ロバート・スティーブンソン
ジーキル博士とハイド氏
新潮文庫 1967 講談社文庫 1979
ISBN:4102003010
Robert Louis Stevenson
The Strange Case of Dr.Jekll and Mr.Hyde 1886
[訳]田中西二郎

 スティーブンソンのような幸福な生涯もあるものだ。『ジーキル博士とハイド氏』はわずか数日で書きあげて、大ヒットした。30歳後半からは南太平洋の島が好きになってここへ移住、島人たちから“ツシタラ”(酋長)と慕われ、世界中の訪問者をもてなしながら暮らした。まことに羨ましい生涯である。それなら自分もと思いたくなる者も多いだろうが、真似をするには三つの条件がいる。
 第一に子供時代からずっと病弱であることだ。これなら立候補したい者は多いだろう。ただし肺疾患で空気がよいところを選ぶような病弱でなければならず、優しくて教養のある乳母が付き添っている必要がある。
 第二に、文才があって、執筆に静かな環境を選びたがることである。別荘好きで、家族に囲まれながら恐怖や幻想を書くという趣味もなければならない。ぼくはどこでも書けるので失格だ。
 第三に、深い思索や哲学などに溺れないことである。ごくごくバランスのとれたコモンセンスとユーモアで生きられることが必要なのである。これもぼくは失格だろう。
 かくて、スティーブンソンとは世の中から見ると、いかにも別種の人間なのだ。しかし、ある伝統や文化から見ると、最も理想的で羨ましい人物なのである。その、ある伝統や文化とは、イギリスやスコットランドが培ってきたジェントルマンシップというものである。このことを知らないと、スティーブンソンの文学のサブジェクトとテイストは見えてこない。

 スティーブンソンは1850年という時代の境目に生まれた。ぼくが最も注目する時代で、万国博と百貨店によって欲望の展示が確立し、ドストエフスキーポオとネルヴァルとメルヴィルによって人間の描写が確立した。
 生まれたのはスコットランドのエディンバラ、祖父の代から2代続く土木家に育った。父親はスコットランドの海岸にいくつかの灯台を建てて尊敬され、母親は牧師の娘だった。さきほど書き忘れたが、スティーブンソンを見習うには、こうした人に尊敬される裕福な家柄に生まれ育つ必要もある。
 幼年のころから肺疾患に悩み、ちょっと外出するだけで気管支炎になる体質だったのだが、そのために自宅に籠もっているときに乳母から優しくされ、聖書やスコットランドの物語を聞かせられた。なかなかこうはいかないものである。
 やがてエディンバラ大学に進んで父を継ぐべく工学を収めるのだが、やはり体のせいで法科に転進、弁護士を選ぼうとする。ところが激しい人間の軋轢の渦中に介入するより、想像力の中で人間を想う気質が弁護士には不向きであることがわかって、これは静養させるしかないという父の勧めで地中海のリヴィエラに行く。簡単にリヴィエラに生ける境遇なんて、これまた容易ではない。

 こうして紀行文や随筆などを書くうちに、パリでアメリカ人の人妻に恋をする。「パリのアメリカ人」というのは、ナタリー・バーネイの項目でも書いたように、当時は最も人気のあるエトランゼの典型なのである。
 人妻に恋をするというならぼくも得意なところだが、得意なだけでは幸運はつかめない。この人妻がアメリカに帰ってから病気に罹り、そこへ会いに行ったスティーブンソン自身が大西洋の長旅のためにもっと重病に罹るのである。これがぴったり夫人の心を動かした。めでたく二人は結婚をする。連れ子があった。ただし結婚するといっても、病身のスティーブンソンを救いたくなったということなのだ。そのため、この家族は夏はピトロクリやブレーマーで、冬はスイスのダボスで過ごした。そのくらいには夫婦ともに豊かなのである。
 しかも夫人の連れ子が冒険物語好きだったことが、よかった。スティーブンソンはこの子のために物語を聞かせるのだが、それがそのまま『宝島』になった。空想の地図をつくり、それをもとに毎日一話ずつを語ってみせたのだ。ぼくも子供がいる人妻が好きになったときは、子供にお話を聞かせなければならない。
 これで自信をもったスティーブンソンは、1882年には『新アラビアンナイト』を、数年後には夢に見た話をそのまま『ジーキル博士とハイド氏』にまとめた。空前のベストセラーであった。世の中には「ホワイト・クリスマス」一曲で、一生印税生活が送れる者もいるのだが、一夜の夢をちゃんと書ければうっかり大ヒットすることもあったのである。

 その後、1887年に父が死んで、アメリカに移った。そこへ有力な出版社から南洋旅行の旅行記を頼まれる。さっそくありあまる印税の余分でヨット「キャスコ号」を買って、家族で南太平洋をまわる。
 これが大いに気に入り、やがてサモア諸島のウポール島に広大な土地を買い、一家でここに移住する。未開の島は「ヴィリマ」と名付けられた。まるで夢のような計画、夢のような実現である。むろん幸運だけではない。島人をよく世話し、教化にもつとめた。世界中からスティーブンソンを訪れる客は、この楽園の生活に憧れ、その噂を広めた。中島敦の『光と風と夢』はこのときのスティーブンソンを描いた作品である。

 さて、こんな羨ましい人生を送ったスティーブンソンが、なぜ永遠の名作を次々に書けたのか。
 いろいろな説があるのだが、ひとつは最初に書いたようにスティーブンソンがコモンセンスに徹していたからだった。コモンセンスというのは、常識を重んじるということではない。それもあるのだが、コモンセンスとは「好ましさ」とは何かを追求するということなのである。イギリス社会にとっての「好ましさ」とは議会主義であり女王崇拝であり、紅茶を飲み、クリケットやテニスやダービーを見守り、紳士淑女が優雅に交流することである。それとともに「好ましからざること」(unpleasantness)をしっかりと見つめることをいう。
 スティーブンソンがジーキル博士とハイド氏の二重人格を描いたことは、この「好ましからざること」の表明だった。日本でいえば歌舞伎の勧善懲悪のようなもので、日本人にはこれは忠臣蔵でも義経ものでも水戸黄門でも、必ず受ける。このばあい、歌舞伎や水戸黄門がそうであるように、悪はあくどく、悪人はあざとく描かれている必要がある。スティーブンソンがした基本的なこととはこれなのである。

 しかし、これだけでスティーブンソンの筆名が上がるということはない。やはり、スティーブンソンの書き方に妙がある。
 たとえば『ジーキル博士とハイド氏』では、同一人格内部でハイドがジーキルを憎むという設定がいい。また、ハイドがジーキルを凌駕する意識を、うまく場面で分けている。読者にはその二つのペルソナがしだいに接近するサスペンスをつくっている。逆にジーキルはハイドを理解できない偏狭をかこっている。
 このペルソナの葛藤こそ、イギリス人がそれを卓越することを好んできたテーマなのである。ペルソナ(仮面性)とはパーソナルの語源であって、パーソナリティの根本にある動向のことをいう。スティーブンソンはそうした英語の背後にある意味のアンビバレンツにも長じていた。
 スティーブンソンは、おそらく日本には絶対に生まれえない作家であった。それはそれでいいことである。だからこそ、われわれはイギリス文学という午後の紅茶を飲む楽しみがある。

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