丸山真男
忠誠と反逆
筑摩書房 1992
ISBN:4480083987

 丸山真男嫌いだった。
 最初に『現代政治の思想と行動』を高田馬場の古本屋で買って読んだ。次に岩波新書の『日本の思想』を武田泰淳に貰って読み、さらに『日本政治思想史研究』を読んだ。
 きっと何も掴めていなかったのだろう。どうにもピンとこなかった。なにぶん学生時代のことで、しかも急進的なマルクス主義の本を何十冊も読んでいた最中だったし、それをいっぱしに実践していると自負していたもんだから、丸山真男の装飾文様のようなマルクス主義や、とってつけたような左翼リベラリズムがまったく共感を呼ばなかったのだろう。
 そこへもってきて吉本隆明が当時書きおろしたナショナリズム論において丸山をこっぴどく批判した。
 こんなことが手伝って、丸山アレルギーが出た。ほんとうは丸山のレベルに手も目も届かなかったのだが、そうは謙虚に思えなかった。つまり役にもたたない読書をしていたわけだ。

 それがいつしか少しずつぐらついてきた。
 これは勘であって、実体験ではない。自分(松岡正剛)が丸山真男という果実を省いてきたこと(排除してきたこと)、そのことがいささか気になってきたというのが正直なところで、こういう勘はときどき動くものである。ミシェル・フーコーが雑談のなかで「そういえば丸山真男という人はものすごい人だった」という感想を洩らしたのもひとつのきっかけだったが(フーコーは来日した折に丸山を訪ねていた)、ぼくが少しずつ日本の近代を考えるようになったことが大きかったのであろう。
 こうして、丸山真男を通過することはどうしても必要なことなのだと思いはじめたのである。

 それからしばらくたって『忠誠と反逆』を読んだ。このときも本格的に読めてはいなかったようだ。ちゃんと読めていないということで、思い当たることがある。
 たとえば「稜威」(いつ)という概念について、丸山はこの本の「歴史の古層」の章で「勢」(いきほひ)や「活」(いかし)と並べて少しだけ採り上げているのだが、当時はそういうところは目が届かなかった。いや、注目しなかったのではない。
 ぼくには10冊か20冊に1冊の割合で本の中に夥しいマーキングをする癖がある。昔は鉛筆、ついで万年筆、そののちは赤か青のボールペン。なぜマーキングをするかといえば、そのマークをする瞬間にそのキーワードやコンテキストを印象づけるためだ。また、のちにその本をパラパラと開いたときに、そのマーキングが“意味のかたち”のインデックスとなって高速の「蘇えり」がおこるからだった。
 『忠誠と反逆』も赤いペンでマーキングをしていた。そして、何年かのちに本居宣長のことを調べていて、本書にもたしかそのへんの言及があったことを思い出し、パラパラとめくっていたら、おやおや「稜威」に強いマークが記してあった。あれっ、丸山はこういうことを書いていたんだと、そのときは丸山の深部へのさりげない言及にギョッとした。
 いいかえれば、ちゃんとぼくが丸山真男を読めていなかったということだ。

 そんなおり岩波が『丸山真男集』全16巻を刊行しはじめ、ついで本人が亡くなった。死後、すぐに『丸山真男座談』全9冊(岩波)が、つづいて『丸山真男講義録』全7冊(東大出版会)が書店に並びはじめた。
 これらはときどき店頭で手にとってはみたのだが、そのあまりの物量にいささか腰砕けになっていた。
 そこへ『自己内対話』(みすず書房)を読む日がやってきた。これがやっとトリガーとなった。3冊の未公開ノートを編集したもので、ぼくのような編集屋が見ると、かえって構想と断片との関係がよく見えてくる。実にすばらしいノートであった。なんだか丸山が優しくも見え、また切なくも見えはじめ、しかもその思考の構図が手にとれるようになった。
 こうしてふたたび丸山を読むようになったのだ。

 で、『忠誠と反逆』である。
 本書では、丸山の思想のセンサーが動こうとしているところがよく見えた。これまで気取った知識人として防備されていた表層が剥落していって、その奥が覗けた。そしてその奥に、ぼくにはわかりやすい丸山の長所と短所が見えた。
 冒頭の1960年執筆の長い「忠誠と反逆」論文は、これがそのまま膨らんだらさぞおもしろいだろうとおもえるもので、日本の法制史がどのように「反逆」を規定してきたかという前提をあきらかにしながら(たとえば養老律令の八虐や御成敗式目の大犯三箇条)、そのあいだを縫って御恩と奉公が、義理や忠義の出現が、君主と臣民の絶対的関係の確定が、さらには山県太華の明倫館と吉田松陰の松下村塾の反逆のイデオロギーが、宮崎滔天や内村鑑三の苦悩が、広津柳浪の『非国民』が、どのように忠誠と反逆のあいだを揺動する精神として醸成されていったかという歴史的構造を明示しようとしている。
 この狙いは卓抜である。しかも随所に独自の流れの抽出と鋭い指摘が出入りする。
 ただ、全体としてはいまひとつ充実していない印象がある。当初に予定していたらしい大杉栄らのアナーキズムにおける自由と反逆の問題を割愛したことも響いている。昭和維新も出てこない。のちに松本健一がすべてを引き取って思索したことの大半が抜け落ちたのだ。
 この視点はおそらく、第233夜に書いた源了圓の『義理と人情』などとともに、今後に持ち越されるべき課題の萌芽とみたほうがいいだろう。今後の課題とは、「日本的方法とは何か」ということだ。

 つづいて、佐久間象山の世界観に照準をあてた「幕末における視座の変革」、夷人意識と「知足安分」意識と外圧受容意識の三つ巴を浮き彫りにする「開国」、福沢諭吉を扱った「近代日本思想史における国家理性の問題」などの論文や講演記録が並ぶのだが、いずれもこれまで読んできた主旨とかわらないので、とくに刺激は受けなかった。
 それが「日本思想史における問答体の系譜」「歴史意識の古層」で、俄然、光と闇の綾が眩しくなってくる。
 「問答体」のほうは、最澄『決権実論』と空海『三教指帰』を劈頭において、日本思想にとって「決疑」とは疑問に応えることだったという視軸にそって、夢窓疎石の『夢中問答集』、ファビアン不干斎の『妙貞問答』などにふれつつ、最終的には中江兆民の『三酔人経綸問答』にこの方法が近代的に結実していたことをあきらかにしたもの、丸山が「方法」に異様な関心をもっていたことがよく見てとれる。
 しかし、もっと炎のようにめらめらと“方法のセンサー”が動いているのは論文「歴史の古層」のほうである。1972年の執筆だが、その後に書き加えがあって、本書のなかではいちばん新しいものになっている。
 ここで丸山は、宣長が指摘した「なる」「つぎ」「いきおひ」の古語をつかまえ、日本的な思想が「生成」に関してどんなカテゴリー(基底範疇)をつかおうとしたかに光をあてた。

 世界の神話では、「つくる」「うむ」「なる」という基本動詞によって世界の発生と神々の発生が説明されてきた。
 これらは一連の神々の動作のように見える。しかしながら「つくる」では、往々にして作るもの(主体)と作られたもの(客体)が分離する。ユダヤ=キリスト教やギリシア自然哲学ではここが明快だ。そして、その分離した主体には「うむ」という自主行為も位置される。「つくる」と「うむ」とは一連なのである。ピュシスとはそのことだ。
 これに対して「なる」は、こうした主体の分離自立を促さないですむ。「なる」には「つくる」がなくてかまわない。では、いったい何が「なる」という動詞の意味なのか。

 本居宣長が注目したのも「なる」である。
 『古事記伝』のその箇所を整理すると、宣長は「なる」には3つの意味があるとした。(1)「無かりしものの生(な)り出る」という意味(神の成り坐すこと=be born)、(2)「此のものの変はりて彼のものになる」という意味(be transformed)、(3)「作す事の成り終る」(be completed)という意味、である。
 なかでも、「生る」(なる)を「生る」(ある)とも訓んでいたことを示せたことが、宣長自慢の発見だった。
 丸山は珍しくこれらの語彙語根を追う。そして日本における生成観念が「うむ=なる」の論理にあることを指摘して、その「うむ=なる」が後世、「なりゆく」「なりまかる」というふうに歴史的推移の説明にもつかわれて、そのような言葉の使い方そのものがどこかで日本人の歴史意識をつくってきただろうことを、ついに告白するのである。
 このように丸山が、宣長の発見した論理を日本人の一般的な歴史意識にあてはめながら説明することは、ぼくが知るかぎりは、警戒心の強い丸山がなかなか見せようとはしてこなかったことだった。しかもそれは、丸山がうっかり見せてしまった“衣の下の鎧”というものではない。ややたどたどしい追究ではあるけれど、丸山はこの考え方に魅せられて、その意味を“方法のセンサー”で追いかけている。
 それが、「なる」につづいて「つぎ」に注目したことにあらわれる。

 宣長にとって、「つぎ」はむろん「次」を示す言葉であるが、同時に「なる」を次々に「継ぐ」ための言葉なのである。
 ついで丸山は古代語の「なる」「つぎ」が中世近世では「いきおひ」(勢)にまで及ぶことを知る。しかも「いきおひ」をもつことが「徳」とみなされていたことを知る。どのように知ったかというと、徳があるものが勢いを得るのではなくて、何かの「いきおひ」を見た者が「徳」をもつのである。
 これは、儒教的な天人合一型の「理」の思想が日本の自由思考をさまたげてきたと見る福沢=丸山の立場からすると、意外な展開であったとおもう。
 儒教・朱子学では、天と人とは陰陽半ばで合一する絶対的な関係にある。しかしながら宣長と丸山が説明する「なる」「つぐ」「いきおふ」という動向の展開は、互いに屹立する両極が弁証法的に合一するのではなく、もともと「いきおひ」にあたる何かの胚胎が過去にあり、それがいまおもてにあらわれてきたとみるべきものである。これはちょっと深いセンサーだった。

 こうしてついに丸山は、「いつ」(稜威)という機能がそもそもの過去のどこかに胚胎していたのであろうことを、突きとめる。
 「いつ」は、ぼくが第483夜の山本健吉『いのちとかたち』において、ひそかに、しかし象徴的に持ち出しておいた超重要な概念である。スサノオが暴虐(反逆)をおこすかもしれないというとき、アマテラスが正装して対決を決意するのだが、そのスサノオとアマテラスの関係そのものにひそむ根本動向を感じる機関や第三者たちの自覚がありうること、あるいはそこに“負の装置”の発動がありうるということが、「いつ」である。そこではしばしば「伊都幣(いつのぬさ)の緒結び」がある。
 論文を読むかぎり、丸山が「いつ」を正確に捕捉しているとはおもえない。しかし、「いつ」こそが歴史の古層に眠る独自の観念であることには十分気がついている。「なる」「つぐ」「いきおひ」は大過去における「いつ」の発生によって約束されていたわけなのだ。
 それを歴史の古層とみなしてもいいのではないかというふうに、丸山真男がこんなところにまで踏みこんでいたことに、ぼくは再読のときに驚いたわけである。

 のちに丸山は、日本のどこかにこのような「つぎつぎ・に・なりゆく・いきおひ」を喚起する歴史の古層があることを、いささか恥ずかしそうにバッソ・オスティナート(持続低音)というふうにも呼ぶことになる。
 また、このバッソ・オスティナートを歴史的相対主義の金科玉条にしたり、歴史の担い手たちのオプティミズムの旗印にしたりするようでは、この古層がつねに“復古主義”や“国粋主義”と見間違われて、とうてい正当な歴史観になることが難しくなるだろうとも言っている。
 こういうふうに表明して、決して慌てないところが丸山真男が思想界から信頼されている理由でもあるのだが、しかし今宵は、ぼくとしては案外知られていない丸山真男の“方法のセンサー”が触れた「ときめき」のほうを指摘しておきたかった。
 なぜなら、そこからしかぼくの丸山真男探検は始めようがないからだ。

参考¶ところで、そのように読めるようになってきた丸山真男ではあるのだが、いまなおひっかかっているものもある。そのひとつが丸山の福沢諭吉一辺倒主義だ。丸山は尊敬してやまない長谷川如是閑や南原繁についてさえ適度に距離をとって、その思索と行動を綴るのに、福沢諭吉のいっさいについてはそれを「自由の弁証法」と呼んで、ほぼ絶対的に肯定しつづけた。どうもこの態度にはついていけない。たしかに福沢の徹底した反儒教主義には偉大な開明者としての一貫性があるのだが、「それにしても」という思いが拭いえないのだ。まあ、このことについてはまた考えたい。どうせ、ぼくの丸山読みには最初から捩れていたものがあったのだから、このこともそういうせいかもしれないからだ。

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