才事記

ゼビウスと横須賀功光

ぼくの半生はさまざまな才能に驚いてきたトピックで、髪の生え際から足の親指まで埋まっている。小学校の吉見先生との一緒の遊びや南海ホークスの飯田のファースト守備に驚き、藤沢秀行の碁の打ち方や同志社大学の平尾ラグビーに驚き、電子ゲーム「ゼビウス」のつくりや井上陽水のシンガーソングぶりに驚き、亀田製菓の数々の「サラダあられ」や美山荘の中東吉次の摘草料理に驚き、横須賀功光が撮った写真やコム・デ・ギャルソンの白い男物シャツに驚いた。

ファミコンゲーム《ゼビウス》

いずれも予告なし。ある日突然に出会ってたまげたのだ。これらの代わりにマイルス・デイヴィスを聴いたときとかヴィトゲンシュタインを最初に読んだときとか、そういうものを挙げてもいいのだが、できればナマっぽく体験したことと向き合ったほうがいいので、こんな例にした。

まずは何に驚いたかということが大事なのだが、それにとどまってはいけない。そのときこちらを襲ってきた唐突な感動が、その日その場のシチュエーションや当日の体調や別の記憶との共属関係とともに新たに残響してくることが、もっと大事だ。

われわれは当然のことながら、幼児期には何にでも驚いてきた。子供になってからもアサガオの開花やセミの羽化に出会ったこと、土中の化石やホタルの点滅を初めて見たのは、忘れられない体験だ。ただし、これら植物や動物を相手にした感動はのちにも体験可能になる率が高いけれど、それにくらべて誰かがもたらしてくれるものは、その時その場にかぎられることが多い。

この誰かによる感動とどう付き合えるかということから、世の「才能」というものへの陥入がおこっていく。

感動や共感について心すべきことは、出会って驚いた瞬間の感動というか逆上といったものを、その後どのように保持できる状態にしておけるのか、またその感動をここぞというときに脳裏から自在にリコール(リマインド)できるようにしておけるのかということにある。

感動も共感も誰にだっていろいろの機会におこるものだけれど、それをどこかに転移しても(時と場所とメディアを移しても)、その鮮やかさをそこそこ賞味できるかということが、キモなのである。

たとえば、誰かの講演を聞いて、おおいに痺れたとする。内容にも共感したとする。では、この感動をどのように保持するかなのである。またどのように再生するかなのである。これがけっこう難しい。

驚きをもたらしてくれたものには、当然にそれをあらわした当事者の才能が光っている。横須賀のモノクロ写真や陽水の歌においてはあきらかに格別の「個の才能とスキル」が発揮されたのだし、「ゼビウス」や「サラダおかき」には開発チームの「集団的で統合的な才能」が結実したのである。しかし、その秘密に分け入るには、たくさんの分析や推理が必要だ。

たとえば第1に、その才能が開花するにあたっては、少年少女期や青春期に何をめざしていたのかということがある。栴檀は双葉より芳しと言うけれど、小さいころの能力の芽生えがそのまま開花することは少ない。なんらかの深堀りやエクササイズが生きたはずなのだ。横須賀や陽水はそこをどうしたのか、これは覗きにいく必要がある。

第2に、その才能開花に預かったメンターや技の協力者やチームはどういうものだったのかということがある。ゼビウスはどのようにチームを組んだのか。一人で独創をはたしたかに見える棟方志功だって、実はたくさんのメンターがいた。志功はそのメンターに強く影響されたいと思った。指導者や師や影響者の存在は、メンターの資質に選択肢があるというより、むしろその師に掛けたほうの強度がモノを言う。

のちのちそんな話もしたいと思うけれど、ぼくの場合はいったん選んだ影響者のことを、その後もまったく疑うことがなかった。

また第3に、その才能によってどのように同時代の競争を抜きん出たのか、そこにはどんな時代の水準がわだかまっていたのかということも才能分析の対象になる。セザンヌが人気があったときとカンディンスキーが「青騎士」として登場したときとウォーホルがシルクスクリーンで登場したときとでは、時代のアイコンも驚きの関数も違っていた。そのため、その時々の勝負手がちがってくる。こういうときは、自分で才能を懸崖に立たせる必要がある。イチかバチかに向かう必要がある。

横須賀功光《射》

横須賀功光が颯爽と出現したときは、日本の写真界はキラ星がひしめいていた。ファッション写真や広告写真で腕を磨いた横須賀は、ここで全裸の若者をモデルに『射』というモノクローム作品に挑んだ。若者が壁に向かって跳び移ろうとする肉体を、撮ってみせたのだ。ライティングも絶妙だった。誰も見たことがない写真だった。

第4に、才能開花のためのエクササイズやレッスンや機材はどういうものであったかということがある。棟方志功のように「板と刀」だけが武器だということもあるけれど、多くの場合、才能開花にはいくつもの道具や機材が関与する。レンブラントの版画には日本から取り寄せた和紙が、プレスリーのギターにはマイクやアンプの性能が、アンセル・アダムスのf/64のカメラにはレンズやプリントペーパーの質がかかわっていた。

顔料やコンピュータをどう使うか、録音機やプロジェクターをどうするか、釉薬や鉄材は何を入手するか。テクノロジーは才能の信頼すべき友人なのである。このことも才能にまつわっている。

ぼくは執筆には、いまだにシャープの「書院」を使っている。発売されていないだけでなく、いまや修理ができる工房もない。

第5に、なぜその当事者たちは「ゾーン」に入れたのかということだ。才能に自信がもてるには、どこかでゾーン体験がいる。ゾーンに入るとは、予想を超えるノリに入ったことをいう。俗にエンドルフィンやアドレナリンが溢れることだ。

しかしながら、為末大が言っていたけれど、あるときゾーンに入っていけたとしても、その継続は必ずしもおこらないし、その手前でそうなるとはほぼ気が付かないものなので、そこをどうするか。そのため、アスリートの多くはゾーンを思い描いたイメージ・トレーニングをしたり、ルーチンを確実なものにしていくということをする。

けれども意外なことだろうが、スポーツ以外ならいくらだってゾーン体験は引き寄せることが可能なのである。一番有効なのは誰かとコラボすることだ。スポーツは必ずチームや相手がいてスコアを争っているのだが、他の才能開花は一人で自分の才能の発揮に悩む。そういうときは、誰かとともにその才能を試すのがいい。編集能力の発揮なら、学習仲間とともにさまざまなことを試みたり、メディアを変えたりするといい。

たんに感動したといっても、そこにはざっと以上のようなことが準備されていたり、参集していたのである。これらを無視しては才能は発揮できないし、才能を云々することも叶わない。

しかし、ここまでの話は、ぼくがこのコラムであきらかにしたいことの範疇のうちのまだまだ一端にすぎないのである。どちらかというと、ここまでは才能議論の準備やアプローチに必要なことで、実は序の口の話なのだ。クロート向きとは言えない。
 才能に痺れたのちに重視してみたいのは、驚かされた相手の才能は当方(受容者)にどのように伝播されたのか。その後はどうなっていったのか、ここを抉るということだ。

ラグビーの平尾やシンガソングライターの陽水の才能は、ほおっておけばすぐに「スポーツの才能」とか「音楽の才能」というふうに一般化されてしまう。また他のプレイヤーとの比較分布にマッピングされていく。ジャンクフードや料理の個別の感動は、たちまち無数の「おいしさランク」にいいねボタンとして回収されて、平べったくなっていく。

ゼビウスはその後は無数の電子ゲームが乱舞していったので、おそらくいま遊んでみても当初の感動は色褪せているにちがいない。

愛用の”お古” シャープ《書院》

コム・デ・ギャルソンの黒い紐付きの白シャツはいまでも気にいってはいるけれど(イッセイのスタンドカラーの白シャツなどとともに)、それははっきりいって「お古」なのである。

が、大事なのはこの「お古」との付き合いのうちにも、あのときの感動とそれをもたらした才能とを交差させられるかどうかということなのだ。

そもそもプラトンも人麻呂もバッハもゴッホも複式夢幻能も、これらはすべて「お古」なのである。「お古」だからこそ、何度もプラトンを読みなおしたり能楽を見なおしたりするのだが、そしてそれで少しは自分が感動した才能の位置や重みに気がつくこともあるし、少しは「お古」を脱したと感じるのだけれど、これでは甘いままになる。それよりむしろもっと「お古」を相手に才能と向き合うべきなのである。「お古」をバカにしてはいけない。

これは思うに、感動は転移しつつあるあいだも(AからBに、BからCやDに)それなりの主張をしているはずなのだから、その転移のなかでの様変わりな変容も捉えておいたほうがいいだろうということだ。ぼくが何を一番鍛えてきたかといえば、おそらくはこの「お古」をいつも甦らせる状態で自分の編集力をリマインドしたりリコールできるかということだった。

感動や驚嘆には才能の楽譜やレシピが刻まれている。ぼくの編集力はそのことをヴィヴィッドな状態でホールディングしたり別の場所にキャリングする(移行させる)ことを、試行錯誤をくりかえしながらも何度も試みることで、そこそこ鍛えてきたように思う。ただし、そこにはいろいろの秘伝もある。そのあたりのこと、おいおい話してみたい。

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女装と日本人

三橋順子

講談社現代新書 2008

ゲイ、おかま、ニューハーフ、性転換者。
MtF(男から女へ)とFtM(女から男へ)の奇妙な相違。
いったい「女装」とは何なのか。
歌舞伎の女形とタカラヅカの男装。
日本人はトランスジェンダーの民俗と芸能に、
どうやら深い嗜好をもってきたようだ。
そこには「双性原理」のようなものがはたらいている。
これまで禁断のヴェールに包まれていた女装世界を、
その歴史、その現代史、その風俗を通して、
ぼくのオトモダチの順子さんが、ついにこじあけた。

 できたてホヤホヤの本だ。10月初旬に贈られてきた。ホヤホヤなのは刊行日のことだけではなく、女装と日本の関係を扱ったこともホヤホヤで、女装センセーとしての三橋順子が著者として出版ギョーカイに登場したこともホヤホヤだ。いや、ホヤホヤというより「凛々しい初陣」といったほうがいいけれど、研究者としてはすでに存分のキャリアの持ち主である“彼女”が、このように一般読者の前にその思想と容姿をあらわしたのは、ホヤホヤなのだ。
 ホヤホヤはまだある。ぼくと著者との関係も実はホヤホヤだ。何がホヤホヤかというと、とても仲がいいということだけで、それ以上の想像をしてもらっては困るのだが、順子さんが女装を本格的な着物に徹するようになるころから(それまでは洋装が多かった)、なぜか急速に仲良くなった。引き合わせてくれたのは筑摩書房のぼくの本を担当しつづけてくれた藤本由香里で、この人はいまは大学のセンセーになっているのだが、実はたいへん妖しい背景の持ち主で、われわれ二人の引き合わせにふさわしかった。
 そのころ順子さんは大学の講師としてジェンダー歴史社会学を教えるかたわら、新宿の女装スナック「ジュネ」で助っ人ホステスをしていた。女装学者で、夜の水商売にも貢献しているなんて、こういう人はめったにいないから、女装仲間やニューハーフの仲間から、「誰かが私たちのことをちゃんと書いておいてほしい。それは順ちゃんしかいないわよ」と煽られた。誤解渦巻くトランスジェンダーの社会なのである。そこで順子さんは一念発起、それまでの研究に拍車をかけ、ネオン煌めく夜陰のお勤めをがまんして(かなりの腕前だったようだ)、ついにこの一書をものすることになったのだ。

装スナック「ジュネ」でホステスをしていた頃の著者

 だから、いろいろな意味で本書はホヤホヤだ。しかし、ここに述べられた内容はホヤホヤではない。日本人が熟知しておくべきことばかりである。

 日本人の女装の歴史は、かなり古くからあった。なんといってもヤマトタケルの女装が有名だが、牛若丸だって弁天小僧だって、『八犬伝』の犬塚信乃や犬坂毛野だって女装した。

佐登神社の奉納絵馬
女装姿でクマソタケルを討つヤマトタケル

 溝口健二の衣裳を担当していた甲斐庄楠音(かいのしょうただおと)も、独特の女装趣味をもっていた。もともとは日本画に妖美な衝撃を与えた画家だった(去年、日曜美術館で松井冬子さんと案内をした)。

日曜美術館
「穢い絵だが生きている 大正画壇の鬼才・甲斐庄楠音」
甲斐庄楠音(写真上)の世界を
松井冬子さんと案内したセイゴオ

 だいたい歌舞伎の女形(おやま)が世界でもめずらしい。こんな女装演劇は京劇には多少があるものの、ほとんど演劇史にも見当たらない。それが今日まで続いている。亡くなった女形名人の歌右衛門は、日々の生活のうえでも“女”であった。最近ではテレビのトランスヴェスタイト(異装嗜好)は当たり前、街にもコスプレが溢れだしている。美輪明宏(530夜)というピカ一の特例もある。
 こういうわけだから、この日本の歴史にはきっと女装をめぐる何かの執着が一貫して隠されているはずなのだろうが、これまでそのような目で女装が研究対象になることは少なかった。そこへ順子さんが本書でその謎の解明に乗り出した。感心したのは、そのピックアップの仕方だ。
 まず、種子島の弥生後期の遺跡に女のシャーマンの人骨にまじって女性と同様の装身具をつけた男性の遺骨があったことをあげ、ここに「双世の巫人」のルーツがあることを証かした。沖縄民俗でいうなら「男ユタ」や「男ノロ」である。すでにこのころから女装シャーマンがいて、神聖な呪能を発揮していただろうという指摘だ。
 ついで、中世の「職人歌合」に描かれた「持者」(じしゃ)に着目し、この網格子に紅白の椿を散らした衣服をまとい、白い布で髪を包んでいる“カノジョ”が口元に髭をはやしているところから、これまた女装の呪能者であろうという結論をくだした。おそらく鎌倉八幡宮の「宮つこ」であるカノジョは、神人(じにん)か供御人(くごにん)か寄人(よりうど)で、網野善彦(87夜)ふうにいえば、楽(らく)や公界(くがい)の特権にかかわっていた職能者なのである。特権と差別とはトレードオフだった。

鶴岡放生会職人歌合』に描かれた「持者」

 こうしたピックアップだけでも本書の出だしはすこぶる好調で、つづいて女装の稚児をとりあげるのだが、ここにはサード・ジェンダー(第三の性)があきらかに読みとれると考えた。

 ふつう稚児とは、「童」(わらわ)とよばれた者たち全般のことだと思われているのだが、実際には男児が15歳までに元服をして初冠(ういこうぶり)をし、女児なら着裳(ちゃくも)の儀をおこなうのに対して、15歳をすぎても元服しない者たちがいて、それが「童」だったのである。
 だから童は烏帽子(えぼし)をかぶらない。それだけでなく、「成長した男子」ではないとみなされた。つまり“彼等”はサード・ジェンダーなのである。
 この童たちには身分にも差別があって、上童・中童子・大童子と分かれ、このうちの上童が貴族や僧侶からの「稚児」として、格別の寵愛をうけた。このなかに女装稚児がいた。『春日権現験記絵』や『石山寺縁起』や『法然上人絵伝』をよく見ると、その姿や様子が克明に描かれている。髪が長くて桜襲(さくらかさね)や花菱などの小袿(こうちぎ)を着て、女の履物である「藺げげ」(いげげ)を履いた被衣(かずき)姿をしている。ふつうの童なら水干(すいかん)だ。これはあきらかに女装の童子なのである。

の履物である「藺げげ」(いげげ)を履く稚児(右端)
『石山寺縁起』

 こうした絵巻に被差別者や特殊な装束を着ている者たちがいることを“発見”したのは黒田日出男さんであり、ぼくもそのことを『フラジャイル』(ちくま学芸文庫)などに書いたけれど、そこに女装者がいることまでは見抜けなかった。

 こうして順子さんは、次には醍醐寺本の『稚児草紙』にとりかかる。これまた、これまではホモセクシャルな少年偏愛のソーゼツ秘本だと思われていた代物で、ぼくも25年ほど前に足穂さん(879夜)に勧められて豪華復刻版をつらつら見たが、最初はそこに女装がからまっているとは見ていなかった。
 なにしろ「おかま」を掘っている絵ばっかりなのだ。しかし、本書にも示されているように、細川涼一・田中貴子(656夜)・松岡心平らの研究が進み、ここには独特のトランスジェンダーが志向されていることがあきらかになってきた。そこでは擬似的ヘテロセクシャルな光景もくりひろげられていた。

侶の腰に乗る女装した稚児
稚児愛はホモセクシャルではなく
ヘテロセクシャル(異性愛)に近い内実を持っていた

 また、儀式的な背景も関与した。「児灌頂」(ちごかんじょう)というものがあるのだが、これはもっぱら少年を稚児に変えるものだと解釈されてきた。そうではあるが、この儀式の本尊が観世音菩薩であって、観音が「変化」(へんげ)を主旨とした菩薩であることから、ここには観音と稚児とが双性的であるという観念が動いていたはずなのだ。このことは『児灌頂私記』や『稚児観音縁起』などの資料にもあきらかで、「この灌頂を受くる時、まさに汝、観世音菩薩なるべし」とされ、この儀式は結願(けちがん)の夜に、稚児の「法性花」、すなわちアナルが師僧のペニスを受け入れることで完了するようになっていた。
 こんなふうに書くと困った顔をする読者も少なくないだろうが、ここにはなんらかの「聖化」が関与しているということなのだ。

 というようなことを次々に書いて、順子さんはさらに白拍子(しらびょうし)のことから阿国歌舞伎へ、若衆歌舞伎へ、野郎歌舞伎の実態へと考証を進めていく。
 あいかわらず視点は冴えている。白拍子が女による“男ぶり”をする芸能ではなくて、稚児が女装をしたものを白拍子が継承したのだという見方をしているところ、歌舞伎はもともと女形がシテの芸能で、だからこそ「大夫」(太夫)を名乗れたのは女形だけだったのではないかというところなど、滝川政次郎の先駆的な見方があったとはいえ、そこにゆるぎない判断をおいたのはカッコいい。
 江戸時代、女色も男色もとびきりの文化であった。女色には遊郭が、男色には陰間茶屋が待っていた。女装をした男性のことを「陰間」(かげま)と言ったからである。ぼくも手元においている鈴木春信の『艶色真似ゑもん』は、豆男が色道修行していくという物語仕立てになっているのだが、その修行には陰間とのアナル・セックスも入っている。

木春信の最晩年の作『艶色真似ゑもん』
(1770)

 陰間は、陰間茶屋でセックスワークをする「色子」(いろこ)とよばれた少年をルーツとする。ザクロの皮から作ったが粉でお肌を磨き、校門を広げたり緩める練習をして、若衆姿で男性のお相手をする。ここがちょっと複雑なトランスジェンダーなところで、この少年は前髪を垂らした若衆の恰好をした女装者なのだ。つまり“稚児もどき”なのである。そこに倒錯した色気が動く。明和期(1760年代)には、230人ほどの陰間がいたという。
 この数字は、ぼくも本書で初めて知ったけれど、かなり多いのだという。というのも、1950年代の女装男娼の数が100人前後で、90年代の東京のセックスワーク専門のニューハーフもほぼそのくらいだと見られているからだ。だったら、江戸は男色・少年愛の天国だということになる。その江戸の多くの陰間が上方からの「下り子」だったというのは、きっと関西出身の子のほうが物腰が柔らかかったからだと、順子さんは指摘している。江戸の荒事、上方の和事に通じる話だ。

 陰間茶屋は天保の改革で廃止された。何につけ天保の改革から日本はおかしくなったのだが、それでも男色文化そのものが禁止されたわけではなかった。
 ところが明治になると、司法省によってはっきりと異性装禁止令や鶏姦律が発令されて、女装もアナル・セックスも法的に禁じるようになった。事は肉体そのもの、身体の規制にまで及んだのである。そこに、同性愛や異性装をタブー視するキリスト教的な背景をもつ精神医学が加わり、多くのトランスジェンダー行為が「変態」とみなされるようになっていった。
 これで、「おとこ女」や「おんな男」は社会のなかですっかり白眼視されるようになった。男色は日陰者扱いになった。この蔑視が昭和史から戦後にまでおよんだのである。そのあたりのこと、ぼくも美輪さんから詳しく聞いたことがある。

 敗戦後、ノガミ(上野)の駅の周辺に待ってましたとばかりに、数十人の女装男娼が出没した。カノジョらは自分たちを「おんながた」と自称し、仲間を「ごれん(御連)さん」と呼んだ。が、1949年の冬、大規模な狩込みがあって、街娼400人とともに、男娼50人が検挙された。角達也の『男娼の森』に詳しい。
 それでもカノジョたちは、娼婦10人に男娼1人といった割合で東京の各所に紛れるように立つ。上野・有楽町・新橋・新宿の駅の周辺が多かった。男娼は女を漁る男たちの欲望の目をうけると、巧みに女になりすましてレンコンをやってのけた。レンコンとは女装男娼のとっておきの秘技で、手にクリームを塗って筒形にして、背中から股間にあてがい、そこに男のペニスを誘導しながら射精させてしまうという詐交テクニックのことをいう。
 こうして1950年代、戦後の闇を破る鮮やかな花火のごとく、ゲイバーが出現する。銀座の「ブラスウィック」、新宿の「夜曲」「イプセン」「蘭屋」、新橋烏森の「やなぎ」、湯島天神下の「湯島」などだ。「ブラスウィック」は三島由紀夫が『禁色』のゲイバー「ルドン」のモデルにしたところで、ここで若き丸山明宏(美輪明宏)が短髪、縞々のシャツ、マンボズボンという出で立ちでボーイをしていた。江戸川乱歩(599夜)なども通っていた。

装のゲイボーイ(左)と男装のゲイボーイ(右)

 もっともこの時代は、いまだ同性愛者と女装者は不分離で、多くのゲイバーでは丸山明宏のようなボーイッシュな美少年が多く侍っていた。そうしたなか、お島ママの「やなぎ」が数少ない女装系として有名で、「やなぎ」が銀座にも出店すると、ここにいた青江忠一がのちに有名な「青江」のママになっていく。
 もうちょっとのちのことになるが、ぼくは父に連れられて「青江」に行ったことがあった。あまりにも目眩くものがあって、何をどうしていいかさっぱりわからなかった。しかも「おニイさん、大きくなったらここでお化粧しなさいな」と言われて、真っ赤になっていた。父はニコニコ笑うばかり。だいたいこの父は、一家を引き連れてストリップに行くような、社会に隠し立てがあるのが大嫌いな男だったのである。しかしストリップはともかく、女装ゲイバーは青少年セイゴオにほ刺激が強すぎた。

 1963年、パリのショークラブ「カルーゼル」の性転換・女装ダンサーたちの来日講演が話題をまいた。カノジョたちはブルーボーイと呼ばれ、日本のメディアにもブームをおこした。
 これで日本にも性転換手術をする者がショービジネス界に登場し、吉本一二三のように浅草ロック座で「性転換ヌードショー」で大当たりをとる者や、美貌の性転換ダンサーとして異彩を放った銀座ローズなどがあらわれた。この銀座ローズを追うようにして登場してきたのが、のちにタレントとして活躍するカルーセル麻紀である。カルーセル麻紀はモロッコの専門医ジョルジュ・ブローの執刀で性転換をするのだが、海外での手術のため「合法」とみなされた。美女で、知的で、ハスキーボイスがたまらなかった。

本一二三の『性転換ヌードショー』(1960)

 ゲイバーはこのあと、「非女装美少年系」と「女装ナルシス系」に分かれていったらしい。このとき非女装系が新宿2丁目に集中し、ゲイタウン化も始まったのだと、順子さんの説明にある。それに対して女装系ゲイバーは、新橋→銀座→赤坂→六本木→西麻布→青山というふうに、なぜか山手線内回り方式で、盛り場の花となっていったという。
 ぼくが早稲田や新宿をうろついていた60年代後半は、夜の10時をまわると、そこかしこにピン・ヒールを履いたコールガールが出現していたが、「ちょっとニイさん」と呼び止める女性の半分がゲイだった。一方、映画館では、ホモおじさんか美少年に必ず声をかけられた。

 70年代については本書には詳しくないが、ぼくの印象ではゲイ感覚も女装感覚も、ディスコやクラブやコンサートにまで流れだしていて、そこにはドラッグクィーンのはしりなどもまじっていて、日本がアメリカ的ゲイカルチャーに席巻されていったというふうに見える。なんであれ、日本はいったん“海外”化してしまうのだ。
 それがふたたび「日本という方法」を取り戻すのは、80年代である。象徴的には桑田佳祐が「ニューハーフ」というキャッチコピーを作ってからだった。ニューハーフは1981年4月、大阪のベティ春山に授けられた称号だ。松原留美子も「噂のニューハーフ」として映画にまで引っ張りだされた。
 そこへ土田ヒロミの『青い花―東京人形』(世文社)という写真集が発売された。ぼくはぼくで、「ち組」と題した「遊」ホモ・エロス特別号を編集構成した。金色のカバーをつけた。ぼくの周囲に怪しくて妖しいパンクな連中が頻繁に出入りしていた時代だった。
 そういう状況に追い打ちをかけるように、「週刊女性」が83年からは「今週のニューハーフ」というコーナーを設けた。その筋がみんな見ていたらしい。さらに88年、「笑っていいとも」が「ミスターレディの輪」を始めると、今度はニューハーフとミスターレディがテレビのなかでまじっていった。これらは、エイズとカミングアウトとゲイ文学をひっさげていた当時のアメリカン・ゲイカルチャーとはまったく異なる“日本流”だった。

 しかし、日本の女装文化はテレビがつくったのではない。実はその奥に二つの流れのパイオニアたちがいた。ひとつは1970年に西麻布に開店した「プティ・シャトー」のフロアショーの流れである。
 ニューハーフの女装フロアショーはまことにおもしろい。美しくてゲテで、ワイルドで滑稽で、派手であからさまなのに、どこかに羞恥の奥行きというものがある。ぼくは初期には「青江」で、後期には六本木の「金魚」でその“底抜け”を堪能するのだが、似たようなショーは赤坂の「ピープル」「ジョイ」、六本木の「ラキラキ」、新宿の「狸御殿」「アベチャン」「黒鳥」「アルカザール」、大阪の「エルドマン」「ナルシス」「ベティのマヨネーズ」でも、人気を呼んでいた。

プティー・シャトー」のフロアー・ショー(上)
「ペティのマヨネーズ」のショー(下)

 もうひとつは何か。それは、ニューハーフ・ショーが顕花植物だとすれば、隠花植物のごとくに、一人ひとりの男たちが自身のジェンダー感覚の変化に気がついて、こっそり女装を始めたアマチュアたちの流れのなかにある。
 1955年10月、女形研究を隠れ蓑にした「演劇研究会」なるものが滋賀雄二によって主宰され、ここが日本最初の女装愛好グループとなると、59年、これを母体に「富貴クラブ」(主宰・西塔哲)という女装秘密結社が誕生した。

員の部屋に集う「富貴クラブ」のメンバー

 「富貴クラブ」は60年に創刊された「風俗奇譚」(高倉一編集長)と提携し、秘密厳守の会員制女装結社として順調に会員をふやしていった。入会のイニシエーションも「会員の部屋」に到達するまで、かなり厳密なものだったらしい。拠点も成子坂→番衆町→諏訪町→中野というふうに移動した。番衆町はぼくも住み、工作舎もいっとき事務所を構えていた町だ。
 この「富貴クラブ」の会員だった加茂こずえが、1967年2月に新宿花園五番街に「ふき」というバーを始めた。これが伝説の新宿女装コミニュティの原点となった。加茂は読売新聞のデスクをしながらも、アマチュア女装者が気楽に集えるコミニュティの必要を感じて、乾坤一擲、女装バーを開いたのだという。『女装交遊録』(太陽文芸書房)の著書もある。
 「ふき」はやがて「梢」と名を変えて、その後のアマチュア女装バーのパイオニアとなった。のちに順子さんがバイトをする「ジュネ」も、この系列だ。
 一方、1979年8月、女性下着会社のアント商事が、アマチュア女装者を顧客とする「エリザベス会館」を神田に開いた。そこへ行けばすべてが一式揃っていて、好きに女装ができるという便利なクラブである。80年にはアマチュア女装専門誌「くいーん」も創刊された。そこでは「全日本女装写真コンスト」が誌上開催されていて、実はこの「競技女装」に順子さんは応募して、しだいに本格的な女装にめざめていったのである。

田の「エリザベス会館」

 さて、その順子さんはそもそもどうして女装社会に入っていったのか、本書にはその経緯も詳しく述べられている。
 北関東の小都市で生まれ育った順子さんは、18歳のころ、男たちが「平凡パンチ」を見ながら女性の噂をしているとき、自分の女性に対する見方とはかなり違うものを感じたのがきっかけで、その後はしだいに「女性同化願望」が募っていったらしい。不安にかられて図書館で心理学書を読みあさるのだが、ユング(830夜)のアニマ説(男性にひそむ女性性)を納得しようとしても、なにか割り切れない。
 それでも順子さんは学生時代から親しくしていたガールフレンドと結婚し、フツーの男として暮らしていくことにした。だからそれから10年ほどは、かなり必死に自分の中の女性を抑え続けていくのだが、ところが「もう一人の自分」は決して黙ってはくれない。
 かくて1985年の30歳の秋、順子さんは通信販売でウィッグ、化粧品、下着セット、紺色のワンピースを購入すると、たった一度だけの女装をすることになる。ずっと心の中で育まてきた女性人格が、初めて形をなした瞬間である。「順子」という名前がこのときに生まれ、順子さんは「やっと出てこられたわ」と呟いた。
 が、数日後、順子さんは買ったぎかりの女装用品すべてを廃棄した。まっとうな社会人としての日々を選ぶには、そうすべきだったのだ。けれども、その決心とはうらはらに、順子を殺すことは不可能になっている。5年ほどのあいだ、数カ月に一度ほどのペースで、自宅や旅行先で孤独な女装を試みて、ひそかにポートレートを撮影するようになっていく。
 ここで出会ったのがアマチュア女装専門誌「くいーん」だったのである。村田高美という女装者との文通も始まった。カノジョは順子さんを「エリザベス会館」に誘い、それがトリガーとなって女装冒険も始まった。35歳の遅咲きにはたいへんなコンプレックスもあったようだが、三橋順子の女装写真は有名になり、賞をとる。

エリザベス会館」に通い、女装に目覚めた頃の著者

 そこから先のことは、ぼくも何度か聞いてうすうす知っている。新宿ゴールデン街の「ジュネ」(中村薫ママ)にお手伝いホステスとして参加すると、1995年には新宿3丁目の「ひびあん」(美杏さつきママ)を借りて「フェイクレディ」祭を開催したり、西アジア系の男たちのナンパを楽しんだり、歌舞伎町のニューハーパブ「ミスティ」(青山エルママ)を手伝ったりの、大忙しだ。
 それでも他方では、本書にあまり書いてはいないけれど、順子さんはれっきとした大学講師として学生たちを指導し、ジェンダー社会学の研究にも勤(いそ)しんでいたのである。

 そういう順子さんが、本書で最後に強調していることは、女装とホモセクシャルな関係は必ずしも重ならないということだ。
 トランスジェンダー(性別越境)では、つねに「パス」と「リード」が問題になる。パスは生得的な性別を隠して望みの性別を見せる生き方のことをいい、リードは生得的な性別が読み取られてもかまわない生き方のことをいう。しかし、パスとリードは実はさまざまに交差する。それがあまりに混乱すると「性同一性障害」がおこるのだが、しかし、日本文化にはもともと「見立て」の意識がよびさますものもたくさんあって、女装はこの「見立て」という文化の系譜に属するものでもあったのである。そこにはヤマトタケル以来の、絶えざるジェンダー記号の積み重ねがあったともいうべきなのだ。
 セクシャリティというものは、ヘテロセクシャル、ホモセクシャル、バイセクシャルの分類には収まらない。トランスジェンダーもまたセクシャリティなのである。順子さんはこうして、日本の女装史にはもともと「宗教性」「芸能性」「接客性」「性サービス性」「仲介性」という5つの機能があるはずで、それらがさまざまに組み合わさって、今日のジェンダー文化がれ要りつしているのだと見た。
 ということは、順子さんのジェンダー論は、そもそも男でも女でもありうる「双性の原理」が根っこにあって、そこには神や巫女との類縁性があったのである。これって、まことに冴えている。いやいや、詳しいことは本書を読まれたほうがいいけれど、日本もやっとこういう一冊を新書にする時代がきたのだということを、今夜はまずは祝福したい。順子さんは、「あとがき」で、こう書いた。大賛成だ。

 なぜ、男女どちらかの性別に「正常化」されなければいけないのでしょうか? なぜ「あいまいな性」「第三の性」のままで生きてはいけないのでしょうか? 自分の生き方、自分の「性」のあり様、自分にとっての心地よい身体は、自分で決める、私はそうあるべきだと思います。

者の舞妓姿