才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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幻化

梅崎春生

新潮社 1965

佐世保の暗号特技兵だった。
坊津から特攻隊が発進していた。
阿蘇の火口で自殺の賭をした。

 京都大学で図書街などの仕事をして、土佐尚子が予約しておいてくれた円山公園のなかの「未在」で茶懐石を食べた。京都ロイヤルに泊まって、今朝は7時に起きて、TBSの「筑紫哲也ニュース23」のための撮影を京都の書店でした。「千夜千冊」全集刊行を取材してくれたのである。古賀淳也君というディレクターだ。11月3日の文化の日の深夜に放映されるらしい。
 古賀君に京都駅まで送られ、そのまま10時34分発の新幹線「のぞみ」に乗ろうと改札口を入ったら、妙に人が乱雑に溢れている。静岡近辺で人身事故があって列車が大幅に遅れているのだという。階段を上がってみると、ホームは黒ずくめの修学旅行生が交ざった小さな林が待っていて、鬱陶しい。片方に満員の新幹線が止まったまま動いていない。すべての座席に乗客が座っている車輌がじっとしたままになっている光景は、動かない芋虫のように気味悪い。
 アナウンスが、ダイヤは2時間遅れになっていて、まだ復旧のメドがついていないと言っている。しかたなく下に降りて、黒山のコーヒーショップの片隅に割りこんで煙草をすった。そこにいる大半の連中がケータイで大声を出している。抜け出して、いまどきサンドイッチとカレーとミートスパゲッティしか扱っていない店があったので、ようやく一息ついた。
 眠いし、疲れが出ている。鞄にほうりこんでおいた谷川健一の『うたと日本人』の続きを読みはじめた。

 11時半になって、のろのろホームに戻ってみると、やっと芋虫列車が動き出していた。今度は白磁の長虫に見える。ただ、5本に1本ほど間引きされている。ぼくが乗る予定の「のぞみ」は運休していた。
 何もする気がなくなって、満員の何本かを見送っていたら、やっと空席のある「ひかり」が嘘のように入って来たので、乗った。グリーンにした。古代語と琉球語がわんさと詰まっている谷川健一の後半をまた読んでみたが、すぐ終わった。列車は何度止まれば気がすむのだろうというくらいに、のろのろ運転をしている。午後2時をこえた。
 なんとなく今朝の撮影を思い出していた。古賀君はテレビで書物を扱うことの困難を感じながら、インタビューに苦労していた。ふと、「千夜千冊」に入れなかった本たちが次々に浮かんできた。そのうち、ヘミングウェイと梅崎春生とデュマの『モンテ・クリスト伯』を書かなくちゃと思った。
 そのうちうとうと眠りこんだ。けれども何度も「ひかり」は停まっているようだ。そのつど停車した車体が斜めになっているらしく、体が重心を傾かせているのが妙だった。半睡状態のまま、そうだ、帰ったら梅崎春生を書こうと決めた。

 戦後文学――。あるいは戦後派――。このジャンル名だか風潮だか流儀だか傾向だかは、いまではすっかり色褪せて、文学史の議論の俎上にもめったに上らなくなっている。とくに若い読者にはなんらのメッセージも送れなくなっている。しかし、ここには安易に扱えない“ごっつい問題”が蟠ったままにある。いわば「昭和の人身事故」とは何だったのかという問題だ。
 太平洋戦争と日中戦争の終結と敗戦は、戦後の日本人にただならない秩序の崩壊感覚と価値感覚の転換をもたらした。日本文学がそれまでの文芸と訣別して、まったく新たな決断を示さざるをえなくなったのは当然だった。
 まっさきに狼煙をあげたのは昭和21年1月創刊の「近代文学」である。本多秋五・平野謙・荒正人・小田切秀雄・埴谷雄高(932夜)・山室静・佐々木基一の7人が同人になった。
 文学界だけではない。すべての文化の場面で新たな決断が表明され、その第一歩がしるされた。その概要の一部は第766夜(第6巻)にかいつまんでおいたけれど、たとえば5月には鶴見俊輔が渡辺慧や丸山真男らと「思想の科学」をおこし、7月には遠藤驎一朗やいいだももや小川徹が「世代」を創刊した。野間宏や花田清輝(472夜)や関根弘の「綜合文化」は少し遅れて真善美社が刊行した。
 いずれも焼跡に立ち上がった廉価の雑誌たちである。廉価であったことなど、問題にもならない。清新だ。言葉が躍如している。行動をおこす者たちも少なくなかった。映画界だって、大河内伝次郎・長谷川一夫・原節子・入江たか子らが「十人の旗の会」を結成して、かの東宝争議にかかわった。一斉に戦後の知性の鶴嘴がふるわれたのである。
 これらのなかから、戦後文学や戦後派(第一次戦後派)が次々に誕生していった。敗戦直後の昭和21年なら、野間宏『暗い絵』、梅崎春生『桜島』、中村真一郎(1129夜)『死の影の下に』など、翌22年なら椎名麟三『深夜の酒宴』、武田泰淳(71夜)『蝮のすゑ』、評論なら花田清輝『復興期の精神』、加藤周一・福永武彦らの『1946文学的考察』などである。しかし、これらは言葉が躍如しているとはかぎらない。梅崎がそうなのだが、むしろ沈潜したがっているものもあった。

 戦後派の特徴は一括りにはしにくい。似ているようで似ていない。椎名麟三と中村真一郎は同日には語れないし、野間宏と武田泰淳では思想も方法もかなり異なっている。これらに加えて、大岡昇平(960夜)の『俘虜記』、安部公房(534夜)の『壁―S・カルマ氏の犯罪』、三島由紀夫(1022夜)の『仮面の告白』なども殴りこんできた。
 だから戦後文学なんて文学史上の剥がれそうになっている古びたワッペンにすぎないのだが、そのなかでも梅崎春生は特異な存在であった。まるで、戦後なんて来てほしくなかったと言わんばかりなのだ。
 梅崎は、学生のころから寝るときには額に乾いたタオルをおかないと眠れないという人物である。天井から細い針のような浮遊物が落下してくるという妄想を拭えなかった。大学時代は幻聴に悩まされて、下宿の婆さんを椅子で殴りつけるというような、ラスコーリニコフばりの小さな行動に走って留置場に入っていた。
 中年になってからも、のべつノイローゼに罹っていた。深酒による迷走も少なくない。いや、そんな妄想の持ち主だから特異だというのではない。その人生、その小説に、奇妙な特異性がある。

 梅崎の生まれは福岡である。両親は佐賀の出身で、父親は陸軍士官学校を出た歩兵少佐だった。梅崎が大正4年に生まれたときは福岡24連隊にいた。
 父親は書や謡曲の好きな文人気質だったので、梅崎にも放任主義を通したが、母親はそのぶん厳格一徹で、男ばかり6人の子に対しては容赦しなかった(長兄と末弟には17歳の歳のひらきがあった)。なかで弟の忠生は蒙古の戦場にいるときに睡眠薬自殺をとげた。そのことは『狂ひ凧』のなかに如実に描かれている。
 昭和2年に修猷館中学に入った。高校なんて進学するつもりもなかったのだが、母方の伯父が学資を出すからというので、むりやり受験勉強をして五高に入った。文科甲類、昭和7年のこと。同級生には島袋霜多や西郷信綱(1154夜)がいた。勉強するつもりなどさらさらなかったので、同人誌に詩を書いたり、読書三昧をしているうちに落第、木下順二と同級になった。
 それでも昭和11年には東京帝国大学の国文科に入れた。ぼくと似てすぐに新聞部に入りたかったようだが、不採用だった。やむなく同人誌「寄港地」をおこして習作を発表していたところ、「文芸」の同人誌批評で「ピラピラした疑似ロマンティシズムを捨てよ」と酷評された。
 酒を呑み、東京を歩きまわった。やがて幻聴が聞こえるようになって、下宿の婆さんを椅子で殴りつけ、留置場にぶちこまれた。

昭和11年東大入学時の写真
(左から梅崎春生、兄の光生、弟の忠生)

 昭和13年、父親が58歳で脳溢血と敗血症で死んだ。兄の光生に召集令状が届いた。梅崎はおぼつかなく焦った。空虚な日常生活があまりに情けなかった。そこで書き上げたのが『風宴』である。
 この小説は梅崎がその後にかかえたテーマを背負っていた。「俗物や落伍者から何が見えるのか」というテーマだ。ドン亀(どん尻)に立つ文学だといっていい。しかし、誰のところにもちこんでも評判はよくない。やっと「早稲田文学」の浅見淵(ふかし)が好意を示したものの、「これは梶井基次郎(485夜)だよ」と言った。
 それでいいじゃないかと梅崎は思って、あえて同病の梶井や浅見とつるむことにした。日中戦争が始まっていた。

 昭和16年12月5日、陸軍から召集を受けた。3日後、日本軍が真珠湾を空から爆撃した。梅崎はドン亀としてついに行動をおこすときがきたと感じて、翌1月、対馬重砲隊に営門をくぐった。ところが、世の中はそういうときにかぎって裏切ってくるもの、気管支カタルだと誤診されて即日帰郷させられてしまった。このとき入営した新兵に『神聖喜劇』の大西巨人がいた。
 またまた何も行動をおこせなくなった梅崎は、春まで福岡の津屋崎病院にいて、あとは自宅療養をしていた。そこへ弟が蒙古で戦病死したという知らせが届いた(実は自殺で、さっきも書いたが、これがのちのちの『狂ひ凧』になった)。梅崎はあてもなく東京に出て、東京市の教育局や東芝の工場に行ったりしているうちに、昭和19年を迎えた。ぼくが生まれた年である。
 そこへ今度は、海軍から召集令状がきた。たちまち佐世保の海兵団に所属することになった。29歳になっていた。すぐに暗号術の講習を受けさせられて、暗号特技兵になった。けれどもこんな程度の兵務でも俗物の梅崎にはこたえた。そこで、下士官候補の速修を受けて通信科二等兵曹となり、ずるがしこく管理職につくことにした。
 昭和20年5月、梅崎は南九州の谷山通信基地に赴任した。そして通信分隊の責任者として、鹿児島県の坊津(ぼうのつ=坊ノ津)に入った。坊津には意外な事態と緊張と絶望が待っていた。さあ、ここからが『桜島』や『幻化』の物語と重なっていく。それが奇妙な人身事故なのだ。

坊津の海

 梅崎は自分の任務が何か、ほとんど理解していなかった。行き先に何があるかも知っていなかった。着任してみると、ところが坊津には「震洋」特別攻撃隊の発進基地があったのだ。
 当時すでに艦隊の主力の大半を失っていた海軍軍令部は、アメリカ軍の本土侵攻に備えて、上陸予想地点での魚雷艇部隊の緊急配備に必死になっていた。軍令部のシナリオは、アメリカ軍は数百隻の輸送船団で大規模な上陸作戦を敢行してくるだろうというものだった。これを迎え撃つには、残る手段は二つしかない。
 ひとつは神風特攻隊が空から体当たりしていくこと、もうひとつは乗員1人か2人のモーターボートで海から突っ込んでいくことである。この海の特攻兵器として考案されたのが「震洋」だった(他に人間魚雷「回天」が別の基地で用意されていた)。
 「震洋」はトヨタのトラック・エンジンを搭載した小型船艇で、ベニヤ板でまわりを固め、艇首に250キロの黒色火薬をつめこんだというだけの自爆兵器である。ちょっとした波にあっというまに横転するような代物だったが、敗戦時まで6000隻が急造された。その「震洋」の本土上陸最重要反攻拠点のひとつが、坊津にあったのである。
 梅崎は坊津で異様な日々を体験したあと、谷山基地に戻ったのち、桜島の通信隊に転属していった。桜島には洞窟陣地が待っていた。タリバンが隠れるような網の目状に全長2000メートルにおよんでいる洞窟である。

爆薬250キロを積んだ「震洋」

 坊津や桜島で梅崎の身に何がおこったのか。こんなところに着任したのだから、本来なら『桜島』や『幻化』にはその一部始終までではないとしても、その一部の痕跡が描かれていると予想したいところだ。
 しかしながら梅崎は、坊津の特攻部隊のいっさいと桜島の洞窟陣地の大半を、作品から“消去”してしまったのである。なぜ“消去”したのか。そこが梅崎春生なのである。そう説明するしかない。『幻化』の前身になっている『桜島』とともに、そのあたりのことについて、少々の感想を綴ってみたい。

 その前に一言。
 講談社文芸文庫に『風宴・桜島・日の果て・幻化』の4作が収録されている。その解説に古林尚が興味深いことをいくつも書いている。そこに、「坊ノ津で梅崎春生を見舞ったであろう残酷な私的制裁については、想像するだに慄然たるものがある」というくだりがある。
 それを読んでギョッとした。古林は、なぜ『桜島』『幻化』から震洋特攻隊の存在が“消去”されたのか、その経緯と理由とを見抜いているのだ。梅崎が古林に語ったのではない。梅崎は何も説明しなかった。古林は戦後、何度も梅崎にその点を問いただしたそうだが、梅崎は頑なに口をつぐみつづけたらしい。
 しかし古林にはすべてが見えたようだ。あまりにも屈辱的なことがおこったにちがいない。そうであるからこそ、梅崎はは作品のなかで復讐をしてみせたのだ。
 ぼくは、そうか!と膝を打った。それが梅崎だったのだ。だから、次のような作品に仕立てたのだ。

 まず『桜島』のほうを説明しておくが、この作品は「七月初、坊津にいた」という書き出しになっている。敗戦の日に向かっていく日々を描いているのだが、その直前の「私」(主人公・村上兵曹)の任務は暗号兵としてしか紹介されない。暗号兵として何を体験したかということは、ほとんど語られない。
 「私」が来たのは坊津なのだから、ここから「震洋」の特攻隊が次々に出陣していくはずなのだが、そのこともおおまかなことしか見えないようになっている。そのかわり、ここに出てくるのは3人の生死を分かつ者なのだ。
 一人は右の耳のない娼婦である。桜島に転属する途中、梅崎はその耳のない娼婦と一夜をともにする。そして「ねえ、どうやって死ぬの。教えてよ」と言われる。「私」はおっつけアメリカ軍が上陸してきて死ぬだろうということを知っていた。
 一人は見張台の男である。この男は自分のそばに転がる死体として描かれる。その男の生きた姿など、最初から看過されている。そしてもう一人が吉良兵曹長で、本土決戦で弱腰になっていく連中を軍刀で片っ端から叩き切ることを自身の宿命としている。この3人の生死がぶっきらぼうに綴られているだけなのである。
 桜島のすべての人間が死を覚悟していたことはあきらかだ。なにしろ海中に向かう特攻隊基地なのだ。しかしながら「私」は、その日がどのように来るのか、恐怖と焦燥と名状しがたい緊張のなかにいるだけになっている。そこへ、広島が爆撃されたというニュースが入ってきた。もはや猶予は一刻も残されてはいない。「私」は何も考えられなくなっていた。ただぽつねんと「死ぬときは、美しく死にたい」と思うだけだった。

 ある日の昼、玉音放送が流れた。さっぱり内容が聞きとれない。おそらく敵軍の来襲があって、天皇が本土決戦を国民に促しているのだろうと思われた。
 遺書を書こうとしてみた。何も書くことがなかった。暗号書を燃やした。燃えがらには昨日とった“つくつく法師”の死骸もまじっていた。靡く煙の向こうに桜島岳が巨人のように聳えていた。
 兵曹長は目を爛々と光らせ、敵と体当たりして死ぬ覚悟だと言った。その直後、兵卒が駆けこんできて敬礼すると、「昼のラジオは終戦の御詔勅であります!」と叫んだ。「異常な戦慄が、頭の上から手足の先まで奔った。私は卓を支える右手が、ぶるぶるとふるえ出すのを感じた」。
 兵曹長は表情を失っていた。けれどもしばし凝然と壁を見つめていた。そして崩れるように腰を下ろすと、涙を溢れさせていた。「私」と兵曹長は防空壕を出た。
 「道は色褪せた黄昏(たそがれ)を貫いていた」。兵曹長が先を歩いた。崖の上に落日に染められた桜島岳があった。遅れまいと歩いた。そのとき、「突然、瞼を焼くような熱い涙が、私の眼から流れ出た」。それが止まらない。「風景が涙の中で、歪みながら分裂した」。

 こういう小説だ。昭和20年9月の執筆だったという。発表は翌年である。
 夢中で読んだ者の多くが「審判者の不在」という虚を突かれたと、やはり戦後派の一人の小島信夫は書いた。ぼくは、ずっとのちになって武田泰淳に勧められて読んだのだが、まるで風呂桶の中におこっている戦争の風景を、その風呂桶の湯に自分が入ったまま浮き身をやつして体験しているような、そんな気分になった。これは何だ?と思った。何も体験は深まらない。体験が風景なのである。
 こうして昭和40年がきた。日本列島は高度成長の頂点がつくる傘に沸いていた。浮いていた。梅崎は6月に「新潮」に『幻化』の前半部を世に問い、そして7月に肝硬変で急死した。50歳だった。
 『幻化』後半部の載った「新潮」を読んで、文壇が騒然となった。舞台は坊津であるが、いっさいの戦争の傷跡が“消去”されていたのだ。しかし、これこそが梅崎春生の戦後文学の完結点だったのである。

 『幻化』の主人公は五郎という。45歳。精神病院から抜け出したばかり。
 「そうだ、あそこへ行こう」と思って、着のみ着のままで羽田発鹿児島行の飛行機に乗っている。40人ほどの乗客は高松で半分くらいが降り、大分をすぎると5人しか残っていない。そのうちの一人が隣の席に坐っている。
 丹尾という映画関係の仕事をしている男だった。二人のリアリティのない会話が続くなか、二人は枕崎に車で向かった。何かがこの男と五郎をつないでいる。
 そこで五郎は坊津に向かった。漠然と向かっているだけだ。20年前には坊津から枕崎に向かったのだが、いまは逆を歩いている。紙コップの酒を呑みながら、この風景の細部を自分がすっかり忘れていたことに気がついた。暗号特技兵としての日々も実感のないもので、いまもここを歩いていて眼に入るのは道端の花ばかりである。五郎は宿屋をとった。
 こんな話がだらだら続く。何もおこらない。五郎は坊津を出て近くの町を動き、ふと丹尾が「阿蘇へ行く」と言っていたのを思い出して、熊本に向かうことにした。途中、娼婦や女の按摩と出会い、そのうちの一人の女と鹿児島駅で待ち合わせをしてみたが、予定の準急が来ても女は来なかった。

 こうして五郎は阿蘇に行ってみることにした。一面何もない草千里でバスが停まった。そこで丹尾を見つけた。
 丹尾は「あんた、まだ生きていたのですか」と言った。君は死ななかったのかと言いたかったが、よした。丹尾は「なぜ、あなたは枕崎くんだりまでやってきたんです?」と、やっと聞きたかった質問をしてきたが、五郎は答えなかった。
 二人は火口が見える小高いほうに歩いた。そこで丹尾が妙なことを言い出した。これから火口を一周してくるが、その途中に火口に飛びこむかどうかを二人で賭けようというのだ。
 五郎はめんくらったが、気がついたら、どんなふうに賭けをするか相談していた。丹尾が歩きだした。そのうち丹尾が火口に向かって進んでいくのが見えた。のろのろと望遠鏡に10円玉を入れて覗いてみた。丹尾は火口の縁(ふち)で止まっていた。それを見ているうちに、五郎は丹尾を見ているのか、自分を見ているのかわからなくなっていた――。

噴煙を上げる阿蘇の火口

 筋書きはない。あえていえばこんな調子である。結末もない。20年前に坊津でおこったことは何も書いてはいない。
 しかし梅崎春生は、その体験だけを風景として残した。それが梅崎の人身事故だったのだ。そして1カ月後に死んだ。それが戦後文学の唯一の証しだったのだ。『幻化』は毎日出版文化賞を受けたが、そのとき梅崎はこの世にいなかった。
 ぼくの感想を言っておこう。今夜は、こう言いたい。梅崎は日本が未熟のままに成長することが堪えられなかったのである、と。すべてが中途半端なんだから、そのドン亀の列車に乗って、そのまま消えていこうと思ったのだ。
 何も決断があるわけではない。何かの思想をあらわしたかったわけでもない。そんな動機のすべては「震洋」とともに沈んでしまっていたのである。まったく梅崎春生をこんなふうに書くなんて、ぼくはよっぽど新幹線でぐったりしていたのだろう。昭和の人身事故で、いまも日本のダイヤは遅れたままになっている。

坊津の梅崎春生文学碑
附記¶長々と退屈な書き方をしてしまったが、まあ勘弁願いたい。わざとそうしてみたのだ。梅崎春生については、『梅崎春生全集』全7巻(新潮社)と『梅崎春生作品集』全7巻(沖積舎)ですべてが読める。文庫では、『桜島』『幻化』(新潮文庫)、『日の果て・ルメタの市民兵』『ボロ家の青春』(角川文庫)、『桜島・日の果て・幻化』(講談社文芸文庫)。評伝などには、中井正義『梅崎春生論』(虎見書房)、和田勉『梅崎春生の文学』(桜楓社)、広瀬勝世『人生幻化に似たり』(成瀬書房)、夫人の梅崎恵津さんらによる『幻化の人』(東邦出版)などがある。そういうものを読んでもらうほうが、ぼくの案内より役に立つだろう。
 ちなみに戒名(法号)は武田泰淳がつけた。「春秋院幻化転生愛恵居士」という。死んでまで「幻化」を背負うとはさぞかし、だ。武田泰淳にして「幻化転生」とは、いささかつまらない。