父の先見
賭博と国家と男と女
日本経済新聞社 1992
人間を人間たらしめた進化の原動力、それは浮気だった――などと書いたものだから、この人の著作は不埒な男性たちのほぼ全体にウケた。これが『浮気人類進化論』(文春文庫)である。
夫が狩りをするあいだ妻と子がお留守番している。夫は何をしているかわからない。その「何をしているかわからない」というアテドが確認できない時空間で進化は秘密裏におこっていったのではないかというのだ。
この仮説のバックグラウンドにはわれわれ生物はともかく何かをふやしたがるという生物学の前提がある。だいたいは種をふやしたがるのだけれど、でも、それだけか。たとえばお金や領土や洋服はなぜふえるのか。賭金はなぜ大きくなるのか。
そこで著者は考えた。浮気は大事なファクターだったが、それだけでは進化は説明しきれない。そこに何かがふえる要因を加える必要がある。
ふえるということの原型はコピーである。コピーマシンをまわしっぱなしにしていれば、いくらでも同じ文書や絵柄がふえていく。生物には遺伝子というものがあって、この機能をしっかり打ち立てた。
問題は、では同じものがふえていくだけでいいのかということだ。ただし、何が同じものかということは、案外、線引きが難しい。お金はどうやら同じものがふえるのが嬉しい気がするが、10円玉ばかりふえていくのは、5、6歳までは嬉しいが、それ以上になると重たいだけだ。千円札になり、1万円札になってほしい。この単位の格上げはそれなりに興味深いしくみを秘めている。同じ洋服も困る。できれば似合うもので、ちょっとずつは違うものがふえてほしい。実は浮気もその相手のクローンばかりがふえても困る。
ふえてるのだが、ちょっとずつ違う。これがどうやら人間の欲望をかきたてている。いったい数がふえるとは何なのか。その数に十の位や百の桁があるのは何なのか。その位や桁は、生物にとっても、社会にとってもなんらかの効能をもったものなのだろう。
こんなことをマジメに考えこんだ生物学者はいなかった。この著者か、日高敏隆くらいなものなのだ。日高さんについては、ぼくも第484夜でお出ましねがったが、本書でもなかなか痛快なエピソードがいろいろ紹介されている。
アダム・スミスは誰もが自分のことを大事にして、手元で富がふえれば国も富むと考えた。そのメカニズムには「見えざる手」が関与するとも考えた。ダーウィンも手元の保存にせっせと精を出せば子の数がふえ、種は保存もしくは淘汰されていくと考えた。
ただし、この話にはリスクというものが勘定されてはいない。アダム・スミスの時代には船を造ってどこかで毛皮や宝石や香辛料を積んで戻ってきて、これをさばけば利益が得られた。けれども船が沈没することもあるし、その冬は毛皮がとれなかったということもある。このようなリスクを勘定に入れると、やたらに一人で資金を投入するのは危険だ。そこでコンメンダやコンパニアといった何人かが共同で出資して、何かが「ふえる」ことを期待し、もし失敗してもその損害を仲間で分担すればいいという組織が生まれた。これが有限会社や株式会社の起源である。ある程度はリスクが組織に吸収されたわけだ。
しかし、これで安心はできない。このようなコンメンダがたくさんできれば、コンメンダ間の競争がおこる。生物でいえば、食うか食われるかの闘いだ。そうすると、ここからは、別の戦略を用意しなければならなくなる。
戦略的シナリオはいくつもありうるが、ここでは3つだけをとりあげる。
Aは組織の安定や強化を外部からはかるというシナリオだ。これはわかりやすい例でいえば、株主を仲間だけではなく外からも集めるという株式公開制のようなもので補える。
Bはちょっと難しいが、競争の規則を発見してそれに対処するというシナリオだ。さまざまな条件や確率を調べて、つねに平均以上の得点を積み上げていけば必ず勝てるというものである。本書ではそれをゲーム理論の案内にして、いくつか突っこんだ議論をしている。もっともここにも「囚人のジレンマ」にあたるような厄介な難所はある。ま、そのくらいは仕方ない。
Cのシナリオは、なかなかふるっている。シナリオが動くレベルをうんと深くしてしまうという考え方である。どこまで深くするかというと、お金の問題ならば、通貨の本質まで降りていく。たとえば世界の基軸通貨をコントロールするところまで、レベルをもっていく。これはいまアメリカがドルでやっていること、ヨーロッパがユーロで対抗しようとしていることだ。円にはこのシナリオはない。
人間の問題ならば、意識や心理まで降りる。これは哲学者やフロイトやユングやラカンが考えている心理学的なレベルのことで、べつだんお金や別荘がなくとも、幸福感というものはもっと気持ちや意識の持ち方で変わるのだから(と、いい聞かせて)、そこをしっかりディープ・シナリオで確立しようということになる。ここには有効かどうかは保証のかぎりではないが、自己啓発や健康管理といったシナリオも入ってこよう。
が、もっと深くシナリオが動いていると考えることもできる。それは著書がお得意のセルフィッシュ・ジーン(利己的遺伝子)まで降りてみるということだ。本当の勝ち負けは、つまり何が本当はふえているかというと、遺伝子のレベルで大半のシナリオはすでにアジェンダに書きこまれていたということだ。
本書は、いまぼくが書いてきたような順の話を書いているのではなく、またさまざまなエピソードも彩られていて、前著までと同様、あいかわらずおもしろい。そのおもしろさを伝えるにはその通りにここに書く以外はないくらいなので、とりあえず別のハンドリングで、セルフィッシュ・ジーンのところまで進めてみた。
もっともセルフィッシュ・ジーンの話はあまりにディープで、なにもかもが遺伝子で決まっていると解釈してしまうと、たのしくない。なんだか急に気力が失せる。そこで著者も巧みにメニューを繰り出して、いったい国家や家族や企業はどのようにリスクを避けつつ賭金をふやし、安全を手に入れているかという話にもっていく。
たとえば一夫一妻制と一夫多妻制。前者は遺伝子のシナリオから見ると、貧しい人々をふやして、金持ちを集中させた。後者は哺乳類の多くが採っている戦略で、これはオスを力強くさせ、メスの吸引力を高めた。この吸引力は髪形や口紅程度の一時的なものではダメで、つねにオスを吸引できる普遍性が必要である。だから一夫多妻制は強いオスの典型もつくったし、メスの変わらぬ輝きもつくった。
ただし条件がある。それはオス・メスともに発情期をもっていなければならない。ギャンブルはそのときに決まる。
発情期がなく、一夫一妻制を選択してしまった人間は、「生めよ、ふやせよ」という意思や理念がないと、種を保存し繁栄させるというシナリオを実行できなくなった。これは無理がある。そこで、最初の話に戻るのだが、人間は“浮気なサル”となって、互いが見えない時空間で進化の秘密をつくったというわけなのだ。
このほか、もっとタメになるお話は本書を読んでいただきたい。そこで、突然ですが、結論です。
◎夫がいばっていると国家は安泰する。◎妻がいばっていれば夫婦は円満になる。◎組織のリーダーになるべき人物が好色ではないことは、断じてあってはならない。◎このように、学問の総力をあげて学問的には何の役にもたちそうもないことを議論できるのが、学問のよさなのだ。
いささかぼくが手前味噌なことだけをあげていると思われそうだけれど、これ、著者の断固とした見解なのだ。えっと、そんなはずはない、えっと、そんなバカなと思うなら、著者のデビュー名著『そんなバカな!』(文春文庫)をどうぞ。