中里介山
大菩薩峠|全12巻
筑摩書房 1976
ISBN:4480032215

 机龍之助のモデルは北一輝だという説がある。机龍之助の剣をラスコーリニコフの斧に、その性格をスタヴローギンに譬えた例もある。
 中里介山に、北一輝が二・二六事件の首領として代々木原で処刑された直後に詠んだ「北一輝の判決を聞く」という詩があった。どうも浅からぬ同情を寄せている。詳しいことはわかっていないようだが、二人には並々ならぬ交流もあったとも聞いている。
 そんなことから「机龍之助=北一輝説」が出てきたのだろうが、これについては介山についても一輝についても著書のある見識者の松本健一が、それはちょっと無理な推理だと否定している。

 机龍之助をラスコーリニコフの斧に譬えたのは中谷博である。昭和9年の『大衆文学本質論』にある。龍之助の無明の剣は社会の通念としての道徳を破壊する力を象徴しているというのである。
 しかしぼくが見るところ、机龍之助には、近代的な自我の意識というものがまるでない。目的もない。すべてが前世の「業」のようなものの継承であって、すべてが「行きずり」なのだ。これではラスコーリニコフとはくらべようがない。
 机龍之助が『悪霊』のスタヴローギンに匹敵するとは、たしか橋本峰雄の言い出したことだとおもうが、ロシア正教と大乗仏教の舞台の違いをもってしても、やはりとてもとてもそのような比較はしにくい。だいたい『大菩薩峠』は机龍之助の性格や役割を比喩的に説明したくらいでは、ほとんど何も説明したことにならないほど、膨大無辺、複雑異常、常軌を逸した物語なのである。

 読めばわかるが、ともかくとんでもない大河小説なのだ。これを大河小説といっていいかすら、判定がしがたい。
 おそらく介山の創作意欲の持続が生んだ作品だなんてものではないことはたしかである。執念とか根性などでは説明がつかない。だからといって狂気の沙汰だったと言うわけにもいかない。文章がヘタだし(全編「です・ます調」になっている)、中だるみもあるのに、比較するものがすぐに見当たらないような、曰くいいがたい感動もあるからだ。しかし、表向きは、ただただ呆れるばかりの終焉のない物語なのである。

 第1巻「甲源一刀流」が都新聞に連載開始したのが大正2年9月だった。机龍之助の比類のない徹底したニヒリズムが時代の風潮に切りこんで、たちまち大人気を博した。
 なにしろ冒頭からして、机龍之助が大菩薩峠で旅の老巡礼を理由なく斬り殺すところから始まり、さらに奉納試合で相手となる宇津木文之丞に勝ちを譲ってくれと頼んできた内縁のお浜を犯し、おまけに試合では文之丞の頭蓋骨を打ち砕いて殺してしまうというほど破壊的なのである。
 いったい龍之助はなぜそのようなことをするのかという説明がないから、読者はぐいぐい引き寄せられる。そこへ次から次へと登場人物がふえていく。
時代は勤王佐幕が入り乱れる幕末。龍之助もふとしたことから芹沢鴨と知り合い、兄文之丞の仇を探す兵馬は新撰組に入る。兵馬はついに龍之助を見いだし果たし状を送るのだが、龍之助は自分の子をもうけたお浜すら無情に斬り殺し、おまけに芹沢鴨から頼まれた近藤勇暗殺の仕事は、気分が冥界をさまよう一夜のために機会を逸してすっぽかす。
 第4巻「三輪の神杉」第5巻「龍神」では、龍之助は今度は天誅組に巻きこまれ、十人の浪士たちと十津川山中に追われる。そこで仮の宿とした山小屋で火薬が爆発して龍之助は失明寸前におよび、ますます幽明と有明のはざまの境地に入って、一人寂然として龍神の湯につかるのである。

 こんな主人公はいなかった。ともかくこんなにニヒルな剣士はいなかった。その後も、林不忘の丹下左膳から柴田錬三郎の眠狂四郎まで、時代小説には数多くのニヒリストが誕生したが、いずれも龍之助の後塵を拝したもので、しかも龍之助の徹した非情にも無情にも及ばない。それぞれどこか人間味が隠されていた。
 ところが、介山はここでいったん筆を擱く。
 それでも『大菩薩峠』は机龍之助の異様な魅力によって、大衆文学あるいは時代小説の泰斗として、不朽の名声をもったかもしれない。それほどに読者を納得させていた。しかし介山は、2年余をへたのちの大正6年、第6巻「間(あい)の山」以降の続篇を再開した。
 あとで少しだけ感想を書くけれど、この間の山のお君がすばらしく、読む者の心を奪う。白い大きな犬を連れ、三味線を片手に放浪をする遊行の女で、まったく新しい空気を送りこんでくる。ここに米友や道庵先生などの天性陽気な庶民たちが絡まってきて、俄然、第2部ともいうべき別種の様相を呈してくるのである。すなわち介山は、ここからは、龍之助のニヒリズムに頼ることなく、平然と新たな物語の内奥を深めていったのだ。これでまたまた読み進むことになる。
 もっとも、そうだからといってそれが大正10年の第20巻「兎門三級」まですべての登場人物を動かして、それもまるでそのとき思いついたかのように、次から次へと新たなプロットを延々並べ続けるのだから、やはり異常である。

 それで第6巻からはどうなっていくかというと、物語はようやく裾野を広げて、数々の宿命が幾重にも折り重なってくる。
 幕末を背景に、悪名高い代官を象徴するような神尾主膳が甲府勤番にまわされてヒールなキャラクターを発揮しはじめると、そこに後半の主人公となっていく駒井甚三郎が勤番支配として着任するというので、二人のあいだに確執と権謀術策が交わされ、そこへ折からの貧窮組などの打ち壊しや「ええじゃないか」の発端が各地におこって、こうして物語は甲府と江戸に二極化されていく。
 龍之助のほうはといえば、主膳に雇われるままにしだいに怪しげな行動をおこすようになっている。そこにお銀様という、これまた後半を引っ張る強烈なキャラクターが登場し、駒井は洋服を着て望遠鏡や船艦技術などのテクノロジーを操り、お銀様は御高祖頭巾をしたままの、ときにはダンディな男装をして龍之助を追いかけるという異様な構図になってくる。
 それなのに龍之助は伯耆安綱や手柄山正繁の名刀にほだされ、江戸に下っては夢遊者のごとく辻斬りをするという、まったく時代に隔絶した迷妄に囚われている‥。
 これでさすがの介山も種が切れたのか、またまた休筆に入るのだが、なんとしたことか、大正14年に第21巻「無明」が大阪毎日新聞に再開してしまうのである。ここまでですでに10年以上にわたる執筆になる。ふーっ。

いまおもえば、これは長篇劇画なのである。
 荒唐無稽な筋立てといい、無責任な人物のめぐりあわせといい、とうてい筋立てが読めているとはいいがたい。あきらかに場面主義であって、場当たり主義である。中里介山には作家としての才能があるのかと疑いたくもなる。
 ところが、そのデタラメともいえる進捗のなかから、しだいに幾つかの思想思念の軸が立ち上がってくる。それが最初はゆらゆらと蜉蝣のごとく揺動していて、静かに組み合わせを変えているのにもかかわらず、時代が幕末の最終場面に向かうにつれ、その揺動がじりじりと思想の形をあらわしてくる。ここが妙なのだ。どうも時代設定を近代日本の「夜明け前」にしたことが、介山に他の追随を許さない想像力を切らせなかったようだ。

 その立ち上がってくる思想思念とは、まずは机龍之助だが、最初に書いたように、龍之助は無明と有明のあいだの夕闇を最初からふらついていて、「日本刀」という時代が捨てていこうとする儚い象徴の裡に漂っている。
 ぼくが知るかぎりでは、龍之助に託した日本刀のシンボリズムを、これまで議論した者はいなかった。
 そのうえで、この龍之助の剣に、新撰組・天誅組・赤報隊のような、幕藩体制を守護する者と解体する者との対決の中心から外された連中が運命に導かれたように介在するために、物語の時代的相貌は無常と異相を往還しはじめるのである。大乗仏教や菩薩道に立ち入った中里介山にして、ぜひとも現れてほしかった浮穢土の往還の相貌なのであったろう。
 けれども往還が見えてくるというだけなら、まだ菩薩道の対象がない。そこで、それらとはまったく無縁な庶民・遊女・旅行者・見世物屋が立ち動く。
 とくに「遊民の群像」が意図的に描かれているのは、介山がマージナルな遊行者たちに格別の思慕を寄せているせいとしか思えない。そこへもってきて、冒頭の巡礼の惨殺をはじめ、次々に無名の者たちが殺され、死に絶えていく描写を欠かさなかった。邪心のない遊民だからといって容赦なく時代の苛酷が襲ってくることを、介山は自覚的なのか思わずそうしていたのかはわからないが、ちゃんと描いていたのだった。
 これが物語が長蛇をもつにしたがって、しだいに生きてくるのである。つまりは、菩薩道は逆のほうから歩みを進め、しだいに龍之助を追いこんでいくというふうになっていた。

 だが、それだけで仕掛けが終わっていたのではなかった。そこにあらわれてくるのが、神尾主膳と駒井甚三郎の対立にみられる旧守と進取の二つの「悪」なのである。
 この悪は、歌舞伎の「色悪」のような暴力的な魅力を発揮する一方、時代の裂け目を互いに脱出しようとしていることがわかってくる。神尾は享楽の限りを尽くして、そこになにやら近代消費社会の先取りを見せ、洋学派の駒井は須碕で船舶建造にとりかかると、ひたすらキリスト教に関心を示し、どうやら物語の外に向かって脱出しているとしか思えない。この「物語の外へ」というのが、長大な『大菩薩峠』の奇怪な結末を、結局は成功させている。
 しかも、このような脱出は、小さなところでも頻繁におこるようになってくる。脱出など叶うはずもない庶民の生活の日々でも、たとえば女軽業のお角が興行を打つ「切支丹大奇術一座」がそうなのだが、それは駒井の科学技術とはまったく正反対のことをしているようでいて、どこかがワープしてつながって見えてくる。

 そのいい例が、放浪の絵師の田山白雲にお角が見せたのがジプシーの油絵だったというくだりである。
 物語が後半にさしかかってくると、しきりに符牒や暗合がふえてくるこのような技法的な共振関係や宗教的な共鳴関係は、きっと介山が考えに考えたすえの案配だったと見える。
 しかし、しかしである。
 それでもこのへんで『大菩薩峠』はいったん終えて、別の物語をいくらも書けそうでもあるのに、そして作家というものはそのようにして作品を何度も蘇生させていくはずなのに、介山はまだまだこの物語を書きつづけてしまったのである。まったく付き合いきれないウロボロスの迷宮に入りこんだようなものなのだ。けれども、やめられない。

 もう、昭和3年である。大正が終わり、関東大震災がおこり、大杉栄も虐殺されてしまった。
 第28巻「オーシャン」で駒井甚三郎と田山白雲が九十九里浜で落ち合って、白雲が鹿島神宮から鹿島灘に出て広大な景観に包まれ、これでさすがに終止符を打ったかとおもわれたのに、そこからは誌紙を自在に変えて蘇り、ふたたび昭和6年から物語が再々開してしまうのだ。
 龍之助は虚無僧姿で尺八「鈴慕」を吹く身になっている。あいかわらず市川雷蔵なら似合いそうなハイパージャパニーズ・ニヒリストである。
 お銀様は火事に出会ったあとはあえて「悪」に徹したくなって、反抗と憎悪と呪詛を象徴する悪女塚をつくっている。駒井はついに科学技術を究める試験所をつくって天体研究にさえ乗り出し、神尾は染井の化物屋敷で蕩尽をたくらみつづけ、兵馬は仇討ちどころかつねに事件に撹乱されたままである。

 こんな状態でいったい物語がどうなるかとおもうほどの中だるみなのだが、ところがこれが昭16年までえんえん連続し、ついに第41巻「椰子林」に及んだのである。

 またまた10年余におよぶ連続執筆で、連載開始からの合計はなんとも28年間にわたった大河小説となったのだった。
 介山が書き始めたときは松井須磨子が『復活』で「カチューシャかわいや別れのつらさ」と唄っていたのに、終わったときには日本軍が爆音とともに真珠湾に突っ込んでいた。日本は日本史上にも稀な暗闇を疾駆していったのである。
 にもかからず、その間、『大菩薩峠』はひたすら幕末を深く深く掘りこんで、登場人物のすべてが時代からとりのこされ、まるで物語の中にのみ芽生えたヴァーチャルな殺戮浄土と将来浄土だけにこだわっているようにも見えるのだ。

 ともかくこんな途方もない物語の結末が、いったいどこにあったのかということだけは書いておいたほうがいいから、バラしておくと、駒井はついに「無名丸」という近代蒸気船を仕上げ、房州須碕から出港する。お銀様はなんと伊吹山中にユートピア「胆吹王国」の着手に向かう。
 これだけでも破天荒な結末が予想されるのだが、それなのに介山は近代に向かって「夜明け前」の扉をけっして開こうとはしなかった。そこは島崎藤村より、なお頑固だったのである。

 では何もおこらないかというと、駒井の無名丸が総勢50余名を乗せて太平洋を沖に出始め、やがて東経170度北緯30度付近の無人島に着く。信じがたい展開である。
 しかもここで駒井以下白雲たちが耕作をはじめ、古風な剣術を習いあう。まさに維新が始まろうとしているにもかかわらず、『大菩薩峠』においては、時間は逆行しつつあったのだ。
 こうして終幕、お銀様は胆吹王国を出て大江山へ、さらには醍醐の三宝院へ向かう。米友は幕末維新に最後のカードを振り出そうとしている岩倉具視の岩倉村に入り、そんな社会の動向とまったく無縁な賭場に向かう。神尾主膳は上野輪王寺を訪れたあと、お絹の待つ化物屋敷で書道に向かう。
 どんどん影が薄くなっている机龍之助は、最後に大原寂光院に忍んで尼僧と交わることだけに影法師のように動いている。いかにも龍之助らしい最後のゆらゆらとした行動である。
 道庵先生はなぜか一休禅師の研究三昧に耽っている。宇津木兵馬は山科に入って仇討ちなど忘れてしまったかのように、光悦屋敷に向かっている‥‥。
 すべてが古代王朝回帰というのか静寂回帰というのか、将来浄土への回帰というのか。もはやまったく何もおこらないかのようなのだ。大きな大きな時間がすこぶる小さな、一人ずつの菩薩に向かっているかのようなのだ。
 かくて物語は椰子の林のかたわらで、無名丸に乗りこんだ中国少年金推がしきりにキリストに祈っているというところで、さしもの怪物のような物語も、チョーン!なのである。

 ざっとこういうことなのだが、さて、ぼくが『大菩薩峠』をなぜ読み始めたかは、そのきっかけをすっかり忘れていた。
 おそらくはそのころ、半村良の『妖星伝』で火がついた伝奇ロマン読み耽りが、自分のなかでも下火になってきて、もっと痛快なものはないか、もっと興奮覚めやらぬものはないかと白井喬二の『新撰組』や国枝史郎の『神州纐纈城』を読んで、やはりこれは中里介山だと一念発起したのだったとおもう。
 一頁読んで、たちまち虜になった。これは少年時代は別として、大人になってからはアレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』以来のこと、のちには滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』まではなかったことだった。

 ただ、それからが大変で、読んでも読んでも終わらないというより、介山の迷妄に付き合わされているようで、それなのに気になる出来事がいやというほどに連鎖されるので、まったく困りはてながら読んでいたのであった。
 ところが、いざ読み終わると、これは誰もが読むべきだというほどの得難い熱いものが胸に溢れて、『遊』の編集者たちに急遽プロジェクト・チームをつくらせ、ついには前代未聞の『大菩薩峠』のダイヤグラムづくりに取り組んでいたものだった。
 まったくこれでは、介山にどんな文句のひとつも言えない体たらくだったのである。
 この感慨はいまなお名状しがたものがある。むろんダイヤグラム作成に乗り出したというのは、どうすれば感慨を表象してよいやらわからなかったせいで、本当はぼくもどこやらにしけこんで、机龍之助のように尼僧と交わっていけばよかったのだろう。
 感慨を言葉にしにくいという意味では、きっといまでも同じである。ただ、それを奮起させるために再読しようとはしなかった。さすがに今度は流し読み。それでもこの複雑怪奇な筋立てのだいたいがアタマに入っていたので、自分で驚いた。

 筋立てはともかくも、いったい『大菩薩峠』とは何なのかということも言ってみたいけれど、ここまで書いてきて「千夜千冊」としてはさすがに常軌を逸した長さになってきているので、そろそろ気息奄々、あとは間の山のお君のことだけ書きたい。
 が、そう思ってこの文章を閉じようとしていたら、そういえば鹿野政直が『大正デモクラシーの底流』(NHKブックス)で、介山と『大菩薩峠』の意味を書いていたことを思い出した。
 しかもそこには、『大菩薩峠』がついに慶応3年のままに終わっていて、決して維新に入りこまなかったことにふれ、かくも大胆に維新の意義を否定したのは日本の歴史学には皆無であって、ひょっとしたら中里介山はそのような歴史観をもっていたのではないかというようなことを書いてあったはずである。
 うーん、このことについてはやはり書いておかなければならないだろう。仕方がないから、そのあたりのことを、ぼくの感想を交えて紹介しておこう(というふうに、介山も延ばし伸ばしに物語を書き継いだのだろう)。

 中里介山が自由民権運動にも縁深い東京郊外の多摩の地に、社会主義青年として育ったこと、それにもかかわらず介山がずっと反近代主義に共感しつづけたこと、どうやら出発点はここにある。

 介山は都新聞に入社して、そこに短編小説を書くようになるのだが、それらは島原の乱や高野山の義人をとりあげたもので、まだ介山が社会主義の小さな香りに託すものがあっことを窺わせる。ところが大逆事件で幸徳秋水らが処刑されたことに驚愕し、容易に理想が実現できないだけではなく、それらが叩き壊されるものだということも知った。
 介山がキリスト教に惹かれ、それ以上に仏教に惹かれていったのは、このときである。かくて介山は「上求菩提下化衆生」という言葉を抱いて『大菩薩峠』を書きはじめることになる。
 しかし、「上求菩提下化衆生」をそのまま書く気なんてものはない。そこが韓国とちがって近代日本に高銀の『華厳経』のような仏教小説がうまれなかった理由でもあるのだが、なぜ日本はこのように矛盾に満ちた国になってしまったのか、介山はまずもってその矛盾を描きたくなっていた。
 介山の場合は、それが机龍之助の剣に象徴してみたい“何か”であったのだ。無意識とでもいうべき動向をもつ剣である。介山はその剣で、冒頭、老いた巡礼を意味なく切り捨てる。すなわち、剣と巡礼、である。これこそが介山の問題提起だった。

 介山が国家に包摂されない人間ばかりを好んで描いたことは明白である。それは介山が維新後半世紀をへた日本にそうとうに失望していたことをあらわしている。
 単なる失望ではなく、希望すべき階層や人物を見だしえなかったという失望であった。介山は青年や中年たちが自分が託せる人物を見だしえないにもかかわらず、つまらぬ政界や業界に飛びこんでいくのが我慢ならなかったのである。
 それよりも駒井甚三郎のように独立して自律共和国をめざすか、お銀様のようにあえてファシズムを恐れずに独裁王国を築くか、そうでなければ、神尾主膳のように蕩尽をほしいままにするか、そのいずれかを選んでほしかったのだ。お銀様が言うように、介山にとっての人間というものは、「絶対に統制されるか、さうでなければ絶対に解放されるべきなのです」なのである。

 けれども、こんな選択は現実の青年にとっては不可能なことである。それはたとえば、「少年マガジン」や「少年サンデー」に熱狂した少年が、のちに星飛雄馬にもあしたのジョーにも無用の介にもなれなかったことに似て、あまりに空想的すぎる希望だった。
 いやそんなことは、青年にとってだけでなく、社会にとっても受け入れがたい危険な選択だったのである。

 しかし介山は、この希望の行方を現実の満州に見てしまったようだった。
 介山には1931年の『日本の一平民として支那及支那国民に与ふる書』というのがあるのだが、そこでは満州事変の正当化とともに、満州をつくることは日本に与えられた天職のようなものなので、ぜひとも支那のみなさんはこの事業を見守ってほしいというような主旨のことを書いている。
 介山は本気だったのだ。しかしやがて満州がそのような理想王国ではないことが見えてくる。大逆事件の結末と同様、介山はここにおいてまたしても打ちのめされるのである。
 こうして介山は血迷っていく。第19回総選挙に東京7区の多摩地方から立候補して挫折して、かつて与謝野鉄幹がそうであったように、ここでも現実と理想の乖離を味わった。介山がお銀様の胆吹王国を崩壊させようと思ったのは、おそらくはこのころのことであったろう。
 それだけではなかった。ここで介山はいっさいの理想の現実化を捨てて、むしろ農本主義に戻ろうとする。第38巻「農奴」にはその転回が描かれる。また、『大菩薩峠』の途中でありながら『百姓弥之助の話』を書いて、百姓道を提起する。
 この転回が、やがて駒井の船舶に「無名丸」という名がつき、駒井が上陸する無人島が農耕の場になっていくことにつながっていくのである。介山はついに「無名のもの」にしか希望と期待を見だせなくなったのだった。
 ‥‥以上が、鹿野政直が『大正デモクラシーの底流』にのべた介山思想の概観に、ぼくが勝手な感想を交えたスケッチである。こんなこと、書かなかったほうがよかったろうか。

 では、やっとのこと、「間(あい)の山のお君」のことを書く段になった。お君の唄う歌こそはぼくが憧れた『大菩薩峠』のコンセプトなである。
 お君は第6巻にまるで行きずりのように登場する。場所は伊勢神宮の内宮と外宮のあいだの「間の山」。この伊勢の古市をおもわせる場所がいい。そこにお杉とお玉という女芸人がいて、三味線片手に「間の山節」を唄ってみせる。そのお玉(芸名)がお君(本名)なのである。いつも白いムク犬を連れていた。
 やがて神尾主膳にとらえられ、何度にもわたる運命の糸によって駒井甚三郎と結ばれる。けれども駒井が失脚したのち、お君は悲嘆にくれて尼寺に身をひそめ、やがて死ぬ。駒井は別の地でこのことを知り、キリスト教に関心をもつ。そういう女性である。
 このお君が唄う「間の山節」がすばらしかった。片岡千恵蔵主演だったか、市川雷蔵主演だったかは忘れたが、映画でもこの節が流れていて、それが耳の奥に響いているのかもしれないが、それだけではなく、おそらくはこの節回しこそ、介山の大乗感覚のすべてをあらわしていたにちがいない。こういうものだ。

  夕べあしたの鐘の声 
  寂滅為楽と響けども
  聞いて驚く人もなし

  花は散りても春は咲く
  鳥は古巣へ帰れども
  行きて帰らぬ死出の旅

 先にも書いておいたように、『大菩薩峠』は間の山のお君が白い犬と米友を連れて登場したとたん、まったく新たな様相に突入し、読者をニヒリズムの藍染からロマンティシズムの紅染へと誘(いざな)っていく。

 そのすべての縒り糸が、この「間の山節」にあらわれていた。ぼくはそう思っている。少なくともぼくは、この歌に導かれて『大菩薩峠』を読んだものだったのである。

 さあ、感想はこのくらいにしておこう。
 はたして中里介山が『大菩薩峠』によって日本人に何を残したのかということについても、間の山のお君の三味線の調べとともに、このままにしておこう。
 しかし、ここまで書いてきてふと思ったことがある。それは、机龍之助にはやっぱり北一輝の面影があるかもしれないということである。また、お銀様にはぼくのごく身近にいる女性の面影があるかもしれないということだった。諸君、平成15年の退屈きわまりない寝正月には、いよいよ『大菩薩峠』がぴったりだ。

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