才事記

自然界における左と右

マーティン・ガードナー

紀伊國屋書店 1971

Martin Gardner
The New Ambidextrous Universe: Symmetry and Asymmetry from Mirror Reflections to Superstrings 1964
[訳]坪井忠二・小島弘

 1957年は物理学の事情が一変した年にあたる。前年にリーとヤンが「弱い相互作用」においてパリティが保存されないことを提唱し、それを受けてウーがコバルト60を使ってベータ崩壊を測定した実験結果を発表したからである。
 このことを知ったときから、ぼくは一種のパリティ・ハイともいうべき意識状態になってしまい、まだ物理学の常識さえ知らぬころから、パリティに関する記事だけは追うようになっていた。
 もともとパリティは数学者が偶数と奇数を扱うときにつかっていた言葉であった。考え方だった。次のような事情がおこっているときに、パリティという言葉がつかわれていた。二つの整数が両方とも偶数か、両方とも奇数であれば、その二つの整数は同じパリティをもつといい、一方が偶数で、他方が奇数ならばこのあいだのパリティは反対になる。

 これをもうすこし拡張すると、パリティが保存されるような現象の進み方と、そうではない進み方があるという例にお目にかかれる。
 たとえば10円銅貨をオモテにして3枚並べ、これをどんな順序でもよいから1つずつ裏返しにしていくとすると、これを偶数回くりかえしているかぎりは、その結果のパターンは最初のパターンを必ず含むものとなる。このとき「パリティは保存された」と考える。逆に、奇数回ばかり裏返していると、最初のパリティと最後のパリティはさかさまになる。このとき「パリティは破れた」という。
 ぼくはこのことに異常に興奮してしまったのである。ここには、ある現象を左右反対に映し出す“現象上の鏡像関係”とでもいうべきものがひそんでいて、その“関係”こそが自然界の秘密と、われわれがそれを観察しているときの“見方の関係”というものの秘密とが、同時に隠されているとおもえたのである。

 ウーによるベータ崩壊に関する実験は、「パリティは破れた」というものである。
 このことが何を意味しているかは、にわかに認識することは難しい。そこで、このメッセージを「宇宙には鏡像関係が成立しない現象がある」というふうに読みかえてみると、とたんに不思議な気がしてくる。鏡に写しても左右が入れ替わらない現象が、どこかにあるということになる。
 もっと簡単にいえば、宇宙のどこかに文明人がいたとして、そこにむけて地球から一枚の絵を送っても、その絵のどこが上下で、どこが左右かがわからない可能性があるということになる。10円銅貨の話が伝わらないことになりかねない。

 なぜ、こんなことが重要かというと、物質はどこかでつながってつくられているからである。
 酸素と窒素のちがいは、物質にひそむ“手”のつながりかたによって決まっていく。鉄と銀とのちがいは“手”のつなぎかたのちがいである。例の亀の子の形からいろいろな“手”が出ている分子構造や化学式は、そのことを示している。
 この“手”の奥にあるものをずっと追求していくと、そこには“手”の究極をつくっている何かがあるにちがいない。それは電子や陽子のレベルの、つまりは素粒子やそれ以下の現象のレベルでおこっているもともとの“ルール”のところで、何かが決まっているということになる。そうでなければ、何によって手を結ぶか、結ばないかが、わからない。
 そのように考えていくと、物質の動向の究極には手を結ぶか結ばないかという問題に関するもともとのそのまたもとの“ルール”があるはずだということになる。それはいいかえれば、左右の手を結ぶ問題とは、何かということになる。そして、それがはっきりしないかぎり、宇宙の文明人は、地球から送られてきたメッセージの左右について、最終的な結論が出せないはずだということになる。
 これがパリティ問題である。
 ひらたくいえば、勝手の問題である。左勝手とか右勝手とかという、あの勝手だ。つまりパリティ問題とは、「物質における最終的な勝手の問題」ということになるだろう。
 ところがリーとヤンの実験は、その物質の究極の勝手の動向のところで、パリティ(すなわち勝手)は破れているかもしれないと言い出したのだった。いったい、これは何を意味しているのか。では、物質はいったいどこのレベルで左右を決めているのか。ぼくは気になって気になってしょうがなかったのだ。

 しかし、こうしたパリティの問題を納得のいく方法で描いている本はなかった。詳細は数式をつかって説明される以外はなかった。
 そこで当時は、ヘルマン・ワイルのようなすぐれた数学者によるシンメトリー論のようなものばかりが、ぼくの読書の対象になっていた。ワイルにはそうとうにお世話になったものだ。けれども、それで合同や相似のしくみはわかっても、パリティの問題は解けなかった。
 そのときに登場してきたのが、この『自然界における左と右』なのだ。著者は「サイエンティフィック・アメリカン」の数学部門の編集長である。のちにぼくはこの人に会いに行くのだが、当時は、なんとすばらしい思考と表現ができるものなのか、まったくうっとりするような気分になれた。
 科学者や数学者で、このような表現ができるのは、たいそう珍しい。専門分野をつかいながらも、その本質的な問題を拡張しつづけて、しかも本質的な問題の根本をはずさない。ジョージ・ガモフ以来の手際なのである。
 しかもガードナーは、この問題を、「鏡で左右が入れ替わるのはなぜか」という、誰もが知っていながらちゃんと答えられない問題から始めている。そして、その疑問をたくみに解きながら、自然界におけるあらゆる対称性の出現と保存のありかたについて、次々に問題を投げかけ、これに明瞭な説明を加えていった。
 信じられない手際なのだ。

 こうして、ぼくはすっかりパリティの謎の内奥にひたることになる。
 そして、自然というものを科学的にとらえる思考方法の新しい訓練をうけたのである。その訓練は、ポアンカレやガモフやディラックやワイルからうけた訓練とは、またちがっていた。何というのか、そこには思考の自由に関する翼の広げ方のようなものがあった。
 おそらく、この本を精読したことが、その後のぼくの科学に対する見方を変えていったとおもう。それはちょうど『遊』を創刊する年にあたっていた。