才事記

デジタル・マクルーハン

ポール・レヴィンソン

NTT出版 2000

Paul Levinson
Digital Mcluhan 1999
[訳]服部桂

 古代、メディアはシャーマンや霊媒だった。文字やエンブレムや建造物ができて、その後にメディアは多様化していった。そこへ道具や器具や器械のメディア化が加わって、文明はメディアなしには進捗しなくなった。機械と情報とメディアの区別もなくなっていった。
 いったいメディア化した機械は人間に何をもたらしたのだろうか。電話とラジオとテレビによって人間社会の何が変わり、キューブリックのHALとディックのVALISによって電子社会の何を訴えられているのだろうか。
 マクルーハンが『機械の花嫁』(一九五一)をひっさげて登場したとき、機械にもメディアにも弱い英語圏の学者たちはこれを挙って嘲笑し、罵倒した。マクルーハンの著書は『グーテンベルクの銀河系』(一九六二)や『メディアの理解』(一九六四)をはじめ、だいたいがベストセラーにはなったものの、そのつど非難の嵐にも巻きこまれた。何を言っているかわからない、論理がない、飛躍ばかりだ、例題ばかりだ、云々かんぬん。
 レヴィンソンはまずその誤解を解くことと、マクルーハンの思考法にきわだった特質があることから本書を書いた。マクルーハンがメディア機械に対峙するのにアナロジーとメタファーをもって思考していたことを強調した。
 
 マクルーハンはメディア機械に攻めこまれた近未来社会を論ずるにあたって、「ホットVSクール」「透過光VS反射光」「聴覚的空間VS視覚的空間」といった刺激的な対比を好んだ。そして「ラジオがホットで、テレビがクールだ」といった当時の学識にとっては戸惑うような解答をいくつも用意した。
 たとえば、テレビにとって映画のスクリーンにあたるものは何かという問いに、何と答えればいいだろうか。おそらくは多くがブラウン管と答え、もうちょっと知識がある者なら、そこに透過光としての特色などを付与したくなるにちがいない。ところがマクルーハンは、こう答えたのだ。「テレビのばあいは、映画のスクリーンにあたるのは視聴者である」。
 では、パソコンはどうか。パソコンにおけるスクリーンは電子画面だろうか。ピクセルや液晶画面だろうか。インターフェースだろうか。パソコンにおけるスクリーンはマクルーハンにとってはユーザーの【意識】そのものなのである。
 こういう意外な解答には共通する特徴がある。それはマクルーハンが、メディア機械はわれわれの意識に直接に入りこんでくるとみなそうとしていたということだ。実際にも「メディアのコンテンツなんていうものは、強盗が精神の番犬の気をそらすために携える血のしたたる肉のようなものだ」と言ってのけたことがある。とくに「テレビが先に登場していたら、そもそもヒトラーなぞは存在しなかったろう」は有名だ。そればかりか、実は「ユーザーがコンテンツなのだ」とさえ言い切ったのである。
 マクルーハンにとって、あきらかにメディアは決定論である。そう言ってよければ、メディアは絶対主義体制なのである。しかし、レヴィンソンはその一刀両断に同意しながらも、このあたりからマクルーハンの解釈をやや質的に変化させようと試みる。マクルーハンが電子メディア時代をある程度は予告していたとはいえ、今日のようなウェブ・ネットワークでつながったデジタル・コンテンツ時代まで読みきってはいないとみて、ここからはマクルーハンに代わってみずからがデジタル・マクルーハンになっていくことにした。そして「メディア機械が学習に役にたつ」とみなそうとした。レヴィンソンは「コネクテッド・エデュケーション」の企画者と啓蒙者になっていったのだ。
 
 レヴィンソンがデジタル・マクルーハンになるにあたってマクルーハンから継承した思想はマクルーハンの次の言葉によくあらわれている。「私がずっと追求してきた【モザイク的手続き】は、場を通った光を待つものであって、場の上に光をあてようとするものではありえない」。
 このマクルーハンの方法の魂はすばらしい。ここには第一に、学習と手続きは一緒のことだということが明示されている。第二に、その手続きと学習には「場」が必要であることが断言されている。第三に、その「場」はドアや躙口や木戸のようなゲートを通過してから出会うものであることを強調した。まさにそうなのだ。このことを前提にしない学習理論やコンピュータ理論はつまらない。相手にしないほうがいい。
 そうではあるのだが、ただし問題はこの「場を通った電子の光を待ちながら学習するという方法」をどのように人間が対処できるかなのである。そして、その「場」と「光」と「電子」は何なのかということなのだ。このことを看過しては、メディア機械が学習効果をもつとは断言しにくくなる。
 問題もある。「場を通って」というときの「場」の設定がはっきりしない。この「場」はコンピュータ・ネットの中のレイヤーなのか、通過学習をするためのテンプレートなのか、それともネットにぶらさがっている教室なのか、自然にユーザーが離合集散するラウンジなのか、それともオフラインのユーザー・コミュニティをも含むのか。
 このことがあきらかになってこないかぎり、メディア機械が意識に何をもたらすのかはまだ結論を出しにくい。有効なところもいろいろあるだろうが、危ういところもいろいろあろう。
 が、マクルーハンとデジタル・マクルーハンは、この問題にはまだ目をつぶったままのようである。わかっていることは、メディア機械が「光」ではあっても「場」ではないということだ。電話も映画も場にはならなかったし(《ニュー・シネマ・パラダイス》などを別にして)、ラジオも場ではなかった。きっとテレビもコンピュータも場になりえない。メディア機械はコンテンツそのものではなく、先生の声や笑顔でもない。ましていまさらマクルーハンそのままに【意識】とは言えまい。
 
 ところで、マクルーハンは電子メディアを「肉体のない悪魔」とみなすことが多かった。そこにはエロスよりもタナトスが醸し出されると見た。レヴィンソンはデジタルメディアにはエロスではなくリビドー(性衝動)が出入りすると見る。
 これはまあ、当たっているだろう。ただしちょっと面倒なのは、電子メディアに接触しつづけているユーザーのリビドーがティモシー・リアリーのいう「コンテリジェンス」(意想)の何に対応しているかということだ。このことは本書だけでは解けない。むしろ時代を戻って、ロックのリビドー、何台ものカメラによるスポーツ中継のリビドー、ファミコンのリビドー、親指ケータイのリビドー、オンデマンドのリビドーといったものを検討する必要がある。
 われわれは、なぜかこの十年というもの、いやパソコンが登場してからの、インターネットが出現してからのわれわれが体験しているこの高速電子型の現代史を、どうも検証できない病気にかかっているようだ。そろそろ症状を自己申告したほうがいいのではあるまいか。