父の先見
フランスから
みすず書房 1950 1999
高田博厚に「左手」という作品がある。
1972年に制作されたらしい。ごつい手だ。指は短く、何か地上を歩きまわっている夜行性の小動物のようなのだが、親指だけは平たくて、そして広い。むろん高田自身の左手である。
かつて高村光太郎が「短い、太い、切つたやうな指をもってゐる手であつて、一寸考へると、あの指がどうしてこんな繊細な技術に耐へるのかと思ふほどであるが、それがまつたく萬能の指なのである」と何かに書いていたのは、これかとおもえた。
1992年は、その高田博厚の彫刻的全貌を見るにもってこいの年だった。1987年に86歳で亡くなった高田の大回顧展は、その翌年にさっそく福井県立美術館で開かれていたのだが、ぼくはこれを見損なった。だから1992年の東京ステーションギャラリーと、同年、長野県豊科町に多くの高田作品を展示する豊科近代美術館が開館したのは、ぼくの高田体験にとってすこぶる大きなものとなった。
一言でいえば、人間であるということの自由が懐かしさをもっていることに、なんだか圧倒された。「多寡をくくってはいかん」、これが正直な感想である。人間であることに多寡をくくってはいかんということだ。
それまで実は、高田博厚はぼくにとってのちょっとした試練だったのである。彫刻ではない。その文章が、である。
高田はあれこれ文章を書いている。請われて書いたというより、好きだったのだろう。
31歳のときにフランスに渡って7年後から在欧日本人のために淡徳三郎とともに「日仏通信」を出しつづけたのだが、すでにそこにあれこれ書いていた。謄写版刷りで、しかも日刊だった。
それが1934年で、昭和9年からのことだから、そしてその後まもなくヨーロッパも日本もしだいに戦火にまきこまれていったのだから、そのような落ち着かない日々のなかでこそ、高田はあれこれ書きつづけていたのだった。そこにわれわれが体験しえない「時代の意味」というものがある。
本書もその当時の文章や片山敏彦らへの音信で構成されている。高田の最初の本でもある。
ただ、高田が書いていることは、ぼくが早稲田大学のフランス文学科に入った前後のフランス選良意識のひとつにぴったり重なっていて、ぼくはそれを脱却したくてずっと思索をしてきたのに対して、高田はずっとそこにとどまって生きてきた。
それゆえ、その高田博厚を読むのは、ぼくにとってのちょっとした試練だったのである。
この『フランスから』にもときどき出てくるが、たとえばマイヨールが「形が私を歓ばし、それで私は形を造る。けれども私にとっては、形はイデーを現す手段にすぎない。私が探しているのはイデーなのです」などと言ううとき、「うん、おっしゃるとおりだが、ぼくはそのようなことをわざわざ言うのが嫌なんだ」という気になるのである。
また、アランが「魂と肉体とは一つとなっており、抽象の中に魂を失うよりは、自分の肉体と共に失うことを選ぶ」と言うとき、たしかにそれはそうだが、だから何だっていうのだろうとおもってしまうのだ。
とくに高田が傾倒したロマン・ロランが芸術をあまりにも真っ正直に肯定する態度は、羞かしくてしかたがなかったものである。
おそらくこのような反発は、ぼくが若い頃に加担したいとおもっていたボードレールやヴァレリーやリラダンの感覚、あるいはコクトーやサティやルイ・マルの感覚からすると、許しがたいものだったのである。
しかし、にもかかわらず高田の文章はぼくにとって、なにかしらの必要なものなのだ。読書には、ときおりそういう体験が熾烈に要求されるものである。
結局、高田からぼくが学ばなければならないのは、タンジブルということ、すなわち高田流にいうのなら「触知的」ということだ。
触知的とは、言葉を彫刻のように見えるものにする、裸にすることである。この、ぼくが長いあいだ忘れてきたことを、本書と高田の彫刻群は軽々と告示してくれたのだった。彫刻群とは、次の彫像のことをいう。
制作順にいうなら、こういうふうになる。小山富士夫像、中原中也像、高村光太郎像、大内兵衛像、武者小路実篤像、梅原龍三郎像、西田幾多郎像、高橋元吉像、富岡鉄斎像、萩原朔太郎像、岸田劉生像、新渡戸稲造像、内村鑑三像、宇野重吉像。
このような日本人が選ばれた。この彫像たちに、ぼくが学ばなければならない触知の時間がたまっている。