才事記

ゼビウスと横須賀功光

ぼくの半生はさまざまな才能に驚いてきたトピックで、髪の生え際から足の親指まで埋まっている。小学校の吉見先生との一緒の遊びや南海ホークスの飯田のファースト守備に驚き、藤沢秀行の碁の打ち方や同志社大学の平尾ラグビーに驚き、電子ゲーム「ゼビウス」のつくりや井上陽水のシンガーソングぶりに驚き、亀田製菓の数々の「サラダあられ」や美山荘の中東吉次の摘草料理に驚き、横須賀功光が撮った写真やコム・デ・ギャルソンの白い男物シャツに驚いた。

ファミコンゲーム《ゼビウス》

いずれも予告なし。ある日突然に出会ってたまげたのだ。これらの代わりにマイルス・デイヴィスを聴いたときとかヴィトゲンシュタインを最初に読んだときとか、そういうものを挙げてもいいのだが、できればナマっぽく体験したことと向き合ったほうがいいので、こんな例にした。

まずは何に驚いたかということが大事なのだが、それにとどまってはいけない。そのときこちらを襲ってきた唐突な感動が、その日その場のシチュエーションや当日の体調や別の記憶との共属関係とともに新たに残響してくることが、もっと大事だ。

われわれは当然のことながら、幼児期には何にでも驚いてきた。子供になってからもアサガオの開花やセミの羽化に出会ったこと、土中の化石やホタルの点滅を初めて見たのは、忘れられない体験だ。ただし、これら植物や動物を相手にした感動はのちにも体験可能になる率が高いけれど、それにくらべて誰かがもたらしてくれるものは、その時その場にかぎられることが多い。

この誰かによる感動とどう付き合えるかということから、世の「才能」というものへの陥入がおこっていく。

感動や共感について心すべきことは、出会って驚いた瞬間の感動というか逆上といったものを、その後どのように保持できる状態にしておけるのか、またその感動をここぞというときに脳裏から自在にリコール(リマインド)できるようにしておけるのかということにある。

感動も共感も誰にだっていろいろの機会におこるものだけれど、それをどこかに転移しても(時と場所とメディアを移しても)、その鮮やかさをそこそこ賞味できるかということが、キモなのである。

たとえば、誰かの講演を聞いて、おおいに痺れたとする。内容にも共感したとする。では、この感動をどのように保持するかなのである。またどのように再生するかなのである。これがけっこう難しい。

驚きをもたらしてくれたものには、当然にそれをあらわした当事者の才能が光っている。横須賀のモノクロ写真や陽水の歌においてはあきらかに格別の「個の才能とスキル」が発揮されたのだし、「ゼビウス」や「サラダおかき」には開発チームの「集団的で統合的な才能」が結実したのである。しかし、その秘密に分け入るには、たくさんの分析や推理が必要だ。

たとえば第1に、その才能が開花するにあたっては、少年少女期や青春期に何をめざしていたのかということがある。栴檀は双葉より芳しと言うけれど、小さいころの能力の芽生えがそのまま開花することは少ない。なんらかの深堀りやエクササイズが生きたはずなのだ。横須賀や陽水はそこをどうしたのか、これは覗きにいく必要がある。

第2に、その才能開花に預かったメンターや技の協力者やチームはどういうものだったのかということがある。ゼビウスはどのようにチームを組んだのか。一人で独創をはたしたかに見える棟方志功だって、実はたくさんのメンターがいた。志功はそのメンターに強く影響されたいと思った。指導者や師や影響者の存在は、メンターの資質に選択肢があるというより、むしろその師に掛けたほうの強度がモノを言う。

のちのちそんな話もしたいと思うけれど、ぼくの場合はいったん選んだ影響者のことを、その後もまったく疑うことがなかった。

また第3に、その才能によってどのように同時代の競争を抜きん出たのか、そこにはどんな時代の水準がわだかまっていたのかということも才能分析の対象になる。セザンヌが人気があったときとカンディンスキーが「青騎士」として登場したときとウォーホルがシルクスクリーンで登場したときとでは、時代のアイコンも驚きの関数も違っていた。そのため、その時々の勝負手がちがってくる。こういうときは、自分で才能を懸崖に立たせる必要がある。イチかバチかに向かう必要がある。

横須賀功光《射》

横須賀功光が颯爽と出現したときは、日本の写真界はキラ星がひしめいていた。ファッション写真や広告写真で腕を磨いた横須賀は、ここで全裸の若者をモデルに『射』というモノクローム作品に挑んだ。若者が壁に向かって跳び移ろうとする肉体を、撮ってみせたのだ。ライティングも絶妙だった。誰も見たことがない写真だった。

第4に、才能開花のためのエクササイズやレッスンや機材はどういうものであったかということがある。棟方志功のように「板と刀」だけが武器だということもあるけれど、多くの場合、才能開花にはいくつもの道具や機材が関与する。レンブラントの版画には日本から取り寄せた和紙が、プレスリーのギターにはマイクやアンプの性能が、アンセル・アダムスのf/64のカメラにはレンズやプリントペーパーの質がかかわっていた。

顔料やコンピュータをどう使うか、録音機やプロジェクターをどうするか、釉薬や鉄材は何を入手するか。テクノロジーは才能の信頼すべき友人なのである。このことも才能にまつわっている。

ぼくは執筆には、いまだにシャープの「書院」を使っている。発売されていないだけでなく、いまや修理ができる工房もない。

第5に、なぜその当事者たちは「ゾーン」に入れたのかということだ。才能に自信がもてるには、どこかでゾーン体験がいる。ゾーンに入るとは、予想を超えるノリに入ったことをいう。俗にエンドルフィンやアドレナリンが溢れることだ。

しかしながら、為末大が言っていたけれど、あるときゾーンに入っていけたとしても、その継続は必ずしもおこらないし、その手前でそうなるとはほぼ気が付かないものなので、そこをどうするか。そのため、アスリートの多くはゾーンを思い描いたイメージ・トレーニングをしたり、ルーチンを確実なものにしていくということをする。

けれども意外なことだろうが、スポーツ以外ならいくらだってゾーン体験は引き寄せることが可能なのである。一番有効なのは誰かとコラボすることだ。スポーツは必ずチームや相手がいてスコアを争っているのだが、他の才能開花は一人で自分の才能の発揮に悩む。そういうときは、誰かとともにその才能を試すのがいい。編集能力の発揮なら、学習仲間とともにさまざまなことを試みたり、メディアを変えたりするといい。

たんに感動したといっても、そこにはざっと以上のようなことが準備されていたり、参集していたのである。これらを無視しては才能は発揮できないし、才能を云々することも叶わない。

しかし、ここまでの話は、ぼくがこのコラムであきらかにしたいことの範疇のうちのまだまだ一端にすぎないのである。どちらかというと、ここまでは才能議論の準備やアプローチに必要なことで、実は序の口の話なのだ。クロート向きとは言えない。
 才能に痺れたのちに重視してみたいのは、驚かされた相手の才能は当方(受容者)にどのように伝播されたのか。その後はどうなっていったのか、ここを抉るということだ。

ラグビーの平尾やシンガソングライターの陽水の才能は、ほおっておけばすぐに「スポーツの才能」とか「音楽の才能」というふうに一般化されてしまう。また他のプレイヤーとの比較分布にマッピングされていく。ジャンクフードや料理の個別の感動は、たちまち無数の「おいしさランク」にいいねボタンとして回収されて、平べったくなっていく。

ゼビウスはその後は無数の電子ゲームが乱舞していったので、おそらくいま遊んでみても当初の感動は色褪せているにちがいない。

愛用の”お古” シャープ《書院》

コム・デ・ギャルソンの黒い紐付きの白シャツはいまでも気にいってはいるけれど(イッセイのスタンドカラーの白シャツなどとともに)、それははっきりいって「お古」なのである。

が、大事なのはこの「お古」との付き合いのうちにも、あのときの感動とそれをもたらした才能とを交差させられるかどうかということなのだ。

そもそもプラトンも人麻呂もバッハもゴッホも複式夢幻能も、これらはすべて「お古」なのである。「お古」だからこそ、何度もプラトンを読みなおしたり能楽を見なおしたりするのだが、そしてそれで少しは自分が感動した才能の位置や重みに気がつくこともあるし、少しは「お古」を脱したと感じるのだけれど、これでは甘いままになる。それよりむしろもっと「お古」を相手に才能と向き合うべきなのである。「お古」をバカにしてはいけない。

これは思うに、感動は転移しつつあるあいだも(AからBに、BからCやDに)それなりの主張をしているはずなのだから、その転移のなかでの様変わりな変容も捉えておいたほうがいいだろうということだ。ぼくが何を一番鍛えてきたかといえば、おそらくはこの「お古」をいつも甦らせる状態で自分の編集力をリマインドしたりリコールできるかということだった。

感動や驚嘆には才能の楽譜やレシピが刻まれている。ぼくの編集力はそのことをヴィヴィッドな状態でホールディングしたり別の場所にキャリングする(移行させる)ことを、試行錯誤をくりかえしながらも何度も試みることで、そこそこ鍛えてきたように思う。ただし、そこにはいろいろの秘伝もある。そのあたりのこと、おいおい話してみたい。

> アーカイブ

閉じる

〈弱さ〉のちから

ホスピタブルな光景

鷲田清一

講談社 2001

編集:「本」編集部
装幀:赤崎正一

大被災した日本。棄損した東北。引き裂かれた家族。
もどかしい声援。断線した心。
3・11におこったのは、
地震と津波と原発事故だけではなかった。
砕かれた母国を前に、われわれの中にひそむ
「挫けそうなもの」が露出した。
それはひょっとすると、この数十年にわたって、
政官財民の右肩上がりをめざす安易な成長神話が
そのつど処置されてきたものたちの
形代(かたしろ)の露呈でもあったかもしれない。
もはや「強さ」ばかりを求めていてはならない。
いまこそ「弱さ」からの再出発を
決断する日が近づいている。
「存在を贈りあう社会」が切望されている。

 3・11以来、日本列島の弱い部分についの議論が、いまだぽつぽつとではあるけれど、少しずつ深まってくるようになった。
 この数十年間、日本はやたらに「強さ」を求め、どんなグラフも右肩上がりであるのがいいと言い合い、世界のどこでも自慢できるような規準値に追いつき、企業はつねに勝者であろうとすることを誇ろうとしてきた。それがばかばかしいほどのグローバリゼーションの美名とともに広まった。
 しかし、そんな規準値に向かう途中には、実のところはとんでもない欠陥や弱点やカオスが、国家にも企業にも地域にも、町にも学校にも家族にも個人にも、ひそんでいたはずなのである。それをみんなで隠蔽しすぎたようだ。それが3・11で起爆すると、とたんに「少ない物資でもがんばろう」ということになった。
 本書は「強さ」を求めない。「弱い場所」から発せられた言葉と出会うことによって書かれたエッセイである。ここには、傷を負った言葉、挫けそうな心、ひりひりした気持ちが、丹念に拾われている。講談社の「本」に連載されていたエッセイで、後半に、ぼくの『フラジャイル』(現在はちくま学芸文庫)もとりあげられている。
 著者の鷲田清一さんはいまは大阪大学の学長であるが、ずっと以前から哲学者としてもモード研究者としても、関西随一の柔らかい思索力の持ち主として知られてきた。ヨウジ・ヤマモトの絶大な擁護者でもあって、自身、授業中も外出時も、たいていヨウジを着ている。けっこう似合う。
 メルロ=ポンティ(123夜)に、「哲学とはおのれ自身の端緒が更新されていく経験である」という有名な定義ある。鷲田さんはこの「言いよう」をずっと大事にしてきた。一方、哲学の言葉が自分の実感の確かさになかなか合致しないことについての苛立ちも隠してこなかった。
 そしてあるときから、「自身の端緒が更新されていく哲学」は、ひょっとすると自分自身の中の強い規準にあるのではなく、むしろそれを崩すもの、自分から見えない「弱い方」からやってくるのではないかと思うようになっていった。本書にも、その丹念な模索がしたためられている。

 ケース1。飯島恵道さんは長野県松本の東昌寺の、ピアスをした尼さんである。鎌田實さんの諏訪中央病院で緩和ケアに従事し、地域医療とケアをどのように組み合わせていけばいいのか、いろいろ学んだ。「必要な世話」と「余計な世話」のちがいをどのように感じ取れるかということだ。
 いま、3・11後の東北・北関東では、たとえ復旧が首尾よく進んだとしても、そこにはきわめて困難な医療問題やケア問題が待ちかまえる。仕事の再開の難しさ、暮らしの歪み、老人医療の停滞、メンタルケア不足、放射能に対する不安。難問はいくらでもある。とくに近親者を突如として奪われた家族がたいへん多く、町の大半がその悲痛と痛哭に突き落とされているケースが少なくない。
 今回の大震災では、一人ひとりの苦悩と不安だけではなく、集団苦悩や地域不安こそが地域を襲ったのである。
 これまで家族や近親者を亡くした遺族については、グリーフケアがおこなわれてきた。しかしこれを医療者だけが担当しているのではとうていまにあわない。たとえば地元のお寺などにもグリーフケアがなくてはならない。日本の寺院ネットワークはこれらに十分には対応してこなかった。日本仏教の低迷だ。飯島さんはそんなふうに思って、ずいぶん前からお寺に入り、尼となり、そのうえで病院勤務もするという二足の草鞋をはくことにした。
 鷲田さんは、エッセイのなかで人類が死者と生者をどのように扱ってきたかということに思いをめぐらす。「死があるのに遺体が見えない社会」というものを考える。ぼくはぼくでそこを読んで、数学者ヘルマン・ワイル(670夜)の「この世界で最も重要なのは生者と死者が同居していることである」を思い出していた。

 ケース2。福島泰樹さんはサスペンダーをしたお坊さんだ。東京下谷法昌寺の住職であって、著名な歌人だ。ぼくもまだ一度だが、吉祥寺の「短歌絶叫コンサート」に行ったことがある。
 歌集はときどき読んできた。その短歌はバリケードの中から始まって、「学生の貴様にあなどられたるは酒樽の上立てるおもいよ」などと気迫を吐いた。ついで「死ぬるなら炎上の首都さもなくば暴飲暴食暴走の果て」といったアナーキーでデモーニッシュな彷徨をへて、「渓谷はかなしかりけりこれからを流れるようなひとりとなろう」「さくらばなちるちるみちるみずながれさらば風追う言葉とならん」というような極北の哀歓のほうへ進んでいった。挽歌も多い。『やがて暗澹』(国文社)では、他者の歌を深く抉って批評した。
 その後の福島泰樹の短歌については「福島は自分を歌っていない。他の悲嘆を歌っている」と言われた。安永蕗子は「世を去った身近な才能に捧げられている」とも言っている。
 鷲田さんは、そういう福島さんを訪ねていろいろ話した。僧侶としての福島さんが何を日頃感じているかを知りたかったようなのだ。そして、遺体が自宅に戻ることなく病院からそのまま斎場に行ってしまうことを懸念していることに、注目する。そこには、死に水、湯潅、死化粧、死装束、枕経、添い寝、夜伽がなくなっている。いったい、それでいいのか。

 ケース3。横浜に住む建築家の山本理顕さんが、あるとき新聞に「家族というものは寂しいものだ」と書いた。
 今日の日本の家族という単位は、社会的な単位としてあまりにも小さすぎるものになった。現在の社会システムはその小さな単位の家族に負担がかかるように、できあがっている。当該システムに問題があるときは、システム全体の見直しではなくて、家族の単位のところで調整しようとしてきた。だから家族が喘いでいる。そう、書いていた。
 山本理顕はこれまで一貫して、個人住宅や集合住宅ばかりを設計してきた建築家である。夫婦・両親・姉弟の家族が同居する実験的な「HAMLET」を設計したりもした。その山本さんがこういう感想を訴えていることに、鷲田清一が何かを感じた。
 かつて芹沢俊介は、現代の家族生活が多世代同居性を解体し、かつての農村風景に見られる日本はどんどん崩壊していくだろうと予告していた。3・11以降の東北に“再建”される町もそうなっていくだろう。若林幹夫は日本の生活形態が一方では都市寄生型に、他方ではホームレス型になっていくだろうと予告した。
 スーパーやコンビニやホームセンターが近所にあるか、自動車で行けるロードサイドにありさえすれば、家族が住みあい語りあう「家」はそうした外部利便性に依存したストック・ユニットにすぎなくたってかまわない。そういう住まい方が列島全土を覆っているわけだ。けれども、3・11はそのスーパーとコンビニと自動車をずたずたにした。
 鷲田さんは考える。いまや家族は“family”ではなくなっている。そこには“significantperson”がいるばかりだ、と。

 ケース4。稲葉真弓さんは『声の娼婦』や『水の中のザクロ』で評判をとった作家であるが、いっとき健康スポーツランドに通う日々をおくっていた。そこに「近さ」と「匿名性」が一緒になっていたからだ。
 ホスピタリティとは何か。ケアとは何か。快感とは何か、カウンセリングとは何か。この問題にひとしく答えるのはきわめて難しい。
 そもそも人間というものは、それぞれが独自の多形倒錯めいたものを秘めているのだから、一様なホスピタリティ、万人のためのケア、市民のための一般的な快感、汎用的カウンセリングなどというものなんて、ありえない。そこには必ずや「幽(くら)い淵」があると、鷲田さんは見る。東北復興でもここを一般化すると、とんでもないまちがいがおこる。
 むしろ他人の体験や感情や不安を受けとめ、それを「通していく」ことが重要なのではないか。あるいは「感情を預かる」ことが大事なのではないか。では、そこをどうしていけばいいのか。
 鷲田さんは、渋谷の道玄坂のマンションの一室でセックスワーカーをしている南智子さんに会ってみることにした。南さんは代々木忠監督の『性感Xテクニック』シリーズにも出演したことがある。
 その南さんの指摘で興味深かったのは、男たちが女性におっかぶせることでしか自分の性を語れなくなっているということだった。南さんは言った、「男が自分自身に呪縛をかけてまで隠さなければならなかったファンタジーや性って、何なのか。わたしはそれが見たくて娼婦になったようなもんです」。
 性というもの、少年少女時代の体験の歪みとそこから噴き出てくる諸幻想によって編集されている。そこには度しがたいほどの多様性がある。それなのに、その多様性が鬱屈してきた。そこを一時預かりし、「通して」いくにはどうするか。これは家族のあいだにひそむ官能や快感をどうしていくかという問題にもつながっていく。

 ケース5。佐伯晴子さんはSPを通してケアや医療かかわっている。SPというのは“Simulated
Patient”の略。みずからが模擬患者になるということだ。すでに大阪に「ささえあい医療人権センターCOML」や東京SP研究会ができている。
 SPは医療が医師と患者のあいだにあって、患者や不安者たちの体験や感情をミラーリングする。通気する。SPは共同の営みの中に自身を投じるということなのである。
 京都出身の高安マリ子さんはダンス・セラピストだ。患者たちは靴を脱いでダンスシアターに入り、高安さんと本気のセッションをする。叩きあい、撫であい、踊りあう。上半身と下半身の境い目が大事らしい。そこがぐちゃぐちゃしていると、アタマとカラダが分離する。そのズレをダンス・セラピストは引き受け、身体のはたらきで何かを実感してもらう。
 北海道の襟裳岬の近くの浦河町に「ぺてるの家」がある。そこにはたらく川村敏明さんはあえて「治せない医者」を自称する。そのかわり「油断ができる関係」をどうつくっていくかということに、ソーシャルワーカーとしての活動を集中させている。
 沖縄アクターズスクールの分校、大阪のマキノ・ワールドポップスでは、牧野アンナさんがチーフインストラクターをしている。かつては安室奈美恵のスーパー・モンキーズの一員だった。そこから一転して父親が経営するスクールの指導を15歳から23歳くらいまでの若手で指導することを決意した。以来、「生徒が生徒を指導できるしくみ」を心掛けている。
 これらの人々との接触と会話を通して、鷲田さんは「世話」(サービス)と「隷従」(サーヴィチュード)とのちがいを、「提供」と「交感」のちがいを実感しようとしていったようだ。
 こうした作業をなんどもトレースさせ、自分の思想をほぐしつつ、そこから少しずつ「かけがえのない言葉」を掬(すく)っていくというのは、かねてから鷲田さんが得意とする手法であるのだが、本書でもその手法が着々と積み重なり、読者に何かを実感させていく。その何かというのは「弱さのちから」というものの可能性のことだった。

 最後のほうになって、中川幸夫、田口ランディ、映画監督の伊勢真一の『えんとこ』の言葉、それにぼくや鶴見俊輔(919夜)や中井英夫の言葉が出てくる。
 中川さんや鶴見さんは「存在の他者性」や「その他の関係性」に可能性を見いだすことを、田口さんや遠藤さんの言葉からは「力をもらう」ということが導き出される。
 ぼくについては『フラジャイル』が引用されていて、弱さ、脆さ、傷つきやすさに共有されるものの重要性にふれ、「弱さは強さの欠如ではない」ということ、「おほつかなさ」の重要性などが引き出されていた。すでにパスカル(762夜)が言っていたことであるが、フラジャイルな哲学では、強さを求めることは自由よりも束縛をもたらすことが多く、むしろ弱いものに従うことが自由なのである。
 自由はつねに現在を伴っている。それを哲学では「現前性」などという。けれども精神医学の臨床医である中井さんは、本来の“presence”は「現前」というよりも、「そこいてくれること」であって、ケアやホスピタリティは“onpresence”(互いにかたわらに居合わせること)のほうへ向かうべきではないかと言った。鷲田さんはそこに共感する。
 かくて本書は、まとめていえば「存在を贈りあう関係」についての本だったのである。それにはまずは人々が何に関心を示すかということを、もっともっと重視しなければならない。3・11後の日本に求められることも、そのことだ。
  ふりかえって、そもそもinterest”(関心)とは、ラテン語では“enter-esse”ということ、すなわち「人々のあいだにいる」ということだったのである。

【参考情報】
(1)いつか書こうと思ってはいたが、鷲田清一さんの本をモード論ではなくて、この本で「番外録」でとりあげるとは予想していなかった。御本人は1949年生まれで、ぼくより5つほどの年下の同じ京都人である。いつ会っても、柔軟な思考と対応がすばらしく、とくに話しこむことなく互いに共通の理解をもってきたように思えてきた。
 京都大学大学院の文学研究科で哲学を修め、関西大学や大阪大学をへて現在は大阪大学学長になっている。著書は哲学・現象学・美学・心理・ファッション・モード論・文化論など、広い範囲におよぶ。以下の通り。
 『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書)、『分散する理性』(勁草書房・講談社学術文庫)、『ちぐはぐな身体』(ちくまプリマーブックス)、『モードの迷宮』(中央公論社)、『夢のもつれ』(北宋社)、『ファッションという装置』(河合文化教育研究所)、『「哲学」と「てつがく」のあいだ』(みすず書房)、『トランスモダンの作法』(リブロポート)、『最後のモード』(人文書院)、『ことばの顔』(中央公論新社)、『「聴く」ことの力』(TBSブリタニカ)、「ひとはなぜ服を着るか』(NHK出版)、『てつがくを着て、まちを歩こう』(ちくま学芸文庫)、『わかりやすいはわかりにくい?』(ちくま新書)、『たかが服、されど服』(集英社)、『噛みきれない思い』(角川学芸出版)など、かなり広い。
 3・11以降にも読みたい本が少なくないが、とくに『死なないでいる理由』(角川ソフィア文庫)など薦めたい。

(2)鷲田さんのエッセイは、一貫して「答え」のない「問い」を模索するというものになっている。これは、ぼくが自分の思索においても、イシス編集学校においても重視していることでもあって、たいへん共感できる。「他者の他者になること」が自分でありつづける唯一の存在学であるというのも、大賛成だ。
 もうひとつ共感していることがある。鷲田さんは20歳のときにタバコをやめた。3日間で復帰して(笑)、その後はヘビースモーカーを誇ったが、40歳を前にドクターストップがかかり、40歳の誕生日にひそかに断煙に踏み切った。それから10年、タバコから離れ、50歳でまた復帰した。たった3日間で元の本数に達したのだ。ひとえに共感するところだ。

(3)今日は4月4日である。被災地の想像を絶する危機的状況から3週間がたった。原発の修復の遅れと、これからおこるかもしれない放射能事故が最も予断を許さないけれど、その一方で、ようやくいくつもの復興プランが提案されつつあり、また国の内外から多くの義捐金が集まっている。内外での「がんばれ日本」の掛け声も高い。
 けれども、復興予算をどのように組み、何に投下するのか、どんなプランをもって当たるのか、何をがんばるのか、いずれもほとんど決まっていない。
 東北復興計画は、被災地のインフラを“復旧”するべきことから、被災者とその周辺の日々の生活が“復活”していくまで、そうとう多岐にわたらざるをえない。それは、この数十年間で歪んでしまった日本そのものの再生計画や変更計画に裏打ちされていなければならない。これは「母国再生」ともいうべきものなのだ。
 だとすれば、復興計画だけではまちがいなのである。この際は「母国」というもののマザープログラムに着手することこそ要請されるのだ。しかしそのプログラムは、実に数百年をさかのぼっての取り組みにならなければならないはずである。ぼくも多少は寄与する覚悟をもっている。