前間孝則
亜細亜新幹線
実業之日本社 1994 講談社文庫 1998

 中島みゆきが高らかにシングアウトする『地上の星』のヒットとともに、NHKの「プロジェクトX」が大当たりしているらしい。残念ながら1、2度しか見たことがないので(南極越冬隊・YS11機など)、この番組がニッポンのおじさんたちの涙腺をどれほどウルウルさせているのかよく理解していないのだが、戦後の日本再生にあたって、そこに今日ではおよびもつかないかもしれない熱意と工夫と貧しさと意志が漲っていたことは、想像するに難くない。
 本書は戦後の日本のプロジェクトではなく、戦前に幻となって消えた巨大プロジェクト「亜細亜新幹線」に向けての計画と着手への道程を追ったノンフィクションである。文庫本でも500ページに近い力作で、たいそうよく書けている。著者は石川島播磨で20年にわたってジェットエンジンの開発設計にかかわり、その後はライターに転身、ぼくも堪能した中島知久平のB29を上回る爆撃機設計を扱った『富嶽』や、数々の昭和の技術名人技能達人を扱った『マン・マシンの昭和伝説』などで各賞も受賞し、それこそプロジェクトX型のノンフィクションを書いてきた。

 亜細亜新幹線とは何か。
 一言でいえば「東京発北京直行便」の超特急である。東京を発して東海道をへて下関から日本海海底トンネルを驀進し、そのまま北京にまで弾丸列車を貫通させようとした計画だ。
 もっというのなら、「東京発北京経由ベルリン行」あるいは「東京発北京・バンコック経由シンガポール行」という壮大な構想に手をつけたのだ。いったい誰がそんなことを思いつき、誰がそんなことに着手できたのか。

 日本の鉄道は明治の陸蒸気をスタートに、汽笛一声新橋を発車した。スティーブンソンのロケット号から半世紀の遅れである。
 この遅れを取り戻すべく、明治政府は一挙に鉄道網を拡張しはじめるのだが、財政難のため民間にも開発を委託した。私鉄主要幹線17社が誕生し、日本の鉄道網は順調に延びた。かくて明治39年、鉄道国有法をつくって私鉄17社を含む国有鉄道構想が確立し、鉄道院が設立された。初代総裁には後藤新平が就いた。
 このとき鉄道作業局工作課長に抜擢された男がいた。すでに“車両の神様”として名を上げつつあった関西鉄道の島安次郎である。島によって日本の官鉄は未曾有の躍進を遂げていく。本書はこの島安次郎と息子の島秀雄が主人公になっている。
 日本の鉄道には長きにわたる悲願があった。狭軌から広軌への大転換である。
 明治の鉄道レールはイギリス人ネルソン・レーとスペイン人プレストン・ホワイトの進言によって山間部に適用力がある狭軌が採用されていた。イギリス型のスタートだった。ところがこれでは輸送力に著しい限界が生じた。明治政府で鉄道の重要性を力説したのは伊藤博文とともに大隈重信だったのだが、その大隈が「狭軌にしたのは我輩の一世一代の失策だった」と述懐したように、日本の鉄道が狭軌となったことはのちのちまで甚大な国家的損失をつくったのである。
 そこで後藤新平がドイツ型の広軌構想をぶちあげるのだが、財政難もあって原敬が鉄道院総裁になると広軌計画は中止され、また後藤が返り咲くと広軌着手が再開し、また挫折しというふうで、結局は大正8年に床次竹二郎総裁のとき、広軌計画は完全に反故にされてしまったのだった。

 島はすでに蒸気機関車の国産化とともに広軌の導入を提案していたのだが、これでがっかりした。島は満鉄に入り、7代目満鉄総裁の早川千吉郎に重用されることになる。
 こうして日本の鉄道技術は時代と主役と舞台が代わっていったのである。昭和4年に石原莞爾は「関東軍満蒙領有計画」を発表、舞台を満蒙に向けた。石原はその前年に『戦争史大観』を書いて「今後の戦争は飛行機による殲滅戦争だ」と予告した。しかし、飛行機工場を満蒙に準備するにも物資は鉄道で輸送しなければならない。昭和6年には柳条湖爆破を契機に満州事変に及んだ。石原莞爾の王道楽土と五族協和を鳴り響かせるには、むしろ強力な輸送機関を作る必要があった。
 ここに登場したのが昭和9年11月に運転開始をした特急「あじあ号」である。大連・新京間を最高時速120キロで疾駆した。当時の日本国内の最速が特急「燕」の95キロだから、これは日本の鉄道史を画期する。牽引はパシナ型の流線形の蒸気機関車で、満鉄車両設計部の市原善積の開発によっていた。しかも広軌であった。島は満鉄に未来を感じた。特急「あじあ号」は昭和10年にさらに新京を越えて松花江からハルビンまで乗り入れる。
 しかし時代はさらに激変する。昭和11年の2・26事件以降、内閣は近衛文麿となり、翌年は廬溝橋事件をきっかけに日中戦争の突端が開いた。問題は大陸への動脈だった。とくに日本軍は南方南下政策を主軸にしていたので、大陸における独自の輸送路の確保に焦眉を開く必要があった。
 なにしろ日本の大陸政策は昭和3年の満州某重大事件(張作霖爆死事件)以来、つねに鉄道を起爆力として回転し、迷走していったのだった。
 ここから新たなプロジェクトXが始まるのである。主人公は島とその息子の島秀雄だった。島秀雄は日本の蒸気機関車の名機中の名機D51の設計者である。

 満州事変の時期の旅客輸送量は片道だけで約30万人あったとされる。それが昭和12年の廬溝橋事件の時点で約52万人、さらに日中全面戦争に突入した昭和14年では90万人に膨れ上がっていた。
 こういうとき近衛内閣に招かれて鉄道大臣になった中島知久平が「日本の鉄道も揚子江の岸あたりを目標にした鉄道計画をたてるべきだ」という大風呂敷を広げた。中島については第283夜の『日本の飛行機王』に採り上げた。つづいて昭和13年に、鉄道省ベルリン事務総長だった湯本昇が『中央アジア横断鉄道建設論』をぶち上げた。湯本はシベリア鉄道に対するに、これをドイツと組んで「防共鉄道」とする構想だった。
 これらの大風呂敷はおおかたの失笑を買ったにもかかわらず、鉄道技術陣からは“ある目標”の実現のために迎え入れられた。国内の狭軌を広軌に変えるチャンスがこれでやっと実現できると見られたのだ。朝鮮半島も広軌である。日本列島から朝鮮をへて中国に及ぶには国内鉄道の広軌化を実行しなければならなくなる。
 ここからの変転変遷と多様な人材の活躍の興味深い経緯は、本書が微に入り細を分けて詳説しているのだが、それを紹介する余裕はない。
 ごくおおっざっぱにいうと、戦火の事態がノモンハン事件などをへてしだいに異常な状況に突入し、その渦中で国力をあげた「鉄道幹線調査会」が設けられた。その特別委員会委員長に島安次郎が選ばれたのである。東海道・山陽線を抜本的にパワーアップするための対策を決定するというもので、原則は在来線の狭軌をいかすものの、可能な箇所は広軌を併用しておくという方針だった。
 これはつまり新幹線計画なのである。東京・下関を9時間で貫通させようという「弾丸列車」を実現しようという計画である(東京大阪間は4時間半)。そのためには日本坂トンネル、新丹那トンネル、関門トンネルなどを突貫工事する必要があった。これで鉄道技術派の腹が決まった、「トンネルや鉄橋を広軌で作り、在来線用には狭軌を併設しおけばよい」。
 結論をいうのなら、この新幹線計画は予算が決定され、関門トンネル、新丹那トンネル、日本坂トンネルはほぼ完成するところまで進んだ。戦後の東海道新幹線「こだま」はこの軌道をこそ走ったのである。

 昭和15年9月25日、鉄道幹線調査委員会はついに「新幹線」計画の着工を決議した。
 もしこれが実現されれば、東京を午前6時20分に出発した特急列車は9時間後に下関に到着、50分待ち合わせの連絡船で7時間半後の深夜11時40分に釜山港へ、また50分待ち合わせて朝鮮鉄道に乗り換えて京城へ。これでちょうど丸一日がたつ。京城から列車は黄海に沿って北上、満州との国境の安東に着く。ここで税関検査で30分つぶし、ここからは満鉄に乗り入れる。
 やがて奉天に夕方6時に到着、ここで列車は分割され、北に向かう車両は “満州国
の首都新京に午後9時40分に着く。奉天から南下する列車は高新線に乗り入れ、渤海に出て遼東湾沿いに山海関に入る。ここからが中国である。税関検査でまた30分費やして、このあとは華北交通線に突入、いよいよ3日目の午前7時30分に北京に到着する。
 こういう「ダイヤ」になる。
 当時の日本の大陸政策の骨格が浮き彫られていよう。
 この「ダイヤ」を夢見て、さっそく巨大トンネル工事の調査と開発が進み、さらに朝鮮海峡に海底トンネルを開削する計画にも着手した。これは下関・釜山間の関釜海路が輸送力上も航行上もパンク寸前にあったためで、もしもここを海底列車がノンストップに快走すれば一挙に輸送力も軍事力も桁違いの効果を発揮するのが目に見えていたからだ。
 ここに「亜細亜新幹線」の構想が急激に浮上し、島親子の壮絶な苦闘が強いられたのである。

 しかし事態の展開はもっと劇的で苛烈で、もっと強引で苛酷だった。すでにアメリカから6カ月後の日米通商航海条約の破棄を一方的に通告されていた日本は、ついに昭和16年12月に真珠湾攻撃に踏み切り、東の大陸では日中戦争が泥沼化し、西の空では太平洋戦争が同時に連爆することになった
 太平洋戦争のためには飛行機を急増する――。大陸には縦貫弾丸列車を敷設する――。
 日本はこの途方もない課題に無謀にも挑戦することになる。いまさらながら驚くことは、この無謀な二つの巨大プロジェクトは少なくとも3分の1までが圧倒的なスピードで完遂されつつあったということである。
 大陸縦貫弾丸列車のほうは、昭和17年3月には東亜交通学会が設立され、「東亜交通の一体化」「新東亜建設と日満支一体交通」といったスローガンが次々に打ち出され、ついには「大東亜縦貫鉄道計画」の図面が引かれるにまで至っていた。亜細亜新幹線はもはや夢ではなく、絶対のニーズとなってしまったのだ。しかしこうなると、男たちの夢は別なものに転じていかざるをえなくなっていく。夢は使命へ、使命は責任へ、責任は勝敗へ、勝敗は苦痛へと転化していったのである。
 亜細亜新幹線のその後がどうなったかについての結論は、二つ、ある。ひとつは日本が敗戦濃厚となるにつれて中断されたということである。もうひとつは、このときの計画がそのまま昭和30年代の東海道新幹線にそっくり再生されたということである。
 公共投資の削減ばかりが叫ばれる今日、この二つの事実を、どう受け止めるべきか。

参考¶著者の前間孝則さんにはすでに紹介したように、本書のほかに『ジェットエンジンに取り憑かれた男』『富嶽―米本土を爆撃せよ』『マン・マシンの昭和伝説―航空機から自動車まで』『YS11―国産旅客機を創った男たち』『ハイテク開発の魔術師たち』(いずれも講談社)などがある。まさに「プロジェクトX」の原作者だといえる。

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