい少女時代のボケ写真や10年前のボディビルダーの写真で過ぎにし日々を見せて、比較してもらうしかないでしょう。
 が、それでは圧倒感がありません。やはりここにはセクシャリティの超越性が必要です。そこで、そもそも「女っぽい男」をテレビ化したらどうなのかという案になりました。ここに浮上したのがニューハーフやおかまです。“彼女”たちが登場してくれさえすれば、すでに「変身」や「改造」を了えたキャラクターが出現してくれます。視聴者も、ビフォア/アフターをそのキャラクターの人生ごと感じることができる。
 こうしてカルーセル麻紀が、おすぎとピーコが、マツコ・デラックスが重用されたのでした。一人のスーパーキャラが来てくれないときは、テレビディレクターたちはニューハーフやミスターレディをスタジオにどっさり集めます。
 しかし、こういうことをしてばかりではタレント起用や特番でおわります。飽きられることもある。マンネリにもなる。そこでまたまた案を練りなおし、性的変身プロセスを巧みに番組や番組の目印コーナーにしていったのが日本独特のメイクオーバー・メディアだったのですね。
 クレア・マリィは日本テレビで2006年から3年間放映された『おネエMANS』がその日本でのメイクオーバー・メディアの大半を仕掛けたことをとりあげました。そして、そこに「おネエ言葉」の汎用の仕立てがあったことを突き止めたようでした。

「おネエMANS」(日本テレビ、2006年10月7日-2009年3月10日)
正式なタイトルは『超未来型カリスマSHOW おネエ★MANS!』。

 永六輔や萩本欽一が少しおかまっぽい言葉づかいをしていたのは、本人たちの証言によるとけっこう意識的なことだったようです。そのほうが表現力がラクになり、言いたいことも言いやすいのだそうです。
 なるほど男が女言葉を使えば、少しかん高くもなれるし、ときに強く喋れるし、感情表現もオーバーになれます。尾木ママはそこを武器にしてタレント化していったのでしょう。けれども、これらは話芸です。
 トランスセクシャルな言語ストラテジーや言語イデオロギーというのは、そういう話芸や口調だけのものではありません。そこには「情緒的支配」(affective domination)がおこる。そのキャラ自体が「事後の身体」(after-body)の持ち主で、そのキャラを前にすると、それに接した多くの者が、“彼女”こそは曰く言いがたい「事前の身体」(before-body)を超えてきたと感じるはずなのです。だから、それに圧倒されるのです。メイクオーバー・メディアでは、これを何人もの組み合わせでおこしていくわけでした。

 というわけで、本書でクレア・マリィが強調したことは、ひとつにはジェンダーやセクシャリティをまたぐ表現力は、そもそも言語ストラテジーにかかわっているということです。また、もうひとつには、メディアにおける編集力が言語イデオロギーを視覚的につくりうるということでした。

永六輔は「オカマのことばはすばらしい」と題した談話を残しており、頻繁におネエ言葉を使っていた。

1994年に創刊されたゲイ雑誌『Badi』当初はマツコ・デラックス(右)も編集部に属していた。

おネエ言葉を使い、5分間で1億円を売りあげたこともある通販マンのべガス味岡。ごく最近、テレビ番組で自身のおネエキャラが嘘であることを暴露した。

 われわれはいま、ウルリヒ・ベックやタニア・ルーイスのいう「再帰的個人化」という大現象の中に突入させられています。
 21世紀の先進諸国では、個人が次々にリスクの境界に付き合わされて、自身のアイデンティティをいささか見失い、どこかの自己像に再帰しようとしている時代社会が進行しているのです。
 この現象を哲学的に語ろうとしたり、社会的に語ろうとすると、けっこうな難問になります。語りこむ気になると、ジグムント・バウマン(1237夜)やリチャード・ローティ(1350夜)や、あるいはジュルジュ・アガンベン(1324夜)並みの議論まで進みます。
 それよりも、そこにジェンダーやセクシャリティという根拠や様相を入れてみると、これまで見えにくかったことが見えてくることがある。そこに言葉づかいやメイクオーバー・カルチャーがかかわっていることにも、気が付かされる。ジャネット・シバモト・スミスはこのことを“opposite sex”(反対側の性)の活用だと見ています。

 LGBTという略語があります。レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーのイニシャルを集めたものですね。これにQ(クィア)、I(インターセックス)を含めて、LGBTQIということもある。かれらの言葉づかいには、それぞれ独特のものが装着されています。それは英語でもフランス語でもイタリア語でも、そして日本語でもあまり変わりません。
 ぼくは日本文化デザイン会議(1994)で、LGBTQIに性同一性障害者を加えて、きわめてめずらしいシンポジウムを開き、そのナビゲーターをしたことがありました。
 みんな日本人だったのですが、みなさんやはり独特の言葉づかいをしていた。でも、出席者たちは真剣そのもので、そこにパロディや揶揄がまじるということはありませんでした。

虹色の旗の元、世界各地でゲイによるパレードが開催されている。

2014年4月に東京都渋谷区で開催された「東京レインボープライド」差別撤廃をアピールしたLGBTのイベントで約1万4000が来場した。

 これらにくらべると、おネエ言葉はずっとくだけています。本気が感じられないとも見える。だからそれが気にいらないゲイたちも少なくありません。
 つまりはおネエ言葉は見方によっては「バラエティ」なのです。「番組的」なのです。だから、それが気に食わない向きもけっこういます。
 そういう諸姉諸兄は、ぼくが千夜千冊してきた植島啓司『男が女になる病気』(763夜)、ジャン・デ・カール『狂王ルートヴィヒ』(781夜)、ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』(40夜)、マヌエル・プイグ『蜘蛛女のキス』(270夜)、ポール・ラッセル『ゲイ文化の主役たち』(1137夜)などを読んでみてください。
 けれども、おネエたちからすると、バラエティになって何が悪いのよ、です。昔のゲイは無理してるんじゃないの、です。 

 ところで、おネエたちによるメイクオーバー・カルチャーには、ひとつ見落とせないことがあります。
 それは、“彼女”たちの言葉づかいによって、政治や社会的事件や教育問題の“本音”を言わせているふうに見せているということでした。コメントが妥当であるかどうかは棚に上げたままで、「なによ、それってバカじゃないの」「政治家なんてやめちゃえば」と言えば、それでそれなりのインパクトを視聴者に与えることができるのです。
 “彼女”たちは匿名なのではありません。ネットでの言いたい放題でもありません。あたかもお笑い芸人たちのすばやいコメントボールのようなのですが、それで十分にウケまくる。ただし、お笑い芸人と異なるのは、そのおネエたちはその言いっぷりそのものを、日々の言語イデオロギーとしているということです。そこに社会があるということです。
 いまや「おネエ言葉」は「どんだけ〜」といった流行語大賞の候補などではなくなってきました。そうだとすると、おネエ言葉は、かつての左翼用語、自由主義者の喋り方、おたくの言語に比較されるべきものでしょう。クレア・マリィの次のステージには、そういう研究も加わるかもしれません。
 とはいえ、ぼくにはそんな言葉づかいができるとは、とうてい思えません、ハイ。

⊕ 「おネエことば」論 ⊕

∃ 著者:クレア・マリィ 
∃ 発行者:清水 一人
∃ 発行所:青土社
∃ 印刷所:ディグ(本文) 
     方英社(カバー・扉・表紙)
∃ 製本所:小泉製本
∃ 装幀:ミルキィ・イソベ 
⊂ 2013年12月27日 第一刷発行

⊗ 目次情報 ⊗

∈ はじめに なぜ「おネエことば」なのか
∈∈ 第一章 「おネエことば」の変遷 
       −越境する「おネエことば」
∈∈ 第二章 「おネエキャラのことば」の誕生
       −主流メディアにおける表象
∈∈ 第三章  メイクオーバー・メディアを読み解く
∈∈ 第四章  テロップとして視覚化される「おネエキャラの
       ことば」−書かれること/書かれないこと
∈∈ 第五章  文章化された「おネエキャラのことば」
∈∈ 第六章 「おネエことば」の行方 −反復されることば
∈ おわりに  日常のことばから見えてくるもの

⊗ 著者略歴 ⊗

クレア・マリィ(Claire MAREE)
2002年、東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了(博士号取得)。東洋大学国際地域学部講師、津田塾大学准教授を経て、現在はメルボルン大学アジアインスティチュート(Asia Institute,University of Melbourne)。日本語とジェンダー及びセクシュアリティ研究(特に言語上のネゴシエーション研究)に取り組んでいる。著書に『発話者の言語ストラテジーとしてのネゴシエーション(切り抜ける・交渉・談判・掛け合い)行為』(ひつじ書房、2007年)、共著に『AsiaPacifiQueer:Rethinking Genders and Sexualities』(University of Illinois Press,2008年)『言語教育とアイデンティティ-ことばの教育実践とその可能性』(春風社、2011年)『Japan’s Household Registration System and Citizenship』(Routledge、近刊予定)など。

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