一休宗純
狂雲集
現代思潮社 1976
ISBN:4329007207

 一休は手ごわい。
 同時代の連中もそう思ったろうが、死して500年を超えるのに、まだ手ごわい。一休禅の相手として熟達手練だったろう「道歌問答」で有名な蜷川親当(ちかまさ)が、「仏法とはどういうことでございますかね」と聞いたとき一休は、この、よほど信頼に足る夫婦揃っての法門の弟子にすら、「仏法はなべのさかやき、石の髭」と言ってのけた。
 石の髭なのである。仏の心が石の髭だなんて、わっはっはっはか、アッカンベーだ。
 一休は、女色も男色もほしいままにした。隠れてこそこそしたのではない。平気でそのことを『狂雲集』に披露した。自分のことを「骨軆露堂々、純一将軍誉、風流好色腸」(骨体はまことに堂々としていて、一休宗純は将軍の誉れ、しかもはらわたの奥まで好色で詰まっている)などと豪語した。こんな七言絶句もある。

  一生受用する米銭の吟 
  恥辱無知にして万金を攪む
  勇色美尼 惧に混雑 
  陽春の白雪 また 哇音

 どういう意味かというと、お経を読んでいさえすれば、坊主なんてものは一生食いっぱぐれない。適当に恥をかき、無知を承知でいれば大金は入る。そこへもってきて男色に遊び、ついでに尼さんをものにしていれば、これは陽春(堺の陽春寺)でほとばしる「白雪」だっていつもピュッピュと飛ばせて、気持ちいいこと限りない、くだいて言えば、まあ、こういった内容だ。 
 こんなことをぬけぬけと言う禅僧は、日本史上、めったにいない。皆無だといってもいいだろう。一休が日々、こういうことに溺れていたとは言わない。こういう光景は、むしろ当時の僧侶たちの日常茶飯事だったのである。しかし、一休は聖人づらもしなかった。自分も好きにピュッピュと発露して遊んだ。

ヴィトルキアーノ

『一休骸骨』

 頓知の一休さんなのでは、ない。一休頓知咄はだいたいつくりものだと思ってよろしい。マルコメ味噌の可愛い小坊主のイメージは捨て、髭づらの汚い一休を思い浮かべたほうがいい。
 一休は天真爛漫なのではなく、「毒」をもっていたのだ。毒だけではなく、「悪」がある。悪だけではなく、「」がある。そもそも自身であえて「狂雲子」あるいは「夢閨」(むけい)と号したほどである。狂雲子は風来とともに風狂風逸に生き抜くことを、夢閨は夢うつつのままに精神の閨房をたのしむことを意味した。
 これを偽善に対する偽悪の姿勢とみてもよいけれど(一休の偽悪者ぶりはこれまでもさんざん語られてきたが)、それだけではない。野僧であろうとしながら大徳寺をとりまとめたし、破戒僧でありながら一休文化圏をつくりきった。飯尾宗祇、柴屋軒宗長、山崎宗鑑、村田珠光、金春禅竹、曾我蛇足、兵部墨溪‥‥、いずれもその後の文化を大成していった連中の多くが、一休文化圏の住人だった

 一休はまた、尊皇の気概もすさまじかった。
 たとえば『日旗の地に落ちるを嘆ず』では、「雷(いかずち)と化して五逆の輩を剔殺(てきさつ)し、誓って朝廷のために悪魔とならん」とさえ、詠んだ。天皇の権威が失墜しているので朝廷のために自ら悪魔となってみせようかというのは、やはり普通じゃ、言えない。おい、おい、いったい何様かとも思える。
 よく知られているように、一休は後小松天皇の御落胤だとも言われてきた。これはいまだに真偽があきらかではないのだが、一休自身もそのことは各処で匂わせている。泉涌寺雲龍院の後小松天皇廟を訪れて詠んだ詩には、「庭前に王孫草のあることを知り」とあって、一休が王孫であるかのような思わせぶりを書いている。王孫という言葉は『狂雲集』にはよく出てくる。少なくとも母は後小松天皇の近くに出入りしていた身分であったろう。
 が、仮に御落胤だとしても、これはまぎれもない私生児だということでもあって、このことは一休の身の上につねに巨大な影を落としていたはずである。一休は母親の手だけで育てられたのだ。そうだからこそ、「誓って朝廷のために悪魔とならん」なのである。
 京都田辺の薪村には酬恩庵と一休の墓があるのだが、ここがいつしか宮内庁の管轄になっていた。それを知ったときはギョッとした。これはやっぱり一休の血には皇族が混じっているのかしらん、と。

 こういう一休だから、これはなんとしても正対して当たるべきなのだ。まずは、読む。そして考える。考えてもわからないから、唸る。唸ってもしょうがないので、また、読む。次に、書を見る。できればいくばくかは臨模する。読むのはやはり『狂雲集』である。
 ここでは中本環さんの校注本にした。『狂雲集』は七言絶句の偈頌の集大成で、ふつうはこれに『狂雲詩集』(続狂雲集)のほうも加えて、まとめて『狂雲集』という。
 本書には漢字カタカナ交じりの『自戒集』も収録されていて、ここに東洋文庫版の『一休和尚年譜』全2巻(平凡社)、一連の『仮名法語』、および奇怪な絵入りの『一休骸骨』(禅文化研究所)を加えれば、一休のだいたいの思想も事績もわかる。
 加うるに、忘れてならないのは水上勉の『一休』(中公文庫)だろう。この谷崎潤一郎賞をとった評伝は水上文学の最高傑作のひとつともいえるもので、一休にしみじみ浸るには絶対に欠かせない。むろん事実を書いているばかりとはかぎらない。
 ともかくも、一休は一筋縄ではない。手ごわい。『狂雲集』のどの詩だって、つねに解釈の「揺れ」がくる。漢詩だからといって、これを読み下して読んでいては、その含みが消えていく。思い切って飛躍する必要もある。
 たとえば次の七言絶句の漢詩と、その現代語訳の試みをくらべるとよい。

  秀句寒哦す 五十年
  愧(は)ずらくは乃祖洞曹の禅に泥(なず)みしことを
  秋風に忽ち洒(そそ)ぐ小時の涙
  夜雨青燈 白髪の前

  俺の人生寒かった、洞春おやじがうらめしや。
  風が誘った幼児の涙、青い灯火に白髪が光る。

 これは、禅語録として『狂雲集』を研究し、上田堪庵の一乗寺野仏庵では1年にわたって狂雲集講座ともいうべきを語りつづけた柳田聖山の訳である。まるで歌謡曲である。しかし柳田さんは、ぼくが思うにいま最も一休を理解できている人なのである。
 また、次の「懐古」という漢詩では、はやくから一休に惚れこんで日本詩人選に『一休』(筑摩書房)を書き、好きな漢詩を片っ端から大胆でポップな現代語にしていった富士正晴が、以下のような訳をほどこした。

  愛念愛思、胸次を苦しむ
  詩文忘却一字無し
  唯悟道有って道心無し
  今日猶愁う生死に沈まんことを

  エロスは 胸を苦しめる 
  詩文は忘却 すっからかん
  ロゴスあれども パトスなし
  まだまだ気になる 生き死にが

 うまい、うまい。さすが飄逸の富士正晴だ。が、こういう意訳で当たっているのかどうかという問題ではない。一休その人が、いま、このような応接を、われわれに迫っているということなのである。
 ということで、結局、一休を読むというのは、この一休放埒の言語の響きとともに、われわれもしばしそこを遊弋することなのである。
 むろんのこと、一休のほうには、これだけの放埒を言ってのける準備も用意も周到もあった。覚悟もあった。一休はいつでも死ねるという覚悟をもっていた。それなら思いきって(=思いを切って)、こちらも一休を堪能する。柳田・富士はそう飛びこんだのだ。

 一休が生まれたのは正月元旦、義満が将軍を義持に譲った応永元年のこと、1394年である。幼名を可憐にも千菊丸といった。6歳で安国寺の侍童となり、13歳で建仁寺に入って慕哲についた。漢詩はここで稽古した。
 一休が本気になるのは17歳からで、西金寺の謙翁(為謙宗為)の門に参じて無一物を決意して、そうとうに研鑽した。無欲を通した老師であった。あれこれから判断すると、この時期の一休はかなりの理想主義を抱いていた。ところが21歳のとき、謙翁が疾風のごとく音もなく世を去った。唯一無二と頼んだ師を失った一休の落胆と失望はおもいのほか決定的だったようで、瀬田の唐橋から投身自殺しようとしている。
 こういう禅僧はめずらしい。一休の伝記は高僧伝にも入っているのだが、中国・日本を通じて高僧伝に自殺をはかった者の記録など、一人もいない。

 母の従者によって一命をとりとめた一休は、しかしこれで「死」を抱えることになった。
 『一休道歌』には「なにごとも夢まぼろしとさとりてはうつつなき世のすまひなりけり」の歌が、『一休骸骨』には「そもそもいづれの時か夢のうちにあらざる、いづれの人か骸骨にあらざる云々」の文章が、収められている。かなり崖っぷちに立っている表明だ。
 まさに「はか」を失った者のフラジャイルな心境であるが、それがかえって一休の強みになった。無常は迅速。生死無常の一念は一休に「必死」をもたらしたのだ。
 しかし、まだ師がほしい。今とちがってこのころは、自分が何かを突破したと思えるまでは、なんとしてでも師を求めたものである。
 一休は江州堅田の禅興庵に華叟宗曇をたずねて、入門をする。貧乏きわまりない寺ではあったけれど、華叟がすごかった。華叟は峻厳で鳴る老師、大徳寺派を代表する無骨一徹の人である。一休はここに食らいつく。師はそのような一休を投げ飛ばす。くんず、ほぐれつの、まさに禅鬼の格闘技であった。
 そういう日々を4年ほど送るなか、一休は自分が理想とする精神の原型が南宋の名僧・虚堂智愚にあることを見定める。師の奥にあるプラトンや、師の背景にいるダンテに気付いたわけである。このあとしばしば一休は「虚堂七世の孫」を自称する。書も入手する。

 一休は「洞山三頓の棒」の公案と、琵琶湖のほとりで座禅中に聞いたカラスの「カー」という鳴き声で開悟したということになっている。
 そんなところだろう。開悟の瞬間なんて、そうだと思えば、そこで大悟なのである。これがだいたい27歳のときだった。
 ここから約10年間、ときどきの消息はわかるものの、細かくは一休の動向はよくわからない。
 亡くなった華叟の葬儀に出たり、堺に住んで朱鞘の大太刀をもって歩きまわっていたり、噂は破天荒で、その言動は昨今の禅林坊主の体たらくをつねに激しく罵倒しているようである。

 「風サン水宿」という(サンはニスイに食)。
 一休が好んだ言葉だ。行雲流水の風水として、杳としてどこかに行方をくらますことをいう。ただし、これは2~3週間とか、1~2年などというのではない。ざっと20年を乞食僧としてくらます。そこで存在の無底を問う。
 禅僧の修行では、つねにこの20年が問われる。たとえば、おまえの20年はどこにあるのか、というふうに。もう少し正確にいえば、いったん師についたら20年をその門下に当て、さらに20年を自分の「杳なるもの」の問い質しに当てるということなのである。
 臨済禅においては、この20年は大燈国師(春屋妙葩)が五条河原の橋の下あたりで20年を送ったことをさしている。その大燈が20年+20年をへて、ようやく創ったのが大徳寺だった。
 ということは、『狂雲集』は一休宗純が大徳寺に入って晩年にいたり、そこで自身の境涯をふりかえって半ばフィクショナルに書き上げたというふうに構成されているのだが(弟子たちの構成による)、大徳寺開祖の大燈の20年とは、まさに一休の生涯にひそむ存在を問う20年でもなければならなかったのである。

 こうして一休はこの大燈の存在と自分の存在の精神をピタリと合わせた。そのため大燈を恐れ知らずに「美人」とも呼んで、二人で同床同夢の夢を見るというような詩をいくつも書いている。
 しかし、大燈を美人とみなすところが、まさに一休なのである。『狂雲集』には頻繁に「美人」との同床がうたわれているのだが、実はこれは仏祖であって如来であり、虚堂であって大燈だったともいうべきなのである。

 仏教とは造物主をたてない宗教である。ここがユダヤ・キリスト教やイスラムとはまったく異なっている。そこで、たえず実在する存在が問題になる。
 この存在は食べもするし、病気もする。言葉をまちがうこともあれば、相手を憎むときもある。失恋もするし、セックスもする。それらのすべてが自己回帰する存在なのである。そのため、ここに「他者」というものが大きく関与する。なぜなら自己の存在は他者によってしかオントロギッシュにはなりえない。
 たとえば菩薩とは、修行を完了した者が他者を意識したときの姿の本来のことをいう。そこに向かうことが菩薩行である。それをすることを仏教史では「大乗」とよんできた。
 禅も、むろんこの大乗の菩薩を意図して、他者に向かっていく。禅が自己の悟りを求めているなどというのは、わずか20年だけのことなのだ。みだりに禅と自己発見などをつなげないほうがいい。
 では、一休は他者をどうしたか。
 そこを読もうとすることが『狂雲集』における最も「揺れ」の激しくなるところだった。
 ここでは一つの公案と一休の一つの漢詩をあげて、その面目を掠め取りたい。もっとも、これがまたまた「美人」なんぞが平気で顔を出し、一筋縄じゃない。

  老婆心 賊の為に梯(かけはし)を過して、
  清浄の沙門に女妻を与う。
  今夜美人、若(も)し我を約せば、
  枯楊 春老いて、更に稗(新芽)を生ぜしめん。

 『狂雲集』では、この漢詩の前に公案が掲げられている。「婆子焼庵」という難解な公案で、雲水が卒業間近にこれを与えられて、よく苦悶した。その話からしておく。
 昔あるとき、婆さんが一人の若い庵主を供養していた。庵主というのは男でも女でもよく、自分で庵をくんで修行をしようとしている者をいう(日本で庵主が尼さんのことになったのは、ただの慣行だ)。供養というのはそもそも衣食住すべての世話をすることで、古代インドでは四種供養といって、衣食住に薬を加えて病気の世話も供養と考えた。
 で、婆さんが庵主を世話して20年がたった。20年というのはさきほども言ったように、禅の1存在単位のことである。そこで婆さんは自分の娘に給仕をまかせ、青年僧にぴったり寄りつかせた。娘はあるとき、青年と体を合わせて、「このあたしをどうしてくれます?」と言う。
 さ、さ、これは大変である。男が女に抱きつかれて、こう言われたら百年の恋はいっぺんに冷める。諸君、よくよく御存知のことだろう。しかし禅では、これをこそ「正恁麼(しょういんも)の時」といって、「まさしくこの時、この状態をどうするか」という、正念場を迫るときにしょっちゅう使われる「どうしてくれますか?」なのである。「さあ、やるのか、やらないのか、正恁麼」「行くのか、行かないのか、正恁麼」というふうに。道元も『正法眼蔵』でこれを乱発した。
 もともとは達磨から数えて6祖にあたる慧能が、5世弘忍の衣鉢をもって南に帰る途次、もう一人の弟子の慧明がこれを追いすがってきたとき、「父母未生以前、正恁麼の時、那介(なこ)かこれ、明上座の本来の面目」と言ったのがルーツになっている。

 青年僧はどうしたか。イエスかノーを迫られて、「枯木寒厳に倚りて、三冬暖気なし」と言った。自分は20年間修行して、枯木が寒厳に寄りついたようなもの、暖気などどこにもないから、おまえなどに用はないと言ったのだ。
 これで娘が傷ついたとかセクハラを訴えたというのでは、禅にはならない。この話を聞いた婆さんが、「私は20年もよくもあんなニセモノを養ってきたもんだ」と言って、青年僧を追い払うと、たちまち草庵を焼き払ってしまったのだ。
 さあ、今度はこの公案を聞かされた者が、正恁麼だ。この話、どうしてくれるというわけだ。そこで一休が答えてみせたのが、先の七言絶句だったのである。

 まず、婆さんの問題を片付ける。老婆というのは禅では、よぼよぼしわくちゃの婆さんのことをさしてはいない。老婆心のことをいう。つまり余計なお節介のことをいう。
 しかし余計なお節介というのは、これができる者とできない者がいる。仏教では、供養は心からのお節介ができるかどうかということなのだ。お節介ができない者など、そもそも仏門にすら入れない。ではそうなると、この婆さんには何か問題があるのか。むしろ青年僧にこそ問題があるのか、正恁麼。
 ここで一休は、「今夜美人、もし我を約せば」と書いて、老婆が供養したのも娘を提供したのもいいじゃないか、しかも美人が来たのだから文句はないだろうと言い放つ。けれども20年の供養と修行こそが寒厳の存在の精神をつくったのだから、このお節介をはねつけるのは当然だ。しかし、ここでよく考えなさい。その美人が仏性であったとしたら、どうなのか。こう切り返してくるのである。
 据え膳を食わなかった男を詰ったわけではないが、そこに甘露の法雨がないとは言えない。そこは正体などわからない。さあ、そんなふうにお前が一瞬にして失った正体とは何なのかと、そのギリギリをつく。
 これは一休得意の、“ZENetic Computer”(土佐尚子さんとぼくがつくりあげた山水禅型インタラクティブ・ソフトウェア)、なのである。

 かくて一休は、このようなギリギリを提示して、「枯楊春老いて、更に稗を生ぜん」と書く。
 まあ、そうは言っても、春が進めば新芽も出るだろう。この男もそのうち自分の新芽が出てきたことに気がつくだろうと、サラリと全体を投げてしまうのだ。
 おそらく『狂雲集』全編は、象徴的にいうのなら、この難解な「婆子焼庵」(ばすしょうあん)を、それぞれの「正恁麼の時」において問い続けることにあった。また、説明を省いてきたが、『狂雲集』はこの問題を一休が生涯を通してどのように関連させてきたかという、稠密に仕組まれた自伝文学でもあったのである。

 ところで、この漢詩をあげたのには、もうひとつ、理由があった。実は一休こそが晩年に、この「今夜美人」を抱くことに至ったからである。その今夜美人とは、盲目の森女(しんにょ)のことである。

 一休が晩年に盲目の美女と同棲をしたらしいことは、広く知られていよう。水上勉の『一休』では、77歳から88歳までの10年間ほどを、一休は森女を愛し、森女もまた、一休に尽くして供養しつづけたということになっている。川端康成の最晩年を思わせる。水上勉は、一休が盲目の森女の膝を枕に、静かに死出の旅に招かれたていったと考えたようだった。
 むろん実際のことはわからない。けれども『狂雲集』には「住吉薬師堂並びに叙」のあたり、ずらりと森女を詠みこんだ漢詩が並び、しかも森女との合体は、一休にとっては一休が考える仏門全域の本来の面目との合体だったようなのだ。
 最後にそのことについて、少しだけふれておく。

 森女をめぐる漢詩は、なぜ住吉薬師堂の漢詩とともに登場してきているのだろうか。切り口はここにある。実はこの話は、中国の三生石の伝説を下敷きにして、住吉詣でにひっかけた日本の説話になっていた。
 三生石とは禅では有名で、衝山頂上で南岳慧思が修行を続けたにもかかわらず大悟にいたらなかったので、慧思は3度生まれ変わってその大悟をはたしたという座禅石のことをいう。ここを掘ると慧思の三生にわたる遺骸が出てくるとも言われた。
 この三生石の伝承がまわりまわって、李源・円沢の物語になった。それも最初は男女の再生の物語であったのが、晩唐には男と男の同棲愛の物語になっていた。

 李源は歌の好きな美青年で、あるとき沙弥の円沢と会う。二人は意気投合、体も許しあう仲となり、一念、峨眉山への旅を思いたつ。早いけれど危険な北回りと、安全だが遠い南回りのどちらをとるか迷うのだが、南回りにした。
 二人が揚子江に辿りつくと、そこに洗濯女がいた。どうやら身籠っている。とたん、円沢が泣き出した。この女性のおなかにいるのは実は自分だというのだ。しかも自分がこんなふうにこの世に生きているから、その子は生まれられないでいる。自分はここで死んでその子を生み出すべきである。円沢はこう言って、その子が生まれたら自分のことと思ってほしい。そう思えたら、13年後の中秋の名月の夜に、杭州天竺寺の三生石でお前と会いたい。円沢はそう言い残すと死んでしまうのである。中島敦か澁澤龍彦の物語そのままだ。
 が、話はこれで終わらない。李源が13年後に三生石に行ってみると、そこには一人の牛飼いの少年がいる。そして「自分に近寄ってはいけない、自分には毒がある」と言い、ある歌を聞かせる。
 この歌は色歌(竹枝詞)で、男と女、男と男、女と女の合体は異類合体のタブーとでもいうものだけれど、それでも恋しい者はそのことをわかってもらおうなどとは思わずに、愛し合うしかないではないかという歌詞になっている。
 一休は、この「三生石→李源円沢物語→住吉薬師堂物語」を引っぱって、それをそのまま一休と森女の合体にもってきたのだった。住吉では盲目や難病が癒される。その住吉に範をとり、一休は森女を仏性とも高めて、自身の禅定の内に入れていく。

 おそらく一休は森女にいっさいの菩薩を見たのであろう。一休が大悟しているのではなく、一休こそが森女によって導かれていることを知ったのである。
 こういう一休は、もしや風狂の禅師とはよべないかもしれない。あまりに澄んでいる。しかし一休は、三生石で歌をうたっていた牛飼いのごとく、そのいっさいの本来を語ろうとはしなかったのだし、もし語るにしても、そこに必ずや一抹の「毒」や「悪」を入れることをしたわけだから、やはり、一休禅は「狂の禅」だったとも言える。
 ともかくも、今日の日本の仏教者で、一休に顔向けできる者など、一人としていない。これは一休が例外者であったからか、それとも今日の仏教が腐乱しきっているか、そのどちらかだということである。
 むろんそのどちらを取るのかとなれば、ぼくは例外者であらんとすることを、明日も取る。一休宗純の手ごわさが、いま必要なのである。

フェデラル・センター

「諸悪莫作(しょあくまくさ)」
「衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)」
一休書

参考¶一休の漢詩は数多い。ほとんど紹介できなかったが、ぜひ覗かれんことを。一休の生涯を知るには水上勉がいいが、一休禅思想の入門には柳田聖山の『一休』(人文書院)がいいと思う。ぼくもずいぶん参考にした。その柳田訳の『狂雲集』は、最近になって中公クラシックスに入ったので、求めやすくなっている。

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