ぼくのカラオケはたいていは演歌である。高倉健や森進一が好きなのだが、これはしんどい。そこで小林旭や克美しげるの『さすらい』をよく唄う。演歌ではないだろうが、ぴったりくる。
歌詞も悪くない。最初は静かに「夜がまたくる・思い出つれて」と始まるのだが、しだいに高まり「何をいまさら~」と声を張る。ここが勝負どころで、ここをぐうんと持っていけなければ、その日はあとのマイクを遠慮する。
まあ、そんことはどうでもよろしい。敬愛する高橋睦郎さんの日本文学試論を紹介したくて書き出したのに、これではカラオケ談義になる。しかもぼくは、この数年で3、4回しかカラオケには行ってない。いまは『さすらい』すらもおぼつかないかもしれない。自慢できる持ち歌などめっきりなくなっているにちがいない。
いやいや、また始めてしまった。言いたかったのは『さすらい』を枕に本書の話の端緒をひらこうとおもったわけで、実は日本文学の本質は「漂泊」というものではないかというのが本書の主題なのである。
高橋さんが言う漂泊は、たんなる漂泊のことではない。人間はだれもが旅人であるというような話ではないし、ただノマディズムを謳歌しようというだけのことでもない。漂泊とは、歌の漂泊なのである。
歌が歌を求めて漂泊をする。歌人がさまようのではなく、歌そのものが「さすらい人」という日本古来に芽吹いた母型をつかって漂泊をする。そういうことなのだ。なぜ、そんなふうにいえるのか、そこが見えてくるには、いくつかの前提をつくる必要がある。この前提が本書ではきわだっている。
第1に、日本の文学史はそもそも「歌」を内包した歴史であったということである。ここで歌といっているのは和歌から歌物語や能楽をへて俳諧におよんだ文学をさしている。
第2に、そうだとすれば、それは「歌の運命の歴史」ともいいうるということだ。歌の運命とは、そこが本書の主題に深くかかわってくるのだが、まさしく「歌の宿命」ということであり、その宿命を求めて歌が漂泊することである。
第3に、そのような歌の宿命が日本の文学の本筋をかたちづくってきたとすれば、その起源には神が発した言葉として託された「神の歌」の歴史が先行していたはずである。ところが何かの事情でその「神の歌」が逸れていった。問題はどのように逸れていったのかということにある。
第4に、もともと「神の歌」は主語を明示する必要もなく(主語は神なのだから)、歌人も無名でよかったはずだ(神々に代わって歌ったのだから)ということである。高橋さんは本書の冒頭で『源氏物語』(1569夜)の登場人物が実名をもっていないことを例に、とくにこのことを強調している。では、歌集の多くに歌人の名前がしるされてるのはなぜかというと、たまたま中国の様式を踏襲したからのことで、もともとは日本の歌は無名を本質としていたはずなのだ。人麻呂の代作性はとくにそのことをよく象徴する。
第5に、時代がたって、日本人がそうした神々の言葉を必要としなくなってからは、その宿命をしだいに「国語としての行方」を求める歴史にしていった。歌の宿命とは、日本語の宿命そのものだった。
第6に、こうした歌の宿命を求める歴史は、つねに「以前の歌」をなんらかの意伝子として継承し、「以降の歌」につなげていったはずである。これがいわゆる「歌枕」の重視や「本歌取り」という手法になっていった。
おおむねこうしたことを前提に、日本文学史を歌の宿命の流れから見ていったのが本書の結構になる。
が、これはぼくがアウトラインをまとめただけであって、本書には時代ごとに重大な役割をはたした多くの歌の独自の説明が入っていて、そこを読むのが得がたい読書経験になるようになっている。ここではそれらの紹介を割愛せざるをえないのだが、記紀歌謡、古今、新古今の説明はぜひ読まれたい。
そこでまた主題に戻ると、日本文学の本来は歌という宿命に徹してきて、結局はどうなったのかということである。
結論から先にいえば、漂泊をしつづけて流竄した。しかし、ワーグナーふうの神々の流竄を想定してもらっては困る。人間の詩の登場によって神の歌が漂泊を余儀なくされるのである。
その折り返し点は後鳥羽院の『新古今集』あたりにある。それ以降は二条派と京極派の対立などを挟んで、しだいに人間主義のほうにむかって衰弱していった。
しかし、そのこと自体が歌の漂泊なのでもある。そうも言わなければならない。
そのことに気づいたのが、西行や世阿弥の往時を偲んだ芭蕉だった。芭蕉はどうしたのか。「真の俳諧師として生きるには、神の歌の流浪漂泊の運命を末世の相において体現して生きるほかはないと見定めた」。神の歌の末世の相とは何か。高橋さんは、それは「さすらいの果ての乞食(こつじき)の相」にほかならないという。なるほど、「こもをきてたれ人ゐます花のはる」の発句は、まさにこの「乞食の相」をあらわしていた。
こうして、日本の文学は例外的な少数の漂泊者によって歌数寄のきわみを果てながら、総体としては人間の趣味のものへと向かっていくことになった。
ぼくは眼を洗われた。
ところで、本書には随所に独得の見方が紹介されているのだが、なかでも興味深いのが、日本の歌あるいは歌物語の原型には、倭建命をルーツとする「ますらお型」と木梨軽皇子をルーツとする「みやびお型」の二つがあり、そのいずれもが「さすらい人」という母型をかたちづくっているのではないかという指摘だった。
この指摘は歌論としてだけなら、すでに国文学のなかでも多少とも示唆されてきたことの組み合わせでもあるけれど、高橋さんはそれにとどまらない暗示をそこに響かせた。
それは、日本の芸術者たちがとってきたスタイルの問題とでもいうべきことである。
ここでスタイルといっているのは、誰もが人を見るとそこに風情とも好みとも生き方ともいえるものが、ちょっとした仕草や間合いで感じられるものだが、そのスタイルのことだ。そのスタイルが歌のありかたにも滲み出ている。それは歌を見るとすぐわかる。「みやびお」型か「ますらお」型かというのは、そのことなのである。それはいかに伏せようとしてもあらわれる。高橋さんはそのへんを見抜いていた。
もともと高橋さんは芸術者のスタイルを見抜く名人である。ぼくは邦楽や能楽の会場で高橋さんにばったり会うことが多く、先だっても六本木の武原はん稽古場で荻江節に耳を傾け目を注いでいた姿に出くわした。
そういうときの高橋さんは、ひとつの歌、ひとつの三味線、ひとつの踊りに、つねに二つのものが揺れ動くものを見ている。終わってロビーなどで「どうでした?」といった雑談を交わすと、たいていは今日の出来はその二つのどちらに傾いていたかという感想が出る。その二つをきりきりと絞っていくと、それが、とどのつまりは「ますらお」と「みやびお」になるわけなのだ。
けれども、それはきりきり絞っていくからそうなるのであって、実はどんな芸術者の心身のうちにも、この二つに畢竟する何かの二つが揺れ動いているものなのである。
高橋睦郎その人の生き方、また、その言葉の世界も、またそういうものである。それが言っておきたかった。