古賀登
四川と長江文明
東方書店 2003
編集:朝浩之・阿部哲 装幀:戸田ツトム
長江上流の四川に古代巴蜀文化があった。
戈族(かぞく)や羌族(きょうぞく)がいた。
建木神話、養蚕技能、鵜飼文化に富んでいた。
その昔は有尾人や緑目人の伝説もあった。
この四川巴蜀のさまざまな地に、
夏王朝にまつわる鯀や禹の事跡が
いきいきと伝承されていた。
いったいそこから、どんな原中国が見えてくるのか。
古賀センセイの面目躍如である。

◎‥この本で調査され推理されていることを、その奔放なイマジネーションの翼に合わせて短くまとめるのはとうてい不可能だが、数年前の過日の一夜、このやや分厚い一冊を読みながらマーキングなどしていたとき、さまざまな思案が去来して、ぼくにも鮮明な長江文明像が浮かび続けていたこと、いまでもありありと思い出せる。
 扱われているのは、長江上流域に広がっていた古代巴蜀文化である。現在の四川省あたりに蜀(しょく)と巴(は)の古代文化が栄えた。その担い手たちや風土をまとめて巴蜀(はしょく)という。四川はいまでも二つの中心、成都と重慶があるのだが、そのうちの蜀が成都を中心に広がり、巴が重慶を中心にして勢力をもっていた。

◎‥蜀は、いまうまでもないだろうが、むろん三国時代の劉備が諸葛孔明の「天下三分の計」にもとづいて入蜀した、あの蜀のことである。そうではあるが、それ以前にすでにマジカルな地として『淮南子』や『山海経』に登場していた。
 一方の巴は、その『山海経』海内経に「西南、巴国あり」と記された国で、巴人たちが古来このかた建木を崇(あが)めたと伝えられてきた。建木は神樹のこと、日神の木といわれてきた扶桑のことをいう。

◎‥本書はその長江上流の巴蜀の国々を、古代に立ち戻ってさまざまに踏破しつつ、禹(う)の足跡の背後にひそむものを蘇らせたスリリングな本だった。夏王朝の創設王であり、各地に禹歩(うほ)伝説をのこした禹について、夏王朝のほうからではなく、意外な視点から新たな仮説を提出してみせた。
 意外とはいえ、そもそも皇甫謐や孟子が「禹は石紐に生まれる、西夷の人なり」と紹介していたわけでもあって、石紐は汶山郡広柔県、あるいは北川県の岷山(みんざん)付近のこと、いずれも四川なのである。本書はそうした禹跡の地域をただならない想像力をもって渉猟してみせた。

◎‥著者は早稲田大学で中国古代歴史を教えていたセンセイである。本書を刊行したときが77歳だった。しかしその旺盛な調査研究熱は円熟して凄まじく、早稲田大学長江流域文化調査隊として初めて四川の天回山に立って、成都の平原をはるばる望んだのが67歳だった。
 ぼくはこのセンセイが『神話と古代文化』(雄山閣)というスサノオ伝説を中国的に解きまくった大冊にも、大いに酔った。
 ただしこのセンセイ、文脈が次々に翔ぶ。それも細部が超部分になって別の細部に飛んでいく。だから、アウトラインを紹介するというのは、いささか難しい。以下の啄(ついば)みにおいても、古代中国を低空飛翔する香りの速度のようなものを感じるにとどめてほしい。

◎‥蜀について。許慎の『説文解字』は、「蜀」という文字は「葵中の蚕なり。虫に従い、上の目は蜀の頭形を象(かたど)り、中はその身の蜎々(けんけん)たるを象る」と説明して蚕の象形を暗示した。また、白川静(987夜)は「牡の獣の形。無私の形は獣の牡器(ぼき)で、その獣を獨(どく)いう」と説明している。
 はたして四川の地の牡器が何にあたるか興味深いところだが、古賀センセイはあれこれの推理を総合して、ここに養蚕が独自に始まったと見た。

◎‥中国の養蚕伝説には、①嫘祖(るいそ)伝説、②蚕叢伝説、③馬頭娘伝説がある。
 ①の嫘祖は黄帝の夫人で初めて養蚕をしたという伝説になっている。その故郷は塩亭県で80以上の嫘祖の故事を伝える旧跡がある。②の蚕叢伝説というのは、揚雄(ようゆう)の『蜀王本紀』が蜀王の先祖の名は蚕叢だったと伝えることにもとづいている。蜀王は「蚕がむらがる」という名だったわけだ。李白(952夜)も「蚕叢より魚鳧に及び、開国なんぞ茫然、爾来四万八千歳」と詠んだ。魚鳧は何代目かの蜀王のことをいう。
 ③の馬娘頭伝説は忘れがたい話だ。東晋の干宝『捜神記』(この本は汲めども尽きない話がいっぱいつまっている)にプロットが載っている。

◎‥馬娘頭伝説。ある大官が遠方に出征して、家には娘一人と馬一頭だけが残っていた。寂しくなった娘が馬に向かってちょっと冗談を言った。「おまえがお父様を連れ帰ったら、お嫁さんになってやるよ」。
 この言葉を聞くなり馬は手綱を引きちぎって走り去り、大官のもとに達した。父親は驚いたり喜んだりしたが、馬がしきりに悲鳴をあげるので何が家に異変がおこったのかと大急ぎで帰った。娘がわけを話した。父親は驚いて「誰にも言うな。家門の恥だ。おまえは外に出るな」と言い、石弓で馬を殺し、川を剥いで庭に干した。ある日、父親が外出したあと、娘が庭の馬の皮を踏むと、馬の皮が突如として立ち上がり、娘を包みこんで飛び去った。
 それから数日後、庭の大木で蚕と化した娘が糸を吐いてた。その繭はふつうの繭よりずっと大きくて、数倍の生糸がとれた。それでその木を「桑」と名付けた。

◎‥馬娘頭の話は、『山海経』に「西南黒水の間、都広の野あり。后稷(こうしょく)ここに葬られる」とか「その城方三〇〇里、天地の中、素女出づる所なり」などとある記述にも通じる。
 后稷は周王朝の始祖神である稷捨のこと、素女は「しろぎぬのをんな」、すなわち蚕のこと、都広の野は岷江流域のこと、黒水は四川の羌族(きょうぞく)の住む地域を流れる河のことをいう。
 これらを比較検討して、センセイは中国の養蚕伝説が羌族の伝承とともに、北緯31度~32度、東経104度~105度の四川あたりに起源したと結論した。そこには「蚕陵」というシンボルもあった。吉武成美の家蚕起源の研究でも、四川や北インドに野蚕が棲息していて、その馴化はその地の独自の方法で試みられたことが示される。

◎‥以上、四川―羌族―養蚕―馬頭娘という関係線は、さまざまなことを連想させる。とくに四川に有名な建木神話だ。ここからは桑伝説のおおもとになっている扶桑神話が飛び立ってくる。
 またたとえば、これまた四川に有名な三星堆(さんせいたい)遺跡に出土したマスクをつけたような凸目の青銅像である。センセイはここから蚕叢伝説の青銅化の流れを引き出し、この青銅像の主が太陽神であって、きっと鍛冶神であろうと仮説した。
 おそらく蜀で最初に王を称したのが蚕叢王だったのである。もっとも、その王は縦目だったとも言われている。縦目とは何か。柳田国男(1144夜)の一つ目小僧がどこかを走る。

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◎‥四川の羌族は戦国時代に岷江(みんこう)流域に入ったとみられている。ただそれについては、いくつの奇妙な先行伝承がくっつきまわっていた。
 羌族が移住してくる前にすでに「戈」(か)とよばれる部族が住んでいて、理県のほうではこの部族たちを「葛」と呼び、また別の地域からは「戈邁」とか「阿戈」と称されていた。それがどんな連中だったかという伝承もある。戈人は体が大きく前進に毛がはえていて、大きな目からは緑色の光を発し、腕と足が湾曲して尻尾をもっていた。すなわち有尾人なのである。『山海経』におなじみの怪物たちに似ている。
 そういう感じの連中がいたらしいということは、羌族がこの地に入ったときには闘争か共存かがおこったということだろうけれど、いくつかの伝承から両者は争っただろうことがわかる。そのことを羌族のシャーマンが「羌戈大戦」という英雄史詩にのこしている
 で、そのあげく羌は戈に勝ったのである。そうであれば、戈や葛という文字はもともと富裕や財産が多いという意味をもっているので、羌はその富を保有したのであろうと想像される。その富こそ養蚕がもたらしたものだったにちがいない。

◎‥羌族の一部族である彝族(いぞく)には、東アジアの人類の祖先がそもそも縦目人だったという奇妙な伝承がある。けれどもその縦目人は神意にそぐわず絶滅したという。
 もう少し詳しくいうと、彝族の創世史詩「先基」では、まずこの世にはアリのような盲目人がいた。アリ盲目人は7つの太陽の出現によって絶滅し、そのあとにバッタの縦目人があらわれた。けれども水牛族と山羊族が争い、そのことで生じた火が燃え広がって焼け死んだ。次にあらわれたのがコオロギの横目人であったが、これも大洪水で流されて死滅した。こうして横に二つの目が並んだ横二目人の人類が登場し、そこから彝族、哈尼族(はにぞく)・漢族など36の民族が分かれていった。
 なんだか生物進化史みたいだが、このような伝承はほかにもある。『漢書』天文志に、哀帝の4年に「縦目人が来る」と騒がれたことがあったと記されている。この哀帝のときの縦目人はどうやら他界からやってくる恐ろしいものたちのことだったようだ。
 それらの記述をあれこれ総合すると、蜀王が縦目であると伝えたのは戈人のほうで、羌や蜀が戈を追いやったことが逆に征服者の恐れになるように付着されていったのではないかと、そう考えられる。

◎‥羌族が「戈人は尻尾をもった有尾人である」と言ったという伝承は、縦目伝説の逆の仕方でエクリチュールになったものだ。羌族や蜀人が先行する部族たちの技能を盗んだか、もしくは継承したことを、巧みに形容したエクリチュールだったのだろう。
 古賀センセイはこういう例もあげている。湖南省の武陵山にいた槃瓠(ばんこ)の蛮族たちが有尾人と言われてきたのは、その部族に犬祖伝説があって、しかも木皮による染めの技能をもっていたのだが、その技能をその後に強者に奪われたからであった、と。そのことに似て、蜀巴の地にはそうしたオリジナルとヴァリアントの複雑な関係が時代をかけて同時に物語られてきたことが多かったのだろう、と。

◎‥巴蜀の有尾人伝説は養蚕から発したのではない。おそらく石削技術や青銅・鉄の精錬技能と関連していた。四川はもともとたいそうな鉱物資源に恵まれてきたからだ。とくに鉄分を含む緑色岩はかなり豊富に採れた。
 そうだとすると、戈人に毛がはえていて目からは緑色の光を発しているというのも、鉱山関係者のメタファーだったのである。
 日本にも似た話があった。『古事記』の神武東征で神武が吉野に入ったとき、井戸が光って見えたので尋ねると、「私は国つ神で、名を井氷鹿(いひか)と言う」と答えた。そこでその山に入ると尾のある連中がいて、自分たちは「石押分」(いわおしわく)の末裔だと言った。
 この話を、『古代の朱』の松田寿男が水銀の縦坑のことをあらわしていると推断したのはよく知られている(松田センセイはぼくの早稲田時代のアジア学会の顧問のセンセイ)。土にかかわり、「岩に入るものたち」(たとえば土蜘蛛)が古代の者にとってははなはだ有尾的に見えたということなのである。

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◎‥蜀王は初代が蚕叢だが、次は柏潅、その次は魚鳧という名だった。3代で1500年ほどがたつ。このうち柏潅の名は、この風土に扶桑信仰に続いて柏樹信仰があったこと、それらが建木神話を担っていたことを物語る。
 魚鳧という名は、この時代になって蜀や巴で鵜飼がさかんになっていただろうことを想定させる。だいたい中国で鵜飼が有名なのが四川なのである。宋の沈括(しんかつ)の『夢渓筆談』は、四川の水辺にいる者たちの多くが鵜飼をしていた、鵜は川辺の樹上に群棲するのでその糞尿で樹木が霜雪のように枯れる、それを蜀水華と言うのだと書いている。
 三星堆からも鵜を象った青銅製の鳥がかなり多く出土した。この金属技能はもともと巴人がもっていたもので、それを甘粛の斉家文化→寺窪文化というプロセスをへて戈人の漁労集団が獲得したものだったろう。

◎‥『山海経』大荒西経に、このようにある。「魚あり、偏枯、名を魚婦という。顓頊(せんぎょく)死して即ち蘇える。風、北より来れば、天、大水溢れる。蛇すなわち化して魚となる。これ魚婦たり」。
 顓頊は北方の王であって、季節は冬に、五行は水に配当されてきた。羸姓をもっていた。顓頊は冬を統括して万物を春に蘇らせる水神なのである。しかし、そこにはしばしば大洪水も挟まれた。四川では、その洪水を生んだのは鯀(こん)である。だから堯(ぎょう)は祝融をして鯀を羽山に押し込まさせた。けれども洪水はとまらない。その鯀から生まれたのが禹であった。禹は洪水を治めて、堯に称えられた。
 これはよくよくみると話が連環している。それなら、古賀センセイは禹が洪水を治めたという洪水神話について、次のように仮説できるのだと言う。「鯀の洪水神話は霊亀信仰をもつ種族がつくったものであり、禹の治水神話は蛇神信仰をもつ種族がつくったものである。両種族とも姒(じ)姓なので、鯀と禹は親子だとみなされた」。

◎‥四川では禹が治水でめざましい活躍をした話はあまりのこっていない。代わって、鯀はのちのちまで治水にかかわったと伝えられてきた。四川では鯀の悪口を言わないのだ。そこには四川の霊亀信仰があずかっていた。

◎‥禹は後継者に皋陶を選んだが、早く死んだので益(えき)に任せた。益は顓頊の孫娘の女脩が燕の卵を呑んで生まれた。益は伯益または伯翳・柏翳とも呼ばれた。ついで啓(けい)が位につくのだが、その啓は母なる石から生まれた。啓母石は嵩山中岳の南麓にある(1451夜参照)。
 啓の着位については有扈氏が逆らって反乱をおこしていた。そこで啓が有扈氏を甘に郊で戦って制したという話がのこっている。この話は、益から啓への禅譲もしくは放伐に有扈氏がからんでいたのではなく、啓が益を襲ったことに有扈氏が抗議して、かえって啓に撃たれたことを裏で説明している。なぜならこの反乱には、鯀も加わったふしがあるからだ。鯀はこのような親族の争いに割り込んだため、夏王朝のなかでの評判を落としたのだ。

『大載礼記』帝繁の系譜

◎‥宮崎市定(626夜)は、早くから中国最古の文明の発祥地は山西省南西部の安邑で、その安邑がのちの夏王朝の最初の都だろうと唱えていた。
 最近ではチベット学者の佐藤長がこれを支持し、二里頭文化のもとに発した夏后氏(夏の一族)は塩池経営によって勢力をえて河南に進出したと、宮崎説を発展させた。
 古賀センセイはこれをさらに発展させて、啓が安邑から南進して益の陽城を襲ったのではないかと仮説した。加えて、禹の洪水伝説をめぐってさまざまな物語が生まれたのは紀元前2000年前後のことで、この時期、中国大陸がヒプシサーマル期に当たっていただろうこと、そのため各地で水にまつわる異常な物語が発生したのであろうと大胆に推理した。鈴木秀夫説の援用である。

◎‥巴河はまんまんたる水を湛え、往時は水が澄んで「巴」という小魚が無数に泳いでいた。その流域に巴人がいた。巴人が巴国を建国したについては、古くからこういう話がある。
 武落(湖北省長陽県)の鐘離山の赤穴から巴氏の子が出現し、黒穴から出てきた連中と神通力を争って勝ったので、廩君(りんくん)となった。その後、泥舟に乗って夷水をさかのぼり、塩水の北岸で塩神を射殺して、いまの恩施市の夷城で巴国を開いた。「廩君伝説」である。どこか夏后氏の塩池経営との関連を思わせて、まことに興味深い。

◎‥実は養蚕をおこした嫘祖の出所は塩亭県である。その系譜は『大戴礼記』では、黄帝の妃の西陵氏の子が嫘祖で、その嫘祖が昌意を生み、その昌意が若水(じゃくすい)に天下りして蜀山氏の娘を娶り、顓頊を生んだというふうになっている。
 巴人と蜀人、そして華人はどこかで捩れて重なっているのだ。いや、そもそもセンセイは廩君その一族そのものが太昊伏羲の子孫だとおっしゃっているのである。

◎‥つまりは、こういうことだ。古代巴蜀の建国伝説は、太古において養蚕・柏樹信仰・鵜飼・太陽伝説・霊亀観念・聖石崇拝をもっていて、そこに稲作が入ってきた。これが黄河文明には見られない独特の長江文明の母型をつくりあげたと考えられる。
 しかし、これらをさらに特色づけていったのは三国時代以降の五斗米道が四川に流入したからだった。そこには濃密なタオイズムが脈動した。そもそも諸葛孔明が天下三分の計をなす前に四川の蜀に目をつけたのは劉焉だった。そこに張陵や張魯の五斗米道が広がりつつあった。曹操が漢中を破ったので、張魯は巴中に逃れていたのだ。
 この初期道教を伴う流れが長江を下って、呉巫や越巫のほうへ降りていったのだろう。蜀から来た李寛は呉に来ても蜀人の方言を使い、水に呪(まじな)いをかけて病気を治した。古代巴蜀文化はこうして長江を下っていったのである。センセイ曰く、「蓋し巴蜀は百川を入れる大湖にして、百川を出だす大湖である」。

◎‥なお本書には第10章「巴蜀と日本」があって、日本にひそむ長江文明の曳航が小論文になっている。しかし、この課題については、なんといっても大著『神話と古代文化』(雄山閣)が控えているので、ここでは安直な紹介ができない。
 スサノオの領域、ヤマタノオロチ伝説、牛頭天王・蘇民将来論、オオナムチ(大国主命)論考、スクナヒコナと后稷の関係、ホオリノミコト考、カグツチ殺害論、諏訪大社の背景などは、こちらを読まれたい。これはとんでもない仮説に満ちている。


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『四川と長江文明』
著者:古賀登
2003年6月20日 初版第1刷発行
発行所:株式会社東方書店
編集:朝浩之・阿部哲
装幀:戸田ツトム

【目次情報】

まえがき
関連地図
  都広の野 ―四川と長江文明
  一 巴蜀行
  二 石紐探訪
  三 蚕陵行
  四 謎の戈基人
  五 宝墩遺跡発掘
  六 魚鳧考
  七 杜宇考
  八 鯀・禹・鼈霊
  九 巴人・蜀人
  十 巴蜀と日本
  補論一 杜伯国考

  はじめに
  一 杜伯国の成立をめぐって
  二 杜伯死後の杜氏の行方
  三 杜伯国は蜀の杜国が移ったもの
  補論二 巴人と賨人

  はじめに
  一 巴人と廩君蛮
  二 賨銭四十と板楯蛮
  三 賨人と巴氐
  四 華人・巴人・廩君・槃瓠
  まとめ

古代巴蜀略年表
あとがき

【目次情報】
古賀登(こが・のぼる)
1926年神奈川県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。早稲田大学文学部助手、助教授、教授を経て、現在早稲田大学名誉教授。文学博士。四川大学文学院歴史系文化芸術史研究センター顧問。

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