才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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浅草弾左衛門

塩見鮮一郎

批評社 1985~1987

家康が認めた浅草弾左衛門。
日本の被差別社会の鍵を握った弾左衛門。
その弾左衛門は13代が続いて、明治で廃絶した。
いったい弾左衛門とは何なのか。
長吏(ちょうり)の歴史。非人の生活。
皮革の取扱い。犯罪者や失業者との関係。車善七との確執。
13代目弾直樹の冒険。明治政府による決断。
そこには、大都市江戸がつくりだした権益社会の実像と、
日本の被差別社会の実像とが、鮮やかに重なっている。
今夜は、塩見鮮一郎の洞察なくしては生まれなかった
希代の小説の背景を覗きたい。

 長編小説である。傑作である。浅草弾左衛門13代目の直樹を主人公にした。直樹は文政6年に生まれて、明治22年に67歳で没した。慶応4年1月13日に弾内記と、さらに弾直樹と改名して、そこで浅草弾左衛門の名は消滅した。直樹は“最後の弾左衛門”なのである。
 20年前のこと、この小説が出現したときはびっくりした。まさか浅草弾左衛門が小説になるとは思ってもいなかった。秘密文書を蝋燭のもとで繰るように、日本の暗部がどのように白日に晒されるのか、どぎまぎしながら読んだ。ところがそれで終わらなかった。その後も塩見は“弾左衛門もの”を次々に著し、そのうち“弾左衛門もの”のなかで最もわかりやすい批評社の『弾左衛門とその時代』が河出文庫になったこともあり、さらにまたそれに前後して他の研究者たちの著作もかなり充実してきたため、弾左衛門の周辺と根底によこたわる暗部はかなり歴史の底辺から浮上していったのだ。マンガにもなった。
 そのため、あのときのミステリアスで、禁断の函をあけるようにどぎまぎした気分になることは少なくなったのだけれど、そんなことはむろんこちらの勝手な事情で、多くの読者の目に、日本の裏面史のひとつの象徴としての弾左衛門が知られることの意味のほうこそ、はかりしれない。それほど、本書の執筆と刊行は画期的だった。

 弾左衛門を長編小説するにあたっては、いろいろ曲折も苦労もあったようだ。塩見に弾左衛門の物語を書くように勧めたのは、批評社の佐藤英之で、それで塩見がびっくりしながらも調査に入り、その気になって書きはじめてみると、この難問に没頭するには生活がおぼつかない。ある雑誌で連載すればなんとか糊口をしのげるかと思っていたが、雑誌はつぶれた。
 塩見はもともとは河出書房の編集者なのである。編集者が小説に手を染めるのはそんなにめずらしいことではないが、調査しなければ書けないようなものは、ふつうは手を出さない。中央公論社にいた村松友視(1111夜)がそうであったように、たいていは書きたいものを書く。『やちまた』の足立巻一(1263夜)のような難度の高いテーマにとりくむ例はめずらしい。が、塩見はそちらに手を出して、食えなくなったらしい。
 それで百科事典の項目書き・校正・リライト・映像シナリオなどいろいろな仕事をしながら、大串夏身や後藤文利をへて上杉聰と知りあって、いよいよ佳境に入っていったのだという。そういうことが大作の「あとがき」としてはずいぶん控えめに覚え書きされているのだが、その静かな弁明がこの著者、いやこの作家の体についたスタンスだったのだろう。

 弾左衛門については、徳川・明治・昭和を通して、誤報と曲解と恣意的な解釈がとびかってきた。その全貌を初めて起承転結をつけてあきらかにしたのが塩見であった。おかげで、われわれは浅草弾左衛門の歴史というものをほぼ教えられることになったのだが、しかし実際には弾左衛門は長らく差別問題の闇に葬られてきた人物なのである。
 たとえば近代日本のしょっぱなのことでいえば、最後の弾左衛門が死んだ直後の明治25年(1892)、「朝野新聞」に次のような記事が出た。「関東での穢多無慮一万戸。これを統轄したるものを弾左衛門といふ。弾左衛門は関東穢多の中央政府ともいふべきものにて、今当時の実際に就て聞くところ一つとして奇警ならざるはなし」。
 いまでは差別用語として禁じられている穢多非人を多数統轄していたのが弾左衛門だという説明だが、これだけではまだ何者かはさっぱりわからない。わからないだけではなくて、強い規定をしすぎている。「関東穢多の中央政府ともいふべきもの」とはどういう意味なのか、わからない。まして、そのリーダー弾左衛門がいつ、どのように“制度”になったかは、もっとわからない。塩見があきらかにした背景を、ごく大づかみにはなるけれど、ぼくなりに覗いておく。

 弾左衛門の名が公式に歴史に登場するのは、家康の江戸入城前後のことだった。天正8年(1590)である。このとき大手門の先に矢野弾左衛門という者が住んでいて、弾左衛門という職掌と人名をもっていたと、大道寺友山が『落穂集』に書きのこしている。
 しかし実際には、太田道灌が江戸氏の館を改築して江戸城にしたときすでに、矢野弾左衛門はいたらしい。太田道灌が浅草寺に通じる細い一本道の首根っこに「穢多」(長吏)を置いて街道警備をさせたのが始まりで、その周辺には処刑場と牢屋があった。江戸湊にも近いので、おそらく港湾労務の管理も任せていたのだろう。
 『落穂集』によると、その後の矢野弾左衛門は日本橋の尼店(あまだな)に葭の原(のちの吉原)があり、その高みのあたりに住まいをもっていた。まわりは穢多村で、家康は入城してすぐに鳥越のほうに移るように指示したのだが、弾左衛門はそんなに遠くに行っては商いができないと言ったということになっている。どんな商いをしていたのかというと、蝋燭や油皿の芯にする灯芯を売っていた。家康は移転先でもその商いをしてもいいと許可した。

灯心職(『新撰百工図絵』より)
灯心は油にひたして火をつけるもので、いぐさの芯から作られた

 これで矢野弾左衛門は鳥越に移った。同時に処刑場も移った。それからしばらくして、弾左衛門の商いは太鼓の革張替え、灯芯づくりなどであるとともに、その職掌は町奉行の手伝いとなり、警備・牢番・処刑などの御用を勤めることになった。これは「きよめ」にかかわる仕事を担当したということだ。
 つまりは、江戸の町奉行は被差別民の扱いのほとんどを弾左衛門の一党に任せていたわけである。やがて弾左衛門の一党は鳥越から新町に移った。正保2年(1645)である。その規模が中途半端じゃない。弾左衛門の屋敷は敷地740坪となり、寛政12年(1800)の記録では、手代が7人、役人が60人もいた。かなりの大所帯だ。弾左衛門の居宅の南側には「お白州」さえ設けられ、牢もあり、そこには鍵役(牢番)も住んでいた。

弾左衛門屋敷絵図
屋敷の敷地は740坪もあり、敷地内に池もあった

 一帯は塀で囲まれていたため「囲内」(かこいうち・かこいない)ともいわれた(今日の台東区今戸1丁目)。住人も少なくない。232軒がひしめき、猿飼だけでも15軒を数えた。そこには白山神社もあった。関東の被差別部落には白山神社が多いのだが、これはもっぱら弾左衛門が広めたものだった。部落のほうではこれを疱瘡神として崇(あが)めた。そのセンターが「囲内」だったのである。
 穢多たちは弾左衛門直営の湯屋(風呂屋)に入った。髪結床も4軒がある。非人は月代(さかやき)を剃るが丁髷(ちょんまげ)は許されず、散切り(ざんぎり)にされた。服装も衣類は無紋、渋染か藍染にかぎられた。
 こうして、お仕置御用、灯心作り、皮革精製、金融などを独占した弾左衛門の力はしだいに増大し、また富も集中していった。

長吏 = 穢多・皮多身分
病気や事故で死んだ牛馬から皮を剥ぎ、なめして加工した

長吏(左)、非人(右)のヘアスタイル
長吏は髷(まげ)を結っていた
非人は月代を剃っているが、髷は結えなかった

17世紀中頃の江戸
弾左衛門の住居は、日本橋の北から鳥越神社のそばへ、
さらには山谷堀の北「新町」へとしだいに遠ざけられていった

 いったい矢野弾左衛門になぜこのような「負の権力」が集中したのだろうか。いや、そもそもいったい弾左衛門とは何者なのか。なぜ「弾左衛門」という職掌が13代も続いて、それが明治になって廃絶されたのか。謎はかなり多く、また深い。塩見の研究に、盛田嘉徳から中尾健次におよぶ研究成果を加えて類推すると、ざっと次のような経緯があったようだ。
 すでに戦国大名と皮革職人とのあいだに、特権的ともいうべき密接な関係があったのである。鎧・兜・刀剣などの武具、鞍・鐙(あぶみ)などの馬具、これらには皮革は欠かせない。戦闘集団の準備をすることは、皮革を調達して万端を整えておくことと同義だったからである。
 当時、皮革職人たちは「皮作」(かわさく・かわつくり)とか「かわた」とよばれていた。このような皮革職人を巧みに保護したのは、いちはやく戦国の雄となった駿河の今川氏と伊豆の北条氏だった。
 駿河では府中の「かわた彦八」が領内の皮革をまとめる仕事を今川氏親から命ぜられ、なんと1町4反(5400坪)の敷地を与えられていた。別格扱いだ。次の今川義元の時代には、「かわた」の扱いについての許認可と掟とが定められた。一方、伊豆では、伊豆長岡の「かわた九郎右衛門」が北条氏からの触書にもとづいて、皮革を一手に扱うようになっていた。触書は九郎右衛門から計21名の「かわた」たちに触れまわされた。弘安4年(1558)前後、北条側から周阿弥と寿阿弥の二人が「かわた」管理の責任者になった。「かわた頭」は九郎右衛門である。
 小田原でも北条氏直による皮革管理があって、太郎左衛門が「長吏」の集団を統率していた。氏直は「長吏支配」を認める証文も出している。が、永禄8年(1565)の記録では、北条氏は長吏が全面統括することを嫌ったのか、一部を任せつつも直接に皮革コントロールするようになりつつあった。

 かくて戦国の世が終わり、信長・秀吉の天下統一事業が推進していくと、ここにこの皮革管轄のシステムに鋭い関心をよせた一人の戦国大名が登場してきた。ほかならぬ家康である。
 天正18年(1590)7月5日、秀吉は北条を滅ぼすと、その領地であった関東6カ国、伊豆・相模・武蔵・上野・上総・下総を新たな領土として家康に与えた。さっそく家康は8月1日に関東に「お国入り」するのだが、このとき一人の男が武蔵国府中に出迎えて家康に必死のお伺いをたてたというのだ。この男が「弾左衛門」だったのである。「由緒書」を差し出し、関東一円の皮革管理の許可をもらいたいというのだ。
 実は、小田原の長吏太郎左衛門も北条氏直の証文を家康に示していた。ところが家康はこれを認めず、それどころか証文を弾左衛門に譲り渡した。
 ここに「浅草弾左衛門」のスタートが切られるということになる。さてところが、この話にはいろいろ怪しいところがある。そもそも弾左衛門が見せたという「由緒書」は、のちの正徳5年(1715)に6代目弾左衛門が町奉行に提出した『弾左衛門由緒書』に書いてある話であって、家康の関東入りの時点とは思えない。『由緒書』がのちのでっちあげだとすれば、当時は、それに代わる何かの画策があったはずなのだ。

 そこで話はちょっとさかのぼる。北条氏康が武蔵国と江戸とを占領したのが永禄2年(1559)のことだった。
 このとき、それまで沼田庄(東京都足立区)の長吏であった弾左衛門が長吏の役を解任されてしまったのである(つまりこの時点で、浅草弾左衛門はまだいないのだが、弾左衛門はいたわけだ)。
 が、弾左衛門は抵抗して訴訟をおこそうとした。むろんそんなことが通るはずはない。北条氏は沼田の福島孫七郎に新たな長吏支配に徹するように命じ、弾左衛門が抵抗するなら国を追い出せと指令した。弾左衛門は厩橋に身を隠した。それを聞き付けた北条は「弾左衛門がなおそこいらを徘徊しているのなら、小田原の太郎左衛門に申し付けて成敗しなさい」と申し渡した。
 ここに「太郎左衛門と弾左衛門」という対立構図が浮上した。家康はそこに目を付けたわけである。北条の息のかかる太郎左衛門を排して、自分のコントロールのききそうな弾左衛門を選択する。それによって関東一円の皮革事業を掌中にしようという計画だ。もうひとつ家康が思い立ったことがある。長吏支配は「かわた」の管理だけではなくて、犯罪人や浮浪者や失業者の管轄に向いているのではないかということだ。

 浅草弾左衛門は、このように出現したのだった。
 慶長9年(1604)、弾左衛門は伝馬一匹を許され、毛皮の原皮を加工するために江戸から小田原まで運ぶ。この仕事自体はかんたんなものではあるが、この指令書には関東総奉行の青山常陸介と内藤修理、代官頭の大久保石見守(のちの大久保長安)といった幕閣のトップの名がこぞって押印をしていた。
 これは、弾左衛門からすれば家康のお墨付きをもらったも同然である。欣喜雀躍したことだろう。弾左衛門の前途はあかるい。
 ただし残っている問題があった。弾左衛門の出自や由緒である。これについては弾左衛門は勝手なでっちあげをした。さきにのべた「弾左衛門由緒書」がそうなのだが、そこに「自分の先祖は摂津国池田から相模国鎌倉に下り、そこで源頼朝から長吏以下の支配を命じられて、その仕事に長らくまっとうしてきた」というふうに書いたのだ。
 鎌倉にいたというのである。なぜ鎌倉なのかは頼朝時代に自身のルーツをさかのぼらせることができるからだろうが、それとともに実際にも頼朝時代の鎌倉には八幡宮の神人(じにん)がいて、ここに弾左衛門の先祖が長吏以下の職人や芸能者や非人を組織していたか、統括していた“前歴”がうかがえるのである。でっちあげの偽文書ではあろうが、弾左衛門が差し出した「頼朝御証文」には、弾左衛門が次の28座を統括していたということがのべられている。
 長吏、座頭、舞々、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋師、鋳物師、辻目暗、非人、猿曳、弦差、石切、土師師、放下師、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、関守、獅子舞、蓑作、傀儡師、傾城屋、鉢扣、鉦打。
 これだけの職人や芸能者や非人を支配していたとは驚きである。そのことがどこまで歴史的事実であるかは今夜はさておき、これに近いかその原型となるようなリーダーが鎌倉にいただろうことは、すでにあきらかになっている。
 ぼくも『フラジャイル』(ちくま学芸文庫)のなかで、大庭御厨(おおばみくりや)の開発領主であった鎌倉権五郎の話とともに、頼朝が非人の娘の菜摘御前に子を産ませた話を書いておいた。どうもその菜摘御前(なつみごぜん)の父親が弾左衛門らしいのだ。それが鎌倉八幡宮に属する「極楽寺長吏」で、しかも当時の記録によれば、このグループは小田原の長吏グループと対立しあっていたのである。
 まあ、このあたりのことはたいへんに興味深いのだけれど、本書の時代からはずれすぎるのでこのくらいにして(いずれ別の本で迫りたい)、ともかくもこうして弾左衛門は“歴史化”されたわけである。

「日本の謎を握る弾左衛門と職人たち」
『フラジャイル』第5章 異例の伝説より(筑摩書房)

 これで話は最初に戻る。初代浅草弾左衛門が家康と出会い、2代目以降がこれを継承していったのだ。
 どういうふうに代々がいたかということをかいつまむと、おそらく2代目が関東の皮革事業の基礎をかため、元和3年(1617)に3代目が江戸の町奉行と親しく交わり、このとき「お仕置役」の役目ももらった。「内記」という内証名(ないしょうみょう)が与えられたのもこの時期らしく、以降、代々の弾左衛門は250年にわたって「内記」を内証名にした。
 4代目は寛永17年(1640)から寛文9年(1669)までの浅草弾左衛門で、屋敷が鳥越から新町へ移っている。すでにのべたように、このとき刑場も鳥越から山谷に移り、小塚原仕置場として有名になるのだが、つまりは犯罪人の扱いが弾左衛門一党に任されたわけである。そのあと鈴ヶ森も仕置場となって、この管理も任された。かくして「きよめ」といえば弾左衛門の代名詞となったのだ。
 5代目は宝永6年(1709)までで、次の6代目が“中興”の弾左衛門になる。わずか12歳で弾左衛門を継いだようだが、寛延1年(1748)までの40年を仕切った。「由緒書」もこの6代目が偽装した。
 7代目は織右衛門、8代目は要人と言った。このころから弾左衛門の「力」に翳りが見えてくる。幕藩体制が揺動してきて、身分制度の締め付けが強化されつつあったことも手伝った。9代目浅之助のときは後見に手代の佐七が立ち、就任が寛政5年(1793)までずれこみ、そのうえ9代目は25歳で病没、ここでついに弾左衛門の直系で織り成されてきた男系の血が途絶えることになってしまった。
 とりあえず10代目は甥の金太郎が継ぐのだが、文政4年(1812)に31歳で死んだ。これで弾左衛門の直系は7代目の娘一人になった。やむなく関西の皮革問屋などに相談して安芸国出身の富三郎という者が養子縁組をして11代目を継がせようとしたものの、あえなく20歳で若死。12代目の周司はまたまたよそ(信濃国)からの推薦をえることになった。
 が、周次は車善七とのあいだでちょっとした事件をおこしたため、「押込」に処せられ、それがもとで引退した。次の後継者をどうするか。こうして本書の主人公である“最後の浅草弾左衛門”の人選が始まったのである。

 天保10年(1839)、有力長吏12人が集まって11代目富三郎の実家や本家を中心に跡継ぎを選ぶことになった。
 富三郎は安芸国佐伯群の雑色頭の河野団左衛門の子であったが、そこには適当の人材はいない。そこで本家の河野平三郎の人脈をさがすことになった。けれども平三郎はすでに故人になっていたので、妻の実家にあたることにした。そこは摂津の長吏頭の家で、そこに小太郎という有望な子がいることがわかった。寺田小太郎である。
 いろいろ調べてみると、父親は利左衛門、母方の祖父は京都の元銭座村の長吏頭の専左衛門である。母の妹も紀州海部郡広瀬の長吏甚之丞の嫁いでいる。弾左衛門を継ぐにはふさわしい。こうして小太郎は天保11年(1840)、13代浅草弾左衛門になった。

 本書の冒頭は、小太郎が弾左衛門を継ぐまでのことが詳細にのべられている。とくに興味深かったのは12代目が車善七との絡みで引退したことに、しっかりとした物語の前提を描写したことだ。そこに、小太郎こと13代弾左衛門が“最後の弾左衛門”として登場してきたいっさいの事情が躍如した。
 車善七については弾左衛門とは別な意味でたいへん謎が多い人物で、やはり何代にもわたって江戸の「非人頭」としての「役」を継承し、つねに浅草弾左衛門とのあいだで確執を繰り広げた。慶長13年(1608)に初代が車善七を名のったことが記録にのこっているので、ほぼ弾左衛門と同じように徳川社会を生き抜き、明治初頭に“最後の車善七”をおえた。
 非人頭というのは、いわゆる「溜」(ため)を仕切った一党のリーダーのことをいう。「溜」はもともとは未決囚で病いにかかった連中の収容施設のことだったのだが、やがて非人・貧人(同じくヒニンと称ばれた)の多くの「溜り場」(施設)の意味をもち、さらに善七によって非人全般の扱いの役目を引き受ける役どころにまで発展した。
 もっとも、江戸の非人頭は車善七以外に、品川松右衛門、深川善三郎、代々木久兵衛がいて、なかで車善七が浅草を中心に番を張ったので、これが弾左衛門とのあいだで“領分”をめぐる確執や対立を招いたわけである。もっと詳しいことを書きたいが、詳細は塩見が『江戸の非人頭・車善七』(三一新書)という、これまた貴重な本を出しているので、それを読まれたい。
 ということで、小太郎弾左衛門は前任者が車善七と対立していたことを背景に、自身の13代目としての仕事にとりくむことになったわけである。
 しかし小太郎弾左衛門の前途には、さらに難問がいくつも待っていた。最も大きな難問は幕府の衰弱だ。勤王佐幕、尊王攘夷の機運が複雑多岐に渦巻くなか、幕府としては弾左衛門の勢力を活用しないわけにはいかない。「身分引き上げ」が申し渡され、65人の手代とともに“平人”の扱いとなり、町奉行所システムのなかでは与力格にさせられた。
 小太郎が「弾内記」という姓名になったのはこのときである。第2次長州戦争にも駆り出された。新撰組との共闘も何度か図られた。
 こうなると、弾左衛門の運命は幕府とともに盛衰をまっとうするしかない。しかし、盛衰の「盛」はもはやありえない。幕府の解体は明白だった。案の定、幕府の敗北が決定的になってくると、弾左衛門が所属していた町奉行所はただちに「市政裁判所」という名に改まってしまった。弾左衛門はまったく新たな弾内記として、さらには改名して「弾直樹」として生まれ変わるしかなくなったのである。

 明治の新政府は皮革製造を軽視しなかった。むしろ「富国強兵」のためには皮革はさらに必須産業になる。軍需としての皮革は国家の欠かせぬ事業であった。加えて、新時代は「靴」の時代でもあった。革靴の生産は大きな「殖産興業」の一角を担うにあたる。まして軍靴は欠かせない。
 しかし一方、新政府は「賤民制の廃止」を執行しようともしていた。もしそうなれば、これまで通り、弾左衛門が長吏支配を維持しながら皮革産業を牛耳れるとは思えない。
 危機を感じた弾直樹はさっそく嘆願書を提出して、従来通りの皮革取扱いを申し出るのだが、ここに新政府側にもちょっとした対立がおこった。兵部省は造兵司を設置して、皮革の重要性を強調するためにも弾直樹の嘆願書の擁護にまわった。だが、太政官や東京府が慎重だった。
 まず弾左衛門一族の身分が確定していない。これはよろしくないと言う。また廃藩置県によって東京府ができあがってくるのだが、その東京府の治世管轄圏と弾左衛門の長吏支配圏とが重ならない。弾左衛門の歴史的な支配圏は関東の廃藩置県をこえている。そこで「待った」がかかったのである。
 この綱引きはしかし、兵部省が軍需としての皮革の重要性を押し切って、弾直樹に「造兵司革製法」を命ずることになって落着した。これでいよいよ弾直樹は皮革製造所を開設できることになったわけである。明治4年(1871)、アメリカ人のチャールス・ヘニンガーをお雇い外国人とすると、滝野川反射炉の跡地が選ばれ、そこに皮革製造伝習所と軍靴伝習所とが開かれることになる。もはや弾左衛門は近代産業の先兵としての弾直樹になりそうだった。

 ところが、そこに耳を疑うような事態が発生する。太政官から「斃牛馬(へいぎゅうば)勝手処置令」というものが発動されたのだ。
 それまでの日本では、牛馬が死ぬとその死骸は無償で長吏に渡されていた。だからこそ、皮も骨も、ばあいによっては肉も、すべて長吏のものとなってきた。それが長きにわたった日本社会というものだ。「負のシステム」である。弾左衛門はその社会を支配したわけである。長吏支配とはこのことだ。
 それが幕末あたりから、牛馬の持ち主が有償で売る者があらわれ、勝手に牛馬の“資産”を取引するようになってきた。新政府はこれを「斃牛馬勝手処置令」として全面的に認めてしまったのである。築地には築地牛馬会社もつくられた。
 これは弾直樹にとっては由々しい大事件だった。すぐに嘆願書を提出し、兵部省はここでも支援しようとするのだが、やはり太政官と東京府とのあいだに衝突がおこった。しかも今度ばかりは兵部省の言い分にも限界があった。軍需としての皮革の需要は広がっていったほうかいいからだ。

 こうして明治4年8月28日の、あの歴史的記念日がおとずれる。太政官布告は「穢多非人等ノ称被廃候条、自今身分職業共平民同様タルベキ事」と謳ったのである。穢多・非人などの名称を廃止し、今後は身分も職業も平民同様になるというものだ。いわゆる解放令である。
 この布告は中世このから差別社会の底辺に貶められてきた一族を想う弾直樹にとっては、もとより喜ばしいことだった。しかし他方、いよいよ弾左衛門13代にわたった権益に終末がやってくることを暗示もしていた。
 穢多がなくなるなら、穢多頭もいらなくなる。「囲内」は不要で、「かわた」と皮革の結び付きも成り立ちにくい。弾直樹が準備しつつあった皮革製造会社も、いくつものライバルと競争させられることになった。「近代」とはそういうものだったのだったのだ。富国強兵・殖産興業は13代目弾左衛門を“弾左衛門制度”から解放し、そして同時に“その他多勢の平民”とともに競争社会に投げこんだのである。
 塩見鮮一郎は『弾左衛門とその時代』などで、この政策には大久保利通などが計画した「土地の商品化」が大きくかかわっていたとも推理している。従来の見方では、穢多非人の解放は部落解放でなければならず、それは同時に特定地域の解放でもあったのだが、それが新政府のトップによって明治4年というかなり早い段階の決断になったことについては、当然そこに近代国家の確立にとっての「土地の商品化」という有効性があったからだろうというわけだ。
 それでも弾直樹はともかくも、延命のために製靴会社をつくった。だからとりあえずは近代経営者の仲間入りをはたしたわけである。けれども滝野川の工場のほうは経営が苦しくなってきた。そこで工場を橋場町に移転して、手代の石垣元七にその運営管理を任せた。いまではそこは東京都人権プラザ(産業労働会館)となって、近代の昔日の面影を曳行している。ごくごく粗末に皮革展示室があって、なんともやりきれない気分になる。
 ライバルとして頭角をあらわしてきたのは西村勝三で、フランスの職工レ・マルシャンを雇って靴の生産に乗り出した。弾直樹はしだいに力を失い、橋場町の工場を三越の手代だった北岡文兵衛に渡し、名称こそ「弾北岡組」として残ったが、その実権を失った(その後は東京製品皮株式会社になった)。やがて西南戦争の噂が高まると軍靴の需要が高まり、徴兵制の波及とともに西村勝三の打つ手がびしびしと当たっていく。
 そして明治22年(1889)、弾直樹は67歳で病没してしまうのである。“最後の浅草弾左衛門”の最後であった。塩見の小説のエピローグは、この一人の男の死をもって、日本のフラジャイル・ヒストリーを大きく揺動させるものに満ちている。ということは、日本近代の本質を考えるにあたって、このラストシーンは『夜明け前』(196夜)『大菩薩峠』(688夜)に匹敵するものがあったということだ。ぼくが『フラジャイル』(1995)に弾左衛門をとりあげたときは、ロラン・バルト(714夜)を引いて、こう結んだものだ。「人間の演ずる行為は、容認された差異の関係のシステムを前提にしているものである」。

弾直樹(13代浅草弾左衛門)
この肖像は明治4年3月に撮影された(当時49歳)

解放令(明治4年8月28日発布)の文書

附記‥塩見鮮一郎の著作は、その後ずいぶんふえている。小説としては大長編の『北条百歳』全4巻(批評社)が大きく、そのほか『黄色い国の脱出』『告別の儀式』(田畑書店)、『西光万吉の浪漫』(解放出版社)、『死の周辺』(三一書房)、『古井戸の骸骨』(河出書房新社)、『車善七』(筑摩書房)などがある。“弾左衛門もの”あるいはそれににつながるものとしては、『弾左衛門とその時代』(批評社・河出文庫)、『弾左衛門の謎』『資料浅草弾左衛門』『異形にされた人たち』(三一書房)、『江戸の非人頭・車善七』(三一新書)、『都市社会と差別』(れんが書房)、『乞胸』(河出書房新社)、『脱イデオロギーの部落史』(にんげん出版)、共著の『弾左衛門制度と賤民文化』(批評社)、『貧民の帝都』(文春新書)、『嘉田貞吉』(三一書房)など。その執筆力は衰えることを知らないようだ。
 日本の非人の歴史や“弾左衛門もの”については、いまでは多くの書物や研究書が手に入る。ぼくも原田伴彦の『被差別部落の歴史』(朝日選書)などをはじめとして、ずいぶん読んできた。これから少しずつ千夜千冊もしていきたいが、江戸社会との関連についてはまだまだ読みこんでいない。たとえば中尾健次の『江戸社会と弾左衛門』や『弾左衛門』(解放出版社)、本田豊の『江戸の非人』『江戸の部落』(三一書房)など、弾左衛門を知るにはまだまだ“深み”は待っている。