才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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性とスーツ

現代衣服が形づくられるまで

アン・ホランダー

白水社 1997

Anne Hollander
Sex and Suits 1994
[訳]中野香織
編集:平田起之・的崎淳子 協力:柴田元幸・木藤淳子・高塚浩由樹
装幀:緒方修一

本書はありがたいことに、男のスーツの微妙な官能を毫も見逃さず、スーツの歴史にひそむエレガンスやセクシャリティを浮き彫りにしようと試みた。つまり「男のアイコン」としてのスーツを下敷きにして、そこに女性ファッションの変化と華麗を加えていった。

 著者のアン・ホランダーは美術史家なので、ファッションの歴史を記述するにあたってもしばしば美術作品を参照するのだが、本書には格別な一枚の絵がなにげなく載っていて、それだけでも本書の紙価を高めた。ガスパー・ダヴィッド・フリードリッヒの『霧の海を見下ろす旅人』だ。
 1818年に描かれたもので、険しい丘のてっぺんに丈の長いロマンチックなダークスーツを着た紳士が堂々と立って、画面の向こう側の霧が漂う山と海を悠然と見下ろしているという構図である。だから、この絵の中の紳士は後ろ向きなのである。
 後ろ向きに自然を眺望しているスーツ姿の男を描くなんて、さすがに自然主義絵画のフリードリッヒには「畏怖」を描く力がある。ぼくは男のスーツの本質がこの一枚の絵に言い切られていると思うのだが、アン・ホランダーはそこまでの思い入れはないらしい。

カスパー・ダヴィッド・フリードリッヒ「霧の海を見下ろす旅人」(1818)

 ジョン・エヴァレット・ミレーが描いた『ジョン・ラスキンの肖像』でも、山岳の中を流れる清流の岩場にロマンチック・スーツのラスキン(1045夜)が立っている。オンディーヌ好きのフェミニンな画家とおぼしいミレーが「紳士」を描くとこうなるわけである。
 ドガやマネや、ゴッホもルノワールも、案外スーツの男を描くのが好きだった。とくにマネはブラックスーツの男たちを草原のピクニックで坐らせ、裸婦と並ばせもした。印象派の連中はけっこうなスーツ派だったのである。
 しかし、男がスーツ姿で山岳にすっくと立つという取り合わせこそ、それだけで劇的なのである。ぼくはすぐにバイエルンの月王ルートヴィヒ2世か(781夜)、冬山などで敵との死闘を見せるスーツ姿のジェームズ・ボンドを思い出す。ボンドは山中や雪山で追いつ追われつのチェイスの激戦のあとに、仕立てのよいスーツの埃をパッパと手で払い、何食わぬ顔でその場を立ち去っていく。
 絵画とスーツという取り合わせでは、あまり知られていないようだが、シャイム・スーティンの『最高の男』という絵がべらぼうだ。ブラックスーツに白い蝶ネクタイをつけて、椅子からずれるように腰掛けているポーズなのだが、椅子が描かれていないのでキャンバス空間そのものが「スーツな男」になっている。傑作だ。オランジェリー美術館にある。ボッチョーニやバルテュスやバスキアがスーツを好んでいたことも言い添えておく。

ジョン・エヴァレット・ミレー「ジョン・ラスキンの肖像」(1852)

エドゥアール・マネ《草上の昼食》(1862〜1863)

スーツ姿で砂漠をあるくジェームズ・ボンド(ダニエル・クレイグ)

シャイム・スーティン「最高の男」(1924〜1925)

 男のスーツは戦闘服ではない。けれども男はスーツを着ると、ちょっとした戦闘や戦線に出掛けるような気分になれる。
 こんな手順だ。自室で洋服箪笥を開けたまま、まずは肌着の上に真っ白いワイシャツを着て、ボタンをゆっくり一つずつ留める。ついでその日に選んだスーツの上着をハンガーからはずし、ジャケットに片腕を通し、そのままもう片方の肩と腕をするっとストロークさせて両腕を収める。この瞬間、ちらりと(あるいはちくりと)「非日常」がやってくる。これがいい。長袖のワイシャツが両方の手首をぴたりと覆い、そこにジャケットの両袖がストンと落ちてくる時が、どうにもヤバイのだ。
 ついで靴下を選び、ズボンをハンガーから引っ張って穿く。ワイシャツを腰まわりにしっかり降ろし、ズボンに従わせると、ベルトを締める。ここでやっと鏡を見て、髪などくしゃくしゃとする。そのあとはネクタイだが、ぼくはこの儀式は敬遠することが多い。
 こんなことは男なら誰でも感じていることだが、それでも、このささやかな儀式を慌てて軽んじたり横着にしてしまったりすると、つまりは有耶無耶にスーツを着ると、スーツは戦闘服でもなく、その着脱はイニシエーションでもなくなっていく。だから若いビジネスマンやくたびれた壮年ネズミ族に、このぞくっとする触覚を期待するのは酷なのだ。そういう具合からすると、男がスーツを着るのは、できればときどきのほうがいい。

 本書はありがたいことに、こうした男のスーツの微妙な官能を毫も見逃さず、スーツの歴史にひそむエレガンスやセクシャリティを浮き彫りにしようと試みた。つまり「男のアイコン」としてのスーツを下敷きにして、そこに女性ファッションの変化と華麗を加えていった。
 とくに、モードの歴史からすると男性服の革新と変貌のほうがつねに早く、女性服がそこから離脱できるのはヴィオネやシャネル以降のことであったことを、何度も強調した。
 このような見方は本書を訳した中野香織にも受け継がれたようで、彼女の『スーツの神話』(文春新書)や『ダンディズムの系譜:男が憧れた男たち』(新潮選書)にも、また『モードの方程式』(新潮文庫)や『愛されるモード』(中央公論新社)にも読み拾うことができる。ついでながら、こうしたスーツにあらわれた男のダンディズムをどう議論したらいいかということについては、先年亡くなった山田登代子の『華やぐ男たちのために』(ポーラ文化研究所)、『偏愛的男性論』(作品社)などが先駆していた。中野がイギリス派なら、山田はフランス派だった。

中野香織と山田登世子のダンディズムな本たち

 さて、いまさらの話だが、スーツ(suit)とはテイラード・スーツ(tailored suit)のことを言う。上下が同一の服地で仕立てられていて、腰丈の上着(ジャケット、ダブレット)を基本に、そこにワイシャツ(襟付きホワイトシャツ)、ネクタイ、ベスト(チョッキ)、ズボン(パンツ、スラックス)、各種コート、靴下、靴などが揃って一式のスーツになる。
 上着は二つボタンか三つボタン、テイラード・カラーの襟にはバッジ・ホールが穿たれている。背中の割れ(ベント)は少し重なるようにカットして坐りやすく仕立てられ、袖口はシャツの両端より少し短めになる。ボタンが二つか三つになったのはバロック感覚が採り入れられたからだ。

それぞれのスーツの使用時

スーツ各部の名称

 本書にも詳しく紹介されているが、腰丈の上着が登場したのはフランス革命のサン・キュロット(半ズボン)以降のことで、それまではジャストコロ(just colonial)のようなコートや農民服のフロックコートめいたコートをそのまま羽織っていた。それがしだいに短めに改良されたのである。
 念のため言い添えておくけれど、「背広」というのはジャケット(上着)だけのことで、スーツのことではない。背中が広いのでこう言うようになったのでもない。ロンドンの名門仕立て屋が多いショピングストリート「サヴィル・ロウ」(Savil Row)が日本に来て訛ってセビロウとなり、これに「背広」という漢字が当て字されたというのが通説だ。
 背広の親戚にブレザーがあるが、これは仕立てがゆったりとして、ボタンが金属ボタンなどになっているものをいう。スーツではない(ぼくはブレザーは嫌いだ)。スーツはあくまで一揃いをめざした男の公式性をあらわしたものなのである。だから背広の袖をまくるなんて、石原裕次郎や赤木圭一郎以前はなかったのだ。

サン・キュロット
フランス革命の推進力となった社会階層。キュロットとは半ズボンのことで、当時貴族の一般的なボトムスであった。そして、長ズボンを履く庶民を貴族が馬鹿にして「サン・キュロット」と呼んだ。これに対し、労働者は不公平な身分制度に反対する意味をこめて、逆に自分たちを誇りを込めてこう呼ぶようになる。

サヴィル・ロウ(Savile Row)
イギリス・ロンドン中心部のメイフェアにある通り。オーダーメイドの名門高級紳士服店が集中していることで有名。

 スーツの歴史は中世の鎧(よろい)から始まっている。12世紀後半から甲冑のスタイルに華麗なタイプが登場して、男の体型と姿態を明確に象(かたど)るようになった。それまでは布や皮革が多かったのだが、青銅・鉄・鎖鎧が出現して、たちまち男の体躯をあらわすようになった。スーツが「型」を重んじるのはその名残りなのである。
 しかし鎧・甲冑はまさに戦闘服そのもので、ふだんは着ない。そこで14世紀以降になると、男の衣裳がダブレット(doublet)に綿などの詰め物をして形を整えるようになった、甲骨を擬したのだ。襟元にラフ(襞襟)を付け、袖にも数本のスラッシュ(切れ目)が入り、どこか武具の擬態をしてみせたのだ。ルネサンスの宮廷衣裳がそうしたことを伝えている。ただし、これはどうにも飾りすぎだった。
 一方、このような男の宮廷衣裳をモデルに、女の服装のほうは飾りの多いファッションに転換していった。
 ローマ時代このかた女の衣裳といえば、床にとどくチュニックを着て、裁断しないキトンやストラを腰の紐でたくしあげ、そこにキトンの上に重ねるペブロスや大きなドレープ型のショールを組み合わせたものだった。つまりはワンピース主義だった。
 それがルネサンス時代にツーピースが出現し、16世紀の女服は胴着(ボディス)・襟・袖の形(デザイン)をそれぞれ男の衣裳から借りて、新たな転換を見せた。それがドレスだ。それとともにドレスの下にシュミーズやペチコートを着けるようになり、ローブも袖付きになっていく。
 これでだいたいの女の服装の基本が整えられると、あとはいかにエレガントなラインをつくっていくか、どのように露出部分をつくっていくかというふうになる。これを服飾文化用語ではデコルタージュ(decolletage)という。体の一部を見せることである(いま化粧品の使い方で言われるデコルタージュではない)。
 このとき男の官能と女のセクシャリティが分かれていったのである。男は包み、女は見せる。

西洋における鎧の変遷
中世初期は鎖鎧が基本であったが、時代が経るにつれて、男性の五体の明確な美しさに力点が置かれ、それをモダンに創り上げることをめざしてデザインされるようになった。

ダブレット
14世紀半ばから17世紀にかけて西欧男子が着用した主要な上衣。左は16世紀の仕立て屋。右は「アランソン公爵」。甲冑の硬さの名残をとどめており、輪郭を強調し、しわひとつない男性の身体の各部位のかたちがはっきりと浮かびあがる。ひだ襟の規則正しいプリーツにも金属的な硬さがある。

13世紀の風俗
『旧約聖書』の手写本の挿絵。この時代の男女の年齢によるファッションの差があらわれている。若い女性のロングヘアスタイルは未婚の印で長いガウンの襟元には、シンプルなアクセサリーをつけている。下の欄の女性が頭から中には顎までヴェールで覆っているのは既婚の印。

サンチェス・コエリョ「オーストリア女王アン」
襟と帽子、そして部具のような道着は男性服の模倣。アンダードレスとオーバードレスを組み合わせ、アンダードレスの袖を外衣から見せる、という着方は女性服の伝統を踏襲している。

 別の方面から男のスーツの鼓吹と定着を用意したものがある。それはほかならぬ軍服だ。ミリタリー・ユニフォーム(military uniform)である。
 軍服が登場してきた背景には二つの理由がある。ひとつは大砲や銃などの銃器が発達普及するにつれ、鉄の鎧を着用する必要がなくなって兵士が軽装になったからだ。もうひとつは軍制が確立して、軍人や兵士の組織的階級をあらわすシンボル操作が必要になったからである。
 そうした軍服の登場は17世紀のグスタフ2世アドルフが統括したスウェーデン軍の制服が有名で、以降、各国の軍服が次々に独自の制服として細かく規定されていった。礼装用、平時用、野戦用が分かれ、将軍・将校・下士官・兵士などに分別されていったのだ。いずれも動きやすく、かつすこぶる制度的でなければならず(つまりディシプリンでなければならず)、ここにスーツ誕生の下地が用意されたのである。

 軍服がもたらしたことは多様だった、各国別の軍服の主張、陸軍・海軍・空軍の軍服の相違が生まれただけではない。いろいろ派生した。
 セーラー服やトレンチコートやダッフルコートの誕生、ベルトの発達、アタッシュケースの開発などなどだ。男のスーツの背景がいかに充実していたかを物語る。実はいまは誰もが着ているTシャツも、イギリス軍が軍服用の下着に使ったのが最初だった。イアン・フレミングが描いた007のジェームズ・ボンドは、つまりはこれらの集大成なのである。
 こうした軍服については本書はあまりふれていないが、斎藤忠直・穂積和夫の『世界の軍服』(婦人画報社)に詳しい。日本の軍服については笠間良彦『日本の軍装』(雄山閣出版)、太田臨一郎『日本近代軍服史』(雄山閣出版)などがある。

グスタフ2世とスウェーデン軍の制服

各国の軍隊
左上がスコットランド、右上は日本軍、下がドイツ・ナチスの軍服

軍隊のトレンチコート
第一次世界大戦のイギリス軍で、寒冷な欧州での戦いに対応する防水型の軍用コートが求められたことから開発されたもの。

アメリカ軍のカーディガン

フランス海軍のセーラー服

 スーツの誕生と確立にはドレスメーカーやテイラーの出現が不可欠だった。こちらは女物が先行して、男物のテイラーが評判をとり、これを女性服のデザイナーたちがまた追いかけるという順番だった。
 だから、最初のドレスメーカー(婦人服裁縫師)はルイ14世時代のお針子たちがギルドをつくったことから始まった。ただ彼女らはその後はもっぱらステイ(支芯)とコルセットで型(モデル)を支え、それから形を整えるという作業をするのが仕事になっていた。
 やがて型紙(sewing pattern)が普及すると、裁縫師とはべつに型紙をつくるパタンナー(pattern maker)が登場して、いわゆるフォルム(シルエット)を司ることになっていった。これを最初に採り入れ、精度を上げ、自立させていったのが仕立て屋さん、すなわちテイラー(tailor)である。ここにオーダーメイドが可能になると、生地選び、採寸、型紙づくり、裁縫、仮縫い、仕上げが一貫したものとなり、スーツの受発注に向かっていった。
 時おなじくして、そのころイギリスにカントリー・ジェントルマンやシティ・ジェントルマンたちによる「紳士」という階層が自意識をもちはじめていた。ここでテイラーとジェントルマンが結びついて、これまでの男のフォーマルウェアの部品やスタイルの数々を厳選して、シンプルだが、これからの「紳士」にふさわしいモード(様式)をつくりあげた。スーツ出現だ。
 そこからタキシード(tuxedo)、カッタウェイ・コートやイヴニングドレス・コートやテイルコート(燕尾服)なども派生させていった。タキシードはディナー・ジャケットともスモーキング・スーツとも呼ばれる。実は煙草が似合うスーツのことなのである。バンザイ!
 本書はこのようなスーツの確立をもとに、ボー・ブランメルに始まるダンディズムの思想を展開するが、あまり深くはない。

イブニングドレス(左上)
カッタウェイ・コート(右上)
スモーキング・コート(左)
テイルコート(右)

リンカーンのスーツ姿
1857年、イギリス・アンティータム戦場付近において。スーツがどんな地でも着れるほどの柔軟性と安定性を融合させていることを証明している。

カルヴァン・クラインのスーツ広告
1993年、『メンズファッション・オブ・ザ・タイムズ』より

1970年代、ダーバンのアイコンだったアラン・ドロン

 さて、こんなことを書いてきて、いまさら白状するのも出し遅れの証文にもならないけれど、ぼくは一般のビジネスマンや公務員にくらべると、ほとんどスーツを着ないほうなのだ。いわゆる「背広族」じゃない。着たとしてもだいたいがダークスーツか濃紺の地のピンストライプで、おまけにノーネクタイが多い。ときにスーツの下を白いTシャツのままにする。
 とはいえスーツは好きなのだ。ワイシャツそのものも好きだ。スーツにスタンドカラーのワイシャツを着ることもあった。やはりスタンドカラーを多用していた金子郁容(1125夜)とともに、上野千鶴子(875夜)から「タテ襟派」と揶われたものだった。ただし、どうあってもネクタイは嫌いなのである。とくにネクタイピンとカフスボタンは絶対に付けないし、ブレスレットもじゃらじゃらして嫌なのだ。
 一応、イッセイ、ヨウジ・ヤマモト、菊地武夫、ミスター・ジュンコ、ゴルチェ、アルマーニ、ダナ・キャランは上下を着てみたが、ジーンズの上にジャケットを着ることも多く、40代前後の頃はシャツだけをコム・デ・ギャルソンすることも多かった。なかで一番気にいったのはヨウジの濃紺の上下で、このばあいは下はたいていTシャツだった。ジャケットだけならゴルチェを愛用した。サンローランは何度か試着してみたが、ついに選ぶ気にはならなかった。

ヨウジ・ヤマモトのスーツ

 そんなわけで、これではスーツを語る資格がいっこうにないのだが、それでも男は一度はスーツに挑むべきだと、ぼくのスタッフには言っている。ただし、本書の著者がとどき洩すような、男のスーツに男根的なアイコン性を感じたことは一度もない。
 最後に、余計な一言を書いておく。マンガにもアニメにも恰好のいいスーツ姿の男はよく出てきて、それなりにカッコいいのだが、それらには最大の難色がある。それは、マンガやアニメからはそのスーツの仕立てや品格が伝わってこないということだ。その点、絵画や映画はそこを見逃さない。
 ついでに、もう一言。ゴルゴ13やルパン3世もスーツで決めているのは大いに結構なのだが、このスナイパーや怪盗は、色シャツや色ストライプを着すぎだ。触感をあらわせないマンガやアニメの宿命だろう。

1994年、ダーバンの広告を飾ったセイゴオ
ダーバンの広告部長がセイゴオの熱烈なファンだったために実現した。当初はバイクから降りたタキシード姿のシーンを撮るはずだったが、休憩中の自然体の表情が気に入られ掲載された。そのため革手袋とヘルメットがアクセサリーとして残った。日本経済新聞社の全面広告シリーズで、セイゴオの前は原田芳雄がモデルになった。

⊕ 性とスーツ ー現代衣服が形づくられるまでー ⊕

∈ 著者:アン・ホランダー
∈ 訳者:中野香織
∈ 装丁:緒方修一
∈ 発行者:藤原一晃
∈ 発行所:白水社
∈ 印刷所:精興社
∈ 製本所:松岳社製本
∈∈ 発行:1997年10月20日

⊕ 目次情報 ⊕

∈∈ 第一章 はじめに
∈ 性とモダン様式
∈ ファッションとは何か
∈ 第二章 ファッションの作用
∈ ファッション、非(ノン)=ファッション、反(アンチ)=ファッション
∈ ファッションの意味
∈ 形とセクシュアリティ
∈ 初期のファッション史
∈ その後の変化
∈ 女性服の特色
∈ 第三章 スーツの誕生
∈ 深まる性差
∈ 理性とファンタジー
∈ 謹厳と簡素
∈ 「ナチュラル」な古典的ヌード
∈ ウールを着る英雄
∈ 新古典時代のエロティシズム
∈ 既製服を着る男
∈ 過去と未来のスーツ
∈ 第四章 モダニティ
∈ ワースとその影響
∈ 女性服の改革
∈ コルセット
∈ 女性の変貌
∈ モダンな変容
∈ 近年の革命
∈ 第五章 現代
∈ インフォーマル
∈ セクシュアリティ
∈ 暴露
∈ 不安
∈ 認識
∈ 訳者あとがき
∈ 図版一覧
∈ 参考文献
∈∈ 人名索引

⊕ 著者・訳者略歴 ⊕

アン・ホランダー(Anne Hollander)

美術史家。ニューヨーク人文科学研究所特別研究員。本書の他にSeeing Through Clothes(1978)、Moving Pictures(1989)などの著作がある。ニューヨークとパリに住む。

中野香織(Kaori Nakano)

1962年生まれ。エッセイスト・服飾史家。東京大学大学院博士課程単位取得満期退学。専攻は地域文化研究(ファッション、映画を中心とするイギリス事情)。著書に『モードとエロスと資本』(集英社新書)、『愛されるモード』(中央公論新社)、『ダンディズムの系譜 男が憧れた男たち』、『着るものがない!』『モードの方程式』(以上、新潮社)『スーツの神話』(文春新書)、翻訳書にエイザ・ブリッグズ『イングランド社会史』(共訳、筑摩書房)、ジャネット・ウォラク『シャネル スタイルと人生』(文化出版局)、などがある。『英和ファッション用語辞典』(研究社)の監修も行う。2008年より明治大学国際日本学部特任教授。