父の先見
風立ちぬ
野田書房 1977
どのように他人の不幸にかかわれるのか。
こんなにも魅惑の淵がひらいていて、こんなにも困難で、こんなにも誤解をうけやすいことはない。できれば他人の不幸などにかかわらぬほうが楽に決まっている。けれども、どんな他人であれ、他人の不幸と無縁な日々など、どこにもありえない。
九段高校の3年のときである。IFという女生徒に「堀辰雄は読んだ?」と問われた。訊かれたのではない。問われたのだ。IFは続けた。「『曠野』とか『風立ちぬ』とか、それから『聖家族』や『菜穂子』ね」。
なぜ問われたと思えたかというと、ぼくはその女生徒に仄かな慕情を抱いていた。雀斑(そばかす)のある小柄な女生徒だった。ところが彼女のほうは、きっとそんな素振りを見せたのであろうぼくに対して、ただ「堀辰雄を読んだ?」と言ったのだ。
これではまるで、私に何かを寄せたいのなら、まず堀辰雄を読んでからのことよと言われたも同然だった。それに国語の教師が言っていたことなのだが、IFほど小説を読んでいる生徒はめずらしいとのことだった。これは、突破口を小説におくしかない。
しかし堀辰雄など、読むはずがなかった。こんなもの軟弱な結核文学の亜流だとおもっていた。
堀辰雄を読むくらいなら、朔太郎か芥川を読むほうがいい。堀が最初は萩原朔太郎に、ついで芥川に夢中だったのは知っていた。そのころのぼくは、そのうちでも朔太郎の『詩の原理』や『新しき欲情』を読んでいた。そうでなければそのころ読み始めたばかりのプロレタリア文学か、安部公房や倉橋由美子だった。すでに芥川には飽きていた(と思っていた)。
が、好きな女生徒に言われたのならしょうがない。堀辰雄を読むことにした。それに、なぜその女生徒IFが堀辰雄をあげたのか、その理由が知りたかった。
最初に『聖家族』を読んだのだと記憶するが、ラファエロの聖母子像をめぐって細木夫人と娘の絹子が「芥川の亡霊」のようなものを擬いていく話には、どうも乗れなかった。芥川に憑かれている河野扁理に思いを寄せた絹子が、「頭痛がしたのを愛の徴候だと感じた」という件りで、がっかりしたものだ。いったいIFは何を読ませたかったのか。
次に『菜穂子』だった。これは集中して読めなかった。構成がおもしろいとはおもえない。加えて、菜穂子が自身を偽って10歳も年上の会社員と結婚したこと、喀血した菜穂子が八ヶ岳の療養所で生き返ったおもいがしたこと、ついに上り列車に乗ることにした菜穂子の確信のようなもの、そのいずれがIFの示唆したかったことなのか、どうにもわからない。
受験勉強をほったらかしにして堀辰雄ばかり読むのはいかにも気がひけたが、ともかくもこうして『風立ちぬ』を読んだ。
またまた八ヶ岳のサナトリウムが舞台である。主人公の「私」から「お前」とよばれているフィアンセの節子は、すでに死の淵にいる。私はその付き添いにやってきている。
冒頭に、ポール・ヴァレリーの「海辺の墓地」の一節、「風立ちぬ、いざ生きめやも」が提示され、この作品全体が生の一刻を死の間際から綴ろうとしていることが証かされる。ヴァレリーにぞっこんだったぼくは、ふうんと思いながら、小説の途中ながら「あとがき解説」を読んでみた。
堀辰雄は矢野綾子と軽井沢で知り合って、1934年に婚約をしている。しかし翌年には綾子の肺結核がすすみ、自分もまた同じ病気で臥せりがちになっている。意を決した堀は綾子を伴って八ヶ岳山麓の富士見高原療養所に入る。堀の症状は回復し、綾子はその年の暮れに死を迎えた。この綾子が節子なのである。
話は短いものながら、「序曲」「春」「風立ちぬ」「冬」というふうに淡々と節子の死に向かって進行する。そして最後に「死のかげの谷」がある。解説によると、この最終章を堀は書きあぐんで、それでもなんとか綾子への鎮魂歌を綴ろうとして、この章を書きあげたという。リルケの「レクイエム」が挿入されていた。
ヴァレリーとともにリルケにも弱いぼくとしては、ここで突如として堀辰雄の課題に直面できたようにおもえた。ひとつは「哀泣」とは何かということである。そしてもうひとつが「他人の不幸」とともにいるとは何かということだった。
しかしながら、「哀泣」と「他人の不幸」で堀辰雄を読めたとしても、ぼくにはIFが投げた謎はまったく解けなかった。
さんざん悩んだすえ、ぼくにはIFに恋心を寄せるのは無理だということ、あるいは、あなたは私に思いを寄せることより大事なことがあるでしょ、それを堀辰雄は書いているでしょと言われているのだろうという、まことにまことに寂しい結論を得た。
卒業後、IFが商社に入社して男と遊びまわっているという噂が届いてきた。
あまりに信じがたかったので、ある日電話をかけてみたら、「あら松岡さん。懐かしいわ。会いましょう」という思いがけない返答である。ぼくはその1週間のあいだ毎日のように、当日のデートコースを練りに練って、その日に臨んだ。日生劇場のラシーヌを奮発したのだ。市原悦子の主演。けれどもこれは最悪の選択だったようで、IFは途中で「私、帰るわね、ごめんなさい」と言って、風のように席を立ってしまった。
ぼくは呆然としたまま、どうしていいか何もわからなくなっていた。雪のような冷たい恋だった。その夜、ぼくは初めて作詞作曲をした。それが『比叡おろし』という曲である。
そのうち、IFが何かの業病に罹っているという噂がまた流れてきた。友人に電話をしてその噂を確かめてみると、「なんだお前、知らなかったのか」と言われた。比叡おろしか、風立ちぬ。IFどこに隠れて、いざ生きめやも。