才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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フォッサマグナ

藤岡換太郎

講談社ブルーバックス 2018

編集:山岸浩史 協力:竹之内耕・松田時彦・平田大二・西川徹・高橋直樹・矢島道子

装幀:芦澤泰偉・児島雅淑

いつしかフォッサマグナをぜひ見たいものだと思っていた。フォッサマグナへの関心は募ったままになってきたのだが、むろん研究したわけではない。たんなるフォッサマグナ・ファンなのだ。けれども、そのおかげで日本列島フェチになれた。

 エドムント・ナウマンが北海道を除く日本の地質図を初めて完成させたのは、明治18年のことである。20万分の1の地質図だった。
 ナウマンはザクセン王国マイセンで生まれたドイツの地質学者で、明治8年にお雇い外国人教師として日本政府に招かれた。まだ21歳だ。文部省の金石取調所、東京開成学校をへて、若くして東京帝国大学理学部の地質ならびに採鉱冶金学の教授をみごとに務めた。
 活動も広い。モースとともに貝塚の調査研究にも熱心だったし、古代マンモス「ナウマン象」の命名者ともなった。オランダ帰国寸前のシーボルトの協力者でもあった。しかし、なんといっても「フォッサマグナ」の発見者また命名者として、われわれ日本人はナウマン先生に頭が上がらない。

 ナウマンは、最初は学生たちを連れて各地の地質調査に出向いていたのだが、これでは埒があかないとみて地質調査所を設立すると、日本の地形地質図の作成に乗り出した。小川琢治(湯川秀樹の父君)や山崎直方(東大地理学の創始者)が参加した。
 地質調査所はいまは産業技術総合研究所の地質調査総合センターになっているのだが、現在でも5万分の1の地質図を1枚つくるだけで3年がかかる。ナウマンが概略図とはいえ、約10年で20万分の1の全国地質図を仕上げていったのは驚くべき充実だった。
 そのナウマンを感動させたのが、千曲川から野辺山に至ったときに平沢という集落から見た壮大な光景である。釜無川が流れる台地の向こうに一挙に2000メートル級の南アルプスや駒ヶ岳が聳え立っている。ヨーロッパでもこんな劇的な地形光景はめったにない。その後、3度にわたってこの威風の地形を各ポイントで調べ、この地形にラテン語で「フォッサ・マグナ」(Fossa magna)という名を付けた。fossa は「地溝」、magnaは「大きな」という意味だ。

若き日のエドムント・ナウマン
フォッサマグナや中央構造線を発見し、日本の地質学の発展に多大な貢献をした。

ナウマンが作成した日本の地質図
北海道を除く、20万分の1の地質図。現在の地質図と比べても遜色ないほど完成度が高い。
『フォッサマグナ』p22

現在の平沢から見える南アルプス
現在は草木によって視界が遮られているが、ナウマンはここに絶景を見た。
『フォッサマグナ』p25

ナウマンの3度にわたった調査旅行のルート
①〜③はナウマンが巡った順序を示す。
『フォッサマグナ』p28

 フォッサマグナは日本海の糸魚川から中央日本を抜け、駿河湾の静岡まで続いていた。矢部長克はこの未曾有のラインを「糸魚川・静岡構造線」と名付けた。略して「糸静線」という。
 いまではフォッサマグナが推定地下6000メートルに及ぶ「溝」であることがわかっている。約2000万年以前の岩石でできていることも突き止められた。ところが当時から意外なことが注目されていた。フォッサマグナの東西および南北の岩石には約1~3億年ほどの違いがあったのだ。ナウマンはフォッサマグナの出現によって日本列島の東西の地質事情が劇的に異なっていると見た。
 その後、多くの地質学者や地球科学者がフォッサマグナがどのように形成されたのか、その謎に挑んできた。なかなか決定打が見舞えない。本書はその決定打のための仮説をいくつかの見方を通して綴ったものである。
 フォッサマグナを抜いては日本列島は語れない。地震のことも津波のことも、海洋日本の本来も将来も語れない。しかし、フォッサマグナを語るには地球科学の全容をコールバックすることも必要なのである。

フォッサマグナの西側境界は糸魚川―静岡構造線
古い地質と新しい地質が糸静線ではっきりと分断されている。(セイゴオマーキング入り)
『フォッサマグナ』p47

フォッサマグナとその両側の岩石のイメージ
フォッサマグナの地質は東西両側よりもはるかに年代が新しい。(セイゴオマーキング入り)
『フォッサマグナ』p36

 吉見センセイが「あんなあ、日本列島は真ん中で腹切っとるのや。知っとったか。フォッサマグナって言うんや」と宣(のたま)った。京都松原新町の修徳小学校だ。
 5年生の理科の授業が始まったときだったろうか。「フォッサマグナ」とは聞き取れない。「ホッサマグマ」と聞こえた。だからみんながみんな、これは「発作マグマ」だと思った。てっきりマグマという巨大な怪物が何かに怒って切腹して、喘息のような発作をしているのだと想像したのだ。またなぜか「机竜之助みたいやね」と友達と言いあった。きっと映画の『大菩薩峠』(688夜)とどこかでつながったのだろう。
 センセイは中央構造線のことも話してくれて、「あんなあ、日本列島はヨコで切れて、タテで割れてるんや」と教えた。またまた発作マグマだ。日本列島然のどこかに巨きなサムライがひそんでいて、腹切りをしてのたうっているように思った。これじゃ祖国日本はずたずたで、異界からやってきた連中が巨大な十字架が地中深くに埋めていったのかというような気にもなった。

日本列島の不思議な特徴
島弧の方向は「逆くの字」に、中央構造線は「八の字」に曲がっている。(セイゴオマーキング入り)
『フォッサマグナ』p45

 その後すぐに、発作マグマはマグマの発作ではなくて、巨大な亀裂を意味するフォッサマグナであることはうすうすわかった。が、これでますます昂奮した。
 子供はなんであれ、日本が「ものすごいもの」を秘めているのが好きなのだ。だからぼくは透明トップの摩周湖も、最大カルデラ地形の阿蘇山も、最長の丹那トンネルも、最大発電力の佐久間ダムも、大好きだった。
 それがフォッサマグナで最高潮に達した。さっそく夏休みの課題で「日本列島のすがた」という薄っぺらい大型ノートをまとめた。鉛筆なめなめの手書きだ。帝国書院の地図帳を眺めていくつも地形図をトレースして、そこに火山やら河川やらの地勢図を描きこみ、それぞれの特徴を短いコトバでのっけて書いていく。2、3ページ目にフォッサマグナと中央構造線を、タテヨコ十文字のクレヨンの太い線にして入れた。腹切り日本列島だ。十字架というより、大きなバッテン絆創膏をしているような日本列島になった。
 タテのクレヨンは糸魚川から諏訪湖や小淵沢や昇仙峡を縦断するフォッサマグナで、駿河湾に抜けさせた。ヨコの中央構造線のクレヨンは阿蘇から四国を突っ切って伊勢半島の中央から富士山のほうに走らせた。二つの太い線は富士山あたりで交差して、そこにビカビカ“注意”マークを入れた。あとで知ったのだが、実際には中央構造線はフォッサマグナとは切り結んではいなかった。中央構造線は途切れているのである。腹切りはなく、十字架もなかったのだ。
 2年後、「日本列島のすがた」は二つ年下の妹の敬子も課題発表のテーマにした。敬子は何であれぼくの真似をするのが好きな妹だったが、喘息を克服してからはぼくよりうんと強靭になって、日本中の山を踏破するようになった。

ナウマンが定義したフォッサマグナ地域の範囲
セイゴオが辿った弾痕を含むフォッサマグナのおもな地名。(セイゴオマーキング入り)
『フォッサマグナ』p35

 いつかフォッサマグナをぜひ見たいものだと思っていた。最初に糸魚川を訪れたのは大学1年の夏だ。姫川の翡翠の跡を追うつもりもあってあまり上流のほうには行かず、途中から戻って親不知のほう(おやしらず)へ抜けた。
 次は寺田寅彦(660夜)の「割れ目」に心酔していた20代最後の年に、とびとびにフォッサマグナの弾痕を見にいった。北部フォッサマグナの大町、八ヶ岳、塩尻、諏訪湖、南部フォッサマグナの丹沢や昇仙峡や富士川などだ。
 90年代に入って、白州塩沢温泉に行って真っ裸になった。この温泉は「フォッサ・マグナの湯」と言われているところで、4つのプレートが重なる最もユニークな変動帯の上の天然温泉である。施設は素朴(とても粗末)なものだったけれど、低温湯から高温湯まで揃っていた。田中泯と木幡和枝が仕切っていた白州フェスティバルの帰りのことだ。
 いまではフォッサマグナの断層は「ジオパーク」とされて、そこそこの観光コースにもなっている。しかし、そこへ行ってもスケール感はほとんどわからない。かつてナウマンが驚愕した実感はない。
 こうして、吉見センセイの話からフォッサマグナへの関心は募ったままになってきたのだが、むろん研究したわけではない。たんなるフォッサマグナ・ファンなのだ。けれども、そのおかげで日本列島フェチになれた。フェチではあったが、やっていたことは岩石・鉱物・化石の標本集めと、いろいろの関連本を読むことだけだった。

糸魚川のフォッサマグナパーク
糸魚川-静岡構造線を人工的に露出させた断層見学公園。断層破砕帯をはさんで、東側の約1600万年前の岩石と、西側の約4億年前の岩石が接していることがわかる。

 早稲田時代に後生大事にしていたのは、辻村太郎の古びた『地形学』(古今書院)と、中野尊正の『日本の地形』(築地書館)である。辻村太郎は山崎直方の一門で、景観地理学を唱えた地理学者である。画家の中村宏が辻村地形学にもとづいた油彩画を描いていたので、二人でよくその話をした。
 ついで70年代になって「遊」を編集してたころに傍らにおいてのべつ眺めていたのは、市川浩一郎・藤田至則・島津光夫による監修の『[日本列島]地質構造発達史』(築地書館)と、竹内均・坂田俊文が地球観測衛星ランドサットが解析した衛星写真を監修した『宇宙からみた日本列島』(NHK出版)だ。ランドサットの画像については本だけでなく、しばしば東海大学の情報技術センターを訪れて画像解析の現場を見聞し、さらには坂田先生にひっつきまわって愉快な話を聞いていた。坂田先生は何かというとポケットから付けチョビ髭を出して、ヒトラーの真似をする変な先生だった。
 しかし、本を見たり岩石を手にしたり宇宙からの画像を見たりしているだけでは、フォッサマグナの正体はいっこうに見えてはこない。そのうちなんとなくではあるのだが、フォッサマグナの正体はひょっとすると内陸の地形や地質からだけではわからないのではないかという気がしてきた。むしろ「海」や「海底」が問題なのではないか。

『「日本列島」地質構造発達史』(築地書館)とセイゴオの愛読者カード
工作舎時代のセイゴオの座右の書。開くとページのあいだから、当時のセイゴオが書いたであろう愛読者カードが出てきた。

『地球観測衛星ランドサット 宇宙から見た日本列島』(日本放送局出版,1982)
監修/竹内均・坂田俊文
地球観測衛星ランドサットから送られてくる地形画像をまとめた一冊。地球表面のすみずみまで、その地形・植生・都市化状況・環境の変化等々を、日本では初めて鮮明に描き出した。

中央構造線、フォッサマグナ、伊豆半島の断層のランドサット画像
ランドサット画像は、大規模な断層の調査にむいている。左の画像は、中央の諏訪湖を中心として南南西に走っているのが中央構造線、糸魚川から静岡に達しているのがフォッサマグナだとわかる。右の画像は伊豆半島、小さい断層が多いが、箱根から修善寺へかけての丹那断層が比較的大きい。
『地球観測衛星ランドサット 宇宙から見た日本列島』より

 昨今、日本海がいろいろ問題になっている。第1には、韓国とのあいだで竹島の領有権が争われている。日本は島根県の所有だと言い、韓国は「独島」(トクト)と呼んでこれを実効支配し、北朝鮮は領有権を主張する。
 第2には、出雲神話の大容を解くことが求められている。日本神話の成り立ちは伊勢神話とはべつに、日本海を背景にした組み立てに深く関与していると想定できるからだ。国引き神話や神功皇后の新羅伝説のルーツが問題なのである。明治中期以来の日鮮同根神話説も検討しなければならない。第3には、倭寇の歴史がだんだんわかってきて、中世倭人の動向とともに日本海の歴史文化がやっと見えるようになってきた。
 しかし第4に、フォッサマグナと直接関係していそうなのは、2011年にアメリカの海洋地質学者マーチンが、日本海は「海溝三重点」であって二重サロンドア方式で誕生したと発表したことだった。フォッサマグナもこのことから引き起こされたのではないかという仮説だ。これについては、あとでふれたい。

 ぼくは日本海に惹かれてきた青年である。なぜか太平洋より日本海のほうが好きなのだ。
 高校時代に福井県の親戚の家に遊びにいったとき、敦賀で乗り換える際に敦賀港まで行ってみたのだが、岸壁に打ち寄せる日本海にジーンときた。福井に泊めてもらったあと、東尋坊から見た地味な鉛色の日本海のありように妙に惹きつけられたのだ。のちに佐渡に入ってドンデン山から心ゆくまで眺めわたした。いまでも新潟から佐渡に向かうと泣けてくる。「荒海や佐渡によこたふ天の川」は鉛色の日本海なのである。
 太平洋が嫌だというわけではない。初めて遠泳をしたのは房総の勝浦沖だったし、子供の頃は捕鯨船に憧れて赤道を越えて南太平洋に向かう船員たちの日々を描いたドキュメンタリー映画に感動して、何度も見たものだ。しかし島嶼である日本列島民から見ると、おそらく太平洋は大きすぎるか、眩しすぎる。それにぼくは根っからのハワイ嫌いなのだ。ワイキキなどゼッタイに行くものかと決めてきた。

東尋坊(とうじんぼう)
福井県坂井市三国町安島に位置する崖。波の浸食によって荒々しくカットされた断崖絶壁が続く奇勝地とされる。「輝石安山岩の柱状節理」という、地質学的にも珍しい奇岩は 世界にも東尋坊を含め3ヶ所しかないと言われる。

佐渡のドンデン山
正式名はタダラ峰。900メートル級の3つの山を合わせた高原一帯を「ドンデン山」と呼称する。頂の丸い山の意味「鈍嶺(どんでん)」に由来する。

 日本海は中国の古称では「鯨海」である。古代日本では「北海」と言っていた。『日本書紀』に韓半島からやってきた都怒我阿羅斯(ツヌガノアラシ)たちが宍戸(長門)から海路に迷い、「北海をまわって出雲国をへて越の笥飯浦(敦賀)に至った」とある。
 いつから「日本海」という用語が使われたのかは明確ではないが、最初に印刷物に登場するのはマテオ・リッチの「坤輿万国地図」あたりからで、日本では山村才助が『采覧異言』に最初に記した。韓国では「東海」(トンヘ)と言った。日本海という呼び名も、日韓のあいだで竹島問題ともどもその呼称がいまなお争われている。
 最初に日本海の探査をおこなったのは、1789年にフランスのラペルーズがの艦隊が対馬海峡から日本海に入ったときで、当時の『ラペルーズ世界航海記』には“Mer du Japon”(日本海)と記された。次はロシアのクルーゼンシュテルンで、1805年に軍艦やフリゲート艦で航海調査した。海外では「日本海」で通っていたのだ。
 こうした日本海をめぐる社会文化の事情については、以前は高瀬重雄の『日本海文化の形成』(名著出版)や藤田富士夫の『古代の日本海文化』(中公新書)などがさまざまな見方を提供していた。新しくは中野美代子さんの『日本海ものがたり』(岩波書店)というすばらしい探索本が、その奥行きを示していた。中野さんは『孫悟空』の翻訳者でもあるが、ずうっと北大にいて、1972年には『北方論:北緯四十度圏の思想』(新時代社)、『辺境の風景:中国と日本の国境意識』(北海道大学図書刊行会)、『ひょうたん漫遊録:記憶の中の地誌』(朝日選書)といった、北方や日本海を意識した著述を先行して綴ってきた。

坤輿万国全図
イタリアの宣教師マテオ・リッチが作成した漢訳版世界地図。1602年に北京で刊行。「日本海」という呼称の初出と言われている。

 地質学的には、日本海は西太平洋の「縁海」である。実際にはユーラシア大陸と樺太のあいだの間宮海峡(タタール海峡)と樺太と北海道のあいだの宗谷海峡でオホーツク海とつながり、対馬海峡で東シナ海とつながっている。つながってはいるが、この海は大陸から弓なりに出っ張った日本列島の懐ろや肩口が抱いている縁海なのだ。
 だから日本海の海底には「山」や「盆」がある。真ん中あたりに水深わずか236メートルの大和堆(やまとたい)があり、その周囲をかこむように日本海盆、大和海盆、隠岐堆(おきたい)、対馬海盆がとりまいている。日本海盆は深さ3000メートルの海底に広がる大平原で、面積は約30万平方キロに及ぶ。日本の国土面積の8割にあたる。大和海盆には大和海嶺という九州ほどの海底山脈がある。
 これらは日本海ができたあとに形成された。では、そもそもの日本海はどうやってできあがったのかというと、これがはっきりしない。以前は陥没説が流布していたのだが(ぼくも学校ではそう習ってきた)、いまでは陥没説は葬られていて、徐々に海洋領域が拡大していったと見られている。
 ただ、その原因と作用をめぐっての議論が割れてきた。ざっと、①大陸移動説、②沈みこみによるマントル上昇説、③プルアパートベイズン説、④トランスフォーム断層説、⑤ホットリージョン・マイグレーション説、⑥オラーコジン説、などに分かれる。

日本海の海底地形
日本海盆、大和海盆、対馬海盆などの低い平原と、大和堆などの高まりがある。(セイゴオマーキング入り)
『フォッサマグナ』p94

現在、考えられている日本海拡大のイメージ(セイゴオマーキング入り)
『フォッサマグナ』p98

 本書の著者の藤岡換太郎さんは、ぼくとほぼ同い歳の京都生まれの地球科学者である。海底地質学が専門だ。海底潜水調査船「しんかい6500」に51回乗り込んでいる。いくつも本を書いておられるが、なかでもぼくは『深海底の地球科学』(朝倉書店)という浩澣な本に堪能させられた。
 その他にも、いろいろな本がある。ブルーバックスにも『山はどうしてできるのか』『海はどうしてできるのか』『川はどうしてできるのか』『三つの石で地球がわかる』(講談社)という、地学の基本を懇切に説明したありがたい本がある。『三つの石で地球がわかる』の三つの石とは何か、わかるだろうか。橄欖(かんらん)岩・玄武岩・花崗岩のことだ。それぞれ火成岩、火山岩、深成岩の一種にあたる。
 本書はまさにタイトル通りのフォッサマグナの謎を正面きって解いた本で、新書にしてはけっこうレベルが高いものではあるが、たいへん多くの知見が紹介されていて、説得力に富む。上に述べた日本海成立のプロセスについても、①大陸移動説から⑥オラーコジン説まで、とてもわかりやすい。念のため、ざっと説明しておく。

 ①「大陸移動説」はウェゲナーの大陸移動説を日本海にあてはめたもので、早くに寺田寅彦が提唱した。
 いまでは乙藤洋一郎らが古地磁気によってその移動の様相を詳しく調べていて、それでわかってきたのは、日本列島が移動中に東北日本は反時計回りに、西南日本は時計回りに回転したため、もともとは北に揃っていた古地磁気の方位が反対向きになったということらしい。それを川井直人は「日本列島の折れ曲がり」と言っている。

古地磁気方位による日本列島の移動と日本列島の折れ曲がり 
北の方位が東北日本は西に、西南日本は東に偏っていた。(上)
東北日本は反時計回りに、西南日本は時計回りに回転しながら大陸から離れたとする説を「観音開き説」ともいう。(下)
『フォッサマグナ』p103

 ②「沈みこみによるマントル上昇説」は、東北日本弧に太平洋ブレートが沈み込んでいることに注目して、それによっておこったマグマの上昇が日本列島の原型となる火山列をつくったのではないか、このことで日本海のかなり深いところでマントルの部分融解がおこり大量のマグマが発生してリフトが大地を裂き、日本海を拡大させたのではないかというものだ。それこそ発作マグマ説である。
 ③「プルアパートベイズン説」は玉木賢策とローラン・ジョリベの説で、日本海北東部の横ズレ断層と南西部の対馬付近の横ズレ断層がセットでずれて、両者のあいだに引っ張られた力による空洞ができたため日本海が陥没したのではないかと考えた。
 ④「トランスフォーム断層説」は、ぼくも親しい丸山茂徳と相馬恒雄が提唱したモデルで、日本海にはたくさんの海山や海台があり、プレートどうしによるたくさんの横ズレのトランスフォーム断層をつくっているのだが、それらが日本列島を南へ押しやり、そこに日本海ができたというものだ。ただ、いまだ断層の痕跡が発見されていない憾みがある。

横ずれ断層・・・断層面に平行に生じる
※プレートどうしの横ずれ断層は「トランスフォーム断層」と呼ばれる。
『フォッサマグナ』p52

 ⑤「ホットリージョン・マイグレーション説」は、もとは変成岩のユニークな研究者だったが、地団連と対抗して論難を受け、その後はアメリカに渡ってプレートテクトニクス研究を深めた都城秋穂(みやしろ・あきほ)による壮大な仮説である。
 マントル深部のホットリージョン(熱い地域)に高温プルームがあって、それがゆっくり移動(マイグレーション)しながら日本海をつくったというものだ。プルーム(煙体)というのはマントルが柔らかくなったもので、大地を引き裂く強烈な力をもっている。
 ⑥「オラーコジン説」は著者が期待を寄せている説で、新潟大学の立石雅昭と京大の志岐常正が提案した。オラーコジン(aulacogen)というのは「溝の生成」というギリシア語から採られた用語で、基盤岩層を切断する大規模な断層が区切った変動性のある凹地のことをいう。アメリカのポール・ホフマンらが研究した。
 立石・志岐は、ユーラシア大陸の縁にオラーコジンが3方向の割れ目を形成して、そのうちの2方向が日本海をつくり、残る未発達の割れ目がフォッサマグナになったと考えた。

 地球はプレートでできている。プレートには海のプレートと陸のプレートがあり、これがゆっくりと移動しつづけている。有史以来、止まったことがない。だから大地震もなくなることはない。そう考えるのがウエゲナーの大陸移動説を発展改良したプーレートテクトニクス(plate tectonics)理論というものだ。そのプレートは100キロの厚みをもつ。バカでかい。
 そのバカでかい海のプレートがゆっくり移動して陸のプレートの下に沈みこみ、そこが海溝になる。沈みこんだところではマントルが溶解してマグマとなって、やがて地上に噴き出す。これが火山だ。
 日本列島は島弧と海溝でできている島嶼列島である。花綵列島(はなづなれっとう・かさいれっとう)などともいう。島弧と海溝は必ずセットなので、まとめて「島弧-海溝系」という。これが「日本列島のすがた」だ。
 5つの島弧-海溝系で形成されている。北から、①千島弧・千島海溝、②東北日本弧・日本海溝、③伊豆小笠原弧・伊豆小笠原海溝、④西南日本弧・南海海溝(南海トラフ)、⑤琉球弧・琉球海溝、だ。トラフは水深6000メートルより浅い海溝で、舟形になっていることが多い。
 一方、地球規模でみると、図で見てもらうと一目瞭然だが、日本列島は巨大な4つのプレートにしっかり囲まれている。太平洋側に太平洋プレートとフィリピン海プレートがあり、北海道沖に北米プレートが、日本海側にユーラシアプレートがある。北米プレートと太平洋プレートの境界が日本海溝で、北米プレートとフィリピン海プレートの境界が相模トラフに、ユーラシアプレートとフィリピン海プレートの境界が駿河トラフになる。
 これらがガッチャンと突き合わされたり突き重なったりすると、大地震がおこり、大津波を生じる。3・11東日本大震災は太平洋プレートが北米プレートの下に沈み込んで、日本海溝に大震動がおこった海溝型の巨大地震だった。
 ところで、このうちの北米プレート・太平洋プレート・フィリピン海プレートがつくる3つの海溝は、なんと房総半島沖の一点で交わっている。世界でもたいへんめずらしい。「房総沖海溝三重点」という。この三重点が本書の隠れた主役を担っていた。

島狐―海溝系のイメージ
プレートが沈み込むと融けてマグマとなり、火山をつくる。火山の列が島狐になる。
『フォッサマグナ』p40

日本列島は5つの島弧―海溝系でできている
①千島弧と千島海溝系
②東北日本弧と日本海溝
③伊豆・小笠原弧と伊豆・小笠原海溝
④西南日本弧と南海トラフ
⑤琉球弧と琉球海溝
(セイゴオマーキング入り)
『フォッサマグナ』p41

日本列島でせめぎあう4枚のプレート
ユーラシアプレートと北米プレートの境界である糸魚川―静岡構造線はフォッサマグナの西端と考えられている。(セイゴオマーキング入り)
『フォッサマグナ』p42

 では、あらためて話をフォッサマグナに戻すと、フォッサマグナには北部フォッサマグナと南部フォッサマグナがある。ナウマンが気づいていたように、二つは地質がかなり違っている。
 北部フォッサマグナは堆積岩が多く、その多くが1600万年前に海底に堆積した地層になっていて、それらが長時間をかけてのちに褶曲(しゅうきょく)した。八ヶ岳や諏訪湖の北側に属する。南部フォッサマグナは海底火山の噴出物からできていて、代表的な丹沢山地などは中央部はトナール岩(花崗岩の一種)からできている。一定の期間をおいて間歇的に形成された。山梨県の韮崎から南に属していて、ほぼ中央に富士山が位置する。
 これらの違いをもとに推測されたのは、北部フォッサマグナが「その場」で形成されたのに対して、南部フォッサマグナは「ほかの場所」から移動してきたのではないかということだ。南部フォッサマグナについてはとくに松田時彦が専門的に調査研究してきた。松田時彦の名は地震地質学で鳴り響いていた。
 それで、この南部フォッサマグナの地質履歴から何が仮説できるかというと、伊豆小笠原弧がかつては本州より遠い海底にあって、それがマグマの貫入や冷却ののち本州に移動して衝突し、その結果、丹沢山地のようなところができただろうということだった。これが南部フォッサマグナができた原因なのだ。それなら、伊豆小笠原弧はなぜ動いたのか。当然、何かが押したか、運んだのである。

フォッサマグナの南部と北部(セイゴオマーキング入り)
『フォッサマグナ』p55

北部フォッサマグナの地層
『フォッサマグナ』p72

南部フォッサマグナの地層
『フォッサマグナ』p77

 松岡正剛事務所に5年前から寺平賢司が入ってきて、ぼくのアシストなどをしている。帝京大学の出身で、松岡事務所が大学図書館のプランの一部を担ったときに学生としてかかわっていた。
 やがて卒業後にバイトにやってきて、そのまま松岡事務所のスタッフになった。明るくておもしろく、おっちょこちょいだが、探求心もある。大いに将来を期待しているのだが、実はお母さんがフィリピン人で、だから1年に一度はフィリピンに行く。大家族パーティがあるらしい。ミンダナオ島のダバオでは、そういう大家族がしばしば集まるらしい。
 ミンダナオ島はフィリピン海に面して、フィリピン最高峰の火山のアポ山がある。もともとフィリピン群島は、ユーラシアプレート、太平洋プレート、インド・オーストラリア・プレートの3つのプレートの衝突と沈み込みによって複雑なテクトニクスとなって形成された群島である。日本と似た「島弧-海溝系」になっている。周囲は5つの背弧海盆がつくったフィリピン海、南シナ海、スル海、セレベス海、モルッカ海にかこまれ、これらの東南部を大きくフィリピン海プレートが牛耳っている。

アポ山
フィリピンミンダナオ島南部、ダバオ市の南西にある火山。標高はフィリピンの最高峰となる2,954m。北隣のタロモ山と同じ一つの火山だったが、爆発によって頂上部を失い、さらにその後の爆発により別々の山になったと考えられている。

フィリピン海地図
フィリピン群島の東に接する西太平洋の一部。西はフィリピン群島、北西は台湾および日本の南西諸島、北東は小笠原(おがさわら)諸島、東はマリアナ諸島、パラオ諸島に囲まれる海域である。世界でもっとも深い海の一つで、フィリピン、琉球、マリアナ、ヤップなど多くの海溝があり、マリアナ海溝中には世界の海の最深点がある。

 フィリピン海プレートは、主に西フィリピン海盆、四国海盆、パレスベラ海盆(沖ノ島海盆)の3つでできている。
 これらは背弧海盆で、マグマが背弧の下にたまると、リフト(大地の裂け目)をつくって溶岩を噴出させて、新しいプレートをつくりだす。海底地質史は、西フィリピン海盆と四国海盆の拡大後にフィリピン海プレートが北に向かって移動を開始したということをあきらかにした。このとき海溝に沈みこんでつくられたのが、いまは不気味に沈黙している南海トラフだ。
 伊豆小笠原弧を押したか、運んだのは、このフィリピン海ブレートだったのである。フィリピン海プレートは北上して伊豆小笠原弧にぶつかった。これでプレートは行く手を阻まれたのだが、北上はおわらない。ゆっくり動きを止めないまま、伊豆小笠原弧をじわじわと本州のほうへ押しつけて、グシャッとなった。これが南部フォッサマグナの始まりだった。

フィリピン海プレートの北上と伊豆小笠原弧の衝突
伊豆、丹沢、御坂、櫛形山の地塊が次々に衝突したと考えられている。(セイゴオマーキング入り)
『フォッサマグナ』p83

 フォッサマグナは単純に大きな溝によってできたというのではなかった。北部では大地を削り、南部では大地を足していた。この二つがほぼ同じ深さで、ほほ同時におきて、フォッサマグナを形成したのである。おそらく日本海と太平洋という海底での出来事がかかわったのだ。海溝三重点がトリガーになっていると想定された。
 海溝三重点というのは海底プレートが三重に折り重なっている海溝のことで、プレートテクニクス理論の一環としてダン・マッケンジーとジェイソン・モーガンが提唱し、その特色を定義した。三重点は海嶺(Ridge)、トランスフォーム断層(Fracture)、海溝(Trench)が組み合わさってできるものとされ、その組み合わせはそれぞれの頭文字をとって、R-R-F三重点、R-T-F三重点、R-R-R三重点、T-T-R三重点などと呼ばれる。
 いまのところ、世界に16箇所あるとされている。代表的なのは北米プレート・フィリピン海プレート・太平洋プレートが交わっている「房総沖海溝三重点」、南米プレート・アフリカプレート・南極プレートが交わっている南太平洋の「ブーベ三重点」、南米プレート・ナスカプレート・南極プレートが交わる「チリ三重点」、アラビアプレート・ソマリアプレート・ヌビアプレートが重なる「アファー三角地帯」(東アフリカ大地溝帯)などだ。
 房総半島沖の海溝三重点は世界中でここしかないというT-T-T型で、日本海溝・伊豆小笠原海溝・相模トラフが交わっていた。

伊豆・小笠原弧の海底地形(セイゴオマーキング入り)
『フォッサマグナ』p124

 2011年に海洋地質学者のマーチンは、おそらく日本海も海溝三重点であって二重サロンドア方式で誕生したという説を出した。マーチンは、日本海がそういう海溝三重点のなんらかの影響でできあがったのではないか、その痕跡がフォッサマグナではないのかと仮説したのだ。
 ぼくはウェブニュースでこれを知った程度なので、詳しいことはさっぱりわからなかったのだが、2014年に堤之恭が『絵でわかる日本列島の誕生』(講談社)で、その可能性がありうることを示していて、へえーっと思った。本書の藤岡換太郎は房総沖海溝三重点も南部フォッサマグナの出現にかかわっているのではないかとした。
 いずれもたいへんスリリングな仮説だが、どうも詳しいことはわからない。わかってきたことは、太古の地球のダイナミックな離合集散とともにフォッサマグナも生じたのだろうということだ。

 約2億5000年前、地球は巨大な超大陸パンゲアに覆われていた。それまでもいくつかの大陸プレートが集まったり離れたりしていたのだが(10億年前のロディニア超大陸、6億年前のゴンドワナ大陸など)、パンゲア超大陸が形成されたときは、いったん地球上の大陸がほとんどくっついた状態になった。
 その後の2億年ほど前、パンゲア超大陸はスーパープルームによって引き裂かれ、ふたたび移動を始めた。
 地球は地下670キロのところで上部マントルと下部マントルに分かれている。ここに大きな境界帯域がある。この670キロというのは、地球の内部ではとても重要な境い目になる。もっと深い地下2900キロからは金属核で、そこから上はプルームになっている。
 プルームの材料は海溝から沈みこんできたプレートで、670キロのところでいったん停滞したあと、重くなると下に沈みこみ、深さ2900キロに沈殿し、そこでプレートとプルームが一体になる。それが大量になってくると高温のプルームができてきて、670キロの帯域を越えて上昇してくる。これをスーパープルームという。
 このスーパープルームの動きによって、パンゲア超大陸はばらばらに散りはじめ、今日のユーラシア大陸が生じた。このとき日本列島めいたものはユーラシア大陸の東の端にへばりつき、西の端に伊豆小笠原海溝ができていた。
 パンゲアがばらばらになるにつれ、プレートの残骸は海溝に沈みこみ、メガリスとよばれる岩石塊になる。メガリスはたいへん重いので670キロの帯域を越えて落ちてゆき、2900キロのところまで達すると、その反流でホットプルームが上昇を開始した。このホットプルームの大量の上昇がスーパーホットプルームとなり、やがてフォッサマグナをおこす遠因となったのである。

スーパープルーム
地上670kmのラインを越えて上下動するのがスーパプルーム。(セイゴオマーキング入り)
『フォッサマグナ』p172

 スーパープルームは枝分かれしてマントル内を移動する。その一部が北上してフィリピン海にさしかかると、およそ6000万年前に西フィリピン海盆を南北に拡大させ、2700万年前に四国海盆を東西に拡大させた。これでフィリピン海プレートが形成されたのである。
 かくて1700万年前には日本海が拡大を開始した。ホットプルームの上昇によって大地は3方向に割れ、3本の断裂(リフト)ができた。これがオラーコジンだ。オラーコジンの3本リフトはT字形になると、2本が一直線につながり、1本がこれに交差するようになった。著者はこの1本が北部フォッサマグナになったと仮説する。
 先に「⑤ホットリージョン・マイグレーション説」として、マントル深部のホットリージョン(熱い地域)に高温プルームがあって、それがゆっくり移動(マイグレーション)しながら日本海をつくったという説と、「⑥オラーコジン説」として、ユーラシア大陸の縁にオラーコジンが3方向の割れ目を形成して、そのうちの2方向が日本海をつくり、残る未発達の割れ目がフォッサマグナになったという説を案内しておいたが、著者の仮説もそれらにもとづくものだった。

オラーコジンのリフトは「進化」する
ホフマンらが考えた進化の形態
『フォッサマグナ』p181

オラーコジンのイメージ
焼けた餅がふくらんで、三方にひびが入る。
『フォッサマグナ』p174

 こうして日本海がさらに拡大していくと、東北日本側のリフトは反時計まわりに、西南日本側のリフトは時計まわりに回転をおこし、ここに南北フォッマグナが形成されることになったのである。北方でオラーコジンができて日本海が拡大し、南方でフィリピン海プレートができて伊豆小笠原弧が列島に衝突したのが同時期であったのは、スーパープルームのせいだった。

フォッサマグナができるまで①
2000万年〜1700万年前〔日本海の拡大前夜〕

オントンジャワ海台をつくった大量のスーパープルームの一部が、南でフィリピン海プレートを形成し、北上して日本海に達する。
『フォッサマグナ』p179

フォッサマグナができるまで②
1700万年〜1500万年前〔オラーコジンの出現〕

オントンジャワ海台をつくった大量のスーパープルームの一部が、南でフィリピン海プレートを形成し、北上して日本海に達する。
『フォッサマグナ』p182

フォッサマグナができるまで③
1500万年〜1200万年前〔伊豆・小笠原弧の衝突〕

北部フォッサマグナの形成とほぼ同時期に、伊豆・小笠原弧が衝突して南部フォッサマグナが形成された。
『フォッサマグナ』p186

フォッサマグナができるまで④
1200万年前〜〔浅くなるフォッサマグナ〕

フィリピン海プレートの押し込みと、日本海のプレートの圧縮によって、フォッサマグナは圧縮されるとともに、高く隆起する。(セイゴオマーキング入り)
『フォッサマグナ』p188

房総沖海溝三重点
世界で唯一の、3つの海溝が交わる点。
『フォッサマグナ』p132

 以上が、本書の仮説のあらましである。うまく案内できたかどうか心もとないが、詳細は原著に当たられたい。吉見センセイは「日本列島は腹切っとるんや」と言ったけれど、腹は切らなくてすんだのだった。そのかわりフォッマグナは日本海と太平洋の両方の海底変遷の驚くべき記憶をもつ怪物となったのだ。
 こんなふうに本書は結ばれている。「約1500万年前、フオッサマグナという名の怪物は、スーパープルームという「火」によって誕生しました。そう、私は考えています」。そして、次のように続けている。
  「火」といえば私が思い出すのは、手塚治虫の傑作『火の
  鳥』です。100年に一度、みずから身体を焼くことで永
  遠の命を得ている火の鳥は、過去と未来を自在に行き来
  し、人間の生死と地球の変遷を見つづけています。その火
  の鳥が15万回も生まれ変わる間、この怪物は、プレート
  がひしめきあう日本列島のど真ん中の、いつ瓦解してもお
  かしくないような場所で、絶妙にバランスをとりながらそ
  の特異な姿は保ちつづけてきました。そのことは、やはり
  驚くべきことに思えます。

⊕ フォッサマグナ 日本列島を分断する巨大地溝の正体 ⊕

∈ 著者:藤岡換太郎
∈ カバー装幀:芦澤泰偉・児崎雅洳
∈ カバー画像:南里翔平
∈ 本文デザイン:齋藤ひさの(STUDIO BEAT)
∈ 本文図版:さくら工芸社、野崎篤
∈ 発行者:渡瀬昌彦
∈ 発行所:講談社
∈ 本文印刷:慶昌堂印刷
∈ カバー・表紙印刷:信毎書籍印刷
∈ 製本所:国宝社
∈∈ 発行:2018年08月20日

⊕ 目次情報 ⊕

∈∈ はじめに
∈ 序章 ナウマンの発見
∈ 「日本地質学の父」ナウマン
∈ 嵐の翌朝の奇観
∈ その名は「フォッサマグナ」
∈ コラム「フォッサマグナに会える場所」①ジオパークとは何か
∈ 地質時代区分表
∈ 第1章 フォッサマグナとは何か
∈ フォッサマグナ抜きに日本列島は語れない
∈ 五つの島弧ー海溝系
∈ 日本列島から見たフォッサマグナ
∈ フォッサマグナの「東西問題」
∈ フォッサマグナの「南北問題」
∈ フォッサマグナの地質学的特徴
∈ 地質学とは何か
∈ コラム「フォッサマグナに会える場所」②糸魚川ジオパーク
∈ 第2章 地層から見たフォッサマグナ
∈ フォッサマグナはどうしてできたのか?
∈ ナウマンと原田豊吉の論争
∈ 北部フォッサマグナの地層
∈ 南部フォッサマグナの地層
∈ 南部フォッサマグナの形成シナリオは見えてきた
∈ 消えた中央構造線
∈ コラム「フォッサマグナに会える場所」③南アルプスジオパーク
∈ 第3章 海から見たフォッサマグナ――日本海の拡大
∈ フォッサマグナと二つの縁辺海
∈ 日本海の地形を俯瞰する
∈ いまだにわからない日本海の形成史
∈ 日本海形成の七つのモデル
∈ 日本海の形成を考える困難さ
∈ コラム「フォッサマグナに会える場所」④下仁田ジオパーク
∈ 第4章 海から見たフォッサマグナ――フィリピン海の北上
∈ フィリピン海の境界
∈ フィリピン海プレートと背弧海盆
∈ フィリピン海はどうしてできたのか
∈ 伊豆・小笠原弧はどうしてできたのか
∈ 「八の字」の謎への答え
∈ 世界で唯一の海溝三重点
∈ オオグチボヤはなぜ日本列島の両側で見つかるのか
∈ コラム「フォッサマグナに会える場所」⑤伊豆半島ジオパーク
∈ 第5章 世界にフォッサマグナはあるか
∈ フォッサマグナの特異さとは何か
∈ 海溝三重点をにらみながら
∈ 日本のフォッサマグナ候補①別府ー島原地溝帯
∈ 日本のフォッサマグナ候補②北薩の屈曲
∈ 日本のフォッサマグナ候補③琉球弧の前弧
∈ 日本のフォッサマグナ候補④千島・日本海溝会合点
∈ 世界のフォッサマグナ候補①マリアナ海溝
∈ 世界のフォッサマグナ候補②チリ三重点
∈ 世界のフォッサマグナ候補③東アフリカリフトゾーン
∈ 世界のフォッサマグナ候補④ニュージーランド
∈ 世界のフォッサマグナ候補⑤海嶺トランスフォーム結節点
∈ フォッサマグナをつくるための必要条件とは
∈ コラム「フォッサマグナに会える場所」⑥箱根ジオパーク
∈ 第6章 〈試論〉フォッサマグナはなぜできたのか
∈ 活発になってきたフォッサマグナの議論
∈ 〈試論1〉日本海はプルームがつくった
∈ スーパープルームとは何か
∈ 〈試論2〉オラーコジン説も採用
∈ 〈試論3〉フォッサマグナはこうしてできた
∈ フォッサマグナはなぜ世界で一つだけか①オラーコジンの可能性
∈ フォッサマグナはなぜ世界で一つだけか②海溝三重点の誕生
∈ フォッサマグナはなぜ世界で一つだけか③海溝三重点の持つ意味
∈ コラム「フォッサマグナに会える場所」⑦男鹿・大潟ジオパーク
∈ 第7章 フォッサマグナは日本に何をしているのか
∈ フォッサマグナについての懸念
∈ フォッサマグナと地震
∈ フォッサマグナと地滑り
∈ フォッサマグナの南北圧縮
∈ フォッサマグナと生物地理区
∈ フォッサマグナと文化
∈ コラム「フォッサマグナに会える場所」⑧山陰海岸ジオパーク
∈ あとがき
∈ 参考図書
∈∈ さくいん

⊕ 著者・訳者略歴 ⊕

藤岡換太郎(Kantaro Fujioka)

1946年京都市生まれ。東京大学理学系大学院修士課程修了。理学博士。専門は地球科学。東京大学海洋研究所助手、海洋科学技術センター深海研究部研究主幹、グローバルオーシャンディベロップメント観測研究部部長、海洋研究開発機構特任上席研究員を歴任。現在は神奈川大学などで非常勤講師。「しんかい6500」に51回乗船し、太平洋、大西洋、インド洋の三大洋初潜航を達成。海底地形名小委員会における長年の功績から2012年に海上保安庁長官表彰。著書に『山はどうしてできるのか』『海はどうしてできたのか』『川はどうしてできるのか』『三つの石で地球がわかる』(いずれも講談社ブルーバックス)など。