才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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リスクの正体!

No Risk,No Life.

山口浩

バジリコ 2009

装幀:岩瀬聡

本書でリスクの正体が
証されているのではない。
リスクについての新しい見方を
感覚的に提供している。
No Risk,No Life!
ヒントは柔軟性、視点の変化、予測市場、
そしてリアルオプションにある。
No Risk,No Life!
果報は練って待て、
さわれる神から祟りを貰え。

 ブログが書籍になった例がだんだんふえている。池田信夫のようなベテランカリスマ・ブロガーもいる。本書もそうしたひとつで、ベテランではないが、2004年から2年間ほどのブログをもとにして構成執筆した。

 著者は適当に投資を愉しんでいるらしい大学の若手センセーだ。リアルオプションを専門にしている。リアルオプションは企業や経営者が投資計画をたて、意思決定をするときの柔軟な分析理論をいう。
 ブログ本は当たり外れが激しいが(どんな本もそうだけれど、ブログ本だからおもしろいなんてことはほとんどない)、本書にはときおり痛快なことが書いてある。なかなかのニューアイディアもある。
 主旨はどういうものかというと、冒頭の「ひとつの怪物が日本を徘徊している。リスクという怪物だ」という『共産党宣言』まがいのパロった一文から始まって、リスクは得体の知れない怪物のように扱われているけれど、実は正面から付き合ってみたり、もっと遊んでみれば、リスクが今日の社会で最も大事なコンセプトのひとつで、考え方で、方法であって、また社会や人生の基本になるべきものだということが見えてくるはずだというもの。
 そのとおりだ。そう思う。リスクは、現代思想のなかでも5つの重要コンセプトに入る代物なのである。ぼくはそう確信している。これからはリスクを扱っていない思想など、話になるまい。正義よりリスク、自由よりもリスク、友愛よりリスク、だ。いや、正義はリスク、自由はリスク、友愛はリスクなのである。
 すでに石田梅岩(807夜)、佐藤信淵、福沢諭吉(412夜)、渋沢栄一がそのことを説いていた。投資理論を専門にしているこの著者も、そういうリスクの社会的意義がわかっているようだ。ただし、本書のサブタイトル「賢いリスクとのつきあい方」は、いただけない。
 リスクは賢いか愚かかの対象などではなく、もっと本来的なものなのだ。だからそれよりも、カバーの片隅に小さく刷られていた“No Risk, No Life”がサブタイトルとしてはずっといい。ここでは勝手にそう表示する。
 というわけで、以下、著者の思い切った見方が出ているところは強調し、平凡なイージーシンキングなところを切り捨てる。

 ここで扱っているリスクは、リスクとチャンスが表裏の関係になるリスクのほうで、そこに価格がともなうものをさす。前夜の『リスクのモノサシ』(1345夜)でとりあげたリスクを純粋リスクと呼ぶとすると、こちらはあけすけにも投機リスクと呼ばれる。
 しかし純粋リスクであれ、投機リスク(投資にともなうリスク)であれ、リスクを相手にするときに最も重要になるのは「予測」である。
 予測だなんて地震予測から天気予報まで、景気予測からオカルティックな終末予測まで、ともかく当たらないほうがジョーシキになっているくらいなのだが、けれども人間はなぜ予測したがるのかということになると、これはかなり遠大な背景をもっている。
 おそらく予測は、もともとは動物が生殖の相手やエサの確保や環境適応するために発達したものだった。いや、もっと以前に情報高分子がカリウム・チャネルとナトリウム・チャネルによって情報の出し入れをつくりあげ、そこに“自己組織化”を始めて“自己”を発生させて以来のことだったのかもしれない。ともかくも生存のための生体メカニズム(=オーガニズム)として機能しただろうとみられるほどに、予測の起源は古いはずである。カオスとも深い関係をもっているだろう。
 それゆえ、生物時計の発生メカニズムが掴めていないように、そのしくみはまだわかっていない。ローレンツ(172夜)やティンバーゲンが興したエソロジーも、その半ばは「予測の動物行動学」なのである。

 他方では、意外なことも知られるようになってきた。脳のなかでの予測のトリガーにあたるものがうっすら見えてきた。
 たとえば最近になってfMRI(機能的磁気共鳴映像法=1312夜『脳のなかの水分子』参照)などによって見えてきた例でいえば、舌の上にジュースをたらしてどのようにドーパミン・システムが作動するかといえば、それが甘いものかもしれないという予測をした時点でドーパミンが反応しているらしい。報酬を知ってからドーパミンが出るのではなく、予測の時点で反応がおこるのだ。
 日常生活のなかで予測がどのように機能しているかも、見逃せない。だから武道のようなもの、スポーツの訓練のようなもの、行動心理学のようなものが長年にわたって発達してきたわけだ。これらは体の動きという資源や資産を生活やスポーツゲームのなかでどのように計画するかという予測と意思のリアルオプション探求ともいえる。予測と意思決定はずっと昔から一対なのである。
 というわけで、予測は生体にとっても動物環境の全体にとっても、また日常生活やスポーツにとっても見逃せないものなのであるが、さてこれを経済社会でおこなおうとすると、いろいろな視点での検討が必要になる。

 市場的な場面で予測をおこなうばあい、いつも陥るのは「これまで続いたことがこれからも続くだろう」という、初期的な確率論の誤解にもとづくもので、たいていはそんなふうにはなりっこない。
 また、すでに何度かのべてきたように、予測にはヒューリスティクスとバイアスがかかわることも計算に入れなければならない。多くの者は「予想どおりに不合理」な選択をしてしまうのだから、予測するにあたってはその不合理のリフレクシビティを勘定に入れておかなければならなくなってくる。
 とはいえ過去の行動パターンや決定プロセスのパターンが役に立たないともいえない。できるかぎりの推移のデータを集め、これをさまざまに組み合わせることで、なんとか予測をそれらしくすることは、最低限不可欠なことでもある(これを「探索的予測」という)。ここでは予測は「当たらずとも遠からず」なのである。
 一方、景気予測などの政府や日銀の経済予測などになると、「将来どうなるか」ではなく「将来どうしたいか」という予測になっていて(これを「規範的予測」という)、希望的観測を組み合わせてつくられていることのほうが多い。こんなものもアテになるわけはない。

 こんなふうに考えていくと、市場的予測なんていったいどこに根拠があるのかということになるけれど、実はこのような検討には洩れていたものがある。それは経済や市場には「見たいものを見る」という参入者による“意識の向き”のような傾向がおこるということだ。
 たとえば相場には本来あるべき水準が想定できるのだが、しばしばその水準からずれた誤差が生じる。そういう誤差は平均すると短期間で消滅してしまうのだが、ときおりそうならずに、かなりの期間にわたってその相場が持続することがある。これを「サンスポット均衡」という。かつて太陽の黒点が株価の動きに関係しているという変なウワサがあったのでこのネーミングがついているのだが、もしも相場師たちの多くが太陽の黒点の増減を確信するようになれば、本当の株価がそちらに動いて多数を占めることもありうるということだ。
 そこで、このようなことを取り込んだ「予測市場」(prediction market)というものが新たに発想されるようになった。

 予測市場とはどういうものかというと、具体例を言ったほうが早いだろうから紹介すると、そのひとつにアイディア市場(idea market)がある。多数のアイディアからほしいものを見いだすために証券市場に似たメカニズムを用いる方法で、個々のアイディアが証券になる。
 全部調べたわけではないが、日本初の予測市場は株式会社はてなによる「はてなアイデア」だった。はてなは2002年設立のブログやソーシャルブックマークといったウェブサービスを提供する企業で、その「はてなアイデア」がアイディア市場にあたっていた。
 これは、はてなという企業の意思決定プロセスに社外の参加者(顧客)を引きこんで、はてなが将来的にもつべきさまざまな技術機能やビジネスフォームを予測してもらうというもので、参加者は自分の視点に立つのではなく、はてなの視点に立つ。発表当時は社員10人ほどだったはてなは、この予測市場によって約3000人の“社外企画部員”を獲得した。いわば人的レバレッジが効いたのである。
 その後、はてなは小泉郵政選挙のときに「総選挙はてな」を開設したが、これは公職選挙法にひっかかるかもしれないというので、あまり話題にならなかった。

 これまでの意見集約方法には、アンケートや投票やヒアリングやデルファイ法などを含めていろいろあった。しかし予測市場のやりかたはアンケートや人気投票と似ているようで、似ていない。根本的なちがいがある。
 アンケートや人気投票は参加者の「意見」を聞くのだが、予測市場はそうではなくて、「予測」を聞く。有名なケインズの美人投票論は、誰が美人かを投票するのではなく、誰が美人ベストテンに入るかの予測をする話を例にしながら市場議論をしたわけだが、あれに近いのだ。
 もうひとつ、ちがいがある。アンケートでは回答して報酬がもらえるとしても、原則としてはどんなことを書いてもかまわない。報酬は回答したかどうかに対して支払われるだけで、内容とは関係がない。予測市場では予測の結果が報酬のパフォーマンスを決めるのだから、予測の内容に対するインセンティブがある。しかもその報酬は現金でなくともよい。仮想通貨やポイントやクーポンでもいい。
 つまりは予測市場は、情報の発見・集約・編集・評価を一連の手続きに入れているしくみなのである。はてなはその手続きをウェブネットワーク上の市場でおこるようにした。
 こうした新たな集合知が新たな市場を形成することは、今後はいろいろありうることだろうと思われる。既存の市場の予測に汲々とするのではなくて、自身で予測市場をつくりあげ、そこから新たな市場の可能性をひらいていこうという考え方なのだ。

 トルストイの『アンナ・カレーニナ』(580夜)の冒頭は、「幸福な家庭はみんな似通っているが、不幸な家庭は不幸がさまざまなのである」から始まっている。
 これを確率論的統計学に変えて「幸福」の定義をいいかえると、次の2条件のどちらかを満足させているという話になる。①たくさんの「幸福な家庭」の条件をできるだけ多く備えた家庭が「幸福な家庭」であって、その条件が少なければ「不幸な家庭」である。あるいは、②世の中の家庭にはいろいろあるが、「幸福な家庭」の条件を備えた家庭では、それ以外の条件を無視できる。さあ、こんな定義でいいものか。
 今日、「格差」や「勝ち組・負け組」が取り沙汰されている。山田昌宏の『希望格差社会』(筑摩書房)やリチャード・ウィルキンソンの『格差社会の衝撃』(書籍工房早山)という雄弁な本もある。しかし幸福組や勝ち組があるというのは、どこかの権威機関やマスコミが勝手な予測にもとづいて価値を振り分けたからできてしまったものであって、結局は幸福や勝ち組の条件を絞ったからにすぎない。エンゲル係数やGNPや自己資本率のように、つまりは国や格付け機関が決めた条件をそのまま喧伝して世間が認識してしまったからだった。だから「負け犬」も出る。
 それゆえこんなことだけを真に受けて、格差社会の対策として「再分配」や「生活保障」を考慮するだけでは、幸福や勝ち組の条件設定を同じままにして事態打開を考えているのだから、実は事態の本質は変わらないと言うべきなのである。

 以上の話はちょっと見方を変えれば、リスクの正体とは何か、利得と損害とは何かということの根本を問う問題にもなっている。
 一般的利得がどこかの社会では利得でなく、政府が決めた損害が損害と感じられない社会だって、実はありうるはずなのである。
 2004年9月に浅間山が爆発したとき、降灰の被害をうけたキャベツが大量に出現したことがあった。多くの農家は失望し、メディアは大量の被害が出たと報じたが、高崎高島屋がそれを引き取って灰のついたキャベツを洗って売ったところ、あっというまに売り切れた。灰をかぶったキャベツは損害とはかぎらないわけである。リスクは認識次第、感覚次第なのである。

 本書の著者はリアルオプションを専門にしている。聞きなれない用語かもしれないが、リアルオプションとは、財務理論のオプション評価モデルを実物資産や事業などに応用して、それらを金融オプションになぞらえてリスクとチャンスを分析・評価をする考え方をいう。だからどこかでリアルオプションを“売っている”といったものではない。
 たとえば、土地の所有者は特段の事情がないかぎり、その土地に建物をいつ建てるかを自由に選べる。技術の特許権があればそれをいつ用いて製品にするかは自由に選べる。こうした財産権には、その権利を利用するタイミングに関する柔軟性が保持されている。この意思決定に関する柔軟性がリアルオプションなのである。
 法律が保証していないリアルオプションもある。ある企業が技術力や販売力などで業界の他企業より優位に立っているときは、その企業はその将来的行使力においてリアルオプションを内在させているのだし、ある職人の技能が圧倒的な技能に達しているときは、そこには才能の可能性の高いリアルオプションが内在しているというふうに見る。
 本書を読み、さらにレノ・トゥリジオリスの『リアルオプション』(エコノミスト社)や、マーサ・アムラム&ナリン・クラティラカの『リアル・オプション』(東洋経済新報社)、山口浩の『リアルオプションと企業経営』(エコノミスト社)などをさらりと読んで、ぼくがおもしろいと思ったのは、リアルオプションはオプション(金融オプション)をうまく「なぞらえている」ということにある。いわば「見立て」なのである。
 「見立て」なのだが、その見立てのなかでリスクとチャンスに関する新たな視点をつくろうとしている。入れ込もうとしている。言ってみればリアルオプションの考え方は、企業や才能の価値をどこで見るかということを、従来の確率一辺倒の視点やベルトコンベアー的な視点や量的なマーケット対応性による視点からずらして、新たな視点を経済行為のなかに築こうとするものなのである。この「ずらしかた」は悪くない。

 最近、キャリアパス議論やキャリアカウンセリングの理論モデルのなかで、「計画された偶発性」(planned happenstance)という新たな概念が浮上しつつある。これもどこかリアルオプションっぽい。
 プランド・ハプンスタンスとはいかにも英語的で理屈っぽい言い方だが、わかりやすくいえば、自分のキャリアプランに偶発性を入れておくこと、柔軟性をもたせておくことをいう。
 本田宗一郎(271夜)ふうにいえば「果報は練って待て」ということ、1304夜ふうにいえば「やってくる偶然」と「迎えにいく偶然」によるセレンディビティを重視するということ、清水博(1060夜)ふうにいうなら「相互誘導合致」というものだ。これらのプロセスの柔軟性(計画された偶然性)にリアルオプションが潜在するというふうにもいえる。
 これらの例示でわかるように、リアルオプションを確保するには、ひとつには偶発性を充実させておくための「場」が必要で、もうひとつにはそのリアルオプションの持ち主や才能性をどこかで提示しておく必要がある。リアルオプション分析の方法を仕事に取り入れはじめた連中は、いまそちらに向かっているようなのだ。
 これを知って、ぼくは半分は我が意を得て、半分は反省した。ちょっと手前味噌の話になるが、また校長としてのぼくの反省にもなるのだが、イシス編集学校の師範代や師範になることは、たいへんなリアルオプションを獲得することになるだろうと思う。その編集能力はかなり潜在能力が高く、かけがえがない。けれども編集学校ではそのリアルオプション性を掲示も提示もしてこなかった。
 これはいささかもったいないことだった。今後は、このあたりをぼくのアイディアなどではもう遅いだろうから、誰かの力を得て発露できるように仕向けたい。

 さて、本書には「なかなかのニューアイディアもある」。いずれもリスク論にもとづいているのだが、その議論をこえてもきっとおもしろいだろうから、いくつかをごく簡潔に紹介しておく。
 たとえば入札制度。
 日本の公共事業の入札では会計法に定められた一般競争入札と指名競争入札がある。ここにはしばしば談合がまじる。そこで、バリュー・エンジニアリング方式、設計施工一括方式、総合評価方式などの改革案が提案されているのだが、いっこうに改善されない。著者はその原因が、①発注者と企業の利害関係がゼロサムゲームになっている、②企業の技術力など価格以外の要素を入札プロセスに反映できていない、③企業の直面する真のコストの検証が難しい、の3点にあって、そのためお互いが情報を隠さざるをえなくなっていると見た。
 入札側は上限がわからず、行政側は企業の真のコストがわからない。しかしここの視点を変えてリスクのとり方に変化を与え、発注者の行政側にはすべてがコストだが、企業側には利益も含まれているのだから、請負金額を企業が要する実費と企業が得る報酬に分けたらどうかというのだ。ちょっとおもしろい。詳しい方法は本書にあたられたい。

 たとえば「政府の失敗」。
 著者は「政府の失敗」を許してみたらどうかという提案をしている。政府は失敗を嫌う。メディアもそこを非難する。だから政府は失敗を認めようとせず、そのためかえって傷口を大きくする。
 ここで重要なのは「方向転換」であるはずだ。それを促すために、失敗に関しての説明責任がはたされていたかどうかを評価して(そういう機関などを設けて)、次には新たな方針の提示に切り替えさせ、しばらくその実践を見ていくようにしてはどうか。そういう提案だ。なるほどと思えるふしがある。

 たとえば税金の還付。
 いま、日本中で問題になっているのは「税金がムダ使いされているのではないか」という議論だ。事業仕訳けなどもそのためにおこなわれた。しかし、実際に何に実行力があって何がムダかは、なかなかわからないし、だいたい事業仕訳だけしたところで国民一人ひとりとの関係がない。
 そこで、税金がなんらかのしくみで戻ってくるようにしたらどうか。年末調整などにある「還付」の考え方だ。それには、税金の一部を「政府への投資」というふうにしてみる。
 企業の株式に投資したばあいには、キャピタルゲインとともに配当がある。これに似たしくみで、たとえば、予算を予定より安くおさめたらその一部を還付するとか、インフラ投資が成功して予想以上の税収があったらその一部を還付するといったことをする。
 これはいわば、国に投資してリターンを得るという発想だ。逆からいえば、国がプロジェクト・ファイナンスで資金を調達するという発想だ。これならばリスクを国も国民も共有するという考え方も生きてくる。
 ちょっと出来すぎのアイデイアだし、投資できる国民とそうでない国民とに”格差”ができるというまたぞろの反論がすぐに出そうだが、ぼくはこういう発想によるリスク論的転換には、もっと多くの者がなじんだほうがいいと思うのである。

 こんなふうに、本書にはいろいろのリスクにまつわるニューアイディアがそこかしこに“潜伏”していて、そこがおもしろかった。残念ながら表題が謳うような「リスクの正体」があきらかにされたわけではないけれど、まあ、それはいい。
 要は、リスクも心意気なのだ。そこで最後にもうひとつ、著者の見解に賛成したい点を書き添えておく。それはいったい「責任」とは何なのかということだ。
 現状のコンプライアンス(責任をとるための法令遵守)がこのまま定着していくとどうなるかというと、国も自治体も企業も学校も含め、日本はますますガタガタになるだろう。コンプライアンスをなんとかしたほうがいい。これはぼくの持論だ。
 すでに郷原信郎の『法令遵守が日本を滅ぼす』(新潮新書)といった本も出回っているが、当事者や責任者を処罰してばかりで、何が対策なのかと思う。これではリスクをとろうとする勇気や冒険や地味な努力は、どんどん摩滅していくにちがいない。
 本書の著者はそこまでは言っていないのだが、「責任」のとり方について共感できる提言をしていた。それは、責任というのは足して100パーセントになるものではないだろうという見方だ。本来の責任は足せば200パーセントにも300パーセントにもなるはずのものなのだ。
 それを責任を全部で100パーセントちょっきしにして、それを誰がどう分担するかと責任分離を考えるから、事態はおかしくなっていく。たとえテレビカメラの前で頭を下げたとしても、これではいつまでたってもコンプライアンスが社内の新たな力を殺いでいく。このことが実感できれば、安易に責任の帰属者など限定できないはずなのだという、これはちょっと付け加えておきたかったことだった。

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【参考情報】
(1)著者は1963年生まれ、筑波大学大学院ビジネス科学研究科終了の経営学博士で、いまは駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズの准教授らしい。いまやめずらしくもないが、本文の最初に書いたように、ブロガーでもある(http://www.h-yamaguchi.net/)。
 ところで、ぼくにはぼくの編集気質からみて、「読んでおけばいい著者」と「会ってみたくなる著者」があり、後者はめっぽう少ないのだが、この著者とは会いたくなっている。ただし、これはぼくの偶発気質のほうにもとづいているのだが、そのように「会ってみたい著者」にかぎって、いつものことながらついつい「たまたま」に期待してまうのだ。

(2)リアルオプションについては、いずれ説明したい。急いで本格的に知りたければ、レオ・トゥリジオリスの『リアルオプション』(エコノミスト社)、マーサ・アムラム&ナリン・クラティラカの『リアル・オプション』(東洋経済新報社)、山口浩『リアルオプションと企業経営』(エコノミスト社)などを読まれるといいが、投資理論であること、確率論も必要なこと、したがって数学理論にめげないことを、あらかじめ覚悟したほうがいい。『リアルオプションと企業経営』の山口浩は同姓同名の別人のようだ。本書の山口が書いているリアルオプション論は『金融工学事典』(朝倉書店)に掲載されている。

(3)上には書かなかったが、本書にはロバート・シラーの『新しい金融秩序:来るべき巨大リスクに備える』(日本経済新聞社)という本が紹介されていて、その内容がはなはだバックミンスター・フラー(354夜)っぽいという箇所が出てくる。厳密にはフラーのシナジェティックスのどこと似ているかよくわからないが、フラーっぽいという感想はおもしろい。
 シラーは、高齢化がもたらす経済リスクを世代間で共有する「世代間社会保障」はどうかとか、個人の収入に対するすべてのリスクを対象にした「生計保険」の導入はどうかなど、いろいろ痛快な提案をしている。大著ではあるが、いずれ機会があったら紹介したい。