田中正明
ボドニ物語
印刷学会出版部 1998
ISBN:4870851563

 九段高校では新聞部とはいわずに出版委員会といった。そのオトナっぽい名称に誘われて、高校3年間を「九段新聞」づくりにかかわった。
 京都朱雀高校の1年目の4月に九段に編入試験を受けて入り、たしか5月にはさっさと入部していた。誰かに勧誘されたわけではなく、廊下に何げなく貼ってあった一枚の「九段新聞・編集部員募集・部室まで」という粗末な貼紙を見て入ったようにおもう。
 このときの2年生に水泳部キャプテンで、のちに日本弁護士会の副会長になった山田勝利が、3年生に当時すでにひとかどのミステリー・マニアで、のちにJICC出版をおこして「宝島」を創刊した鈴木(石井)慎二がいた。ぼくはこの先輩二人に編集稽古を鍛えられた。すでに紹介した『嵐が丘』をぼくに勧めた岩崎文江嬢も、実はこの出版委員会にいた。

 高校新聞の何がおもしろいかというと、毎月一回、二、三日にわたって印刷所に行けることである。
 印刷所は日刊工業新聞社のビルの中にある。そこに行って毎月一回のいわゆる“出張校正”をやる。校正室にはいろいろの出版社や業界紙のオトナたちが入れ替わり立ち代わり来ていて、赤ペンや赤鉛筆でゲラ校正をしている。このころはまだ朱筆をつかえる老練な編集者たちが顔をきかしていたころで、この人たちが辞書も見ないで棒ゲラにさらさらと難しい漢字の朱を入れる姿は、なかなか見ものであった。かれらはゲラ待ちの時間になると、青臭い議論をするか、そうでなければ将棋や碁を指していた。
 しかし、ぼくを最も興奮させたのは活版組みの現場に降りていって、組版の職工さんにまじって鉛の活字をいじることだった。そこはまさに金属サーカスの現場だったのである。活版印刷と活字。それはぼくの青春の現場のひとつを飾る鉱山であって、鈍色(にびいろ)の光を放つ宝石だったのだ。
 それ以来というもの、つねにどこかで「文字の文化」というものに惹かれてきた。最初は明朝体に憧れ、その端正でダンディな表情を漁って岩田母型や精光舎活字や図書印刷活字などの各社の字体を比較し、それが長じてフリーハンドで明朝をレタリングする遊びにも耽った。伊丹一三(のちの十三)が明朝レタリングの名手だという噂もそのころ聞いた。
 そのうち何かのきっかけで、「書体の歴史」や「活字の歴史」にも目をむけるようになり、そこで出会ったのがヨーロッパン・タイプフィスの近代的黎明を告げる一連の活字職人たちの冒険だったのである。

 本書はジャン・バッティスタ・ボドニー(ボドーニあるいはボドニとも日本語表記する)に関するごく簡単な紹介書である。ほとんど孫引だらけのものだといってもよい。
 それなのに本書をあえて紹介するのは、本書がもともと1969年に「デザイン」誌(美術出版社)に連載されたものにもとづいていて、ぼくもこれを毎回読んでいた。それを記念したかったからである。当時、グラフィックデザインに多少の関心があれば、誰もが「デザイン」を読んだものだったが、この連載については執筆内容よりも、そこに紹介されている18世紀の活字職人たちのつくりあげた書体、いわゆるモダン・ローマン体の数々の図版が見飽きないほど新鮮だった。

 オールド・ローマンに対してモダン・ローマンがある。いずれも悪くない。
 オールド・ローマンの歴史に残された第1歩ははっきりしないものの、おそらくはアルド・マヌーチオの「レテラ・アンティカ」とペトラルカの筆跡をもとに考案された「イタリック」とが、ロマンティック・タイプフェイス最初の冒険だったろう。これらはいま見ると、さすがにクラシックである。それをガラモンの「ガラモン・ローマン」がもう少し拡張した。ここまでが書体のルネッサンスにあたる。
 そこに新風を吹きこんだのが、ルイ14世の王立印刷所の初代所長となったフィリップ・グランジャンによってつくられた「王のローマン体」(Romin du Roi)である。これは水平線がブラケットのないセリフをもち、小文字のアッセンダーの上には左右ともにセリフがわたっているというもので、ステムが立っている。これを3代目の所長のルイ・リュースが楕円味を加えてフェイシャル・コンデンスをした。それでもまだまだ野暮ったいものが多く残っていたのだが、それがさらに18世紀のピエール・シモン・フールニエに継承され、ぐっと洗練されていく。
 同じころ、イギリスではウィリアム・カスロンが出て、ついでジョン・バスカーヴィルが「アンティカ体」をつくっていた。ついにイギリスの文字文化が動き出したのである。いささか気取ったオールド・ローマンで、のちにボーマルシェがこれを使ってヴォルテール全集70巻を刊行する気になったというのも頷ける。
 こうした動向をうけてフランスにディド一族の「ディド活字」が出現した。フランソワ・ディドがデザインをし、ピエール・ワフラールが彫った端正な書体である。水平のセリフと垂直のステムの絶妙のバランスは、その後の近代活字の基準ともいえるものになっている。ディド一族はその後もあれこれ書体改良をつづけ、ヨーロッパにおけるタイポグラフィック・ブラッドともいうべき“文字の血統”をつくりあげた。ディド一族は文字フェチ一族なのである。

 ボドニーは、このバスカーヴィルとディドの書体の影響を大きくうけた。ストロークを感じさせる筆記体の癖を排除して、あくまで自律性に富んだ構築の美学を求めたということで、ここにモダン・ローマンの牙城が確立したといってよい。
 ボドニーのタイプフェイスは、いまもボドニー、ボドニー・ブック、ボドニー・ボールドの黄金の3書体がデザイン界で君臨している。これにボドニー・エキストラや各種のボドニー・イタリック、さらにはボドニー・ディスプレーが加わるが、初期のボドニーを本格的に感じさせるのは3書体である。
 ボドニーは印刷業の父をもち、その工房で育ってローマに修行に出た。それが1758年である。法王庁の印刷所に入って植字工として働きつつ、オリエント語を収めている。このオリエント語の習得がボドニーの文字美学を育んだ。戻ってパルマの王立印刷所に務めてからは、ボドニーの才覚がめきめきあらわれる。
 とくにパルマの印刷所所長となってからの名声はナポレオンにその名が届くほど華々しいもので、スタンダールがここを訪れ、「私は旅行者の義務として有名な印刷者ボドニー氏を訪問した」と日記に書きのこし、その屈託のない人柄にふれている。なぜボドニーがそんなに有名になったかといえば、世界で最も有名な『活版術便覧』(Manuale Tipografico)を出版したからである。これは世界で最も美しい本の一冊でもあって、22の大文字、アルファベット144見本、1200種の花形・罫線を網羅した。

 いったい「文字をつくる」というタイポグラファーとしての職能というものは、一般に想像されている以上に創造的であり、かつ根源的なものをもっている。
 ぼくの周辺にも何人かの日本文字のタイポグラファーがいる。そのうち数人は写研やモリサワの文字コンクールに入賞したり優勝したりして、自分がつくった文字が世の中でつかわれていく体験をしている。いろいろ聞いてみると、まことに静かな充実を感じているという。以前、大蔵省造幣局印刷部で紙幣のデザインやエッチングをしている連中の前で講演をしたことがあるのだが、かれらもふだんは実に地味な日々を送っているようでいて、いったん自分がかかわった紙幣が世の中に出ると、譬えようのない充実を感じているのだと言っていた。
 タイポグラファーがつくった文字は、いまはただちにデジタル・フォントになって、すぐにパソコンのワープロソフトの一角に採り入れられることが多い。が、ちょっと前までは透明の写植文字フィルムになった。そして、その前は「活字の母型」というものになっていた。

 カスロン、バスカーヴィル、ボドニーはこうしたタイポグラファーの原点にいる。
 かれらが創作した文字によって、活字が組まれ、印刷文化がその上に乗り、さらにその上に出版文化の花が咲く。ということは、かれらの「創字」が文芸や思想を直截に構成しているということなのである。バルザックが印刷所を経営しようとしたり、江戸川乱歩が印刷所をつくろうとしたことを見ればわかるように(二人ともみごとに失敗をしたが)、印刷はすなわち文化であり、文化はすなわち活字であったのだ。そして、どんな書体をつかって言葉を組むかということが、長いあいだ“文化の表情”そのものだったのである。
 ちなみにぼくは、自分の気分をある水準に戻して引き締めたいときは、まずはボドニーを使って文字組を考えることにしている。

参考¶ジャン・バッティスタ・ボドニーだけをめぐる日本語の本はない。クセジュのグロリエ『書物の歴史』、ヘルムート・プレッサーの『書物の本』(法政大学出版会)、アナール派で有名なフェーブルとマルタンの『書物の出現』(筑摩書房)、ジョルジュ・ジャン『文字の歴史』(創元社)などを参考にされたい。

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