中島敦
李陵・弟子・名人伝
角川文庫 他 1968
ISBN:4041103029

 母親が変わるということを、ぼくは知らない。中島敦は15歳で三人目の母親を迎えた。父親は中学の漢文の教師、祖父は亀田鵬斎門下の漢学者である。
 中島は父親が朝鮮竜山中学に転勤したのをきっかけに、竜山小学校、京城中学校、大連第二中学校などを転々とした。そして母が変わっていった。それでどうなったかといえば、中島は子が父を憎むこと、父が子を恐れること、両者に殺意が生じうることを考えた。中島の作品の根底に流れるものは、それである。『盈虚』『牛人』はまさにその主題を扱った。
 大正15年、東京に戻ってからは一高に入った。『春秋左氏伝』とノヴァーリスを、『史記』とロレンスを、杜甫とアナトール・フランスを同時に読んだ。一方で、極度の近視、小柄な体躯、ひどい喘息に悩まされた。

 そうしたなか、中島は自分が「文学」をめざしているのか、「中国」をめざしているのか、それとも「別」の何かをめざしているのか、その何かを決めなければ父子の憎悪が体の底から突き挙げてくるようだとおもう。
 咳きこんで苦しむとき、中島は面影が定まらない母といつも定位に父がいる少年期を急激に追想した。が、そんなことをしていても心身が蝕まれるだけだ。何か夢中になるものを選ばなければならなかった。そこで中島が選んだのは、なんと「南洋」だった。パラオの仕事を選んだ。
 喘息のための療養転地でもあったが、生きることはかなわなかった。帰国して、急ぎ『名人伝』『弟子』『李陵』を書くと、あえなく33歳で死んだ。

 母が変わると、母を取り替えた父が浮上する。その父は中島が好きで好きでしかたがなかった中国につながる漢文教師である。中島は、漢書を読みながら、その父を想像上で打倒する。
 たとえば『李陵』では漢の武帝が「父」にあたっている。騎都尉の李陵は天漢2年に五千数余の歩兵を率い、北辺を脅かす匈奴を討つために朔風の野に向かう。寡(少数)にして衆(多勢)を打破するつもりが敗北し、李陵は捕らわれる。が、意外にも匈奴は勇将李陵を手厚くもてなした。武帝はこれを聞いて嚇怒し、李陵の一族を皆殺しにしてしまった。
 この報知を聞いた李陵は、漢に対する忠誠を憎悪に変える。しかも匈奴に協力した異族単于の娘を妻とし、胡地に親しんでいく。単于は「漢人は礼儀を尊ぶというが、利を好んでこれを飾りたてているだけではないか」と問う。捕らえられてもしばらくは敵将の寝首をかこうとしていた李陵は愕然とする。
 そのような李陵を擁護した男が一人だけだが、宮廷にいた。大史令・司馬遷である。以前から司馬遷は、李陵には国士としての覚悟があると見抜いていた。しかし武帝はそんな司馬遷をも許さず、宮刑に処した(キンタマを抜いた)。司馬はこの陰惨な受刑の苦痛をあえて好機に転じて、歴史を「作ル」のではなく「述ベル」ことを決意する。

 中島は李陵を、さらには司馬遷を通じて「父」なるものの愚挙を描いたのである。
 だが、その愚挙を越えるにはどうするか。「父」の情けなさを描くだけでは足りなかった。そこで中島は工夫する。『李陵』にはもう一人、李陵よりも先に使節として匈奴を訪れ、内紛にまきこまれてそのまま捕虜になった蘇武が出てくる。中島はそこを描いて「父離れ」に代えた。
 匈奴に捕らえられた蘇武は降伏を肯んじないばかりか、みずから剣をとって自身の胸を突いた男である。この挙動に驚いた匈奴は荒治療で蘇武を治す。李陵はそうした匈奴の優しさに心が動いて嫁をとった。蘇武はそういうことをしなかった。沈黙をまもって牢を食いやぶり、そのまま動いて北海のほとりに悠然と羊を飼っていた。
 そこで中島は李陵と蘇武を比較する。李陵は蘇武に会って降伏を勧めたのに、その堂々たる堅牢の精神に圧倒されたというふうにした。中島はこうして、ここに李陵・司馬遷をも凌ぐ「父」の克服を見る。

 おそらく、中島は実生活では父を越えられなかったのだろう。そんなことはよくあることだ。
 しかし、よくよく見れば自分が親しんできた中国の歴史にはニセモノの父もホンモノの父もいる。中国の文献に依って物語を書くうちに、中島はむしろどのように家族や社会を厭おうとも、そこに残余してしまう。勧めたのに、その堂々たる堅牢の精神に圧倒されたというふうにした。中島はこうして、ここに李陵・司馬遷をも凌ぐ「父」の克服を見る。

 ぼくが最初に好きになった『山月記』は、その「我在り」を最も劇的に、かつ凄惨に描いている作品である。
 これは、官吏でありながら性は狷介で、みずから恃むところすこぶる厚いために詩人の道を選んだ李徴をとりあげて、詩を選んだにもかかわらず名声もあがらず、妻子からも疎まれた李徴が、ある旅の途中に汝水のほとりで発狂したまま帰らなくなった顛末を書いたもの、中国の『人虎伝』に素材を採っている。
 話は短い。
 監察御史が山中にさしかかって一匹の虎に出会い、その主がかつての友である李徴であることを知る。そこで姿をあらわすように頼むのだが、人虎は叢から出てこない、やむなく声だけを聞けば、汝水のほとりで自分を呼ぶ声がして闇に出て声を追ううちに、気がつくと両手で大地を駆る虎になっていたという。
 そんな会話を交わしているうちに、李徴は自分の詩はいっさい失われたが、まだ暗誦しているものがあるから、それをいま読み聞かせたい。わがために伝録してほしいと言う。
 こう言って李徴が朗々と森に響く声で詩を詠みおわると、慟哭の声がまだ続いた。「家族には自分が死んだと伝えてほしい、かれらの孤弱を憐れんで、今後の道塗に飢凍することなきようはからってほしい」というふうに。が、それが最期であった。林間に二声、三声、咆哮が聞こえたとおもうまもなく、一匹の虎が月に躍りあがるように飛び消えていったというのである。

 この話の中に、李徴が告白するに、最初のうちは人間の姿になっている時間もしばしばあって、そのときは「理由も分からずに押し付けられたものをおとなしく受け取って、理由も分からず生きていくのが、我々生きもののさだめだ」とおもい、死を考えもしたという場面が出てくる。
 ところが、そんなことを考えているうちに、自分の中の「人間」は姿を消し、気がつくと虎になっている。最近は、それまでは「どうして虎になったのか」と訝っていたのに、このまえふと気がついたら、「オレはどうして人間になったのか」と感じていたと告白をする。
 なんとも限界ぎりぎりの話だが、これが中島敦の消去に消去を重ねたうえの「我在り」だった。あえて狂悖(きょうはい)の者に託して「我在り」を描いたのは、中島の技法なのではない。存在学なのである。ぼくが『山月記』を偏愛してきたゆえんだった。

 ところで、本書には収録されていないが(岩波文庫版には入っている)、中島には珍しい現代ものの『狼疾記』という作品がある。「狼疾」は孟子に出てくる言葉で、「指一本が惜しいばっかりに、肩や背まで失うことを気がつかないこと」という意味である。
 かつて武田泰淳はこの『狼疾記』を暗示しつつ、「中島は激しい狼疾をわずらっている。彼は指のために肩を失わんとしている」と書いた。
 中島は自分の狼疾を癒す方法を発見しなかったというのだ。そして「非文学」にさえ至ろうとしたと指摘した。そうでもあろう。しかし中島は、そうだからこそまさに司馬遷のごとくに「作ル」ことをあくまで嫌い、「述ベル」ことに徹したのかもしれないともいえる。少なくとも、ぼくはそう感じている。
 昨日のミラン・クンデラに続いて、今日本書を採りあけだ理由は、ここにある。すべては記述されるだけであって、どんな人間の妄想からも「我在り」が出てこないと絶叫しているクンデラと中島敦を、真夏のぼくは遠方に眺めていたのである。

参考¶中島敦の作品は『中島敦全集』全3巻(筑摩書房)のほか、いろいろ文庫にもなっている。いずれも短編である。『かめれおん日記』がおもしろい。ここに選んだ角川文庫版には、中島の作品の下敷になった中国の文献が併載されている。本書の収録作品は『李陵』『弟子』『名人伝』『山月記』『悟浄出世』『悟浄歎異』。

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