才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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女装と日本人

三橋順子

講談社現代新書 2008

ゲイ、おかま、ニューハーフ、性転換者。
MtF(男から女へ)とFtM(女から男へ)の奇妙な相違。
いったい「女装」とは何なのか。
歌舞伎の女形とタカラヅカの男装。
日本人はトランスジェンダーの民俗と芸能に、
どうやら深い嗜好をもってきたようだ。
そこには「双性原理」のようなものがはたらいている。
これまで禁断のヴェールに包まれていた女装世界を、
その歴史、その現代史、その風俗を通して、
ぼくのオトモダチの順子さんが、ついにこじあけた。

 できたてホヤホヤの本だ。10月初旬に贈られてきた。ホヤホヤなのは刊行日のことだけではなく、女装と日本の関係を扱ったこともホヤホヤで、女装センセーとしての三橋順子が著者として出版ギョーカイに登場したこともホヤホヤだ。いや、ホヤホヤというより「凛々しい初陣」といったほうがいいけれど、研究者としてはすでに存分のキャリアの持ち主である“彼女”が、このように一般読者の前にその思想と容姿をあらわしたのは、ホヤホヤなのだ。
 ホヤホヤはまだある。ぼくと著者との関係も実はホヤホヤだ。何がホヤホヤかというと、とても仲がいいということだけで、それ以上の想像をしてもらっては困るのだが、順子さんが女装を本格的な着物に徹するようになるころから(それまでは洋装が多かった)、なぜか急速に仲良くなった。引き合わせてくれたのは筑摩書房の藤本由香里で、この人はいまは大学のセンセーになっているのだが、実はたいへん妖しい背景の持ち主で、われわれ二人の仲人にふさわしかった。
 そのころ順子さんは大学の講師としてジェンダー歴史社会学を教えるかたわら、新宿の女装スナック「ジュネ」で助っ人ホステスをしていた。女装学者で、夜の水商売にも貢献しているなんて、こういう人はめったにいないから、女装仲間やニューハーフの仲間から、「誰かが私たちのことをちゃんと書いておいてほしい。それは順ちゃんしかいないわよ」と煽られた。誤解渦巻くトランスジェンダーの社会なのである。そこで順子さんは一念発起、それまでの研究に拍車をかけ、ネオン煌めく夜陰のお勤めをがまんして(かなりの腕前だったようだ)、ついにこの一書をものすることになったのだ。

女装スナック「ジュネ」でホステスをしていた頃の著者

 だから、いろいろな意味で本書はホヤホヤだ。しかし、ここに述べられた内容はホヤホヤではない。日本人が熟知しておくべきことばかりである。

 日本人の女装の歴史は、かなり古くからあった。なんといってもヤマトタケルの女装が有名だが、牛若丸だって弁天小僧だって、『八犬伝』の犬塚信乃や犬坂毛野だって女装した。

加佐登神社の奉納絵馬
女装姿でクマソタケルを討つヤマトタケル

 溝口健二の衣裳を担当していた甲斐庄楠音(かいのしょうただおと)も、独特の女装趣味をもっていた。もともとは日本画に妖美な衝撃を与えた画家だった(去年、日曜美術館で松井冬子さんと案内をした)。

新日曜美術館
「穢い絵だが生きている 大正画壇の鬼才・甲斐庄楠音」
甲斐庄楠音(写真上)の世界を
松井冬子さんと案内したセイゴオ

 だいたい歌舞伎の女形(おやま)が世界でもめずらしい。こんな女装演劇は京劇には多少があるものの、ほとんど演劇史にも見当たらない。それが今日まで続いている。亡くなった女形名人の歌右衛門は、日々の生活のうえでも“女”であった。最近ではテレビのトランスヴェスタイト(異装嗜好)は当たり前、街にもコスプレが溢れだしている。美輪明宏(530夜)というピカ一の特例もある。
 こういうわけだから、この日本の歴史にはきっと女装をめぐる何かの執着が一貫して隠されているはずなのだろうが、これまでそのような目で女装が研究対象になることは少なかった。そこへ順子さんが本書でその謎の解明に乗り出した。感心したのは、そのピックアップの仕方だ。
 まず、種子島の弥生後期の遺跡に女のシャーマンの人骨にまじって女性と同様の装身具をつけた男性の遺骨があったことをあげ、ここに「双性の巫人」のルーツがあることを証かした。沖縄民俗でいうなら「男ユタ」や「男ノロ」である。すでにこのころから女装シャーマンがいて、神聖な呪能を発揮していただろうという指摘だ。
 ついで、中世の「職人歌合」に描かれた「持者」(じしゃ)に着目し、この網格子に紅白の椿を散らした衣服をまとい、白い布で髪を包んでいる“カノジョ”が口元に髭をはやしているところから、これまた女装の呪能者であろうという結論をくだした。おそらく鎌倉八幡宮の「宮つこ」であるカノジョは、神人(じにん)か供御人(くごにん)か寄人(よりうど)で、網野善彦(87夜)ふうにいえば、楽(らく)や公界(くがい)の特権にかかわっていた職能者なのである。特権と差別とはトレードオフだった。

『鶴岡放生会職人歌合』に描かれた「持者」

 こうしたピックアップだけでも本書の出だしはすこぶる好調で、つづいて女装の稚児をとりあげるのだが、ここにはサード・ジェンダー(第三の性)があきらかに読みとれると考えた。

 ふつう稚児とは、「童」(わらわ)とよばれた者たち全般のことだと思われているのだが、実際には男児が15歳までに元服をして初冠(ういこうぶり)をし、女児なら着裳(ちゃくも)の儀をおこなうのに対して、15歳をすぎても元服しない者たちがいて、それが「童」だったのである。
 だから童は烏帽子(えぼし)をかぶらない。それだけでなく、「成長した男子」ではないとみなされた。つまり“彼等”はサード・ジェンダーなのである。
 この童たちには身分にも差別があって、上童・大童子・中童子と分かれ、このうちの上童が貴族や僧侶からの「稚児」として、格別の寵愛をうけた。このなかに女装稚児がいた。『春日権現験記絵』や『石山寺縁起』や『法然上人絵伝』をよく見ると、その姿や様子が克明に描かれている。髪が長くて桜襲(さくらかさね)や花菱などの小袿(こうちぎ)を着て、女の履物である「藺げげ」(いげげ)を履いた被衣(かずき)姿をしている。ふつうの童なら水干(すいかん)だ。これはあきらかに女装の童子なのである。

女の履物である「藺げげ」(いげげ)を履く稚児(右端)
『石山寺縁起』

 こうした絵巻に被差別者や特殊な装束を着ている者たちがいることを“発見”したのは黒田日出男さんであり、ぼくもそのことを『フラジャイル』(ちくま学芸文庫)などに書いたけれど、そこに女装者がいることまでは見抜けなかった。

 こうして順子さんは、次には醍醐寺本の『稚児草紙』にとりかかる。これまた、これまではホモセクシャルな少年偏愛のソーゼツ秘本だと思われていた代物で、ぼくも25年ほど前に足穂さん(879夜)に勧められて豪華復刻版をつらつら見たが、最初はそこに女装がからまっているとは見ていなかった。
 なにしろ「おかま」を掘っている絵ばっかりなのだ。しかし、本書にも示されているように、細川涼一・田中貴子(656夜)・松岡心平らの研究が進み、ここには独特のトランスジェンダーが志向されていることがあきらかになってきた。そこでは擬似的ヘテロセクシャルな光景もくりひろげられていた。

僧侶の腰に乗る女装した稚児
稚児愛はホモセクシャルではなく
ヘテロセクシャル(異性愛)に近い内実を持っていた

 また、儀式的な背景も関与した。「児灌頂」(ちごかんじょう)というものがあるのだが、これはもっぱら少年を稚児に変えるものだと解釈されてきた。そうではあるが、この儀式の本尊が観世音菩薩であって、観音が「変化」(へんげ)を主旨とした菩薩であることから、ここには観音と稚児とが双性的であるという観念が動いていたはずなのだ。このことは『児灌頂私記』や『稚児観音縁起』などの資料にもあきらかで、「この灌頂を受くる時、まさに汝、観世音菩薩なるべし」とされ、この儀式は結願(けちがん)の夜に、稚児の「法性花」、すなわちアナルが師僧のペニスを受け入れることで完了するようになっていた。
 こんなふうに書くと困った顔をする読者も少なくないだろうが、ここにはなんらかの「聖化」が関与しているということなのだ。

 というようなことを次々に書いて、順子さんはさらに白拍子(しらびょうし)のことから阿国歌舞伎へ、若衆歌舞伎へ、野郎歌舞伎の実態へと考証を進めていく。
 あいかわらず視点は冴えている。白拍子が女による“男ぶり”をする芸能ではなくて、稚児が女装をしたものを白拍子が継承したのだという見方をしているところ、歌舞伎はもともと女形がシテの芸能で、だからこそ「大夫」(太夫)を名乗れたのは女形だけだったのではないかというところなど、滝川政次郎の先駆的な見方があったとはいえ、そこにゆるぎない判断をおいたのはカッコいい。
 江戸時代、女色も男色もとびきりの文化であった。女色には遊郭が、男色には陰間茶屋が待っていた。女装をした男性のことを「陰間」(かげま)と言ったからである。鈴木春信の『艶色真似ゑもん』は、豆男が色道修行していくという物語仕立てになっているのだが、その修行には陰間とのアナル・セックスも入っている。

鈴木春信の最晩年の作『艶色真似ゑもん』
(1770)

 陰間は、陰間茶屋でセックスワークをする「色子」(いろこ)とよばれた少年がルーツだ。ザクロの皮から作った粉でお肌を磨き、肛門を広げたり緩めたりする練習をして、若衆姿で男性のお相手をする。この少年は前髪を垂らした若衆の恰好をした女装者なのだ。つまり“稚児もどき”なのである。そこに倒錯した色気が動く。明和期(1760年代)には、230人ほどの陰間がいたという。
 この数字は、ぼくも本書で初めて知ったけれど、かなり多いのだという。というのも、1950年代の女装男娼の数が100人前後で、90年代の東京のセックスワーク専門のニューハーフもほぼそのくらいだと見られているからだ。だったら、江戸は男色・少年愛の天国だということになる。その江戸で人気の陰間の多くが上方からの「下り子」だったというのは、きっと関西出身の子のほうが物腰が柔らかかったからだと、順子さんは指摘している。江戸の荒事、上方の和事に通じる話だ。

 陰間茶屋は天保の改革で廃止された。何かにつけ天保の改革から日本はおかしくなったのだが、それでも男色文化そのものが禁止されたわけではなかった。
 ところが明治になると、司法省によってはっきりと異性装禁止令や鶏姦律が発令されて、女装もアナル・セックスも法的に禁じられた。事は肉体そのもの、身体の規制にまで及んだのである。そこに、同性愛や異性装をタブー視するキリスト教的な背景をもつ精神医学が加わり、多くのトランスジェンダー行為が「変態」とみなされるようになっていった。
 これで、「おとこ女」や「おんな男」は社会のなかですっかり白眼視されるようになった。男色は日陰者扱いになった。この蔑視が昭和史から戦後にまでおよんだのである。そのあたりのこと、ぼくも美輪さんから詳しく聞いたことがある。

 敗戦後、ノガミ(上野)の駅の周辺に待ってましたとばかりに、数十人の女装男娼が出没した。カノジョらは自分たちを「おんながた」と自称し、仲間を「ごれん(御連)さん」と呼んだ。が、1948年の冬、大規模な狩込みがあって、街娼400人とともに、男娼50人が検挙された。角達也の『男娼の森』に詳しい。
 それでもカノジョたちは、娼婦20人に男娼1人といった割合で東京の各所に紛れるように立つ。上野・有楽町・新橋・新宿の駅の周辺が多かった。男娼は女を漁る男たちの欲望の目をうけると、巧みに女になりすましてレンコンをやってのけた。レンコンとは女装男娼のとっておきの秘技で、手にクリームを塗って筒形にして、背中から股間にあてがい、そこに男のペニスを誘導しながら射精させてしまうという詐交テクニックのことをいう。
 こうして1950年代、戦後の闇を破る鮮やかな花火のごとく、ゲイバーが出現する。銀座の「ブラスウィック」、新宿の「夜曲」「イプセン」「蘭屋」、新橋烏森口の「やなぎ」、湯島天神下の「湯島」などだ。「ブラスウィック」は三島由紀夫が『禁色』のゲイバー「ルドン」のモデルにしたところで、ここで若き丸山明宏(美輪明宏)が短髪、縞々のシャツ、マンボズボンという出で立ちでボーイをしていた。江戸川乱歩(599夜)なども通っていた。

女装のゲイボーイ(左)と男装のゲイボーイ(右)

 もっともこの時代は、いまだ同性愛者と女装者は不分離で、多くのゲイバーでは丸山明宏のようなボーイッシュな美少年が多く侍っていた。そうしたなか、お島ママの「やなぎ」が数少ない女装系として有名で、「やなぎ」が銀座にも出店すると、ここにいた青江忠一がのちに有名な「青江」のママになっていく。
 もうちょっとのちのことになるが、ぼくは父に連れられて「青江」に行ったことがあった。あまりにも目眩くものがあって、何をどうしていいかさっぱりわからなかった。しかも「おニイさん、大きくなったらここでお化粧しなさいな」と言われて、真っ赤になっていた。父はニコニコ笑うばかり。だいたいこの父は、一家を引き連れてストリップに行くような、家族に隠し立てがあるのが大嫌いな男だったのである。しかしストリップはともかく、女装ゲイバーは青少年セイゴオにほ刺激が強すぎた。

 1963年、パリのショークラブ「カルーゼル」の性転換・女装ダンサーたちの来日講演が話題をまいた。カノジョたちはブルーボーイと呼ばれ、日本のメディアにもブームをおこした。
 これで日本にも性転換手術をする者がショービジネス界に登場し、吉本一二三のように浅草ロック座で「性転換ヌードショー」で大当たりをとる者や、美貌の性転換ダンサーとして異彩を放った銀座ローズなどがあらわれた。この銀座ローズを追うようにして登場してきたのが、のちにタレントとして活躍するカルーセル麻紀である。カルーセル麻紀はモロッコの専門医ジョルジュ・ブローの執刀で性転換をするのだが、海外での手術のため「合法」とみなされた。美女で、知的で、ハスキーボイスがたまらなかった。

吉本一二三の『性転換ヌードショー』(1960)

 ゲイバーはこのあと、「非女装美少年系」と「女装ナルシス系」に分かれていったらしい。このとき非女装系が新宿2丁目に集中し、ゲイタウン化も始まったのだと、順子さんの説明にある。それに対して女装系ゲイバーは、新橋→銀座→赤坂→六本木→西麻布・青山というふうに、なぜか山手線内回り方式で、盛り場の花となっていったという。
 ぼくが早稲田や新宿をうろついていた60年代後半は、夜の10時をまわると、そこかしこにピン・ヒールを履いたコールガールが出現していたが、「ちょっとニイさん」と呼び止める女性の半分がゲイだった。一方、映画館では、変なおじさんか美形の兄貴に必ず声をかけられた。

 70年代については本書には詳しくないが、ぼくの印象ではゲイ感覚も女装感覚も、ディスコやクラブやコンサートにまで流れだしていて、そこにはドラァグクィーンのはしりなどもまじっていて、日本がアメリカ的ゲイカルチャーに席巻されていったというふうに見える。なんであれ、日本はいったん“海外”化してしまうのだ。
 それがふたたび「日本という方法」を取り戻すのは、80年代である。象徴的には桑田佳祐が「ニューハーフ」というキャッチコピーを作ってからだった。ニューハーフは1981年4月、大阪のベティ春山に授けられた称号だ。松原留美子も「噂のニューハーフ」として映画にまで引っ張りだされた。
 そこへ土田ヒロミの『青い花―東京人形』(世文社)という写真集が発売された。ぼくはぼくで、「ち組」と題した「遊」ホモ・エロス特別号を編集構成した。金色のカバーをつけた。ぼくの周囲に怪しくて妖しいパンクな連中が頻繁に出入りしていた時代だった。
 そういう状況に追い打ちをかけるように、「週刊女性」が83年からは「今週のニューハーフ」というコーナーを設けた。その筋がみんな見ていたらしい。さらに88年、「笑っていいとも」が「ミスターレディの輪」を始めると、今度はニューハーフとミスターレディがテレビのなかでまじっていった。これらは、カミングアウトとゲイ文学をひっさげていたアメリカン・ゲイカルチャーとはまったく異なる“日本流”だった。

 しかし、日本の女装文化はテレビがつくったのではない。実はその奥に二つの流れのパイオニアたちがいた。ひとつは1970年に西麻布に開店した「プティ・シャトー」のフロアショーの流れである。
 ニューハーフの女装フロアショーはまことにおもしろい。美しくてゲテで、ワイルドで滑稽で、派手であからさまなのに、どこかに羞恥の奥行きというものがある。ぼくは初期には「青江」で、後期には六本木の「金魚」でその“底抜け”を堪能するのだが、似たようなショーは赤坂の「ピープル」「ジョイ」、六本木の「ラキラキ」、新宿の「狸御殿」「ABECHAN」「黒鳥の湖」「アルカザール」、大阪の「エルドマン」「なるしす」「ベティのマヨネーズ」でも、人気を呼んでいた。

「プティー・シャトー」のフロアー・ショー(上)
「ペティのマヨネーズ」のショー(下)

 もうひとつは何か。それは、ニューハーフ・ショーが顕花植物だとすれば、隠花植物のごとくに、一人ひとりの男たちが自身のジェンダー感覚の変化に気がついて、こっそり女装を始めたアマチュアたちの流れのなかにある。
 1955年10月、女形研究を隠れ蓑にした「演劇研究会」なるものが滋賀雄二によって主宰され、ここが日本最初の女装愛好グループとなると、59年、これを母体に「富貴クラブ」(主宰・西塔哲)という女装秘密結社が誕生した。

会員の部屋に集う「富貴クラブ」のメンバー

 「富貴クラブ」は60年に創刊された「風俗奇譚」(高倉一編集長)と提携し、秘密厳守の会員制女装結社として順調に会員をふやしていった。入会のイニシエーションも「会員の部屋」に到達するまで、かなり厳密なものだったらしい。拠点も成子坂→番衆町→諏訪町→中野というふうに移動した。番衆町はぼくも住み、工作舎もいっとき事務所を構えていた町だ。
 この「富貴クラブ」の会員だった加茂こずえが、1967年2月に新宿花園五番街に「ふき」というバーを始めた。これが伝説の新宿女装コミュニティの原点となった。加茂は読売新聞のデスクをしながらも、アマチュア女装者が気楽に集えるコミュニティの必要性を感じて、乾坤一擲、女装バーを開いたのだという。『女装交遊録』(太陽文芸社)の著書もある。
 「ふき」はやがて「梢」と名を変えて、その後のアマチュア女装バーのパイオニアとなった。のちに順子さんがバイトをする「ジュネ」も、この系列だ。
 一方、1979年8月、女性下着会社のアント商事が、アマチュア女装者を顧客とする「エリザベス会館」を神田に開いた。そこへ行けばすべてが一式揃っていて、好きに女装ができるという便利なクラブである。80年にはアマチュア女装専門誌「くいーん」も創刊された。そこでは「全日本女装写真コンテスト」が誌上開催されていて、実はこの「競技女装」に順子さんは応募して、しだいに本格的な女装にめざめていったのである。

神田の「エリザベス会館」

 さて、その順子さんはそもそもどうして女装社会に入っていったのか、本書にはその経緯も詳しく述べられている。
 北関東の小都市で生まれ育った順子さんは、18歳のころ、男たちが「平凡パンチ」を見ながら女性の噂をしているとき、自分の女性に対する見方とはかなり違うものを感じたのがきっかけで、その後はしだいに「女性同化願望」が募っていったらしい。不安にかられて図書館で心理学書を読みあさるのだが、ユング(830夜)のアニマ説(男性にひそむ女性性)を納得しようとしても、なにか割り切れない。
 それでも順子さんは学生時代から親しくしていたガールフレンドと結婚し、フツーの男として暮らしていくことにした。だからそれから10年ほどは、かなり必死に自分の中の女性を抑え続けていくのだが、ところが「もう一人の自分」は決して黙ってはくれない。
 かくて1985年の30歳の秋、順子さんは通信販売でウィッグ、化粧品、下着セット、紺色のワンピースを購入すると、たった一度だけの女装をすることになる。ずっと心の中で育まれてきた女性人格が、初めて形をなした瞬間である。「順子」という名前がこのときに生まれ、順子さんは「やっと出てこられたわ」と呟いた。
 数日後、順子さんは買ったぎかりの女装用品すべてを廃棄した。まっとうな社会人としての日々を選ぶには、そうすべきだったのだ。けれども、その決心とはうらはらに、順子を殺すことは不可能だった。5年ほどのあいだ、数カ月に一度ほどのペースで、自宅や旅行先で孤独な女装を試みて、ひそかにポートレートを撮影するようになっていた。
 ここで出会ったのがアマチュア女装交流誌「くいーん」だったのである。村田高美という女装者との文通も始まった。カノジョは順子さんを「エリザベス会館」に誘い、それがトリガーとなって女装冒険も始まった。35歳の遅咲きにはたいへんなコンプレックスもあったようだが、三橋順子の女装写真は有名になり、賞をとる。

「エリザベス会館」に通い、女装に目覚めた頃の著者

 そこから先のことは、ぼくも何度か聞いてうすうす知っている。新宿ゴールデン街の「ジュネ」(中村薫ママ)にお手伝いホステスとして参加すると、1995年には新宿3丁目の「びびあん」(美杏さつきママ)を借りてフェイクレディ祭を開催したり、西アジア系の男たちのナンパを楽しんだり、歌舞伎町のニューハーパブ「ミスティ」(青山エルママ)を手伝ったりの、大忙しだ。
 それでも他方では、本書にあまり書いてはいないけれど、順子さんはれっきとした大学講師として学生たちを指導し、ジェンダー社会学の研究にも勤(いそ)しんでいた。

 そういう順子さんが、本書で最後に強調していることは、女装とホモセクシャルな関係は必ずしも重ならないということだ。
 トランスジェンダー(性別越境)では、つねに「パス」と「リード」が問題になる。パスは生得的な性別を隠して望みの性別を見せる生き方のことをいい、リードは生得的な性別が読み取られてもかまわない生き方のことをいう。パスとリードは実はさまざまに交差する。それがあまりに混乱すると「性同一性障害」がおこるのだが、しかし、日本文化にはもともと「見立て」の意識がよびさますものもたくさんあって、女装はこの「見立て」という文化の系譜に属するものでもあった。そこにはヤマトタケル以来の、絶えざるジェンダー記号の積み重ねがあったともいうべきなのだ。
 セクシャリティというものは、ヘテロセクシャル、ホモセクシャル、バイセクシャルの分類には収まらない。トランスジェンダーもまたセクシャリティなのである。順子さんはこうして、日本の女装史にはもともと「宗教性」「芸能性」「接客性」「性サービス性」「仲介性」という5つの機能があるはずで、それらがさまざまに組み合わさって、今日のジェンダー文化が確立しているのだと見た。
 順子さんのジェンダー論は、そもそも男でも女でもありうる「双性の原理」が根っこにあって、そこには神や巫女との類縁性があったのである。これって、まことに冴えている。いやいや、詳しいことは本書を読まれたほうがいいけれど、日本もやっとこういう一冊を新書にする時代がきたのだということを、今夜はまずは祝福したい。順子さんは、「あとがき」で、こう書いた。

 なぜ、男女どちらかの性別に「正常化」されなければいけないのでしょうか? なぜ「あいまいな性」「第三の性」のままで生きてはいけないのでしょうか? 自分の生き方、自分の「性」のあり様、自分にとっての心地よい身体は、自分で決める、私はそうあるべきだと思います。

著者の舞妓姿