才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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新アジア仏教史11
日本仏教の礎

佼成出版社 2010

編集:藤野吉彦ほか
構成:末木文美士・松尾剛次・佐藤弘夫・林淳・大久保良竣
執筆:吉田一彦・曾根正人・大久保良峻・上島亨・門屋温・三橋正・勝浦令子ほか
装幀:間村俊一 

 今夜はみなさんに、ぼくが日本仏教をどのように理解するようになったのかということを、手短かに話してみたいと思います。参照するのは『日本仏教の礎(いしずえ)』という一冊ですから、基礎、すなわち古代仏教の入口のところです。
 その前に、ぼくにとって日本仏教の理解はけっこう時間がかかった、あるいは時間をかけるようにしたという話をしておきます。ぼくは日本仏教の理解に手間どったのです。仏教大好き派なのに、しかもいまは日本人が仏教を陽気に理解することが一番望ましい将来の動向をつくると確信しているのに、どうして手間どったのか、少々、懴悔の値打ちもない話めきますが、その話をしてみます。
 ぼくには、子供のころから「大好きなのにうまく説明がつかないこと」がいろいろありました。昆虫とかアイスキャンデーとか百貨店とか大相撲とか、マンガとか鴨川をどりとかお祭りの夜とかチャンバラ映画とかですね。こういうことを身近に親しみながらも、いつまでたっても納得のいく説明ができないのです。なかで最も手こずってきたのがお寺でした。
 わが家は法然院や東福寺で半日すごすとか、なにかにつけてお寺さんに行って上がりこむとか、そういうことを続けるような家庭だったため、お寺はすぐに好きになりました。けれどもその「好きなところ」がよくわからない。仏さんのせいか、お経を唱える声のせいか、お線香の匂いのせいか、お坊さんの恰好のせいか。そのキモがよくわからない。
 なんとなく知ったかぶりをして、あらためて仏教に面と向かうことをしなかったのだろうと思いますが、それなら長じて立派な考察の対象にしていけばよかったのに、そしてそれも多少は試みてはいたのに、なぜか納得をあとまわしにしていたのです。正確にいうと、納得しないところを先送りしながら日本仏教に接してきたのです。
 お寺も仏教も大好きなのに、その理由が説明できないのは、大事な恋闕(れんけつ)だから説明したくなかったのかもしれません。お寺や日本仏教は、ぼくにとっては、そう、「昆虫アイスキャンデーをどり」だったのです。これでは説明がつかない。

9歳ごろの松岡少年。1953年、京都高倉押小路の家で。

 ぼくには30代半ばからのほぼ10年間、同時通訳グループと一緒に仕事をしていた時期がありまして、そのため日本にやってきた文化人や学者やアーティストを神社仏閣に案内することをけっこうしていました。ところが白状すれば、そういうガイジンさんたちにどんな説明をしても、自分で「これはつまらない説明だよな」と思わざるをえなかったんです。
 ガイジンさん相手だから、ややロジカルに説明するのですが、それがつまらない。そこにぼくなりの言葉を乗っけても(多少は知識もふえてましたから)、既存の説明に接ぎ木しているようで、かえってうまくいかない。そこで神社仏閣については、とりわけ仏教については、できるだけ歳をとってから大きく柔らかく包みこみたい、そのほうがそれらを拙速に理解するよりいいだろう、きっと自分でも納得できる説明をする気になるだろう、そういうふうにしようと思うようになったんだと思います。
 これは敗戦日本とか米軍基地のある日本を説明したり、教育の現状の原因を指摘するときの逃げ口上のようなもので、はっきりいって「あとまわし」です。だからモラトリアムじゃんかとも思いましたが、いやいやきっと日本仏教にはそうした「時熟」が必要だろうとなんとなく言い聞かせてきたのです。
 でも、その歳もすっかりとってしまった。いまや78歳の後期高齢者です。仏さんから呼ばれているほうです。もう時間切れです。なんとも困ったもんです。以上が前置きです。

 わが体たらくのことはさておき、日本仏教のことを歴史的に掴むということについては、21世紀に入る前後からの研究者たちの努力によって、しだいに納得できる説明がふえてきたように思います。何かが稔ってきた。その暫定的な集大成のひとつが本書を含むシリーズです。
 本書は「新アジア仏教史」全15巻のうちの11巻目で、千夜千冊で採り上げるのは2回目です。1430夜に『仏教の東伝と受容』を採り上げました。そこに、ぼくがいかに旧シリーズの「アジア仏教史」全20巻のお世話になっていたかということとともに、新シリーズがとてもよくできていることを書いておいた(→千夜千冊エディション『仏教の源流』所収)。それはもちろん本書についても言えることで、なぜ出来がいいかというと、新たな執筆陣が新たな研究成果にもとづいて書いているからです。ぜひみなさんも目を通してみられるといい。「何」がわかれば日本仏教の特色と出会えるか、そこが如実に書いてある。

編集工学研究所の井寸房(せいすんぼう)に弯曲しながら並ぶ「新アジア仏教史」シリーズ(全15巻・佼成出版社)。インド・中国・日本・韓国・チベットなど、各地域における仏教の受容と発展、人々の信仰と文化の展開をモーラしている。

 たとえば、次のようなことです。インド発祥の仏教はシルクロードをへて中国で漢訳され、仏像も中国化や朝鮮化をおこして、それが蘇我馬子や聖徳太子の日本で受容されました。そのときすでに日本化がおこっていたと説明されてきたのですが(たとえば太子の仏教ニヒリズム)、さあ、はたしてそうなのかどうかということです。
 このプロセスで重要なのは、中国化された仏教は北魏のような鮮卑拓跋民族群ともいうべきノンチャイニーズ(非漢民族)の部族王の受容力を媒介にしていたのだということです(杉山正明説)。半島でいえば高句麗の小獣林王、百済の枕流王やその子の阿莘王、新羅の法興王などが受容して、それが少し遅れて百済の聖明王から日本(倭国)の欽明天皇のような大王(おおきみ)に入ってきた。つまり、東アジアのメインストラクチャー(主要思潮)のエンジンによって仏教が日本に来たわけではないのです。
 これは不満なことではありません。歴史にはよく見られる。別の例でいえば中国のお茶は煎茶の葉として日本にちらりと来ただけですが、それがまわりまわって珠光や紹鴎や利休のところで「侘茶」になった。これは決して不満ではない変化です。
 そこでまずとりあえず言っておきたいのは、このようなことがわかるといろいろなことが新たに見えてくるということです。本書はこうした見方をわかりやすく提供してくれます。

仏教伝来を示すルートマップ。仏教の伝播は南伝・北伝・チベットという系統に大別されるが、インド・中央アジア・インドネシアなどでは、ヒンドゥー教やイスラム教などの影響で教えが衰えた。
「仏教新発見・法隆寺」(朝日新聞社)より
イラスト:ヨシザワスタジオ

隋・唐帝国は遊牧騎馬民族による王朝であったため、漢帝国が重視した儒教とは異なる価値体系が必要とされた。高宗は仏教を重視して、龍門石窟に巨大な廬舎那仏(光背を含むと高さ20m)を造営させた。高宗の后であった後の武則天は、それまでの「道先仏後」であった政策を「仏先道後」に改め、道教よりも仏教を重じて華厳国家の確立をめざした。

 またたとえば、日本では仏教受容に関する蘇我と物部による崇仏・排仏論争が有名ですが、ではなぜ崇仏派が勝ったのか、ヤマト朝廷はなぜこのことを重視したのか、いまひとつ納得のいく説明がなかったように思います。
 本書では、欽明天皇が仏教を知った年は「正法五百年・像法千年説」の数え方をすると末法第1年に当たっていて、そのあとの敏達天皇がうっかり廃仏をしたところ災害や厄災がおきた。そこで仏教を大事にするようになったという解釈を採用します。
 このことは「日本書紀」に書いてあることなんですが、問題はどうして欽明天皇このかた日本で崇仏派がメインストリームになったというふうに説明されてきたのか、その理由です。これはおそらくそういうストーリーをつくった書き手かグループがいたのではないか。本書では道慈(三論宗)があらまほしいシナリオを用意したのではないかと推理しています(井上薫説)。また聖徳太子をあれほどの仏法帰依者と仕立て上げたのは、藤原不比等、長屋王、道慈たちの企画に富んだグループワークによるものだろうというのです(大山誠一説)。道慈は道昭の後継者とされる僧で、道昭のもう一人の後継者が行基でした。
 これらのことは本書では第1章「仏教の伝来と流通」で吉田一彦がたいへんわかりやすく解説しています。もっと詳しくは『日本古代社会と仏教』『古代仏教をよみなおす』『仏教伝来の研究』(吉川弘文館)が雄弁です。

道慈は、702年に遣唐使粟田真人に従って唐にわたり、密教を学んで15年後に帰国すると、日本の僧尼の質を向上させるため、授戒が行える僧を唐から招請することを提案した。鑑真の来日によってこれが実現するまで、37年の月日を要した。『日本書紀』や『金光明最勝王経』の仏教伝来に関する述作は、道慈によるものだとされている。

吉田一彦氏の一連の著作。仏教伝来が、日本の国家形成や文化にいかなる影響を与えたのかを追求している。

 こういうように、仏教が日本に入ってきた入口のところを東アジアの事情や日本の事情に照らし合わせておかないと、氏族仏教の意味もそのあとの奈良仏教が南都六宗に広がったことも、ひいてはその後の日本仏教の流れも説明がつかないことが少なくありません。
 奈良仏教は教科書で「白鳳天平文化」というふうに一括りに呼ばれてきて、日本人にはすこぶる人気が高く、その仏容も「フローズン・ミュージック」などと言われて共感を呼んできました。しかし奈良仏教というのは「如法仏教」です。経典・儀礼・教学を揃えてナンボの仏教です。その中身はすべて中国仏教の寄せ集めです。それでもその寄せ集めがばらばらにならなかったのは、大和朝廷や天皇をとりまく高官がこれを統括していたからです。
 そこでかつては奈良仏教のことを鎮護国家のための「国家仏教」というふうに理解していました(井上光貞・田村圓澄)。お寺のほうもその管理体制から逸脱しないようにしていた。だからこそ、聖武天皇のときの大仏開眼のような国家プロジェクトも成功した。
 そう考えられていたのですが、大仏開眼プロジェクトは行基(ぎょうき)のような図抜けてアクティブな僧の活躍がなければまとまらなかったということも知られていて、従来の研究ではその理由があまり説明できなかったのですね。また東大寺の初代別当になった良弁(ろうべん)はそれ以前は雑密(ぞうみつ)の修行僧でした。神秘的なことや呪術的なことをやっていた。そんな行基や良弁がどうして国家プロジェクトの中心を担ったのか、いちがいに説明がつきません。
 ところが一方、景戒(きょうかい)の『日本霊異記』などを読むと、当時の仏教社会では必ずしも中央権力に迎合しないこともいろいろおこっていたことがわかります。『日本霊異記』は因果応報と霊異の話を集めた説話集のようなものなので、各地で変なことがおこったり、変な力によって因果と応報が出会っていることが見えてきます。それによると、行基はいろいろ「霊異」(りょうい)をおこせる神異僧だったらしく、だからこそ民衆の人気が高いカリスマ性をもっていたんだということになる。奈良仏教は画一的には語れないのです。

行基は、15歳で出家して薬師寺に入る。やがて山林修行に入り、この間に優れた呪術力を身につけ、37歳のとき、山を出て民間布教をはじめた。聖武天皇は、1000人以上の信者を従える行基を不穏なものとして、奈良から追放するが、しだいに傾倒し、日本で最初の大僧正に任命した。

行基は、聖武天皇の命によって全国を奔走して勧進を募り、大仏造立という国会の一大プロジェクト成功の原動力となった。しかし、752年の大仏開眼会の3年前、82歳でこの世を去った。開眼会には行基の筆頭弟子である景静が導師をつとめた。
「大仏縁起絵巻」より。東大寺蔵

聖武天皇の勅命を受けた良弁が、蔵王権現の夢告で寺地選定。老翁(比良明神)の託宣を受け、岩山(石山)の地に草庵を建てる。図はそのときの場面を描いたもの。こうして聖武天皇勅願寺として石山寺が建立された。
重文 石山寺縁起絵巻 第1巻第1段より

 最初の話のつづきになりますが、日本仏教の掴み方がむつかしい理由は、いくつもあります。ぼくがかつて帝塚山学院大学で教えていたときに320人ほどの学生に仏教イメージについて書かせたところ、お寺さんは聖地なのか、修行道場なのか、心の救済センターなのか、葬儀屋なのか、お坊さんは何をしているのか、お経には何が書いてあるのか、そのお経を法事や葬儀などで人前で読むのは何のためなのか、まったくわかっていませんでした。
 そういうわかりにくさを抱えこんでいるお寺が、けっこう広い敷地に立派な堂塔伽藍を構えていること、多くの権力者や素封家が仏法に帰依し、施設を寄進してきたこと、それにしてはものすごく多くの宗派や本山が分かれていることなどもわかりにくいことに挙がっていました。
 そこで多くの坊さんはたいてい「ブッダの心」や「釈尊の教え」を説明して深甚なる難問には答えないようにしているのですが、これがまたありきたりな話が多くて(たとえばNHK「こころの時代」ふうの説法)、学生たちもイライラするし、眠くもなる。とはいえもともと宗教というものは、どこか「受信装置」のようなところがあるので、そんなわかりにくいものに心を寄せたくなるわれわれのほうに大半の責任があるといえば、まあ、ハイそれまでよです。
 ぼくはそういうお寺さんに、子供のころから「昆虫アイスキャンデーをどり」の親近感をもってきたのですから、これらのことは自分でちゃんちゃんと解決していかなければなりません。

 ありていに言うと、日本仏教の一番わかりにくいところは、インドに生まれたブッダの教えが大乗仏教その他として広まり、それが東南アジアに向かうとともに、他方ではシルクロードをへて中国や朝鮮半島を通って日本に入って氏族仏教となってから、いったい何を骨格にして定着し、どこを革新的に変化させてきたのかということだろうと思います。
 奈良貴族には鎮護国家の仏教として、平安貴族には西方極楽浄土に往くための念仏仏教として、そして武家社会では禅仏教として、農村社会では寺請仏教として機能してきたのは、どうしてなのかということでしょう。だいたい骨格はあるのか、どうか。
 骨格ではごつごつしすぎるというなら、思考と行動の方針はどういうものなのか、もう少し現代ふうにいうなら仏教はどんな認知哲学をもっていて、日本仏教はそのインド・中国経由の認知哲学を日本人のライフスタイルや日本語の語法によって何にしているのかということでしょう。
 けれどもこの骨格と変化の関係こそ掴みにくい。仏教の認知哲学あるいは認識哲学は歴史的にいえば、とっくにインドのものと中国化されたものとして、きわめて高度に組み立てられていました。ぼくの拙い比較によっても、仏教哲学は世界のさまざまな哲学潮流のなかでも(現代思想を加えてもなお)、かなりの一級品です。
 とくにブッダの「諸行無常・一切皆苦・諸法無我」の哲学、法華経の思想、維摩経の存在学、ナーガールジュナの「空」の思想、ヴァスバンドゥの倶舎論、浄土三部経のテキスト、法蔵(ほうぞう)や澄観(ちょうかん)の華厳思想、天台智顗(ちぎ)の仏教止観、不空の密教、宗密(しゅうみつ)の原人論などなどはとびきりです。
 ただ、それはものすごくたくさんの議論と論議の中で右にも左にも検討されて、中国仏教では「一切経」というような厖大すぎるものになっていました。自在に仏教を語るということはどんどん困難になっていったのです。
 そういう面があって、べらぼうな質量の漢訳仏仏典を前に、日本仏教はその解釈や日本への適応に汲々とせざるをえなかったのだろうと思います。適応に苦慮したのです。そう言わざるをえません。しかしそうではありながら、そこから最澄や空海(750夜)の、法然(1239夜)や親鸞(397夜)の、道元(988夜)や日蓮(1805夜)や一遍の独特の言動が生まれていったのだから、あんなすばらしいことがおこったのはどうしてなのかということも説明したくなります。そこにはどんな「礎」(いしずえ)が活かされたのか、インド産なのか、中国産だったのか、そこが知りたくなる。実は中国産が使われたのです。ただ全面的にではなく、その一部が特定されて使われていったのです。

 話を戻して、奈良の如法仏教というのは何だったのかというと、仏の教法に適(かな)うようにすること、また仏の法式に合っているようにすることを重視する仏教システムです。だから奈良仏教では大事なことのほぼすべてが、本家の中国仏教がどのような解決策を用いたのか、そこを点検することにディペンド(依存)します。
 こういう仏教はまとめて「顕教」とみなされます。教えをオープンに顕(あらわ)れるものにするから顕教です。もともとは釈尊が教えをすべて明らかに説いたところから、この用語が使われるようになったのですが、その後は明示した教法と法式を守っているかどうかということが重視され、コンプライアンス型のものになっていったきらいがあります。
 奈良末期から平安初期、そんなことでいいのかという疑問をもった者が登場してくるのは当然でした。それが若き最澄や空海でした。なぜいちいち中国方式の点検をするのか。ほんとうに中国でもそんなふうになっているのか、確かめずにはいられない。それで実際に確かめたくて入唐し、すでに中国仏教が顕教から一部脱していることを知った。密教では釈尊ではなく、大日如来が真如(真理や真実)を伝えているというふうになっていたことも知った。
 釈尊が説いた教えについては、ふつうなら歴史的なブッダが説いた教えというふうになるのですが、小乗仏教から大乗仏教が組み立てられ、それが広まるにつれ、釈尊には三身による教えがあると考えられるようになっていました。宇宙の真理や真如と一体となっている法身(ほっしん)があらわす教え、釈尊がもっている仏性をあらわす報身(ほうじん)がもたらす成仏の教え、この世において悟った姿としての応身(おうじん)が人々に見せる教えという。そういう法身・報身・応身の三身です。
 たいへんややこしい見方をしたもので、とくに生身の釈尊が三身それぞれを発現あるいは発信しているというところが難解です。へたをすると、いろいろごっちゃになりかねない。実際にも、華厳教では法身が真如を説いたとして毘盧遮那仏の教えを重視して、浄土教では報身を重視して阿弥陀仏が浄土への往生のための真如を説いたと考えました。密教はそうした三身ではなく、大日如来というまったく別のスーパーイコンを想定して、その大日如来がすべてを認識しているというふうにした。最澄や空海はそこに驚いたのです。
 ともかくも密教は、こういう構想を如法仏教とは別のものとして持ち込んだ。第3章「最澄・空海の改革」(大久保良峻執筆)にこのことが述べられています。
 そうするとどうなるか。日本仏教は顕教と密教が対比対立したまま進んでいくということになりかねない。実際にもそういう可能性があったのですが、そうではなかったというのが、黒田俊雄(777夜)の研究以来の見方です。日本仏教は「顕密体制」として相互に補完しあってきた、そのように権勢の力(権門)が仕向けてきた、それは顕密あわせた「八宗兼学」のシステムとして機能した。中世仏教はそういうふうになっているという見方です。第4章「仏教の日本化」(上島亨執筆)でこのへんのことをまとめています。

奈良などの大学や寺院で仏教を学んでいた空海は、久米寺の東塔に納められていた密教の経典、『大日経』と出会う。密教の教えをいっそう理解するため、師を求め唐に行くことを決意。26年ぶりに出航された遣唐使船に乗り、桓武天皇により派遣された伝教大師最澄と運命的な出会いを果たした。

天台三祖師像。滝が流れ落ちる山中に座る3人の僧侶、中央が天台教学を大成した天台智顗、左が日本の天台宗の開祖となった最澄、右が天台宗山門派の祖となった円仁。天台山を背景にしている。

 それでは顕密体制で万事が進んだかというと、それがそうでもない。その後の仏教を理解するには、もうひとつ考えておかなければならないことがあります。それは「神仏習合」のことです。
 仏教は日本の地に育くまれていた意識との相性がよいらしく、中国仏教の方法とは異なる変化を比較的早くからおこしていました。日本にはもともと神祇(じんぎ)信仰が芽生えていて、そのルーツはアニミズムやシャーマニズムにつながるものなので、いつどこから神祇信仰が生まれ育ってきたかという説明はできませんが、いつしか「産土」(うぶすな)や「産霊」(むすび)や「憑坐」(よりまし)という考え方が確立してきていました。そこにアマテラス信仰や伊勢信仰やスサノオ信仰が重なってきた。
 神祇信仰は明示的なイコンや教義をもつものではなかったので、外来する思想や信仰と結びつきやすく、外来の仏教的な信仰心情からしても神祇信仰とは結託しやすいところがありました。これが「神仏習合」の正体ですが、神宮寺や神前読経や護法善神(寺院の守護神として祀られる神)などについての事例研究によると、この動向は9世紀のころにはかなり進んでいたというほど、早期からアマルガメーション(化合)をおこしています。
 こうして中世日本では「神と仏」は「顕と密」以上に融合しあっていたのです。いずれもタテヨコナナメ、多様に絡んでいった。このことは一方で神祇信仰に仏教側からの強烈な刺激をもたらして「神道」をつくらせ(神道五部書など)、他方では「本地垂迹説」というまことに大胆でアクロバティックな考え方をもたらします。
 本地垂迹説は、日本の八百万(やおよろず)の神々はもともとさまざまな仏たちが化身として日本にあらわれたのだとする説で、神は仏の化身として日本の地に権現したとみなしました。本地というのは本来の境地のこと、垂迹とはその本地が形をのこして各地に迹(あと)を垂れるということです。また権現の「権」とは「仮に」という意味ですから、仏は仮の姿をとって神々になっているということになる。
 まったくもってとんでもない説で、でたらめに近いほど御都合主義の考え方ですが、これが大流行した。それだけではなく逆の「神本仏迹説」も出てきて、神々が主で仏たちが従っているという見方も流布していきます。では、こんな発想はとんでもないままなのかというと、ある時期から天台本覚思想とも習合して「神はそのまま仏である」というところまで突き進んでいくのです。
 第5章「神仏習合の形成」(門屋温執筆)は、この厄介な様相と事情をたいへんダイナミックに解きほぐしています。千夜千冊では、ぼくはぼくなりに伊藤聡の『神道とは何か』(中公新書、1581夜)を通して解きほぐしておきました。

大仏造立の際、宇佐神宮の禰宜、大神杜女と大神田麻呂が、八幡神を連れて、都の東大寺に上る場面。朝廷は神を迎えるための準備をおこない、歓迎式典を行った。こうして八幡神は国家仏教システムの中心拠点である東大寺の鎮守という地位を獲得する。

熊野本地仏曼荼羅。雄大な自然に神の存在を感じて成立した熊野の聖地は、仏教と深く融合するなかで熊野三山として新たに捉え直されていき、地方神から脱却する。

 以上のように、本書の議論の中からほんの少しポイントを取り出しただけでも、日本仏教の説明は一筋縄ではいきません。しかも本書は院政期までの事情を扱っているだけで、このあといわゆる「鎌倉新仏教」が登場して、本シリーズも第12巻「躍動する中世仏教」に移っていくわけで、ここからこそ日本仏教は多様多彩なものとなっていくのですから、そうなると法然と明恵(1804夜)と日蓮とは、道元と応燈関と五山僧とは、覚鑁(かくばん)と忍性(にんしょう)とは、とうてい同列のままで語ることはむつかしくなって、もっといろいろな説明をオンパレードさせなければならなくなっていくのです。
 むろんそれでわかりにくくなるとはかぎりませんが、がばっと掴むのはかなりむつかしくなるでしょう。たとえば明恵と日蓮はそれぞれの立場から法然の念仏思想を全否定したのです。これらを並び立たせるうまい解説の手立てはありません。
 では、どうするといいのか。「みんな仏教なんだから」などとは言ってはいけません。並列をしつづけるのもモンダイです。オッカムの剃刀を使えばどうか。日本仏教はすでに細(こま)切れになっているのだから、さらにミンチ状態になるだけでしょう。やっぱり齢(よわい)を重ねるまで待てばよかったかというと、その齢はもうリミットに来ているので、こんな暢気なことを言っていてはいけないのです。

 というわけで、話は最初に戻ることになります。ぼくはどうしてお寺が好きなのかということです。
 それでは、このところ考えていることを紹介して、今夜の千夜千冊を締めたいと思います。それは、日本仏教を「文化」あるいは「日本という方法」として徹底的に組み上げなおして語っていくということです。中国茶が侘茶になる話をしましたが、そういう文化として日本仏教をもっと語り切っていくのがいいのではないか。ぼくはだんだんこちらに向かってきたのです。たとえば水墨画は雪舟のような東福寺の画僧が腕を磨いて独自の水墨山水に達していったわけですが、日本仏教にはそういう可能性がいくらでもあったのです。等伯や光悦は法華衆として陶芸や画業のアートを磨きあげたのです。
 いやいや、絵画や陶芸ばかりが文化だというのではありません。日本語の読経の仕方、僧堂の建築の工夫、五山版のようなメディエーションも仏教文化です。空海の世界観の編集力、最澄の法華一乘、明恵の夢綴り、忍性の社会事業、一休(927夜)や白隠の生き方、契沖の解読力、宣長の国学仏教、慈雲飲光の雲伝神道、日本仏教を語る文化はそうとうにあります。ぼくは日本を語るのに仏教を下敷きにしてきたにもかかわらず、仏教を「日本という方法」で語りきるということをしてこなかったのはミスったなと自戒しているのです。
 どうしてこれをしてこなかったかというと、ひとつは日本仏教が「昆虫アイスキャンデーをどり」だったからですが、もうひとつは仏教全般を「文明」というふうに捉えすぎていたからだろうと思います。しかし仏教を文明と見て「仏教文明」を語るのは、ぼくには向いていそうもありません。それは、然かるべき方々に任せたい。それよりも「文化」「方法」「日本」としての「仏教文化」にやはり関心があるのですから、残る日々にはできるかぎり日本仏教を「文化」や「アルス」として語っていきたいと思っているのです。あまり時間はありませんが、もう少し組みなおして考えてみます。

最新の千夜千冊エディション『戒・浄土・禅』のゲラに赤入れをしている松岡。

まるでお経のようにゲラの余白にびっしりと赤字が入る。

『夢中問答集』をはじめ、禅に関する千夜もモーラしている。

「あかあかや あかあかあかや あかあかや」状態のゲラ。

TOPページデザイン:佐伯亮介
図版構成:寺平賢司・大泉健太郎

⊕『新アジア仏教史11 日本仏教の礎』⊕
∈ 編集:藤野吉彦、冨坂敦、金炳坤
∈ 構成:末木文美士(編集委員)、松尾剛次、佐藤弘夫、林淳、大久保良竣
∈ 執筆:吉田一彦、曾根正人、大久保良峻、上島亨、門屋温、三橋正、勝浦令子、新川登亀男、杉本一樹、藤井淳、梯信暁、ブライアン・小野坂・ルパート、冨島義幸、石井公成
∈ 出版社:佼成出版社
∈ 発行者:岡部守恭
∈ 発行所:株式会社佼成出版社
∈ 製本・印刷:大日本印刷株式会社
∈ 装幀:間村俊一
∈ 発行日:2010年8月30日

⊕ 目次情報 ⊕
∈∈ 序

∈ 第1章 仏教の伝来と流通
∈∈ 一 仏教伝来の歴史的位置
∈∈ 二 『日本書紀』が描く仏教伝来
∈∈ 三 仏教伝来五三八年説の系譜
∈∈ 四 飛鳥寺の成立
∈∈ 五 聖徳太子の成立と聖徳太子信仰
∈∈ 六 仏教の流通
∈∈ コラム① 法隆寺

∈ 第2章 奈良仏教の展開
∈∈ 一 奈良仏教の特質
∈∈ 二 奈良仏教の基層
∈∈ 三 国家仏教の始動
∈∈ 四 奈良仏教の設計
∈∈ 五 国家仏教の完成
∈∈ コラム② 天平写経

∈ 第3章 最澄・空海の改革
∈∈ 一 平安仏教の黎明
∈∈ 二 最澄と空海
∈∈ 三 最澄と空海の思想
∈∈ 四 天台宗の展開
∈∈ コラム③ 空海入唐の目的

∈ 第4章 仏教の日本化
∈∈ 一 中世仏教の形成を論じるために
∈∈ 二 古代仏教の成熟
∈∈ 三 中世宗教秩序の形成
∈∈ 四 中世権門寺の形成ー摂関期における国家と権門寺院ー
∈∈ コラム④ 浄土信仰の一視点 念仏の理解をめぐって

∈ 第5章 神仏習合の形成
∈∈ 一 神仏習合とは何か
∈∈ 二 「神道」の発見
∈∈ 三 神宮寺の創建
∈∈ 四 護法善神の成立
∈∈ 五 本地垂迹説の形成
∈∈ 六 本地垂迹説の展開
∈∈ コラム⑤ 舎利信仰

∈ 第6章 院政期仏教の展開
∈∈ 一 院政の成立と仏教
∈∈ 二 白河天皇の親政と法勝寺
∈∈ 三 白河・鳥羽院政期の仏教界と僧侶
∈∈ 四 院政期仏教の特質
∈∈ コラム⑥ 両界曼荼羅の変成

∈ 特論 女性と仏教
∈∈ 一 尼と尼寺の系譜
∈∈ 二 仏教女性観受容の系譜
∈∈ コラム⑦ 恋と仏教

∈∈ 年表
∈∈ 参考文献
∈∈ 索引
∈∈ 執筆者紹介
∈∈ 凡例

⊕ 編集委員略歴 ⊕
末木文美士(すえき・ふみひこ)
1949年、山梨県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。博士(文学)。現在、東京大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授。比較思想学会会長。専門は、仏教学・日本思想史。仏教を含めた日本思想史・宗教史の研究とともに、広く哲学・倫理学の文脈のなかで、現代に生きる思想としてそのあり方を模索。『日本宗教史』(岩波新書)、『日本仏教史』『仏典をよむ』(新潮文庫)、『草木成仏の思想』(サンガ)、『親鸞』(ミネルヴァ書房)、『日本の思想をよむ』(KADOKAWA)など、著書多数。

⊕ 編集者略歴 ⊕
松尾剛次(まつお・けんじ)
1954年生まれ。専門は日本中世史・仏教史。山形大学名誉教授。近著に『日本仏教史入門 釈迦の教えから新宗教まで』(平凡社新書、2022年)がある。

佐藤弘夫(さとう・ひろお)
1953年生まれ。専門は日本宗教史。元東北大学教授。近著に『日本人と神』(講談社現代新書、2021年)がある。

林淳(はやし・まこと)
1953年生まれ。専門は宗教学・日本宗教史。愛知学院大学教授。著書に『天文方と陰陽道 【日本史リブレット46】』(山川出版社、2006年)などがある。

大久保良竣(おおくぼ・りょうしゅん)
1954年生まれ。専門は日本仏教史。早稲田大学文学学術院教授。近著に『伝教大師 最澄』(法藏館、2021年)がある。