才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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反核シスター

ロザリー・バーテルの軌跡

メアリー=ルイーズ・エンゲルス

緑風出版 2008

Mary-Louise Engels
Rosalie Bertell――Scientist,Eco-Feminist,Visionary
[訳]中川慶子
編集:高須次郎・高須ますみ
装幀:堀内朝彦

聖心灰色修道会のシスターにして、
白血病と放射能についての生物科学研究者。
かつ、徹底した反核活動家リーダーで、環境保護者。
ロザリー・バーテルはやがて「反核シスター」、
「シスター・ロザリー」と呼ばれ、
たえず原子力産業界や軍部から抑圧を受け、
ときに殺されかけもしたが、決して屈しなかった。
世界中の女性たちが支えていった。
ナイチンゲール、レイチェル・カーソン、
そしていま、ロザリー・バーテルと言われる。

 ロザリー・バーテルは1929年のオンタリオ州バッファローに生まれて、6日目に肺炎に罹った。その後もずっと弱い体をかかえて生きた。父親は高校中退だったが物理や光学が好きで、のちにスタンダード・ミラー社をおこして昼夜兼行の自動車用バックミラーを発明した。ロザリーはこの父親の影響で数学や科学にめざめた。
 ロザリーは母方の祖父が医者であったこと、また、叔母が病院の薬剤師で、ドーター・オブ・チャリティ(「慈善の娘」修道会)の修道女であったことにも影響を受けた。
 バッファローは1930年代すでに船舶・製造業の重要な要所になっていて、人口は100万をこえ、日刊紙が4紙、本格的な劇場が5館、エリー湖畔には美しい建物が揃っていた。その後、ケンモアに越したが、ロザリーの一族は結束が堅かったようである。彼女自身は「私の家系には健康の専門職につくという歴史をもっていた」と語っている。
 しかしかつてエリー湖はアメリカの“夢の島”でもあった。ゴミ・廃棄物が集積され、グレゴリー・ベイトソン(446夜)をして「われわれはエリー湖に文明の過剰を押し付けている」と言わしめた。

 生徒・学生時代を通して病気がちで学校をしばしば休んだためか、ロザリーはそうとうの「恥ずかしがり屋」の引っ込み思案だったが、そのかわり音楽の才能と数学の才能が抜群だった。それにがんばり屋だった。とくに数学では近隣州のすべてのリージェンツ試験(州の教育局主催の科目別試験)の数学部門で満点をとった。
 その一方、ロザリーの青春は時代的には第二次世界大戦で大きく覆われていたため、さまざまなソーシャル・トラウマをかかえることにもなった。とくにロザリーの心に暗くのしかかったのがヒロシマ・ナガサキの原爆投下だった。これまでの戦争とは異なる、何か根源的な破壊が始まったと感じたのだ。それなのにアメリカはその後66回もの核実験をくりかえした。
 高校を出たロザリーはバッファローのマルガリーテ・デューヴィル大学に入り、数学を専攻する。勉学には励んだものの、いまだ気分が晴れないし、落ち着かない。アメリカの政府と軍部は朝鮮戦争を始め、マッカーシー議員の提唱による醜い反共キャンペーンが広がり、そこかしこで“赤狩り”が徹底されていた。なんだか世界がどこかで真っ二つに割れているようだった。ロザリーは「内側の世界」に憧れ、ヴァーモント州のカーミライト女子修道院に入ることにした。
 ただ修道会に入るには2000ドルの持参金が必要であるらしい。ロザリーはその資金を調達するために、ベル・エアクラフト社の技術部門で高給をとることにした。誘導ミサイルの基礎研究をする部門だった。FBI監視員のセキュリティチェック(監視)を受けながらの計算をしつづける部門だった。
 のちになって、ロザリーは多くの優秀な若い知性が、このような軍事的な科学技術関係に吸いこまれていったときの抗いようのない快感を、自信の体験を通して断固として警戒すべきことを何度も書いている。ときにはそのように国家が才能を管理しようとすることを、そうとう非難する。これらは必ず軍の関係資金がバックにあって、たとえどんな技術開発の歓びを得ようとも、そこには取り返しのつかない大問題に従事したという“事実”が残るだけであるからだ。

 1951年9月、なんとか資金を調達したロザリーはカーミライト修道院で宗教生活に入った。22歳だった。そこでは「どんな仕事も競争ではなく協働であり、個人的ないがみあいではなく、いっときいっときの豊かな精神性が求められた」。カーミライトで大事なことはただひとつ、他者との友情を優先することだったのだ。
 修道院は女性によって女性のために運営されている女性の共同体である。そのせいもあって、ロザリーの健康とライフスタイルと精神は劇的に変化していった。みんなで潅漑設備を掘って作り、みんなで水道工事をし、みんなで電気にまつわるすべての基礎技術もマスターした。その一方で、夏は4時から冬は5時から祈祷が始まって、一日8時間にわたる修道女としての厳しい試練も受けた。
 こうしてロザリーはしだいに修道女(シスター)としての自覚をもちはじめるのだが、そこに心臓病の危惧が出てきた。やむなくカーミライトを辞すると、しばらく静養ののち、1957年夏からはワシントンDCの近くのアメリカ・カソリック大学の修士課程に入り、完全に体調が回復した1958年秋からは、「聖心灰色修道会」に入ることにした。
 ここは夫を亡くした29歳のマルガリーテ・デューヴィルが創設したところで、ロザリーがバッファローで入った大学は、彼女の名をとっていたものだった。マルガリーテは北米で初めて「福祉の家」を建て、売春婦や老人を支援したことでも知られる。いまではカナダ北部・南アメリカ・アジア・アフリカにまでその活動を広げている。
 ロザリーには「聖心灰色修道会」はぴったりだった。カーミライトほど規律が厳しくなく、内側にこもるというより社会に向けての行動的な宗教活動が尊ばれていた。ロザリーはペンシルヴァニアの聖心灰色短期大学で4年ほど数学を教えることになり、その専任教員として励む。そこへ1963年、国立衛生研究所から数学博士号をとるための奨学金が提供されることになった。
 新たな向学心に燃えたロザリーは、ホメオスタシス(人体の恒常性に関する機能)の研究に打ち込み、複雑な生命過程の推移を数学化する方法を研究して、66年に博士号を取得した。その後も、腎臓膜の機能の研究に勤(いそ)しみ、外部から入る異質な物質が有機体にとってどんな障害になるかという問題に深くかかわるようになった。70年からはバッファローのロズウェル記念研究所で計量生物学の研究開発にとりくんだ。

 ロズウェル記念研究所で上級ガン研究者になったロザリーは、白血病研究を引き受けることになった。白血病は骨髄のガンで、白血球の増殖が制御できなくなる病気だが、この研究が急がれたのは60年代以降、アメリカ北東部で白血病の疾患率が異常にふえていたからだった。
 数年にわたって600万人を対象とした調査がおこなわれた結果、白血病を引きおこす大きな要素のひとつに、診断用の医療X線が関与しているらしいことがわかってきた。
 X線が人体に異常をもたらすことは、マリー・キュリーのころからわかっていた。また老化の原因に誰もが日々浴びている自然放射線がかかわっているだろうことも、何人もが指摘していた。けれども診断用X線は微量なので、それが疾患を助長しているとは思われていなかった。ロザリーはさらに放射線が人体に与える影響を広範囲に調べるようになっていく。
 やがてアリス・スチュワートやブライアン・マクマホンらの研究によって、放射線とガンの関係がしだいに明るみに出ていった。エドワード・ルイスはヨウ素131が子供の甲状腺に与える影響の強さを指摘し、ライナス・ポーリングは核実験が多くの先天性欠損症や新生児の早死にやガンに及ぼす影響を警告した。
 ところがあるときから、ロザリーたちの研究発表の仕方にどこからともなく圧力がかかるようになった。いったいどこの圧力なのか。1974年、ロザリーはそれが原子力産業や全米各地の原子力発電所の開設と関係していることを察知した。ロザリーがなぜ1974年にそのことを察知したかというに、この年、アメリカは第一次オイルショックにパンチアウトされ、石油に頼らないエネルギー政策として、原発推進策を打ち出していたからだった。ニクソンが2000年までに1000基の原子炉を建設すると発表した計画が潤沢に進むには、ロザリーらの研究は中止するか、もしくは黙っていてほしかったのである。

 1974年、ニュヨーク州ナイアガラで原子力と平和をめぐるフォーラムが開かれた。ロザリーは市民グループからの電話を受けて、このフォーラムに出席を要請された。
 この集会がロザリーの人生の大きな転換点になることを知らぬまま、彼女は会場に出掛けて行って驚いた。この集会は新たな原発を開設するための予備的な意見を調整してしまおうという場だったのである。後部扉から会場に入ると紙が渡されて、質問事項が書いてある。座席は「市民エネルギー会」という張り紙があるところで、4人しか呼ばれていない。日本でいまごろ問題になっている“やらせ”の市民フォーラムだったのだ。
 発言の番がきた。ロザリーはまずこの集会の意図を問い、みんなが座っているレイアウトがおかしいと言い出した。拍手がおこった。そのとたん、ロザリーはこのあとの人生をすっかりそこに懸けることになる運動家としての役を引き受けることになったのである。
 その後、ロザリーは次々に講演を依頼された。大きな反響の波がおこりはじめた。しかし、そのことについての報道はほとんどペシャンコにさせられた。それだけでなく、研究所でのロザリーの位置も微妙になってきた。けれども、もう引き下がれない。

 いったい、原子力エネルギーを開発したいという「力」はどこから出ているのか。軍事的な計画をふくめ、アメリカにおいてその頂点に立つのは原子力委員会(AEC)である。ここがアメリカの核分裂のすべての発信基地になっている。
 では、放射線問題を管理しているのはどこなのか。これを担当しているのは電力会社だった。電力会社が原点の一次資料としているのは、何なのか。ヒロシマ・ナガサキにおけるアメリカ軍の経験がつくりあげたデータ群だった。このデータは原爆障害調査委員会(ABCC)をへて、のちに放射線影響研究所(RERF)の管轄のものになっていった。
 これらをもとにアメリカが巧みにつくりあげたのが、ICRP(国際放射線防護委員会)である。いま世界中で話題になっている「許容線量」という基準値はここが発信している。
 それなら、その許容線量によって何が決まるのかというと、人体の安全が決まるのではない。そうではなくて、原発を開設し運転していいかどうかが決まるのだ。ICRPのメンバーが、軍部や放射線医学界と後ろで握手しながら、放射線のリスクと原発開発のベネフィットの比率調整をしているのはあきらかだった。
 ロザリーは1975年の新聞に「核による自殺」を投稿し、1年の間隔をあけてロズウェル研究所に復帰すると、アーウィン・ブロス博士と組んで、マンモグラフィ検診に対する批判に乗り出した。こうしてニューヨーク州ロックウッドの原発建設阻止に加担したとき、世間はロザリーを「反核シスター」と呼ぶようになった。ロザリーは「原発と核開発に徹底抵抗する修道女」になったのである。

 1978年、ロザリーが初来日した。原水禁日本国民会議に招待されて講演するとともに、原爆被爆者の家にホームステイした。アメリカにも被爆者はいた。ヒロシマ・ナガサキ爆撃にともなう被爆兵士たち、もうひとつは核実験や原発管理による被爆技術者である。
 翌年、ロザリーはハワイに海軍併記貯蔵にともなうプルトニウムの扱いをどうするのかという質問状を出した。プルトニウム飛散による水系および空気系の汚染を問題にしだしたのだ。
 すでにジョン・ゴフマンやアーサー・タンプリンらの生物学者や物理学者たちによるプルトニウム問題に対する警告が出ていた。ゴフマンとタンプリンの警告は日本では『原子力公害』(アグネ)にまとめられている。
 ロザリーも「公衆衛生を憂慮する聖職者」(MCPH)を設立し、「地球教育の仲間」(GEA)と協力して活動をすることを決めた。さっそくカール・モーガンやオードリー・マングが協力してくれた。カール・モーガンは保険物理学という分野の確立者である。
 そして1978年3月28日のことだった。ペンシルヴァニア州ハリスバーグ近くのスリーマイル島の原子力発発電所が、突如として炉心熔融事故をおこしたのだ。政府や規制機関はすぐに「周辺住民の被曝量はエックス線1回ぶん程度」と事故を小さく見せようとしたが、事態はとうていおさまらなかった。事故の3日前にジェーン・フォンダが主演した『チャイナ・シンドローム』が封切りされていことも、事態の深刻さを煽った。

 反核反原発の運動は盛り上がり、1982年には130万人のニューヨーク大行進になった。
 その中心の一人にロザリー・バーテルがいることに辟易とした原発業界は、そろそろロザリーの欺瞞性を暴くべきだと考えるようになった。とくに原子力産業の大手コンソリデイテッド・エディソン(CE)社はロザリーの業績にはなんら科学的裏付けがなく、その発言もきわめて恣意的であることを内々の文書として作成した。
 その文書が新聞社にリークされたのである。ニューヨーク州放射線科学研究所のジョン・マゼックはオールバニー大主教のハワード・ハバート師にロザリーの研究を酷評する文書を送り、ロザリーの聖職者としての活動のおかしさを吹きこんだ。ロザリーはCEのキャンペーンと世間の批判との両方との対決を迫られていった。
 それから暗示的な事件が頻発した。ロザリーがなにげない事故に陥るように仕向けられているようなのだ。ロザリーは正体不明の殺意を感じていた。こうしてついに『誰がシスター・ロザリーを殺そうとしているか」といった記事が新聞や雑誌に躍るようになった。
 身の危険や嫌がらせが続いても、ロザリーの活動は中断されなかった。オーストラリア、インド、そしてイギリスに出向き、精力的な反核活動を展開していった。
 ロザリーに呼応する女性たちの運動も盛り上がってきた。とりわけバークシャー州立グリーナム・コモンの女性運動はめざましかった。その成果はジル・リディントン『魔女とミサイル』(新評論)、アリス・クック&グヴィン・カーク『グリーナムの女たち:核のない世界をめざして』(八月書館)などにまとめられている。アーネスト・スターングラスはスリーマイル島原発事故によって飛散した放射能によって幼児の死亡率が上がった調査をもとに、『赤ん坊を襲う放射能:ヒロシマからスリーマイルまで』(新泉社)を著した。
 ロザリーは執筆はそれほど得意ではなかったが、自分もそれなりに決定的な書物を書かなければならないと思い、1年以上の悪戦苦闘のうえ、『危険はすぐに現れない:放射能まみれの地球』をまとめた。2000年には『戦争はいかに地球を破壊するか』(緑風出版)も発表した。
 けれどもロザリーの生き生きした活動を知るには、本書や『原発をとめる女たち』(社会思想社)のほうがわかりやすい。ちなみに本書の著者メアリー=ルイーズ・エンゲルスは臨床心理学者で、もとはマクギル大学精神医学部の助教授、モントリオールのダグラス病院センターの診療士である。やはりロザリーに共感して本書の執筆に向かったという。

カナダにて。左はジェズイット・センターの修道士さんたち、
右はロザリーを訪問した中川保雄(1982年3月)
撮影:中川慶子

 ロザリーがミクロネシアやマレーシアやフィリピンやインドで取り組んだ調査活動と告発活動は特筆される。
 ミクロネシアは第二次世界大戦後に国連の統治下に入り、「土地と資源の消失を防いで住民を守る」という名目で、その管理をアメリカが担当した。しかしアメリカは1946年からビキニとエニュエトクで67回もの核実験をやったのである。ロザリーはマーシャル群島を調査拠点と定めて、疫学者のサラ・ケイトと看護師のコレット・ターディフを伴って、現地人の放射線影響を調査した(ロザリーの活動は①女性中心である、②小人数で動く、③すばやく現地に飛ぶ、という特色をもっている)。
 ミクロネシアの調査はその後アメリカ議会で取り上げられ、現地人も損害賠償にとりくむようになった。
 マレーシアには三菱化成の子会社のエイジアン・レアアース社(ARE)がある。原石のモナザイトから輸出用のハイテク素材をつくるためのレアアースを抽出するのだが、その廃棄物には基準値の6倍の放射性トリウムとラジウムが濃縮されていた。AREはこの危険な物質をビニール袋に入れて工場の近くにそのまま投棄していた。このAREを相手どってブキ・メーラの8人の村人が裁判をおこした。ロザリーはここにも飛んだ。
 フィリピンは100年にわたってアメリカ陸軍が占領していた。国防省はフィリピン米軍基地が「世界中で最も環境汚染がひどいところ」であることを認めていた。1991年、基地が閉鎖された。
 しかし米軍は除染をしなかったどころか、その汚染状態をフィリピン当局になんら知らせなかった。ロザリーとIICPH(国際公衆衛生研究所)が共同で当たった調査結果は、のちにニューヨーク・タイムズが取り上げ、世界中に知らされた。
 インド中部の人口密集地ボパールでは、1984年12月に苛酷な化学事故がおこった。ユニオン・カーバイト社の農薬工場は爆発してイソシアン酸メチルを空中に放出したのだ。2000人以上が即死し、60万人以上が負傷した。CEOは起訴されたものの保釈され、アメリカに帰ると、ボパールの工場を放棄すると決めた。世論の非難に抗しきれない会社は工場跡を一次医療センターにすることを約束した。
 8年後、やっとロザリーらの努力によって永久人民法廷(PPT)が開設され、そのもとでの医療委員会が動き出した。60種の調査と医療が進み、ここに疫学的施設が誕生した。
 こうしてロザリーは世界中が軍事資本主義の先兵たちによって次々に危険を強いられているだけでなく、地球そのものが危機に立たされていることを痛切に感じるようになった。

 1986年のチェルノブイリ原発4号炉の爆発炎上は世界中を驚かせた。ヨウ素131、セシウム137、ストロンチウム90、プルトニウム239が世界中に撒き散らされた。
 このときも事故直後にロザリーは現地に飛んでいる。1996年にはチェルノブイリ調査研究のための国際医療委員長に選任された。PSR(社会的責任を果たすための医師団)とIPPNW(核戦争防止国際医師会議)がスポンサーになってくれた。
 その後のロザリーの活動は高齢を押してのことになるが、ひとつは劣化ウラン(DU)の危険性の実証へ、ひとつは新兵器HAARPやELFの廃絶運動に向かった。HAARPの軍事目的はオゾン層が湾曲したレンズの形になるように熱することにある。うまくいけば、このレンズを通したエネルギー線を反射させて選んだ標的を破壊してしまおうというものだ。
 ELFはパルス状の極低周波のことである。これをアメリカやロシアは軍事力に応用しようとしてるのだが、へたをすればカリフォルニアのサンアンドレアス断層のような、微妙に均衡を保っている地殻構造やプレートを撹乱してしまう危険がある。
 ロザリーはこの最新兵器に対しても立ち上がったのである。いまやロザリーが渇望しているのは軍事的な安全保障でも、経済的な安全保障でもなく、全地球的な「生態学的な安全保障」なのである。

宝塚にて。左は付き添いのシスター、
アイリーン・ホワイトさん(2006年8月)
撮影:中川慶子

 附記。本書を訳した中川慶子さんは、夫の中川保雄さん(その後亡くなった)とともににロザリー・バーテルとは親しく付き合った。二人はレスリー・フリーマンの『核の目撃者たち④内部からの原子力批判』(筑摩書房)を翻訳するにあたって、ロザリーの協力を得た。ロザリーがかかわった『放射線被曝の歴史』(技術と人間)や『戦争はいかに地球を破壊するか』(緑風出版)にも訳者としてリーダーシップを発揮されている。

 

『反核シスター』
著者:メアリー=ルイーズ・エンゲルス
2008年8月6日 発行
発行者:高須次郎
発行所:緑風出版
装幀:堀内朝彦 
制作:R企画 

【目次情報】
はじめに
第1章 この世界に招き入れられて
    遺産―健康・行動力・企業心
    学生時代―音楽・数学・宗教
    核爆弾
    大学の研究からミサイル製造へ
    カーミライト修道院に入る
    灰色修道女になる
第2章 放射線の世界
    三州白血病調査
    エックス線とガンに関する先駆的研究
    放射線物理学―基礎
    放射線技術―エックス線、核爆弾、原子力発電所
    核の物語に抗して
    対決と死の灰
第3章 「反核シスター」の誕生
    原子力にたいする転換点―クラムシェル同盟
    流れをつくり、新聞見出しをつくり、敵をつくって
    ロザリーのメッセージを海外に広める
    「被爆兵士」と「風下の人たち」
    低レベル放射線の危険性を証明する
    「浮浪人科学者」の運命
第4章 危険の中で生きる歳月
    公衆衛生を憂慮する聖職者
    スリーマイル島
    批判社と敵たち
    「だれがシスター・ロザリーを殺そうとしているのか?」
    オーストラリアで受け入れられる
第5章 花開くとき
    カナダにとって原子力とは
    七◯年代―核産業の挫折
    ジェズイット・センター滞在の時期
    放射線の犠牲者 その1―北米先住民族
    放射線の犠牲者 その2―子どもたち
    より安全な放射線基準を求めて証言する
    核兵器と「平和のための核」―カナダの場合
    英国での証言―サイズウェルとグリーナム・コモンの女たち
    大衆からも専門家からも認められる
    出版―苦しみと大きな喜び
    『危険はすぐには現れない』
    正しい生活賞―「浮浪人科学者」が認知される
    核イメージの衰退
    成功の代償
第6章 ロザリーのグローバル化
    健康になる権利
    軍事基地はその国にどのような責任を負っているのか?
    多国籍企業は被雇用者にどのような責任があるのか?
    核事故の激烈さを判断するのはだれか? ―チェルノブイリ事故とその後
    体力の限界に抗して
    劣化ウラン―廃棄物から武器へ
    とてつもない新兵器―HAAP、ELF、さらにひどいもの
    平和、環境、女性の力
    活動量を減らす
第7章 一生よりも大きな夢
    核エネルギーの斜陽と没落?
    人びとの大きな鎖の一つとなって
訳者あとがき
索引
略号一覧 

【著者情報】
メアリー=ルイーズ・エンゲルス
臨床心理学者。元マクギル大学精神医学部、臨床心理学部助教授。臨床指導に従事する。現在は、モントリオール・ダグラス病院センターおよびマクギル大学精神医学部付属の診療所から独立して、臨床心理センターを自営。専門領域の共著、論文多数。

【訳者情報】
中川慶子(なかがわ けいこ)
アメリカ文学・英語圏児童文学専攻。教職のかたわら「原発の危険性を考える宝塚の会」などの市民活動にかかわる。共訳書に『核の目撃者たち―内部からの原子力批判』(筑摩書房)、『父マーク・トウェインの思い出』(こびあん書房)、『マーク・トウェインのラヴレター』(彩流社)、『戦争はいかに地球を破壊するかー最新兵器と生命の惑星』(緑風出版)、共著に『英語圏の新しい児童文学』(責任編集、彩流社)、『マーク・トウェイン“生の声”からの再考』(大阪教育図書)など。